第7話 蔦屋祭
雲一つない青空は、皆が待ちに待った蔦屋祭の開幕を祝福しているような秋晴れで、実に晴れ舞台日和だ。
ついに迎えた蔦屋祭当日。その朝七時前の学校は少し冷え込んでいて、ここまでくる際には風が肌に触れて身震いしたほどだ。
だが、そんな寒さなど撥ね退けてしまいそうなほど、まるで目の前にあるガス火のコンロのように燃え盛っている人が一人。こんなにも朝早く呼び出した張本人――委員長だけは、興奮が抑えきれない模様である。
「さ~て、仕込みを始めましょう!」
場所は家庭科室の一角。F組が使用可能であるエリアに集まったのは、咲楽を除く実行委員の面々である。
「にしても早すぎない?」
泰史が欠伸をしながら問う。
俺も泰史と同感で、準備開始には少しばかり早すぎる気がした。何せ、他のクラスの人たちの姿が一切見えない。
「というか、なんでこの時間に学校が開いてるんだ?」
俺は泰史に続き、率直な疑問を委員長に投げかける。
普段の学校の開場時刻は午前七時と決まっている。そんな時間に学校に来たことがないので真偽のほどは不明だが、普段ならまず入れないはず。それにもかかわらず、俺が来た頃には既に玄関は開いていて、普段施錠されている家庭科室まで開いていた。
「メニュー多い分、仕込みが大変でね~。学校が空く時間から準備してたら間に合わないから、蘭先生に頼んでおいたの。『ただし実行委員に限る』という制約付きで許可貰ったけど、むしろ良かったかもね。さすがにクラス全員来ちゃったんじゃ、誤魔化し利かないから」
本当にこの人は手段を選ばないな……。それを受諾した蘭先生の方にも問題ある気がするけど、これはおそらく彼女の方針に則っているからだ。蘭先生も、委員長の人柄や努力を知っているからこそ、それをサポートしたかったのだろう。
「でも仕込みってなにすんの? そもそも、俺と朔翔は料理でどれくらい力になれるか分かんないよ?」
泰史の言う通りだ。実行委員に限定している以上仕方がないとはいえ、ほとんど料理経験のない俺と泰史がやっては足手纏いになりかねない。
特に料理というのは、一つ間違えばゲームオーバーの超繊細な技術を求められる高難易度クエストだ。メイド喫茶の売り上げに直結する以上、重大な責任も負わなければいけない。
かといって全くの不参加では、早く来た意味もないし、ある程度の戦力として見込んだ上で俺たちを呼んでいるのだから、計算も狂ってしまう。
そんな俺たちの懸念を払拭するように、委員長は眼鏡をくいっと持ち上げて不敵な笑みを浮かべる。
「大丈夫。うちには秘密兵器があるって言ったでしょ?」
『?』
確かにそんなことを言っていた気はするが、改めてそう言われてもピンと来ない。俺たちは揃って首を傾げた。
「もうすぐ来る頃かな」
そう言った途端、家庭科室の外――廊下の辺りから近づいてくる軽快な足音。その足音は次第に大きくなり、この部屋の扉が開かれたと同時に止まった。
「ごめん、遅くなった」
「……咲楽?」
足音からも分かったが、随分急いでやってきたのだろう。咲楽は完全に息を切らした様子ながら、ゆっくりと歩きながらこちらに向かってくる。手には何やら薄青色と黄色のクリアファイルが握られていた。
「寸前まで調整してたんだけど、これで完成」
そう言って咲楽は、薄青色のファイルを委員長に、黄色のファイルを俺に手渡す。
中にはA4用紙数枚を右上でホッチキス止めした――。
「レシピ……?」
今日出すことになっているメニューの材料および、調理手順が事細かに記されたレシピ。所々写真が添えられていて、料理初心者でも分かるようにという工夫までなされている。まるで、誰が見ても分かるように書かれた授業ノートのように要点が纏められ、色分けもされていた。
委員長が言っていた秘密兵器。それは彼女――咲楽だったということは言うまでもない。
だけどそれって……。
「咲楽、お前……」
寸前まで調整していたという彼女は、一体何時に起きたのだろう。いや、もしかしたら全然寝ていないのかもしれない。昨日は通常通りだった部活で、身体は疲弊しているはずなのに。
第一、彼女はかつて俺に話していた。何でも器用にこなしているように見えるのは、相応の努力をもって実現しているのだと。故に、今回も無理をしているのではないかと、色々と思考が巡っていく。
そんな心配そうな視線から読み取ったのか、彼女は笑って見せた。
「実は私、料理はすごく得意なの。……って、そんなこと言ってる場合じゃなかったね」
言って咲楽は、背負ってきていた鞄を下ろし、仕込みの支度を始める。
それを合図に、委員長は再び進行役に回る。
「ここからは私と小紫君、桜美さんと酢漿君でペアになってそれぞれ動くから。それじゃあ小紫君は、私と一緒に一旦教室行くよ」
「はーい」
そうして俺たち四人は二人ずつに分かれ、委員長と泰史は一時この場を後にした。
家庭科室という広い教室にたった二人。朝、ほとんど人のいない校舎の静寂さも相まって、室内は落ち着いた雰囲気に包まれていた。
おそらく持参したものであろう、いくつかの調理器具とエプロンを鞄から取り出す咲楽。それを見て俺も用意を始めつつ、先ほど言えなかったことを口にする。
