第5話 知らなかった顔

 週明け月曜日は、昨日まで降っていた雨は完全に上がって秋晴れ模様。そんな秋空の元、学校へと向かった。


「おはよ」


 玄関にて、後ろから声がかかる。その声の主は、声色とタイミングから、振り向くことなく分かってしまう。


「おはよう、咲楽」


 昨日見た私服姿が直近見た彼女の姿であるためだろう。見慣れたはずの制服姿がやたら新鮮に感じられた。

 靴を履き替えると、揃って教室へと向かう。


「勉強の調子はどう?」


 相変わらず、彼女の開口一番はこれに決まっている。予想の範疇だったので、俺は滞りなく答える。


「昨日お前にぼろ負けして、絶賛やる気沸騰中だよ」

「そっかそっか。ほんと昨日は私の完勝だったもんね~?」


 昨日、彼女の練習にとことん付き合った後。俺は彼女との本気五番勝負に挑んだ。

 一種目目のボーリングでは、開幕からフォースを出されあっけなく敗れ、二種目目のカラオケでは俺の高得点が霞む百点連発にて敗れ、三種目目の卓球では抜群の運動能力を使われて敗れ、四種目目のクレーンゲーム対決ではタグひっかけという高等テクを用いられて敗れた。そして、「最後はやっぱりこれでしょ」と初心に戻ってフリースロー対決。これに関しては結果を言うまでもないだろう。

 完膚なきまで叩き潰された俺は帰宅後、一切ゲームをすることなく机に向き合った。こうして勉強と真っ直ぐに向き合ったのはいつぶりだろうか、と懐かしさに浸りながらも、時折大敗北を思い出しながら、臥薪嘗胆で勉強に励んだのであった。おかげさまで若干寝不足だが、どこか充実感のような心地よさすらあった。

 趣味であるゲームは今後、プレイ時間が減っていくのかもしれない。ただそれでも、短時間だからこそいつもより楽しもうという意識も芽生えるだろうし、決して悪いことばかりではないように思う。


「ほんと、ありがとな」


 改めて礼を述べると、咲楽は少し照れを隠すように視線を背ける。

 そんな彼女を見た俺は、感謝の言葉に続けて、先ほどの挑発をやり返すように恨み節を放つ。


「まぁ、勉強では実質負けなしだけどね。本気でやれば絶対勝つ」


 そして案の定、負けず嫌いの咲楽はその挑発に乗っかってくる。その際の咲楽の表情はやはり、さぞ楽しそうだった。


「朔翔、自分の立ち位置を今一度確認した方がいいよ。あの時とは訳が違うんだから」

「上に目標がある方が人は燃えるっていうだろ? それに敗北を知った人間は強いとも言う。今の俺の方がよほど手強いだろうな」

「いいね、燃えてきた。それじゃあ、期末考査を楽しみに……」


 咲楽は突然、何かを思い出したように言葉を途切れさせた。


「って、そういえば先に学校祭あったね」

「……あぁ、そういえばそうだった」


 昨日の敗北以降、期末考査のことばかり考えていたが、おそらくこの学校でそのことを考えていた生徒は俺たちぐらいだろう。

 ほとんどの生徒の頭の中は、今週末に開催される学生の晴れ舞台、学校祭のことでいっぱい。すれ違う生徒の多くがその話ばかりをしていて、よほど楽しみなのだろうと思う。


「うちのクラス、今年は何やるつもりなんだろ?」

「今日話し合うんじゃなかった? まぁ私はほかにも色んなのに出ないとだから、出来れば軽めなものだと助かるんだけどな。飲食店とか」

「咲楽の場合はそうだろうな」


 咲楽はビジュアル良し、運動能力良し、演技良しの三拍子が揃っているため、毎年この手の行事には引く手数多である。中学時にはミスコンで優勝の経験があり、昨年は劇で主役も務め上げた。

 当時はさすが咲楽だなと呑気に感心していたものだが、彼女から語られた真実を知った今では、がらりと思うことが変わってしまった。

 何でも器用にこなせてしまう表面上だけを見れば、彼女ほど優秀な人材はない。故に、彼女を求めてしまうのだ。

 彼女が頼みごとを断れない質であることや、負けず嫌いであることも起因して、いくつも大役を掛け持った過去がある。それらを毎度完璧にやり遂げてきたため、『完全無欠の準プリンセス』などと呼ばれるようになったわけだが、その裏に隠れたものを知った今はただ応援するだけでなく、もう一言必要だろう。


「あんまり無理すんなよ? 準備期間といっても部活はあるし勉強も普段通りにやるなら、ほんと自分のできる範囲内にな」

「……うん、ありがと」


 彼女は再び、少し照れたようにそっぽを向きながら、そう礼を述べた。

 その彼女の姿はちょっといじらしくて、不覚にも可愛らしいと思った。



* * * 



 六限目の時間帯。授業中にも関わらず教室の中は騒がしかった。


「それじゃあみんな~。他に案はない?」


 それは、二年F組で絶賛開催中である、蔦屋祭のクラス出し物を決める会議が行われているためである。

 議事を取り仕切っているのはこのクラスの学級委員長――今桃百子こんどうももこ。後ろ二か所で結われた黒髪おさげのヘアスタイルに、フチなしの丸眼鏡少女をかけた彼女は、この出し物に対して相当気合が入っているらしい。何でもいいや、と流れに身を任せる生徒が大半である中、一人だけ目の色が違っていた。

