第2話 ルート分岐

 桐花燈佳と出会った昨日のことが、たった一夜明けただけでまるで幻想のように感じてしまう。あの静寂とは対照的に、朝八時の校舎内は喧噪に満ちていた。

 俺が良く知る学校内の雰囲気と言えば、今の状態である。だが、昨日の異様な空間を知った今はどこか新鮮味すら感じ、いつもより生徒たちの声が姦しく聞こえるのだ。

 ここ、蔦屋高校は神奈川県東部に位置する私立の進学校だ。

 街中に凛然と建つ校舎にしても、実験器具や運動用具といった学内設備にしても、私立であるが故に非常に豪華。中でも図書室は一段と力が入っているらしく、内装はまるでお屋敷を彷彿とさせる。多種多様な本が寄贈されており、勉強に使用する参考書や受験対策本等のラインナップに優れている。勉学に励む上で、この学校の施設に対する不満は何一つ出ないだろう。

 適した環境なのは何も勉強だけではない。

 部活動に励む生徒たちにとっても大きな後押しとなっており、トレーニングルームや和室、屋内練習場など、各部活専用の施設が存在したりもする。ただし、部活に入っていない生徒には縁も所縁もないので、その中がどうなっているのかについては当事者のみぞ知る。

そんな環境の中、抜きんでた成績を残しているのは夏の県大会で準優勝した野球部、全国大会の出場経験を持つバスケ部などだろうか。特にこの両部については毎日のように朝練があり、非常にハードなことで知られている。

今日は偶然、登校したタイミングで朝練上がりの集団と鉢合わせた。玄関で靴を履き替え、教室へと向かおうとしていると、その中によく見知った少女の姿を見つけた。とりわけ彼女は、見た目ですぐ見分けがつくのである。

 明るい煌びやかな黄金色の髪はさらりと艶やか。朝練上がりのためか、この時間帯だけは髪留めで後ろの方を縛ったポニーテール姿。細身で締まった身体ラインは運動部故だが、そこに筋骨隆々といった逞しさはなく、あくまでも華奢という印象を抱かせる。

 そんな彼女はどうやら先に俺を見つけていたらしく、近くにいた部員と軽く挨拶をしてからこちらへと駆け寄ってくる。その際、フローラルな制汗剤の匂いが漂った。


「おはよう、朔翔」

「おはよう。朝練お疲れ様」

「あぁ、うん。ありがと」


 彼女の名前は桜美咲楽おうみさくら。蔦屋高校バスケ部の現主将である彼女とは、中学時代から同じ学校に通っている。

 彼女が靴を履き替え終えたところで、俺たちは横並びで教室へと向かう。


「あ、そうだ。中間考査、どうだった?」

「……予想はしていたが、会って早々その話か」

「そりゃあね。下々の様子を窺うのは、玉座に座る女王の務めだから」

「一体いつから主従関係になったんだよ……」 


 玉座――それは学年成績一位の頂を指す。

 彼女は入学以来、その地位を誰にも譲っていない。俺の順位が二位で横ばいなのは、主に彼女が立ち塞がっているからであった。

 玄関近くの階段に差し掛かり、一限が近いためか多くの生徒とすれ違う。咲楽は知った人の顔を見かける度、わざとらしくない自然な笑みを湛えながら軽く挨拶を交わしていく。その中には部長を務めている関係か他学年らしき人もいたが、どんな生徒にも分け隔てなく接しており、彼女の魅力的な部分が垣間見える。

 そんな挨拶をしつつも、彼女は何事もなかったかのように話を継ぐ。


「だって朔翔、対等なライバル関係だとやる気出さないし。屈辱的で恥辱的な状況になれば、少しは対抗心燃やしてくれるかなって」


 咲楽はそう言って小悪魔的な笑みを浮かべる。

 彼女は中学時代のある日から、俺を一方的にライバル視するようになった。


『対等なライバル関係』


 そう彼女は表現していたが、現在の俺と彼女には明らかな実力差がある。番数上ではたった『1』の差だがその間には明確な一線が敷かれ、彼女は他の追随を許さない。

 あまりの盤石さに絶望し、勝とうという意欲を失った――それ故に、俺のやる気が出ないというわけではない。現時点でも一方的なライバル視のままであるのには、別の理由があるのだ。