「てっきり朝練があるから来ないのかと思ってた」
「今日は一日休みだから」
「そっか……」
「朔翔が言いたいことは分かってる。けど、あれは本当のことなの。昔から料理だけは褒められること多くてね」
打ち明ける必要はきっとなかったであろうことを自ら俺に打ち明けた咲楽だ。この言葉に嘘偽りは含まれていないだろう。
「……だから、大丈夫。ありがと、朔翔」
再び微笑んだその表情は、いつもと少し違っていた。朝の冷え込んだ空気を仄かに温める今の日光のような、そんな優しくて柔らかな表情を見て初めて、俺は息をゆっくりと吐いた。
「実際にお店に行ったとき、今桃さんが言ってたことが今でも耳から離れなくて。『みんなで何かを成し遂げることがとっても楽しいこと』って言葉、私にとってはすごく刺さったんだよ。だからきっと、私にとって苦手なことだったとしても、同じくらい本気になってたんじゃないかな?」
桃色のエプロンの紐をきゅっと結ぶと、咲楽は「よしっ」と今一度気合を入れた。
「それじゃあ、始めるよ。まずガナッシュ作るためにチョコレートを温めた生クリームで湯煎して……」
「ちょっ……。土俵が勉強だったらまだしも、料理初心者に対しても容赦ないのかよ……」
「そのためのレシピだよ。それに、仮に土俵がゲームだったら、朔翔は容赦する?」
「しない、しないけど、それとこれとは話が違うだろ。協力プレイだぞ」
「闘争心を煽った方がやる気に火がつくかなぁって思ったけど違った?」
「……そんなことしなくともやるって」
そんな風にいつものような会話を交わしながら、俺たちは仕込みを進めた。
開始からしばらくして委員長と泰史も合流し、遅れて他の調理班も合流した頃には、ぞろぞろとやってきた他のクラスの人たちも仕込みを始めていた。
ざわざわとした空間の中、変わらず作業に集中し続け、午前八時半頃。早くスタートした甲斐あって、無事に全ての仕込みが終了した。
「お疲れ様~。それじゃあ、本番も頑張ろう!」
委員長のその合図とともに、仕込みに参加していた生徒たちは各自解散を始める。
丁度そのタイミングで、ピンポンパンポーンとアナウンスが鳴る。
『午前九時より、開会式を執り行いますので、生徒の皆さんは移動を開始して下さい』
全校向けの放送が流れると、一気に蔦屋祭が開幕するんだなという実感が湧き始めた。
果たして、今年はどんな蔦屋祭になるのだろうか。
* * *
体育館にて開会式が執り行われると、終わって早々、生徒たちが駆け足で移動する。
『校舎内は走らない!』
校内アナウンスを介して教師たちが忠告しているものの、聞いている奴などほとんどいない。遊びたいもの、準備に取り掛かりたいもの、とそれぞれ目的は違うが、皆共通して言えるのは、この蔦屋祭開催を心待ちにしていたということである。
流れに沿って歩き、ようやくF組に辿り着くと、どうやら走って来たらしい委員長が既に開店準備を進めていた。
「酢漿君!」
俺を視界に入れたのか、委員長が作業を一時中断して呼び止める。
「スタッフ班の最終打ち合わせお願い」
「了解」
開店十五分前、現在時刻は午前九時十五分。
お昼ごろにかけて徐々に客足が伸びるため、ついついそこを争点にしがちだが、何よりも大切なのはスタートダッシュ。レースゲームもそうだけど、開幕エンストは避けたい。
特にF組はクオリティー、特に味での勝負ということもあり、最初の客の口コミで客足を伸ばす作戦をとっている。ここでの躓きは致命傷になりかねない。
「スタッフ陣集合!」
クラス内のスタッフ班に声をかけると、俺を中心として円陣が組まれる。
「いい飲食店の構成要素のうち、接客は味に次ぐ割合を占めてる。コンセプトを守ることも大事だけど、何より丁寧な接客を心掛けるように」
言うと、それぞれ「りょーかい」だの、「り」だの返事をする。
実行委員としてスタッフ班を纏めるようになった最初の頃は手慣れていなかったが、今はもうすっかり馴染んできた。きっとそれは、手本とすべき人が身近にいたのが大きかった。
「調理班、最後の準備始めて! あと空いてる人いたら、テーブルと椅子の整頓よろしく!」
怒号のように飛ぶ委員長の声。実行委員のトップを彼女が務めていたからこそ、ここまでやれてきたというのは言うまでもないだろう。
俺はスタッフ班に向けて総括する。
「それじゃ、今日一日よろしくお願いします。解散で」
こうして、スタッフ班の最終打ち合わせを軽く済ませると、オープニングスタッフは支度を、それ以外は散り散りになっていく。俺も開店時はスタッフとして出ないといけないので、その支度を進めた。
そして、あっという間に開店時刻はやってきた。
『それではただいまより、模擬店を開店します』
アナウンスがなり、既に教室の外に並んでいた人たちが教室内――店内に入店する。
「いらっしゃいませ~」
さぁ、飲食店部門優勝ミッションの開始だ。
* * *
「それじゃ、一回上がるから。何かあったら連絡して」
バックヤードにいたスタッフ班の一人にそう伝えると、俺はそのまま家庭科室へと向かう。