 現在、黒板に書かれた候補は大きく分けて二つ。委員長の提案した候補かそうでないかだ。

 委員長以外が出した案はメイド喫茶、お化け屋敷、そして焼きそばの模擬店。これらは定番中の定番故、他クラスと被る可能性が高いが、そこにクラスの個性を加えていかにオリジナリティーを出すかというのが醍醐味になってくる。

 そして問題の委員長が出した案。タピオカ、パンケーキ、チーズハットグ、ナタデココ、ロールアイス、マリトッツォ……。食べ物の模擬店ばかりというか、まさに女子高生が好きそうなラインナップが並んでいる。

 何やら今年は飲食店部門においては売上競争なるものが行われるらしく、委員長はそれで優勝しようと躍起になっている様子。結果、メインターゲット層がこの学校の生徒である以上流行りのものを出すべきという思考に行き着いたらしい。……でもこれら全部、流行が過ぎてるように思うのは気のせいだろうか?

 委員長はクラスの中に手を挙げる様子がないとみて、議論を進行させる。


「他にないようなので、それではこの候補の中から多数決で採択します。一人一回、自分のやりたいと思うものに手を挙げてください!」


 そうして委員長主導の元、多数決に入った。

 一見、委員長が出した候補が多いため、そのどれかが通る可能性が高く映る。

 さて、その結果は――。


「では今年の学校祭、F組はメイド喫茶に決定します」


 委員長が若干声のトーンを落とし、そう口にした瞬間、拍手が鳴り響く。

 おそらく意見を出しすぎたことが裏目に出たのだろう。委員長提案の候補の中で票が分散した結果、僅差ではあったがメイド喫茶に決定となった。


「メイド喫茶ってやったことないけど楽しそう」

「男がメイド姿ってのも面白そうだよね~」


 そんな声が聞かれるように、メイド喫茶への期待が高まるクラス内だが、一方で意見が通らなかった委員長の表情は少し残念そうだった。きっと長い時間考えた末に出した意見で、他の生徒たちと思い入れが違う分、少しその気持ちには同情したくなる。

 しかしそんな中で一人の男が突然手を挙げた。

 その男――泰史の席がある廊下側の前列に一手に視線が集まった。


「メイド喫茶になったなら、ここに出た食べ物系統をメニューにしたらどう?」


 泰史の提案は、クラスの意見と委員長の意見の折衷案であった。それを聞いた委員長は、水を得た魚のように恍惚とした表情へと変わる。


「採用!」


 そんなやり取りを見ていた教室内では、再び自然と拍手が沸き起こっていた。

 それにしても泰史はよく人を見ていて立ち回りが上手い。故に多くの人から好かれるのだろう。

 まぁ、それが軽薄とも取られて咲楽に嫌われる原因にもなっているんだろうけど。実際、咲楽は今もいけ好かない顔をして、拍手も投げやりだし……。

 蔦屋祭開催が週末に控える今日。二年F組はメイド喫茶開店に向け、本格的に動き始める。



* * *



「……で、何で俺らが呼ばれたわけ?」


 その日の放課後、二年F組にはたった四人だけが居残っていた。

 席を四つ向かい合わせた配置に俺と泰史は廊下側、委員長と咲楽が窓側の席に着いている。そんな中、俺は若干気怠げに委員長に問うた。



 遡るは六限終了後、教室を出るために荷物をまとめていた時だ。


「酢漿君、今日放課後残ってもらっていもいい?」


 突然やってきた委員長にそうお願いをされた。

 放課後には桐花と勉強会の約束があるので、正直居残りたくない。緊急であったり、余程の内容であれば話は別だが……、と思いつつその内容を彼女に問おうとした。


「何か用事でも……っておい!」


 しかしその彼女はいつの間にか目の前から姿を消しており、教壇に立っていた。


「今から実行委員の話し合いをしたいので、教室を開けて頂きたいです。ご協力よろしくお願いします」

「……あぁ、そういうことね」


 俺は全てを悟り、ガクッと項垂れる。

 委員長の突然の呼びかけにまだ残っていた生徒たちは若干困惑の色を見せたが、六限の時に彼女がいかにこの蔦屋祭に懸けているかを目の当たりにしているからか、最終的には受け入れてこの場を後にしていく。

 そしてこの場に残された人たちこそ、委員長により勝手に決定された実行委員である。

 ……そう。あのお願いには、どうやら拒否権がなかったらしい。それはお願いと言わないのでは?


「さぁて、最初の打ち合わせ始めちゃうよ!」



 かくして今に至る。

 委員長以外の三人が問いたいことを俺が代表して聞くと、委員長は笑顔で答えた。


「三人が実行委員に相応しいと思ったからだよ」

「委員長の推薦、か。その決定は委員長に一任されてたのか?」

「うん。蘭先生がその方がいいんじゃないかって」


 通常、実行委員決めというのは今日の出し物会議のような場で話し合うものだろう。

 だが実行委員というのは、こうして頻繁に放課後に残ったりする必要のある面倒な役回りである。委員長や生徒会のように内申点アップという利点が付属するのであれば多少話は別なのかもしれないが、比較的メリットが少なく映る実行委員に立候補するものは皆無に等しい。どのみち推薦という決め方になるのが恒例だろう。