「俺は前から言ってるだろ。求められているものを十分に達している現時点より上を目指す気はないって。だから咲楽はすごいなと思う尊敬の念はあっても、負けていることに劣等感を感じてない」


 俺が彼女に勝とうと志し、闘志を燃やさない理由。それは、現状に満足しているからに他ならない。

 学年成績第二位。頂でなくとも九合目からの景色が美しいように、これでも十二分に誇れる成績である。頗る優秀であるという点は、一位であれ二位であれ変わらない。だから俺は、一位という地位に執着心はなく、現在地に満足しているのだ。

 仮にこれが自分の好きな物で、夢であれば話は違うのだろう。自分の好きなゲームがそうであるように、自分より上に立つ人間に勝ちたいという意欲が湧くならば、一位を目指して日々精進しただろう。高校球児が甲子園出場のため県一位を目指すように、目的達成に必要であれば必死に汗水を垂らしていたのかもしれない。

 けれど、俺にとっての勉強はそうではない。他人に劣っていようと、下から這い上がって並ばれようと気にも留めない。ただ自分に必要な分の努力を自分のペースで積み上げていく。それが今の、俺の勉強流儀である。


「尊敬の気持ちはありがたく受け取っとく。……だけど私は――」

「お熱いですねぇ、お二人さん」


 咲楽の言葉を遮るように割って入ってきたのは、どっから湧いたのか分からない能天気な泰史である。

 階段という場所の関係で、俺と咲楽が泰史の所を振り向くと必然的に上からの目線になる。


「……ご、ごめんって」


 どうやらそれが威圧的に見えたのか、気圧されたように謝る泰史。俺の方は意図したものではないが、多分隣のやつは意図したものに違いない。必要以上に顎が上がってるんだよな……。


「何?」


 見下すように視線を下ろす咲楽は、どうやらご機嫌斜めのご様子。元より咲楽は、こんな風に茶化しがちな泰史のことを良く思っていないのだが、何か言おうとしていたところで邪魔になった今回はタイミングも悪かった。


「いやぁ、たまたま姿を見て声をかけようと思っただけで……」

「あっそう。じゃあ目的は達せられたわね。お先にどうぞ」


 そう言って彼女は自ら階段の端の方に寄ると、軽く会釈し手で空いた道を指し示した。要するに、「さっさとこの場から失せろ」という彼女からのメッセージである。


「ちょっと!?」


 俺も咲楽に乗っかり、執事が開いた車のドアを指し示すような動作をして追い打ちをかけることもできたが、さすがに泰史を哀れに思うので咲楽の方を諭す。


「まぁまぁ、咲楽も落ち着けよ。あいつも別に邪魔する意図があったわけじゃないだろうし。な?」


 泰史の方を見て問うと、その助け舟にこれでもかと泰史は縋りつく。必死に何度も頷きながら、自身の身の潔白を示した。

 そんな様子を見てこれ以上責め立てるのは骨が折れるからなのか、それとも言っても無駄だと悟ったのか。咲楽は大きく溜息をつく。


「朔翔がそう言うから今回は見逃す。だけど次はないわよ、小紫」

「……は、はい」


 と、泰史は咲楽の圧に飲まれて承諾したが、どうせまた懲りずに仕掛けるだろう。それでまた叱られ、俺は咲楽を諫める。もう何度もやっているやり取りである。


「そろそろ行こっか、朔翔。こんなところに居ても邪魔になるだけだし」

「確かにそうだな。咲楽の気が休まらなさそうだ」


 こうして三人で話している時ですら、咲楽はブランドイメージを崩さない。通行の邪魔になりそうなら道を譲り、友達がいれば一言二言ほど会話を交わす。

 いくら彼女とは言え、周りにずっと気を遣いっぱなしというのは大変だろう。ましてや泰史もいる状況などもってのほか。彼女が先を行くよう促すのに従って、俺たちは再び階段を登り始める。


「ちょっ!? 僅かの間に俺、居ないことになってない!?」


 そして泰史の断末魔をよそに、俺たちは平然と教室を目指していった。

 こうして始まるのが、俺のいつもの日常である。

 何ら変わらないやり取りが、やはり昨日のことはなかったかのように思わせてくる。

 けれど、想像してしまうのである。

 今――この時も。

 彼女はまた一人、勉強をしているのではないだろうか、と。



* * *



 あっという間に訪れた放課後は、昨日とは違い教室に残る生徒も多いため少々騒がしさが残る。中には中間考査後のビックイベントについての話題で盛り上がる生徒の姿もあった。それを聞いて、そういえばそんな時期だったなと思い出させられる。