「すごい人だな……」
まるで元旦の初詣を連想させるほどの人の数。全校生徒に加え、周辺の中高生、近隣住民の方々が一挙に集まるのだから当然と言えば当然だが……。
開店から一時間強。F組のスタートダッシュは順調だった。とは言え、他のクラスの状況が見えていないので、実際のところどうなのかは分からない。それでも沢山のお客さんが満足そうに帰っていく姿を見ていると、頑張った甲斐があったなと感じさせられた。
物凄い喧騒の中、人の合間を縫うようにして家庭科室まで辿り着く。そしてF組の場所へと出向くと、休憩に入っていたらしい委員長に報告する。
「序盤は上々だったよ」
「お疲れ様、酢漿君。こっちも滞りなく回ってる。ほんと、これのおかげだよね」
そう言って委員長は薄青色のクリアファイルを掲げた。
ふと、調理をしている人たちの様子を窺うと、その中のものをコピーしたらしい紙をそれぞれ持っていて、それを参考に進めているみたいだった。
仕込みの時、俺も実際にこれを参考に調理していたが、実際すごく分かりやすくて失敗することなく事が進んでいた。何より肝心の味は超一級品で、試作品を食べたときは度肝を抜かれた。
「もし悲願が叶ったら、その時は桜美さんにすごいお礼しなきゃね。もうほんと、感謝しきれないよ」
「……そういや咲楽は? バックヤードにいなかったけど、こっちにもいないし」
「桜美さんのシフトはお昼だから、多分今頃は……」
委員長は窓から、一般教室の方を見渡す。その仕草で、何となく言いたいことは伝わる。
「あぁ……。今頃ブイブイ言わせてんだろうなぁ、完全無欠の準プリンセスさんは」
「酢漿君、次のシフトまで時間あるんでしょ? ここにいないで楽しんできてよ。クラスのことも大事だけど、蔦屋祭は学校全体のお祭りなんだからさ」
「そうだな。それじゃ、俺はお先に。委員長も無理はすんなよ?」
「うん、ありがと」
委員長に見送られ、俺は家庭科室を後にした。
「そういや、泰史はどこにいんだろ?」
昨年、俺とともにe-spots部相手に無双した泰史だが、今年も参加しているのだろうか。結局、その旨を彼に聞きそびれていた。
「どの道昼ご飯にしても早すぎるから、時間はあるしな……」
そうして俺は、e-sports部の部室がある二階の校舎南側を目指した。
家庭科室周辺は模擬店がないため人通りは少なかったが、e-sports部の部室に近づくと一気に人の姿が増えた。そして問題の目的地前は、たくさんの見物客で溢れていた。
部室と廊下の境は窓ガラスになっており、廊下から中を見通すことができる。俺はそれを利用して、そーっと中を覗き込んだ。
部室内は学校にあるPCルームを小さくしたような配置になっており、部室中央には大きなテーブルが一つ。俺たちは昨年、そのテーブル前に座り、正面にある大型モニターを見据えながら対戦を行っていた。
「あ! 朔翔!」
俺を見つけたらしい泰史が俺の名前を叫ぶ。やっぱりここにいたのかよ……。
泰史は続けてちょいちょいと手招きする。ゲームを一緒にしようということらしい。
昨年、俺は今泰史がいる場所に立っていた。けれどその際、泰史が無双したことにより、そのゲームを部長がやらなくなってしまったという噂を耳にして、今年は申し訳なさから参加しないつもりだった。
それに俺は、かつてほどゲームに対して真剣ではなくなり、ある種一線を引いた。泰史もそのことは、ゲーム内に表示されるプレイ時間を見て知っているに違いない。
別に完全に止めたわけじゃないし、今も隙間時間にやるほどにはゲームが好きだ。だけど今、泰史の隣に立つことに少しばかりの罪悪感が生じた。
「早く早く~!」
だけど、やはりゲームに対する思いがまだあるのだろう。是も非も口にせず、その場を後にすることもない。おかげで、段々と周囲の目が俺に集まり始めていた。
きっと、去年俺たちがやってのけたことを覚えている人もいるのだろう。そういう人たちからは期待の視線を感じた。
「仕方ない……、やるか」
俺は意を決すると、e-sports部の部室内に足を踏み入れた。そして、招いていた泰史の隣の席に腰を下ろす。
「で、何すんのさ」
「今年も去年やったやつらしいよ。ただし、二対二だってさ」
「露骨な下克上対策……。相当去年の堪えたんだろうなぁ」
「今年もタイマンかと思って来たらこれでさ、正直困ってたんだよね。そんなとき、救世主のごとく朔翔が現れたってわけよ。助かったぁ~」
去年のが堪えたなら、泰史を出禁にするなり対戦ゲームを変えるなりすればいいのに、変更したのがプレイスタイルだけって辺り、ゲーマーとしての矜持が垣間見える。
「でもいいのか? 俺、あの当時ほどゲームしてないんだぞ」
「知ってる知ってる。けどまぁ、そういうのは身体が覚えてるって」
「どうだろうな。まぁ、足を引っ張らないようには努力する」
「頼んだぜ、相棒!」
そうして俺たちはコンビを組み、e-sports部の精鋭二人との対戦に挑んだ。
プレイするゲームは格闘ゲーム。相手キャラクターを場外に落とすか、ダメージを蓄積させてノックアウトすることで勝敗を決する。