 担任である蘭先生が良しとしていることもあって、別にこの『推薦』という決定方法に不満はない。

 俺が問題視しているのは、委員長が推薦した人に対して、事前に可否を問わなかったことだ。これでは強制させていることと何ら変わりない。


「まぁ俺と泰史は部活やってないからまだいいけどさ。咲楽は今日みたいに部活が休みでない限り、参加するのは難しいんじゃないか?」

「あはは……。朔翔の言う通りで、私はあんまり力になれないかも。あとごめん、なんで小紫を選んだの?」

「ちょっと!?」


 咲楽……。どんだけ泰史のこと嫌いなんだよ。


「小紫君はクラスメイトの誰とでも仲良くできるから、こういうのに向いているかなって」

「誰とでも、ではないから向いてないと思う」


 私はそうじゃないから、と言外に含まれている。何と辛辣な……。


「そんなきっぱり言わなくても……」


 泰史もさすがにショックが大きいのか、しょんぼりと項垂れる。

 咲楽はあんな風に言っているが、委員長の言っていることは一理ある。クラスメイト達と分け隔てなく接することができるというのは、コミュニケーションを必要とする場では大きなメリットとして働く。加えて、周りをよく見ていたり、盛り上げるのが得意な泰史には向いている仕事だと思う。


「でもそっか……、そうだよね。桜美さんがいたら心強いなって思ったけど、部活あるんじゃしょうがない、かぁ」


 委員長が先ほどの咲楽の言葉を聞いて悲しそうに嘆く。委員長が咲楽を起用したがる理由はよくわかるが、咲楽の本当の一面を知った今はあまり起用させたくない。

 けれど、そんな分かりやすく萎れた委員長を見て余計に断りづらくなったのだろう。咲楽は委員長の肩にポンと手を置くと、優しく言葉をかける。


「あんまり参加できないかもだけど、それでもよかったらできる限り協力する。それでよかったら、実行委員やるよ」

「おい、咲楽。お前……」


 多分咲楽は、俺が断り易い状況を作ろうとしているのを理解していたのだろう。俺の方を一瞥し、軽く首を横に振った。

 そんな咲楽の意思表示を聞き、委員長のしおらしさは遥か彼方に消え去った。勢い良く立ち上がると咲楽の手を強引にとり、ブンブンと上下に振る。


「あ、ありがとう桜美さん! これで私たちF組の優勝は確実だよ~!」

「あぁ、うん。一緒に頑張ろう」


 どうやら実行委員の件はこれで決定のようだが、今のやり取りのせいでいまいち釈然としない。俺と同様に感じた様子の泰史が、俺にだけ聞こえるようにぼそりと嘆く。


「……優勝するかしないかのキーが全部桜美さんにあったなら、俺が向いてるとかは表面上の口実で、実はただの人数合わせだったんじゃ……」

「まぁそのようだな。あとはまぁ、俺たちが絶対に断らないとみて、咲楽が断らないよう外堀を埋めたんだろ。案外策士だな」

「伊達に眼鏡をかけてない、ってか……」


 事の経緯はどうあれ、咲楽と違って帰宅部の俺たちには断る理由もないのだ。このまま委員の仕事を全うするのが吉だろう。咲楽だけ残して辞退するのも気が引けるし……。

 ただまぁ不穏な立ち上がりだったとはいえ、このメンバーでやる活動なら案外楽しいかもしれないな。



* * *



「さて、実行委員最初の仕事だけど……」


 引き続き委員長が仕切り、実行委員としての会議が続く。


「何しよっか」

「考えてなかったんかい!」


 条件反射的に泰史が突っ込みを入れる。多分口にしなかっただけで、咲楽も同じことを思ったに違いない。

 やることは今日の朝の会議にてメイド喫茶に決まっていて、メニューはターゲット層に合わせたもの、という風に決まっている。

その次にすべきこと……。あまりこういう経験がないので、パッと意見は浮かばない。


「あの、ちょっといい?」


 咲楽が手を挙げて委員長に問う。


「はいどうぞ、桜美さん」

「私、あんまりメイド喫茶ってものを知らないんだけど、どういう感じなの?」


 大体こんな感じというイメージこそあれど、確かに一度も行ったことがない以上、具体的な部分までは俺も知らない。どうやら委員長もそのようで、質問に対して「う~ん」と考え込んでいた。

 そんな様子を見て一人の男が饒舌に語った。


「簡単に言うとウエイトレスがメイドの恰好をして、『お帰りなさいませ、ご主人様』と言って客を出迎え、頼まれたメニューを届ける際にはオムライスにハートを描いたり、美味しくなるよう『萌え萌えキュン♡』とおまじないをかけて、お勘定の後に『行ってらっしゃいませ、ご主人様』と言って送り出すという喫茶店だな」

『………………』


 揃いも揃って絶句である。

「どこが簡単にだよ」なんて突っ込みをするものもおらず、ゴミを見るような目でその男――小紫泰史を蔑む。ここぞとばかりに饒舌に語った点もそうだが、いちいち台詞が迫真であったのが蔑みに拍車をかけていた。