 学生のビックイベントといえば、修学旅行、体育祭、学校祭の三つが筆頭だろう。中でも毎年この時期に開催される学校祭――すなわち蔦屋祭は、他校と比べて規模間も大きめであることから、多くの生徒が待ち望んでいるイベントだ。

 当然俺も楽しみにしている行事だ。きっとまた、泰史と校内を巡ることになるのだろう。そんなことを考えながら帰宅の支度を進めていると、泰史が俺の方に歩み寄ってくる。


「朔翔、この後時間ある?」

「あると言えばある。ないと言えばない」

「要は内容次第ってか?」

「まぁ概ねその通りだな」


 帰宅後の予定は、昨日帰宅後にプレイした新作の続きをやることになっている。だが、別にクリア日数RTAをしているわけでもないし、次の新作ゲームがあって後が閊えているわけでもない。しかしながら、つまらん誘いに乗るほど時間を持て余しているわけではないのだ。


「まぁ、そんな朔翔に朗報だ」

「ほう?」


 泰史はどこか不敵な笑みを浮かべると、なぜか誇らしげに口にする。


「今日は合コンだ!」

「悪い。帰るわ」


 先ほど言ったように内容次第で断るつもりだったので、素早く丁重にお断りを決めて帰ろうとした。


「ちょちょちょちょちょっ、待った待った!」

「……何だよ」


 鞄を持ち、教室の中で最も廊下が近い特権を生かして逃げ出そうとする俺を、慌てて泰史は説得しにかかる。仕方ないので、一度上げた腰を下ろして彼の弁解を聞き届けることにした。


「はっきり言うけど、俺が企画したんじゃない。他校にいる友達が誘ってきたんだよ。ついでにもう一人呼んでくれると助かるっていうから、頼りがいのある朔翔を誘ったんだ」

「俺が企画してないから俺は悪くない、俺は別に乗り気じゃないけど仕方ない感出してるとこ悪いけど、さっき乗り気に見えたぞ? 演技はしっかりやった方がいい」


 右手を突き上げて『今日は合コンだ!』と言ったのをこの目ではっきりと見ている。『悪いけど、俺を助けると思って合コン行ってくれ!』と、首を垂れながら申し出たなら話は違……わないな。それでも行かない。


「違う違う! 朔翔がそういうの好きかと思ったから逆に演技しただけだって」

「全く好きじゃないし、お前は俺の何を見てきたんだよ……。あと、なんで俺なんだよ。お前の交友関係の広さ使えば、俺より乗り気な奴なんてわんさかいるだろうに」


 泰史はクラス内外を問わず友達が多い。現に他校にも友達がいるあたり、それを裏付けている。

 ノリのよさ、テンションの高さ、面白さ。それらを全部持つ人間はどこでも引っ張りだこである。おまけにそこそこルックスもよく、中高生女子が好きそうなちょい悪ヤンキー感まで持ち合わせている泰史はそこそこにモテる。そんなところもまた絶妙にムカつくし、咲楽が嫌っている点なのは間違いない。


「今日って平日だろ? みんな部活で行けないって言うから」

「それならそうだと相手に伝えればいいだろ。俺もある意味部活だし」

「それは帰宅部って言って、部活に入っていない人の総称……って、今はそんなことはどうでもいいんだよ。今から言おうにも、ドタキャンはセッティングした相手に迷惑がかかるし」

「だったらドタキャンにならないようもっと早く言え。大体この話、一体いつ決まったんだよ?」


 問うと、どうやら問題の根源はここにあるらしく、泰史の顔に影が降りた。そして申し訳なさそうに、当時のことを語る。


「……昨日の夜。俺も土日なら人集められるって言ったんだけどさ、『金曜日の放課後も実質休日じゃん』って押し切られちゃって……」

「なんだそのブラック企業が使いそうな暴論……。平日と休日の定義とか、幼稚園児でも知ってるだろ」


 金曜の最後の授業が終わると、『やっと休日だ~!』とフライングで口にするのと似たようなものだろうか。

 まぁ言いたいことは分からなくもない。翌日が休日である金曜の夜と言うのは、寝過ごす心配もないので就寝時間を気にせずゲームができるというものである。日曜の夜よりよっぽど休日なのかもしれない。