ただし特殊なのが、プレイヤーはストック、あるいは残基と呼ばれるものを有し、二回復活が許されている。その復活回数が尽きた状態で敗北するとそのプレイヤーは失格となり、同チーム二人が両方失格になった時点でゲームが終了となる。
序盤は完全にe-sports部側が優勢で、俺たちは苦戦を強いられていた。
その原因は完全に俺にあり、鈍っている部分が顕著で、泰史の足を引っ張る形になった。だが、そこはさすが相方といったところで、泰史のカバーもあり首の皮一枚繋がった攻防を繰り広げていた。
そうして現在、俺と朔翔の残基はお互いに一つずつ、一方相手は二つずつ。当然、残基に余裕があるとその分攻めたプレイができるので、俺たちは防戦一方を強いられており、正直ジリ貧だった。
「くそっ……。あっ、やばい!」
何とか粘ってきていた俺だが、たった今相手によってノックアウトされ、残基はゼロに。ついに後がなくなった。
このゲームにおいては先に一人が失格となると、数的不利となってそのまま負けることが大半。すなわち、ここで俺が落とされると敗色濃厚となる。
「まだまだこれからよ!」
だが、泰史がそこから怒涛の勢いで盛り返す。相手の一人を場外に叩きつけると、その一人が復帰するまでの間にもう一人をノックアウトし、状況は一気に盛り返した。そんな盛り上がる展開に外野の方も沸き立っていて、その熱がフィールドである部室内外からこちらに伝わってくる。
手に汗握る接戦。久々の感覚に気持ちがどんどん昂っていく。そしてそれに合わせ、俺の感覚が当時に近づきつつあった。そのおかげもあり、相手のプレイングミスを誘って一基を失わせ、遂に展開は振り出しに。そしてゲームは終盤に突入した。
しかし――。
「しまった……」
感覚を取り戻したとはいえ、その時点ではもう後がなかった。故に、時間をかけてダメージが蓄積され、それが尾を引く形で俺は最後の一基を失った。失格となった俺は椅子の背もたれに寄りかかり、残りの戦況を見守る。
「悪い、泰史」
「いーや、朔翔。まだいけるぞ」
俺の謝罪に対し、強がりにもとれる言葉。だけどそれは、目の前で形となった。
泰史は残基のない相手一人を落ち着いて捌き、数的不利を一瞬にしてイーブンに戻したのである。この辺り、さすがにやり慣れているだけはある。
「あとは思い出してみ、去年のこと」
「……?」
そんな状況下、泰史が突如そんなことを言い出す。
いや待てよ、去年と言えば……。
そう思って対戦相手の方を見ると、なんと今の言葉で戦々恐々としていた。
それもそのはず。去年の蔦屋祭において、泰史は昨年度の部長に対して圧勝を収めているのだ。そのことを知っているであろう後輩部員が、この一対一のタイマン状況に置かれて悠々とプレイしていられるわけがない。おそらく泰史は、これを狙って口にしていたのだ。
肉薄した格闘戦はいつの間にか心理戦に持ち込まれており、そこでもアドバンテージを有した泰史が、この状況から負けるはずもない。怒涛の勢いでストレート勝ちを収め、敵チーム二人が失格となった。すなわち――。
「勝ったぞ~!」
拳を突き上げて勝利の雄叫びを上げた泰史に、賞賛の声と拍手が沸き起こる。俺もプレイしていた側ではあるが、素直に賛美を送る。
「さすがだな……」
「いや、朔翔もさすがだよ。ブランクありで現役部員に太刀打ちできる奴なんてそういないだろ」
「ほとんど泰史に助けられたからだけどな。タイマンならもっとボロ出てた」
「またいつでもゲームやろうな。やっぱり朔翔とやるのが一番楽しいし」
そう言って泰史はニカッと笑う。その爽やかな笑顔は、今回の勝利の立役者らしく、実にキラキラと輝いて見えた。
「そうだな。またやろうぜ」
本当にこいつと出会って、ゲームと出会えて良かったと思う、そんなひと時だった。
* * *
e-sports部との一戦を交えた後、俺たちは共に部室を後にした。
時刻は丁度昼前に差し掛かり、来客数は更に増していた。となると今頃、F組は最も忙しい時間を迎えているはずだ。
「そういや朔翔。前に合コンに行った時のこと覚えてるか?」
「なんだよ、突然。そりゃ覚えてるけど」
あんまりいい思い出ではない初めての合コン。中間考査の後のことだから、つい二週間ほど前の出来事だ。
「実依那がさ、あの時のこと謝りたいって言ってた。不快にさせることしちゃったんじゃないかって」
「いや別にそこまでしなくてもいいのに。それに謝るのはむしろ俺の方で……」
あの時はきっと、俺だけが不快に感じていただけで、決して攻撃的な意図はなかったに違いない。だから彼女たちには一切非がないのだ。
そもそも問題があるのは俺の方。何も言わず勝手に立ち去るのは、マナーがなっていない。冷静に考えれば、感情任せで幼稚なことをしてしまったなと後悔しているくらいだ。
「それじゃあまぁ、それも直接言ったらいいよ。今日ここに来てるって言ってたし、会った時にでもさ」
「……そっか。会えた時にはそうするわ」
ずっと蟠りとして残っていたことだったので、それを清算できるのなら是非しておきたかった。こうしてずっと歩いていれば、どこかのタイミングで遭遇することもあるだろう。