 そんな目線を一手に浴びた泰史は、慌ててブンブンと両手を振りながら否定する。


「ち、違うって! 俺は別に通い詰めてなんかなくて、一回だけ友達に付き合わされて行っただけだから!」

「だったら何で、そんな鮮明に思い出せるのかな?」


 ゴミを見るような目を通り越した、宇宙の藻屑を見るような目で泰史を見ながら、咲楽が声色を低くして問う。


「あまりに印象的過ぎて覚えてるだけだよ。ほら、刺激の強いものほど記憶に残りやすいって言うだろ?」


 そこそこ長い付き合いがあるから分かるが、泰史の言っていることはおそらく本当なのだろう。そろそろ咲楽に詰め寄られる泰史の図を見ているのが可哀そうになってきたし、さっきから委員長は絶句だし、会議はいつまでたっても進行しないので止めてあげよう。


「まぁでも、この際知っている奴がいるなら都合がいいな。ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします、師匠」

「さ、朔翔まで!?」


 俺の言葉を聞いてか、ようやく元に戻った委員長が一つ提案する。


「この際、一度行ってみるというのはどうかな? 話を聞くのもいいけど、実際に見た方がいいかなって思うんだけど」

「私も今桃さんに同感。この下衆の言ってたことは全部、気持ちの悪い妄想かもしれないしね」

「……まぁ、俺もあんまり細かいところまで説明できる自信ないし、そっちの方がいいかも。あとついでに、メニュー候補になるほかの店巡ったらいいんじゃない?」

「そういえば、駅前ならその手のもの全部揃ってるよな」


 俺はふと、遊びに行った時のことを思い出した。

 あの辺りにはコンセプトカフェが並んでいるのと同時に、タピオカの店やチーズハットグの店も並んでいた。そして駅地下はデパートのような構造になっており、そこには本格的なマカロンを扱った店舗なども入っている。今回の目的にはこれほど都合の良い場所もないだろう。


「採用! さっそくだけど、駅前にレッツゴー!」


 本当にこの人は勢いがすごすぎる。まるでジェットコースターみたいな人だ。


『お、お~』


 その勢いに気圧されながらも俺たちは委員長の合図に乗っかり、拳を上げたのだった。



* * *



 ここ最近、駅前に来る機会がやたら多い。ここ二週間で三度目になるだろうか。

 けれどそのくらい、この駅前という場所が発展していてなんでも揃っているのだ。

 駅から徒歩一、二分圏内にある喫茶店群。そのうちの一つ――とあるメイド喫茶の前までやってきた俺、泰史、咲楽、委員長の四人は、一度訪れた経験があるという泰史を先頭に店へと入る。


『いらっしゃいませ~。ご主人様、お嬢様』


 統率された掛け声に思わず圧倒される。決して馬鹿にしていたわけではないが、しっかりと役に入り込んでいるという印象を受ける。

 メイドの一人が俺たち四人をテーブル席へと案内する。


「ご注文お決まりになりましたら、お申し付けくださいませ」


 席に着いたところでそのメイドは深々とお辞儀をし、この場を立ち去って行こうとする。しかし委員長は、そのメイドを呼び止めた。


「あの、すいません」

「はい。ご注文お決まりでしたでしょうか? お嬢様」

「いえ。実は私たち、学校祭でメイドカフェをやろうということになりまして。今回はそのロケハンにやってきたのですが、色々お伺いしてもよろしいでしょうか?」


 委員長を除く三人はその光景を、「うわぁ、すげぇ……」といった羨望の眼差しで見つめていた。圧倒的な熱意は、ちょっとした恥じらいをも吹き飛ばしてしまうらしい。

 委員長はそこから怒涛の勢いで質問攻めをしていた。コンセプト、服装、台詞などなど、それらを聞いては手元のメモ帳に書き残していく。

 それにしても店員さんは全く嫌な顔一つ見せない。この店員さんの人柄が単にいいからか、店員と客は主従関係になっているというコンセプトがある故なのか。いや、その両方なのかもしれない。


「ありがとうございます。参考にさせていただきます」


 途中、別の店員によって運ばれてきたお冷を飲みながら、適当に時間を潰して待つこと三十分。どうやら話がひと段落したらしいので、暇な時間にメニュー表を眺めていた俺たちは注文に移り、ようやくその店員さんは厨房に下がっていった。


「いい情報をたくさん仕入れることができたよ!」


 委員長はメモ帳をパラパラと捲りながら嬉々として報告する。


「今桃さん、すごい熱心だよね」

「そうかな?」


 咲楽の感嘆の声に、委員長は思わず首を傾げる。


「うん。どうしてそこまでできるのか、売り上げ一位に拘るのか。私、ずっと気になってたんだけど、よかったら聞いてもいいかな?」


 きっと咲楽が言わずとも、俺がいずれ尋ねていたかもしれない。

 売り上げ一位になったら賞金が、豪華景品が、ということなら問う必要もない。だが、蔦屋高校の学校祭で売り上げ一位になったとしても、軽く表彰される程度に過ぎない。体育祭や合唱コンクールと違い、飲食店をやるクラスに限った競争ということもあってか、毎年おまけ程度の認識となっている。

 そんな売り上げ競争で、一位を獲得することに固執している委員長の熱意の根源は何か。ずっと気になっていた。

 委員長は咲楽の問いに軽く頷き、店の天井を見上げて一呼吸を置くと、ゆっくりと話を始めた。


「私さ、親の影響もあってスポーツが大好きなの。特に、団体競技がね。だけど私、滅法運動には弱くて、やる方は全然だめだめで諦めちゃった……」


 委員長はそう言って少し苦笑いを浮かべる。


「桜美さんならきっと共感してくれると思う。みんなで何かを成し遂げることがとっても楽しいことだって。私はスポーツでそれができなかった分、こういうところで何かを成し遂げたいって思いがきっと人一倍強いんだと思う」