「……まぁそれは、あっちに非があるからこの際仕方ないとしよう。だが、せめて朝の間に言ってくれれば…………、あっ」


 ――せめて朝の間に言ってくれれば、その心づもりも、対策を練る時間もあったのに。

 言いながら、泰史の表情を見て自分で気付いてしまった。

 今日の朝と言えば咲楽と階段で話をしている際、横槍を入れる形で泰史が乱入するという一幕があった。もしやあの時、泰史は……。

 その答え合わせは、もはやするまでもない。


「言おうとしたんだけどなぁ~?」

「でもあの時は咲楽がいてだなぁ……」


 視線を逸らし、言い訳して追及を逃れようとするも、泰史はそれをよしとしない。


「最終的には俺のことをいないものとして扱わなかった? 同罪だね」

「……それを言われると弱る」


 まさかそんな用事があったとは知らず、最終的には隣にいた咲楽に合わせたのが仇となった。こちらにも非がある以上は協力しない訳にもいかぬまい。まぁ、昨日は嘘をついて突っぱねたし、その埋め合わせと思えばちょうどいいか……。

 俺は降参だと言わんばかりに両手をヘナヘナと上げ、「煮るなり焼くなり好きにしろ」と勝負に負けたキャラのテンプレのような捨て台詞を吐く。


「よし。決まりな!」


 とりあえず人員確保のおつかいを達成した泰史は嬉しそうにしながら、スマホを取り出し操作し始める。相手方への連絡だろう。


「え~っと、集合場所は……駅前だな」

「了解。なら、さっさと準備していくぞ」

「りょ~か~い」


 そう言って泰史は飄々と自分の席へと戻っていく。

 はてさて、少し面倒なことになった。合コンなどしたこともないので勝手が分からない。

 合コン――合同コンパの略語。それは親睦を深めるための飲み会を指す言葉である。

 高校生である以上、開催場所はカラオケなどが多く、当然飲酒もしない。言ってしまえば合コンとは名ばかりで、ただ楽しく話して遊ぶだけと言うのが実態だろう。

 とはいえ、未知とは恐怖である。もしかしたら、俺の知らないあんなことやこんなことが……。可能性を探ろうとすると、ろくでもないことが想起されてしまう。

 果たして俺は無事に帰宅し、新作ゲームの続きを楽しむことができるのだろうか……。

 そんな不安に駆られていると、ふと別の不安も頭を過った。


「泰史、悪いけど先行くわ。玄関で待っててくれ」

「ん? あぁ、分かった」


 泰史は要領を得ない様子で首を傾げながらも了承したので、俺は泰史より一足先に教室を出た。

 そこから生徒とすれ違いながら廊下をしばらく歩く。E組、D組と順に横を通りすがり、最後にA組の横に差し掛かって足を止めた。来るのは昨日ぶりだが、昨日とまるで違う辺りの様子は、やはり昨日は幻だったかのように思わせてくる。

 過った不安はほんの些細なものだ。

 別に昨日、今後勉強を教えるという約束を交わしたわけではない。それでもそう取られてもおかしくないようなやり取りだったなと、俺はふと思ったのだ。

 だとすれば、彼女は俺が来るのをずっと待っているではないか。そんな不安が、このA組まで俺を連れてきていた。

 A組の教室の窓から中を覗き見る。昨日彼女が座っていた最前列窓側から二つ目の席。そこに彼女の姿はなく、他の生徒が談笑の場所として利用していた。

 昨日の出来事が本当に幻で、彼女の実態は幽霊だった――なんて馬鹿な発想に至ることはない。単に帰ったか、他の場所で勉強をしているだけだろう。ならばきっと、俺が考えるようなことにはなっていないに違いない。

 そんなほんの小さな一つの不安を払拭した俺は、別の大きな不安に向かって再び歩みを進めるのであった。



* * *



 玄関先で泰史と合流し、蔦屋高校から歩くこと二十分程。最寄り駅としては少々遠いが、駅付近は当校の生徒の姿も散見される。それほど、ここらは遊ぶに適した場所なのだ。

 ボーリング、カラオケ、ゲームセンターといった学生の楽園をはじめ、漫画喫茶、女装喫茶、忍者喫茶、アニマル喫茶、メイド喫茶……。喫茶店、いやコンセプトカフェ多すぎない?