「ところで、昼どうする?」
適当にブラブラと三階西側を歩いていると、ちらほら飲食の模擬店が目に入る。焼きそばにお好み焼き、から揚げにかき氷と、まるで縁日の出店のようなメニューだが、その匂いが鼻に入ると一気に食欲が湧いてくる。
「俺は適当に済ませるつもり。装飾班は余程のことがない限り、当日非番だしな」
「そうか。じゃあどこか適当に、良さそうなところでも……」
言いながら周りを見渡していると、泰史が急に足を止めた。いきなりどうしたんだと思い泰史の方を見ると、とてつもなくげんなりとした表情をしていた。
「いやいやいや。朔翔、あの子とは一緒に回んないの?」
「あの子って?」
「決まってるだろ。桐花さんだよ」
「別に一緒に回る約束はしてないけど……」
お昼の後、タイミングを見てA組に行く予定こそあったが、桐花と回る約束はしていない。
――ふと、そのことで思うことがあった。
今彼女は、どこで何をしているのだろうか、と。
「んじゃあ、今からその約束でもして来いよ。そのくらいの配慮はしてやるって言ったろ?」
「俺と桐花はそういうんじゃない……」
「あぁぁぁ、この堅物め! いいから行けっての。図書室にいるのを見かけたときはてっきり待ち合わせでもしてるのかと思ったんだけどな~」
「…………泰史、今なんて」
俺はたった今、正気を疑った。耳を疑った。泰史の言動を疑った。
周りの喧騒が遠退いて、まるで別空間にいるような感覚になる。頭の中が白く濁っていく。
「え、もしかして堅物って言ったこと怒ってる?」
「違う、そっちじゃない。その後だ」
「ん? 図書室にいるのを見かけたときは……ってやつか?」
「それ……、一体いつの話だ」
「ん~と、e-sports部の部室に遊びに行く前だから十時十五分くらいかな。正確な時間までは分かんないけど」
昨年の蔦屋祭で校舎内を練り歩いたこと、そして今年の蔦屋祭の準備の際に色々回ったから俺はよく知っている。
蔦屋祭の日、図書室の司書さんが古本市を開催しているのだが、その会場は図書室じゃない。そのため、図書室内での催しは一切行われていない。
だったらなぜ、桐花がそこにいるのか。その答えはもう――。
「悪い、泰史。俺行ってくるわ」
「おう。楽しんで来いよ~」
泰史にきちんと断りを入れると、俺は一人、廊下の奥――北側へと進んだ。
徐々に、自分の意志とは関係なく、歩調が早まっていく。色んな感情が頭の中を渦巻いていく。
階段を最後まで降りると、すぐ目の前に自販機がある。数日前、結局買いそびれたあの自販機だ。あの日と同様、それを横目に廊下を歩いてすぐ、目的である場所の前に立った。
決して泰史に対しての信用がなかったわけじゃない。ただそれでも、彼を疑ってしまう程には信じ難い出来事。
でもこうして、その光景を目の前にすると、嫌でも現実を突きつけられる。
――彼女は勉強をしていた。
もうこの光景を見ても、心は良い方に揺さぶられない。ただただ胸が締め付けられるだけ。それは数日前、ここに立った時も同じだった。
『サボっていると思われるから』
あの日俺は、そう呟いてここを後にした。
でもそれはただの言い訳だ。あれは、俺があの場から逃げ出すために使った欺瞞だ。自分の行いを正当化するための愚行だ。
そう。俺はこの場所から逃げ出したんだ。
直視したくなかったから。考えたくなかったから。そんな風にして今日まで――いや、ずっと前から、俺は目を背け続けていたんだ。
でも今日は、それと正面から向かい合わないといけないと思う。きっと今回見過ごすと、この先彼女はずっと変わらない。そんな気がした。
図書室の厚い扉につけられた木の取っ手を力強く握り締めると、俺は思いっきり開け放った。
「桐花!」
「……酢漿さん、おはようございます。こんなところでどうしたんですか?」
そんなの、こっちが聞きたい。
おかしいだろ。蔦屋祭の日に一人、勉強をしているなんて。
そんな思いを今はまだ、そっと押し殺す。
「お昼、一緒に行かないか?」
「お昼ご飯、ですか?」
彼女は質問に対して質問を返し、軽く首を傾げる。
「嫌、だったか?」
「あ、いえ。……もう、そんな時間だったんですね」
室内の時計を見て時刻を確認した桐花は、少し驚いた様子だった。時間を忘れてしまうほど、勉強に熱中していたらしい。
彼女は腰を浮かし、軽く片づけを始めた。支度が整うのを待ちつつ、俺は問う。
「A組のシフトとかは大丈夫か?」
「はい。私は午後三時ごろからです」
「そうか」
それなら十分に話す時間はあるだろうか。
この先どう動くかを頭の中で思い描いていると、彼女は準備完了と言わんばかりに席を離れた。
「じゃあ行くか」
「はい」
図書室を出た途端、様々な香りが鼻腔を駆け抜けていく。
間もなく正午。丁度お腹の空き具合が最大になる頃合いなのに、俺の脳は空腹であることを一切認識しなくなっていた。
* * *
蔦屋祭の日は、各教室自体が会場になることが多い。そのため今日は、東側一階の空き部屋に荷物置き場が設けられている。
「すいません、お待たせしました」