 運動は他と比較すると、才能というものが差としてより露骨に顕れやすいように思う。よく『体格に恵まれた』という表現を耳にするように、生まれ持ってのものが能力に強く影響する競技も多い。

 才能がない――それでも諦めない人がいる。

 想像を絶する努力を経てできるようになる人もいれば、できないならできないなりに足掻き続けようとする人もいる。

 だが、その道以外を模索することもまた一つの手段だ。それを『逃げ』と呼ぶのは少々浅はかだろう。

 みんなで何かを成し遂げる楽しさを味わいたい。その目標は、何もスポーツの中だけにあるわけではない。故に彼女はこのような場を見つけ出し、そこに対して真剣に向き合っているのだ。


「みんなで何かを成し遂げることは楽しい、ね。うん、すごくよく分かるよ。みんなでその嬉しさを、楽しさを分かち合うあの瞬間の心地よさは、他の何にも勝るって私はよく知ってる」


 ぽつり、咲楽は共感の声を漏らす。

 強豪校、すなわちたくさん勝利してきた彼女は――その輪の中心にいた彼女は、そのことを誰よりもよく知っているのだろう。


「だから今は、さっきまでよりももっと協力したいって気持ちが強くなった」

「桜美、さん……」

「絶対に優勝、目指そう」

「うん! 頑張ろう!」


 委員長は晴れやかな笑みを浮かべたと同時に、再びメモ帳を開き始めた。再び目標へと動き出したのだろう。

 彼女の話を聞いたことで、俺の中にあった参加を余儀なくされているので仕方なくという気持ちは、浄化されたように完全に消え去っていった。委員長の望むことへの手助けができたらいいなと、純粋に思う。


「それにしても、『ご主人様への愛情たっぷり、特製手作りオムライス♡』はまだかなぁ……。腹減ったんだけど」


 突然、辺りを覆っていた和やかな雰囲気が瓦解する。発端は完全に隣の奴の発言だが、緊張感走る空気を作り出したのは対角線上に座る咲楽。怒り心頭の様子で声を震わせる。


「あのさぁ……。そんなに水差すのがお好みなら、私がやってあげるけど? 物理的に」


 言いながら咲楽は、水が並々に入ったコップを持ち上げて泰史の方へと近づける。


「えっ、ちょ、ちょっと桜美さん!?」


 怒りが燃え燃え(萌え萌え)な咲楽をいつも通り宥めようとも思ったが、俺の正面に座っていた委員長がクスリと笑ったのを見て思い留まる。こういう何気ない馬鹿らしいワンシーンも、どこか楽しいのだろう。


「それともこっちを刺してあげようか?」

「フォークはダメでしょ! ってか、漢字が違うじゃん!?」

「ご主人様がお望みとあらば、こちらでもいかがでしょうか?」

「狂気に満ちた目で笑いながらステーキナイフを握るメイドなんているかぁ~!」


 そんなやり取りをよそに、委員長はメモをまとめることに、俺は運ばれてきたコーヒーを嗜むことに集中するのであった。



* * *



 翌日の放課後。

 先ほどまで二年F組で開催されていた実行委員会議は先ほど終了した。

 内容は、メイド喫茶、タピオカドリンクの店やパンケーキの店と色々巡った昨日の成果を元に、メイドカフェの詳細を決めるというもの。委員長の直接取材から得たもののおかげですんなり進行し、予定よりも早く解散となっていた。

 そして今。俺は三十分遅れでいつもの場所――二年特別教室に到着した。教室の小窓から中を覗けば、いつもと変わらない彼女の姿があった。

 ガラガラガラと扉をスライドすると、その音に反応して桐花がこちらに気づく。


「こんにちは、酢漿さん」

「うん。遅れて悪い」

「いえ。お疲れ様です」


 昨日、今日と、早めの連絡はしてあったので、桐花は遅刻に対して咎めたりすることはなく、むしろ労ってくれた。


「さてと」


 俺はいつも通り桐花の隣の席に座ると、鞄を開く。そして徐に、筆記用具と数学の問題集を取り出して、勉強に取り掛かった。

 あれだけ見栄を切っておきながら、蔦屋祭にばっかり囚われて咲楽に後れを取るわけにはいかない。中間考査より範囲の広い期末考査に向けて、中間考査範囲から、いやもう少し前から見直していく必要がある。


「あの、酢漿、さん? 酢漿さん……」


 決して難易度の高くない基礎の問題から順に解いていく。

 こういった基礎の積み重ねは、満点対策で出される難問を解く上でも、ケアレスミスためにも重要なこと。雑魚敵相手にコツコツ経験値稼ぎというのは骨が折れるが、そうしてようやく強敵への挑戦権を得るのだ。