 そんな喫茶店群を横目に歩いていると、ようやく待ち合わせとなっている駅前の広場を視界に収めた。

 午後五時過ぎ。バス待ちの長蛇の列や信号待ちの人々の数の多さが目に付く。下校、退勤時間と重なるためだろう。制服姿とスーツ姿が多くを占めている。

 信号が青になり、スクランブル交差点を渡って駅前広場に到着した。

 先に待っていたらしい今回の対戦相手……否、お相手さんたちの方へ泰史は一足先に駆けていく。どうやら泰史の言っていた他校の友達というのは女子だったようで、その子とは仲睦まじそうに会話を交わしていた。

 話に一段落着いたのか、泰史がちょいちょいと手招きする。


「紹介するよ。クラスメイトの酢漿朔翔」


 どうやら合コンはスタートしたらしいので、俺は軽く会釈だけしておく。素っ気ないように思われるかもしれないが、この手のことに慣れていないだけである。


「かた、ばみ? 珍しい名前だね」


 泰史の友達――茶髪ショートカットの女の子が首を傾げながら言う。


「えぇまぁ。よく言われます」

「だよね。初めて聞いた~。あ、私は稲垣実依那いながきみいな。こっちは……」


 そう言って稲垣は、隣に立つ女の子に振る。


菜花南央なばななおです!」


 長い髪を後ろ二か所で結うツインテールをフリフリと揺らしながら、菜花は元気よく名乗り出た。

 どうやら今回は、俺と泰史、そして稲垣と菜花の四人で全員らしく、稲垣は進行役を買って出る。


「んじゃ揃ったみたいだし、一旦カラオケ行こっか」

「おっけー」


 稲垣の提案に泰史が承諾したところで、一行はカラオケ店へと向かった。



 集合場所からそのカラオケ店まではさして遠くない。何なら集合地点から見えていた。

 その店は俺と泰史もよく利用する店であり、昨日の泰史たちの打ち上げもここで行われていたらしい。となると、泰史に関しては二日連続でのカラオケである。さすがの泰史も、今日歌えば喉が枯れるのではないだろうか。

 よく利用するが故か、泰史は慣れた様子で受付をスムーズに済ませ、俺たちはすぐに入室することができた。

 左右に向き合うようにして設置された長椅子に男女が分かれて座るものかと思ったが、稲垣の提案により男女と男女の組み合わせになる。入り口から見て右側に俺と稲垣、左側に泰史と菜花が座り、リバーシの始まりのように同性が対極線上になるよう配置されている。席順に指定があるあたり、普通に遊びに出かけるのとは訳が違うのだなと今更ながらに思った。


「それじゃあ、誰から歌う?」


 稲垣が曲選択用のリモコンとマイクを用意しながら俺たちに問いかける。


「そんじゃ、俺からでいい?」


 周りの雰囲気を読み取ってか、泰史が進んで初っ端を買って出た。こういうものは初めが一番緊張するものなのだが、泰史はそういうのはお構いなしとばかりに、リモコン付属のタッチペンで手際よく曲を入れた。


「おぉ~。これは私も知ってる!」


 テレビに表示された曲名を見て、菜花が少し嬉しそうに声を上げる。

 泰史が選択した曲はいわゆるJ-POPであり、近年話題のアーティストが手掛けたドラマの主題歌ということもあって抜群の知名度を誇る。そこまでテレビを観る方ではない俺でも知っているほどだ。

 そんな当たり障りのないと言える曲を選んだ泰史を、俺は怪訝な目で見る。その視線に気づいた泰史は俺の言いたいことを察したらしく、うざったらしいウインクで返事をした。

 というのも、俺は泰史とよくここにきているので、普段何を歌っているのかなど熟知しているのである。つまり、いつもはゲームの原作アニメの主題歌であったり、ラップを歌ったりしている泰史は、ここでも見事に空気を読んでいるのである。