勉強道具類を置きに行っていた桐花と再び合流し、俺たちは模擬店が開催されている西側校舎へと戻る。
「どこか行きたい所、あったりするか?」
実行委員ということもあり、何となくポケットに忍ばせておいた『蔦屋祭のしおり』が役に立った。それを開きながら、横を歩く桐花に手渡す。
「酢漿さんのクラスには行ってみたいです」
「二年F組? 何か好きな食べ物とかあったのか?」
「いえ。あまり食べたことのないものばかりでしたので。このちーずはっとぐ、とか」
「……そっか。じゃあ、行くか」
飲食店部門優勝を目指す、俺たちのクラスの路線――ターゲット層である女子高生に向けたメニューというのは、もしかしてまずかったのだろうか。ここにターゲットとなるはずの人がいるのに、まるでピンと来てないじゃないか……。
まぁでも、結果的に興味を持ってくれたので良しとしよう。
そうして歩くことしばらくして二年F組前。
「……マジか」
「並んでますね」
桐花の発言を受けた俺の懸念は、どうやらてんで外れていたらしい。
F組前には文字通り長蛇の列が形成されていて、S字を形成しなければ収まりきらないほどになっている。その列内は女子が多くを占めていて、他校の制服もかなり目に付く。
「すごい人だね~。相当美味しいって噂になってたけど、もう少し後にしよっかな」
「そうしよっか。その頃には空いてるといいね」
近くを通った生徒の会話が耳に入ってくる。どうやら、作戦は思っていた以上に上手くいっていたようだ。
にしても、一体どこから並べばいいのだろうか。そう思いながら、長い列を逆走していく。
「あ、酢漿君?」
そうしてF組の横、階段前まで進んだところで突然声がかかる。
「委員長?」
家庭科室で別れた時にはしていなかったメイド服に袖を通し、『最後尾』と書かれた看板を持っている。おそらく列整理の役を担っているのだろう。
俺たちはその委員長の位置に移動し、列の最後尾につく。
「なんで委員長がスタッフしてんだよ……。一応調理班だろ?」
「いや~、想定外想定外。まさかここまでになるとは思ってなかったよ。嬉しい悲鳴ってやつだね」
「スタッフ足りないなら、まず俺に一報入れてくれればよかったのに」
当日の客の誘導に関してはスタッフ班の仕事。人手が足りないのであれば、俺に知らせることになっていた。
それにおそらく、この『最後尾』の看板も急遽彼女が作ったのだろう。装飾で余ったりした端材を流用し、文字は手書きと、手作り感満載である。一位を目指していたとはいえ、ここまでの人気になるとは委員長も予測していなかったのだろう。
「ううん。これ、私が好きでやってることだから」
そう言って、フリフリのスカートをわざとらしく見せつけてくる。笑顔も見えるあたり本当に楽しんでやっているようで、心にしこりとして残る罪悪感も少し晴れた。
そんな風に俺たちが話し込んでいると、列が一気に前に進んだ。どうやら数人で来た客が退店したらしい。
「悪い、桐花。そのまま先行っててくれ」
「分かりました」
桐花に列の方を任せ、俺は他の客の邪魔にならないような場所に移動して、委員長と話を続ける。
「それにほら、酢漿君は酢漿君で、うちのクラスに貢献してくれてるし」
「いや、俺は別に大したことは……」
「だって今の子、連れてきてくれたんでしょ?」
「あー、そういう意味か。桐花が行きたいって言ったから来ただけだ」
「それで十分だよ。酢漿君自身もお客さんになるから、客単価一人当たり約五百円で換算すると千円分の売り上げ増加。利益にして……」
「分かった分かった。そういう生々しい話をこんなとこでするなよ……」
「えへへ、ごめんごめん」
彼女は飲食店部門優勝に対して、ちょっと過ぎるほど貪欲である。利益換算までするとか、実際の飲食店じゃないんだから……。
「まぁとにかく、こっちのことはいいからさ。酢漿君は酢漿君の仕事してきて!」
「分かった。じゃ、また後で」
委員長が手を振って俺を送り出すと、俺は桐花のところに戻ろうと列を辿っていく。視界の少し先、F組の前付近でようやく桐花の姿を見つけたが、まだまだ店に入るまで時間がかかりそうだった。
「ごめん、桐……」
桐花の元に近づき、声をかけようとした時。肩口に何かが当たった。どうやら誰かとぶつかったらしい。
「ごめんなさい、お怪我は……って、酢漿くん?」
自分の名前を呼ばれて振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。
「稲垣……さん?」
意外な人物との再会――いや、確か泰史が来てるかもって言ってたっけ。
少し驚いた表情をする彼女は、制服姿ではなく少し派手目のワンピース姿だった。
「……ごめん、ちょっといい、かな?」
気まずそうな顔を覗かせ、たどたどしい口ぶり。ここに来た経緯は泰史から聞いているから分かるが、おそらく心の準備もままならない状態で俺と相対してしまったからだろう。
要件は分かっているので、俺は素直にそれに応じる。
「分かった」
と言っても、桐花をそう長く待たせるわけにもいかない。少なくとも彼女が店内に入る前には戻らないといけないのだ。