「酢漿さん!」


 横から大きな声で名前を呼ばれる。もしかしたら、先ほどから何度も呼んでいたのだろうか。

 ゲームにしてもそうだが、俺は一度何かに集中すると周りの音が遮断されてしまう傾向にあった。過去、似たようなやり取りを泰史とした覚えがある。


「……ごめん。集中してて聞こえてなかった」


 桐花の方を見ると、少し胡乱げに俺を――そして机上の勉強道具を見つめていた。


「……どうかされたのですか?」


 これまでは『勉強会』とは名ばかりのコーチングに過ぎなかった。彼女に教えて欲しいと言われるまでは待機し、窓の外を眺めていることが多かった。

 故に、桐花はこの光景に違和感を覚えたのだろう。けれど本来、勉強会というものはこうして共に勉強するものであり、これまでがおかしかったんだ。

 時間を惜しみ必死に頑張る人の隣で、頭を空っぽにして時間を無為にしていた。あの頃の自分の行いが本当に悔やまれる。


「……桐花に触発されて、俺も期末に向けて頑張ろうと思ったんだ。もちろん、これまで通り分からないところがあれば、遠慮せずに聞いてくれて大丈夫だから。元々、そういう目的で始まったわけだし」

「……そう、ですか」


 若干困惑気味で俺の方を見ていた桐花だったが、不意に少し嬉しそうな微笑を漏らす。


「それじゃあ、一緒に頑張りましょうね!」

「そうだな!」


 彼女と出会ったあの日から、俺自身はずっと彼女の傍で見守っているだけだった。

 そこにいるだけでも、十分に心地よさを抱いていたけれど。

 こうして共に目標を目指して努力する――並走しているような感覚は、これまでとは一線を画す、全く別の居心地の良さだった。

 俺は桐花に、桐花は俺に負けられないとばかりに互いに高め合う。切磋琢磨する関係性を気付けるからこそ、勉強会には意義があるのだと思う。

 俺は今初めて、彼女と対等になれた気がした。



 勉強会を終えると、外はいつも通り、夜の訪れを感じさせる。


「そうだ」


 桐花の家へと向かう途中、思い出したかのように俺は切り出す。


「この先蔦屋祭が終わるまでは、なかなか勉強会行けないかもしれない」


 蔦屋祭のクラス出し物に向けて、準備の進捗は相当順調だった。

 部活でなかなか行けない咲楽は、授業の合間や昼の時間を利用して委員長と話し合いを重ねているらしく、その成果を今日の会議にて俺と泰史が報告を受けた。放課後以外の時間も有効活用していることもあってか、気づけばメイド喫茶の詳細がかなり固まっていて、今日の時点で仕事の振り分けまで終わらせていた。

 つまり、明日からは各班ごとに分かれて作業が本格的にスタートする。俺たち実行委員は、各班の進行等を担うことになっており、作業中は現場を離れるのが難しくなる。

 となれば必然、勉強会に行くのは困難となる。その報告を前もってしておきたかった。


「実行委員の仕事ってかなり大変そうですね」


 手元には単語帳が携えられ、視線は一向にこちらへ向けられない。それでも、俺の話は一切聞き逃さない点は相変わらず器用なものだ。


「ごめん。だから、実行委員が終わるまでは勉強会に休みたいんだけど……」


 ようやくいい感じで再スタートを切ったばかりにも関わらず、早々に休みを言い出すことに対する申し訳なさで語尾が濁る。生まれた淀んだ空気の中、それでも彼女の声はクリアだった。


「大丈夫ですよ。酢漿さんが謝る必要なんてないです。私が一方的にお願いしたことですから。実行委員、頑張ってください」

「ありがとう」


 そう背中を押され、募っていた申し訳なさがスッと軽くなる。

 勉強会をお休みする分、これまで以上に実行委員の活動を頑張らないと。そう気持ちを引き締めた。



* * *



 いつもの場所まで彼女を送り届け、俺は来た道をゆっくりと引き返していく。その頃には随分と辺りは暗色に染まり始めていて、住宅地周辺の街灯も既に灯っていた。

 そうして歩くこと二、三分くらいだろうか。

 後ろの方から目の前が、パッと明るく照らされた。

 明らかに不自然なその眩い光は、どうやら車のハイビームらしい。住宅地である以上、迷惑のかかるハイビームは慎むのが常識となっている。免許を取ってない高校生でも知っているというのに、まさか知らないのか……?

 チラリと半身で振り向き、目を凝らしてその車の方を見た。するとそれを見てようやく気付いたのか、運転手がロービームに切り替える。

 収まった眩い光の中から現れたのは、近頃話題の白い電気自動車。ボディはキュッとしまってカッコよく、一度の充電でかなりの長距離を走れるということで、価格が高騰しているらしい。

 ――って、ちょっと待て。この車、どこかで見たような……。

 そんなことを思っていると、その車はプップーと二度クラクションを鳴らしながら徐行で近づいて来て、俺の横につけた。


「こんばんは~、イケメン君」


 運転席の窓を開け現れたのは、なんと桐花の母親だった。

 それで思い出したが、この車はつい先日、カーポートに置かれているのを偶然目にしていた。


「こういう場所で、ハイビームにクラクションは止めた方がいいです」

「ごめんごめん。まぁ、とにかく乗ってってよ。家まで送ってあげるから」

「いえ。別にそこまで遠くってわけでもないですし、大丈夫です」

「そうお堅いこと言わないの。ちょっと話もあるのよ」

「話、ですか……。まぁ、そういうことなら……」

「うんうん。素直でよろしい!」


 話がある、と言われるとどうしても断り辛いものだ。つまり俺は、二重の意味でまんまと乗せられたのである。

 俺が助手席に座ると、桐花の母親は目的地を聞くよりも先に車を走らせた。



 車の中は至って静かだった。

 音楽やワンセグ、ラジオは流れていない。エンジン音とウインカーの音、そして偶に話すカーナビの音が、会話のない二人の間を埋めるように聞こえてくる。

 独特な関係の距離感が生み出す気まずさが、緊張感が、単刀直入に「話ってなんですか?」と尋ねたい俺の意思を妨げる。おかげで先ほどから、まじまじと桐花の母親の横顔を眺めてしまっていた。