「それじゃ、歌いますか~」


 曲のイントロが流れ始めると、稲垣からマイクを受け取って立ち上がる泰史。

 歌が始まると、いつも聞き慣れた歌声で恙なく歌い上げていく。アップテンポで盛り上がる曲ということもあり、稲垣と菜花はノリノリで掛け声を上げたりしていた。

 曲を完走すると、二人から拍手が上がる。


「やっぱマジでうまいね、泰史」

「すごく上手だったよ~」


 その賞賛に若干照れながら、泰史は静かに着席する。しかし、そうしてから間もなく、再び泰史は立ち上がった。


「ちょっと飲み物取りにいってもいい?」


 やはり昨日のカラオケが響いて喉に来ているのではないだろうか。それでも最後まで歌い上げるのだからさすがである。


「ついでにみんなの分とってくるけど、何がいいとかある?」


 気を利かせてか、泰史が空のコップ四つが乗ったお盆を手に取って尋ねる。


「じゃあ私はOJで。南央は?」


 一瞬、『OJって何?』と思ったが、オレンジジュースだなと脳内で勝手に変換される。そこを省略する必要はあるのだろうか……。


「私も一緒で」


 菜花が答え、次は俺が答える番かと思ったが、ここで答えたならば一人取り残されることになる。泰史が帰ってくるまでの間、適当に話を合わせるのは泰史でもない限りできそうにないので、ここは紳士ぶる選択肢を選ぶ。


「泰史」

「ん? なんだよ、朔翔」

「四人分運ぶの大変だろうし、俺も手伝うわ」


 しかしあまりに咄嗟なことだったので、とんでもないことを口にしてしまう。

 四人分運ぶことが大変なわけがないのだ。お盆の上にコップ四つ持てないほど、泰史がひ弱なわけじゃあるまいし。これは紳士ぶるように見せかけて、泰史の紳士っぷりを邪魔してる紳士らしからぬ行為なのでは……。


「えぇ~、一人でいいじゃん」


 そんなぐうの根も出ない正論で俺を食い止めようとするのは、隣に座る稲垣だ。立ち上がろうとした俺のズボンの裾をグイグイと引っ張る。


「どんな飲み物あるか良く分からないから、行って確かめてみようと思って」


 そんな思ってもいない出まかせを口にしながら、俺はその制止を振り払おうとする。すると案外理解が早いのか、すんなりと手放してくれた。


「そういうことなら了解。早めにね」

「分かった」


 そう返事をし、俺は泰史ともに部屋を離れた。

 防音が効いている関係だろう。部屋から出た瞬間、四方八方から楽曲やら歌声やらが聞こえてきた。

 俺たちは受付横にあるドリンクサーバーの方へと歩き出す。


「朔翔、なんだよあの大嘘」

「いや……。さすがにトイレとか言えないだろ?」

「まぁ、それは少し言い辛いだろうけどさ」


 泰史が微妙な顔を浮かべながら苦言を呈したのは、先程使用した外に出るための口実。

 どんな飲み物があるか知らないなんて、そんなわけがない。幾度も利用している常連客なのだから、ある程度どんなラインナップか把握しているのだ。烏龍茶にコーラ、オレンジジュースにメロンソーダ、スムージーに加え、コーヒー専用のマシンがあることまで熟知している。

 仮に知らないのだとしても、適当にお茶とでも言っておけばよかった話。故につくべき嘘を間違えたのではないかと言った後になって気づいたが、結果的に出られたのでよしとする。あれ……、一体いつから脱出ゲームになってんの?


「お前もお前だぞ、泰史。空気を読めるのはお前のいい所で鼻につくところだが、その配慮は不十分だ。いいか。合コン慣れしていない俺を一人にするとか、訓練したことのない戦闘員を戦場に放り込むようなものだぞ」

「うーん、一体どこから突っ込めばいいんだ……」

「それにお前、あんまり無理すんなよ? 昨日も来てんだし」

「ん? あぁ、バレてたか。さすがだな」

「昨日来てたこと、知ってたから気づいただけだけどな」


 先ほどまで一切見せなかった、ほんの僅か不安を滲ませた泰史の表情。やはり不安材料の一つとして持っていたのだろう。それでも彼は空気を壊さぬよう、それを内に秘めて表に出さない。


「まぁ、何とか今日は行けると思う。選曲次第でどうにでもなるしね」

「どんだけレパートリーあるんだよ、お前……」


 そうこう話している間に、受付横のドリンクバーコーナーに着く。泰史が三人分のドリンクを注ぐ間に、俺は自分の分のドリンクをなみなみに注いだ。中身は烏龍茶である。

 四人分の飲み物を用意したところで俺たちは来た道を引き返し、自分たちの部屋の前に立った時。泰史がピタリと立ち止まった。あまりに急に立ち止まったので、せっかくなみなみに注いだ烏龍茶が溢れそうになった。