「けど、手短に頼む」
そう付け加えると、稲垣はクスっと笑った。
「うん。分かってるよ」
何がおかしいのか分からなかったが、俺はトコトコと歩いていく稲垣の後を追うようにしてF組前から離れた。
先を行く稲垣は三階北側廊下中央あたりで足を止め、中庭側の窓から校舎を見渡した。それに合わせて俺も横に並び、同じようにして窓から外を眺める。
中庭ではステージのイベントが行われている。そしてその先、南側校舎二階には先ほどまでいたe-sports部の部室がある。
「ねぇ、酢漿くん」
そう切り出した稲垣の表情を窺う。どこか悲しそうに、寂しそうに、窓の外を見つめていた。
「ごめんね。あの日私、気づいてたんだ」
彼女が俺をここまで連れ出した理由を知っていたから、『ごめんね』という言葉は素直に入ってきた。
けど、それに続く言葉は、予想していた内容とは違っていて。改めてその先に続く言葉を推測すると、全身にじわり汗が滲んだ。
「私たちの会話、聞こえてなかった?」
首を傾げながら俺の方を見つめ、彼女は問う。胡乱げにではなく、少し優しく微笑むようにして。それが余計に、胸をチクリと痛ませる。
「……」
あの時の行動を俺は悔いている。そもそも彼女たちには非がなかったし、俺のやっていたことは盗み聞きに等しい。明らかに、謝る側なのは彼女ではなかった。
こうしてそのことを言及されてしまうと、罪悪感が湧き立つ。己の良心が強く痛む。
「ごめんごめん、責めてるわけじゃなくてね」
俺の行動が予想外だったのだろうか。彼女は慌てて弁解する。
「もし私が君の立場で聞いてたら、絶対に嫌だっただろうなって。だから、自分がされて嫌に思うようなことを口にしていた自分が許せなくて。もし聞こえてたなら、絶対に謝らないとなって思ってた」
再び外を見つめながら今日に至る経緯を語った稲垣は、身体を起こして姿勢を正す。そして俺にしっかりと向き合うと、頭を深々と下げた。
「本当に、ごめん」
「……顔、上げてよ」
その言葉を聞いて顔を上げた稲垣の表情には、申し訳なさが強く残っていた。それを払拭するように言葉を紡ぐ。
「俺の方こそごめん」
「えっ?」
なんで謝るの、と言わんばかりに困惑顔で俺を見つめる。
「稲垣のこと、悪く思ってた部分もあるし、せっかくの雰囲気も壊した」
「謝らなくてもいいよ、そんなの。全部私らが悪いんだからさ」
「もし稲垣たちが話してなかったら起きてなかったことだとしても、謝らない道理はないと思うから」
言うと彼女は軽く目線を落とし、軽く微笑んだ。
「……そっか。優しい人だね、酢漿くんは。泰史が気に入ってるわけだよ」
「なんでそこで泰史の名前が? 大体、それを言うなら稲垣もだろ。いくら何でも、わざわざ他校の文化祭まで来なくたってよかったのに」
「自分の思ってることは直接、真っ直ぐに伝える方が相手に伝わるから。それが謝罪であっても、そうじゃなくても」
その言葉が、本当に心に響いた。
ずっとずっと、俺は自分の中で葛藤を続けて来て、それを本人に言ってこなかった。言えなかった。
でもそれじゃ、いつまで経っても相手に伝わらない。以心伝心ができる関係性というのは、何度も何度もそうやって直接相手に気持ちを伝え続けた先にしかないのだから。
「――ありがとな」
「ううん、全然」
首を振ってそう答えると、彼女はくるりと踵を返して背中を見せた。
「もう帰るのか?」
言うと、背中越しに言葉が返ってくる。
「うん。ここの文化祭……、蔦屋祭だっけ? 君を探して適当に歩いてるだけでも、十分楽しませてもらったから」
「そっか」
「それじゃあね、酢漿くん。泰史によろしく」
最後に少し振り返り、小さく手を振ってそう言うと、一足先にこの場を後にした。その背中を見つめながら、再び感謝の気持ちを心の中で抱いていた。
あの日起きた、本当に小さなすれ違い。そのことを謝りに訪れた彼女に一つ、俺は教わった――否、思い出させてくれた。
ずっとずっと見落としていた、大切で基礎的な考え方を。
* * *
「ごめん、桐花」
稲垣と別れ、俺はようやく桐花と合流を果たした。
「お疲れ様です、酢漿さん」
労いの言葉をかけるのは、俺がずっと委員長と打ち合わせをしていたと思っていたからだろう。ただその誤解を解くには、少々小難しい問題があるので、ここはそのままにしておこう。
先ほどから随分列は進んでいて、あと二組ほど待つと店内に入れそうだった。だが、改めて列の長さを確認すると、本当に随分と彼女を待たせてしまったのだなと申し訳なくなる。
俺が列に合流してしばらくすると、俺たちはようやく入店することができた。
『いらっしゃいませ、ご主人様、お嬢様』
統率された入店時の挨拶が、身の毛がよだつほど酷く気恥ずかしい。何せこのスタッフたち全員、泰史にお墨付きを貰えるまで、俺とともに声出しをしたスタッフ班なのだから……。
「ご、ご案内します」
スタッフのうちの一人が、少し気まずそうにこちらに歩み寄り、席を案内する。
頼むから恥ずかしさで言葉を詰まらせないでくれ。こっちも余計に恥ずかしくなるだろ!