「あんまり似てないでしょ? 私と燈佳」


 依然として視線は前方を向いているのに、気配と視線を感じていたのだろう。桐花の母親は少しおどけた様子で苦笑いを浮かべる。


「ありがとね、いつもあの子に勉強教えてくれて。君が家に来た日の後、聞かせてもらったわ」

「いえ、俺は別に……」


 確かに、今勉強会をしているのは、桐花が教えを乞うたからではある。ただ前提として、むしろ俺の方から彼女に何かしたいと思っていたくらいだ。故に若干、濁すような返答になってしまう。


「ただまぁ、あの子が勉強を苦手としているのは、きっと私の遺伝子のせいもあるんでしょうね」


 続けてそう話した彼女の横顔は、皮肉にも、自身の不甲斐なさから来る苛立ちを垣間見せた時の桐花の顔を彷彿とさせた。

 遺伝子――それは生まれた時点で決まっているもの。才能の有無を決定づけるもの。

 サラブレットという言葉があるように、血統――つまり親がどれほど優秀かが、子供の能力を左右する。競馬ゲームでは、馬の価値そのものに直結するほど大きな要素だった。

 彼女の言い方から察するに、片親である父親はきっと優秀なのだろう。その証拠と言っていいのかは分からないが、桐花は別に全てを苦手としているわけではない。

 彼女が今の位置にいる原因は、暗記を苦手としていることにあり、それ故、暗記科目の成績と要領があまり芳しくない。ただ一方で、頭の回転と計算能力には比較的秀でていて、解き方のヒントを与えただけでスラスラと結論まで導けている。

 とはいえ、『暗記』は全教科の基盤として共通している。それを苦手としているために、成績を落としているという点に関しては否定できない。だから桐花の母親は、娘が勉強をできないことは自分のせいだと負い目を感じているのだろう。

 だが、俺は少し違うと思う。


「……それはどうでしょうか」


 俺がそう切り出すと、彼女は少し驚いた様子を見せる。


「もし本当に桐花が母型の遺伝子を受け継いでいたとしても、自分は彼女が彼女たらしめているものは母型から受け継いでいると思うんです」

「……あら、慰めてくれるの? 娘と同い年の子に慰められるなんて、情けない親ね」


 彼女は肩を竦め、苦笑いを浮かべた。

 それを見て俺は、少しだけ語気を強めて言う。


「慰めに聞こえますか? 自分は事実を言ったのですが」


 言うと、車の中に静寂が走る。

 ちょっと感じの悪い言い方になってしまっただろうか。そんな不安から思わず目線を逸らしたくなったが、目の前の煌びやかさに目が釘付けになった。


「ありがとう」


 不安は一瞬にして杞憂に終わる。

 曇り一つない屈託のない笑みは、包み込むような母親らしい優しさの中に、一輪の花のような儚げさも垣間見える。それは一瞬にして、一人の少女の表情を思い起こさせた。

 ほら。こんなにもそっくりじゃないか。

 少なくともそれは、桐花にしっかりと受け継がれていて、彼女が彼女である重要な因子だ。だから決して、そのことで引け目を感じて欲しくなかった。


「燈佳も、そんな風に思っていてくれたら嬉しいな~」

「そうですね」


 桐花本人は、自分のことを中々語ろうとしないから、実際にはどう思っているか分からない。

 けれど、桐花の母親と同様に思っていてくれたらいいなと思うばかりだ。



* * *



「……あの」

「うん?」

「自分の家の場所を教えなかった自分も当然悪いんですけど、ここは自分の家じゃないですよ」


 車に乗り込んでから十分ほど。

 目的地をずっと聞かなかったことから、てっきり住所を知っている――燈佳から聞いていたものとばかり思っていた。だから、多少違うルートを通っていることに口出ししなかったのだが、その結果辿り着いたのがこの場所。

 蔦屋高校の校舎からも見える、少し小高い丘の上の住宅地。その一角にある、とある公園前。

 桐花の母親がギアをパーキングに入れたのを確認し、目的地が違っていることを確信した俺は、ここに来てようやく指摘を入れたのであった。


「分かってるわよ。話があるって言ったじゃない? そのための遠回り」


 悪戯な笑みを見せた桐花の母親は、そう言って車を降りる。俺もそれに合わせて降車した。


「そこのベンチで座って待ってて。私、ちょっと飲み物買ってくるから」


 公園内にポツリと置かれた木のベンチを指差してそう言い残すと、彼女は公衆トイレ近くに設置された自動販売機の方へとスタスタ歩いて向かう。俺は言われた通り、そのベンチにゆっくり腰を下ろした。

 こうして公園のベンチに腰を下ろしたのは一体いつ以来だろうか。本当に幼い時の懐かしい記憶ばかりが蘇る。

 住宅地の中にあるこの公園は随分と小ぢんまりしていて、設置された遊具は随分と簡素。小さな滑り台とシーソーはともに随分と劣化しており、申し訳程度の砂場は最早、砂地の公園の砂と混じって同化してしまっている。

 けれど、そんな公園だからだろうか。

 森閑とした辺りの空気感や夜空とよくマッチしていて、どこか趣深さを感じた。


「お待たせ~。はい、どうぞ」


 購入を済ませた桐花の母親の両手に握られていたのはコーヒー缶だ。うち一方を俺に差し出す。


「あ、ごめん。微糖の方がよかった? いや、そもそも高校生に缶コーヒーを差し出すってのがナンセンスか。ごめんね、ついついOLの癖が出ちゃって」

「いえ。ありがたくいただきます」


 俺は軽く会釈したのちに、そのブラックコーヒー缶を手に取った。

 桐花の母親はあんな風に言っていたが、案外高校生にコーヒー好きは多いと思う。実際、俺もコーヒーが好きで、勉強やゲームの際には欠かせないお供となっている。

 プルタブを引くと、カシャッという音とともに豊潤な香りが鼻を衝く。そうして俺が一口飲んだのを見て、桐花の母親は話を始める。


「話ってのはね……、って、まぁ察しはついてるだろうけど。燈佳のことよ」


 俺と桐花の母親とを繋ぐのはその一点だけなのだ。

 詳細は分からずとも、その方向性についてだけは検討がついていた。

 問題は、その中身にある。


「あの子、あまり自分のことを語らないでしょ? だから、私が代わりに教えてあげようと思って。さっきは慰めて貰ったし、お礼も兼ねて予定より少し多めでね」


 そう言って小悪魔的に微笑むと、軽くウインクして見せた。


「……正直、助かります」


 桐花の母親が言う通り、確かに桐花は自分のことを話すのをどこか避けている節がある。故に、一緒にいる時間が長い割には、大して彼女のことを知れていない。それこそ、目が悪いことに気づかなかったように。

 彼女のことを知れば、色々見えてくることもあるだろう。もしかしたらそれが、彼女に教える際にも生かせるかもしれない。

 だがそれを、本人は望んでいるのだろうか。

 意図して話したがらない素振りから、彼女は知ってほしくないから話さないのだ。いくら彼女の母親であるとはいえ、第三者を経由して聞くのは間違っているようにも思う。

 そんな躊躇いが表情に出ていたのかもしれない。桐花の母親は笑った。


「そーんな難しい顔しなくてもいいのよ。君の考えていることは大体検討がつくもの。だから、語るのはあの子が覚えていない頃のお話よ」

「それって、ただの屁理屈じゃ……」


 そう言うと、彼女は人差し指を立てて口元に当てる。いちいち仕草が可愛らし気で色っぽいな、この人。

 要するに桐花の母親は、どうせ覚えていないことだから、私が話しても問題ないと言っているのだ。

 俺は小さく溜息を吐き、「教えてください」と、その話を聞くことにする。桐花の母親は俺の横に腰を下ろすと、夜空を見上げながら語り始める。


「この場所はね、燈佳が小さな頃によく来てたのよ」

「そうなんですね……」


 だから話すのにこの場所を選んだのか、と妙に納得するが、同時に疑問も生じる。


「でもどうして、わざわざこの公園に来ていたんですか? 桐花家からはそこそこ離れてますし、何よりもっと設備がちゃんとした場所の方が安全な上に楽しいと思うのですが」


 問うと桐花の母親は、「確かにそうだよね」と俺の意見に笑いながら賛同した上で、その理由を語る。


「私の実家、ここの近くなのよ。私の母親が子供の時からあったみたいで、母親にはよく連れてきてもらってたわ。そのことを鮮明に覚えてたから、実家に燈佳を連れて来たときにはよく一緒に来てたの」

「そうなんですね」

「でさ、あの時の燈佳ってすごい可愛らしかったのよ~。もちろん今も可愛いんだけどね? よく笑って、よく転んで、よく泣いて。偶々来ていた他の子供たちともすぐに仲良くなって、私が子供の時もそんな風だったのかなぁって懐かしみながら見てたわ」


 よく笑って。

 よく泣いて。

 他の子たちとすぐに仲良くなって。

 それらはまるで、別の誰かの話を聞いているようで、俺は呆気に取られていた。

 けれど、桐花の母親の嬉々として語る様子を見るに、決して嘘でないことは一目瞭然だ。

 だとしたら。



 ――俺は一体、彼女の何を見てきたのだろう。




「だから今、久々に来たら何だか懐かしくて、泣きそうになっちゃうよ」

「そう、ですか……」

「あれ? もしかしてあんまりこういう話は聞きたくなかった?」

「いえ。聞けて、本当に、本当に良かったです」

「そっか。それなら話した甲斐があったってもんよ」


 桐花の母親はどこか誇らしげに胸を張ると、まるでジョッキで生ビールを飲むように、缶コーヒーをグイっと飲み干す。飲み切った後の「ぷはぁ~」が、やけに様になっている。


「そいじゃ、イケメン君。もとい、酢漿君、だったね。これからも燈佳と仲良くしてね」

「はい、もちろんです」


 そうはっきりと宣言すると、俺も彼女に見習って缶コーヒーを大きく傾け、勢いよく口の中に流し込んだ。

 そうして飲み干したコーヒーは、未知なるビールの苦みなんてきっと比にならない。スッキリとした切れ味と謳っているはずのコーヒーが、とても苦くて長く尾を引いた。

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