「ご、ご注文、お決まりでしたらお声がけください。し、失礼します!」
そう言ってそのスタッフは逃げるように去って行った。メイドがご主人様から逃げるのはコンセプト上大丈夫なのだろうか。まぁ、相手が俺だからだろうし、大目に見るか。
それにしても、先ほどから桐花は何一つ驚きもせず、淡々としている。メイド喫茶を忠実に再現した装飾に目を奪われることもなく、普通の飲食店のように入っていく彼女の様子がすごく気がかりだった。
「……どうかしましたか?」
「いや、何でもない。注文決まったか?」
そう言葉を切り返し、俺がぼーっとしていた理由の言及を避ける。
「はい。ではこの、『F組特製、トマトの酸味と生クリームの優しい甘さ引き立つトマトクリームのオムライス ~酸いも甘いも青春の味~』で」
「……じゃあ俺もそれにするか」
痛い痛い痛い痛い、耳が痛いよ。
そんな抑揚のない平坦な声で、それもフルでメニューが読み上げられると、先ほどから蓄積している恥ずかしさが一気に跳ね上げってしまう。
何だよ、この最後のサブタイトル。付けたやつどうかしてるぜ。なぁ、泰史よ。
メイドを呼び、二人分の『F組特製、トマトの(以下略)』を注文して待つこと十分ほど。その商品が届けられた。
「美味しそうですね」
「だな」
サブタイトルさえなければ、普通にレストランに出て来ても何も違和感を抱かないだろう。比較的高い技術を要する、いわゆるタンポポオムライスではなく、スタンダードな洋食屋の包むタイプのオムライス。調理する人全員が料理上手とは限らないことを考慮した結果、そう決まったのだと委員長が言っていた。
そんな中央のオムライスを彩るのは、紅白入り混じったトロトロのソース。そして飾りつけのパセリと少しの付け合わせが、更に完成度を高くする。どう考えても文化祭に出てくるレベルではない、飲食店と遜色のないクオリティーは、しばらくなりを潜めていた食欲を一気に搔き立てる。
「そ、それでは最後に、美味しくなるおまじない、を……?」
それは桐花も同様だったらしく、定型の台詞を口にしようとするスタッフを完全に無視して、テーブルに用意されたスプーンを手にオムライスを口にする。――いや、無視したというより、おそらくメイド喫茶という場所がどういう場所なのかを知らないためだろうな……。
そんな様子に混乱して今にも倒れそうなスタッフに対し、俺は耳打ちする。
「どの道、俺相手にそれをやるのは恥ずかしいだろ? だから今回はなくてもいい」
「……わ、分かった」
そのスタッフは助かったと言わんばかりにほっと小さく一息つくと、「失礼します」と言って下がっていった。
「美味しいか?」
「はい、すごく美味しいです」
桐花はニコリ微笑み、そう言葉を返す。本当に自然な笑みだった。
スプーンで小さく掬って口に運ぶ度、頬が緩んでいるのが分かる。席に着くやいな、ノータイムでこれを選んだあたり、オムライスは彼女の好物なのかもしれない。どちらにせよ、彼女が嬉しそうに頬張る姿を見ているのは幸せで――。
それはかつて、彼女の隣で勉強姿を見た時に感じていいたものとよく似ていた。
「酢漿さん、食べないんですか?」
「あ、いや、食べる食べる」
どうやらずっとぼーっとしていたらしく、俺は慌ててオムライスを口にする。
「……っ!?」
「これ美味しいですよね、本当に」
「だな」
鶏卵の火の入りは絶妙。中のチキンライスは、パサパサ過ぎずベチャベチャ過ぎない適切な水分量。トマトクリームソースは、商品名に書かれていた通り、酸味と甘みのバランスは完璧で、オムライスともよくマッチしている。
なるほど。そりゃ、これだけの客足になるわけだ。おそらくこのメニューの監修をしているであろう咲楽には、さすがの一言に尽きる。何より、その役に抜擢した委員長の手腕もすごいと思う。
そうして俺たちはそのオムライスをあっという間に平らげたのだった。
F組の外に出ると、先ほどにも増して大行列が形成されていた。よく、飲食店にわざわざ並ぶのは嫌だと言う人が言うと聞くが、正直待って食べる価値は十分にあるように感じた。
俺たちは人が多いF組を離れるようにして、A組側へ歩き始める。
「ごちそうさまでした。あの、良かったんですか? お代払ってもらって」
「あぁ、うん。ずっと列に並んでもらってたし、それくらいは全然」
「ありがとうございます」
オムライスの価格設定も質の割に手頃で、おそらくそれも人気の秘訣になっているのだろう。故に、奢ることに対しても全く抵抗はなかった。
E組、D組と行くにつれ、人の数が少しずつ減っていく。決してそれらのクラスが不人気というわけではないが、単純にF組の人気が大きすぎるために起きている現象なのだろう。
だが、それからしばらくすると再びその数が盛り返す。よく見れば、奥の方に長蛇の列があった。前日の準備の時から、その質の高さが人気を予感させていたA組のお化け屋敷前だ。
現在時刻十二時半。彼女があそこのシフトに入るべき時間まではまだ十分に猶予があった。
「……あのさ、桐花」
「はい」
横を歩く桐花が首を傾げ、俺の表情を窺う。
「話したいことがあるんだけど、少し時間いいか?」
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