 なぜ止まったのか問おうとしたが、その答えは自ずと明らかになった。防音である以上、筒抜けとまではいかないが、中での会話が若干漏れているのである。

 俺と泰史が友達であるように、どうやら稲垣と菜花もまた友人関係なのだろう。楽しそうな会話が聞こえてくる。泰史はそれ故か入るのを躊躇い、様子を窺っているようだったので、俺も同様にして話の区切りが良い所まで待つことにした。


「でさでさ南央。酢漿くんって結構かっこいいよくない? 大人っぽいというか」

「うんうん。ちょ~っと素っ気ないけど、まぁ場慣れしてないとそんなもんだよね」


 どうやら俺の話をしているらしいが、とりあえず悪い方向のイメージではなさそうで少し安心する。だがやはり、いくら取り繕っても場慣れしていない雰囲気は隠しきれていないらしいので、もう少し空気に溶け込む努力をした方がいいだろうか。タンバリンとか持つといいかな?

 そんな風に立ち回りを思案している中、彼女たちの会話は続く。


「あとすごく頭よさそう。私たちみたいな落ちこぼれとかと違って、優秀なんだろうね。泰史もそうだけど、二人とも蔦屋高校だし」

「蔦屋高校って結構頭いいよね? 今度宿題やってもらおっかな」

「教えてもらうんじゃなくて?」

「うん。だって私たちがいくら頑張ったって無駄なんだもん。だから今落ちこぼれなんじゃん?」


 …………どうしてだろうか。

 心がギュッと強く締め付けられ、拳には強い力が入り、震えた。

 おかげで再び、コップの水面が揺れ、滴がピチピチと跳ねる。


「……朔翔?」


 きっと、少し前までなら何にも思わなかったに違いない。

 仮にこの先も彼女らとの関係が続いても、俺は『宿題を代わりにやってくれ』と頼みこまれたなら断らなかっただろう。

 でも今の俺は――きっと承諾できない。

 実力がないからといって努力を投げ出すのではなく、それでも諦めずに奮闘する人間を知った今は――。


「悪い、泰史」

「ん? どうした?」


 俺の表情を覗き見るようにして泰史は尋ねる。

 俺は右手に握られたコップを溢さぬように口に近づけ、少し口に含む。零れないラインまで減らしたのを確認し、次は勢いをつけてグイっと飲み干した。

コップ一杯強の一気飲みで切れた息をしっかり整えてから、自分の意思を端的に口にする。


「帰るわ」


 そう告げると、俺は勢いよく踵を返す。そして一切振り向くことなく走り出した。


「さ、朔翔!?」


 これ以上いても、あの話を聞いた後では胸が痛み続けるだけだろう。そんな状況では楽しもうにも楽しめないし、ただでさえ溶け込めていなかったのだから、今度は雰囲気を壊しかねない。

 いや、それ以前に。俺はもう、彼女たちと顔を合わせたくなかった。その時点で、俺に残された選択肢は『離脱』の一択だったのである。

 俺は受付を素通りし、そのまま外へと繰り出す。カラオケ店の中とは違った、街ならではの騒めきを耳にしてから、俺はようやく大きく息を吐いた。

 口の中に苦みが残っているのを感じる。コーヒーのように強いものではなく、烏龍茶特有の僅かなものだ。それが、俺の中のほんの少しの罪悪感を示しているような気がした。

 思えば烏龍茶という選択は、カラオケという場において間違っている。喉の脂分を取ってしまう故、喉への負担が増す恐れがあるのだ。

 いつもとは気分を変えて。

 そんな風に思って飲み物を変えた時点で、どの道俺はあそこの場には不適だったのかもしれない。


「……あ、いっけね。鞄忘れた」


 学校帰りであったために、自分の鞄を稲垣の隣の席に置いたままであることに今更気付く。

 ただ、それはさして問題ではない。テスト明けの今日は取り急ぎの課題もないし、そもそも明日は休日である。


「後で泰史に頼んでおくか……」


 俺の抜けたこれから先を上手く取り次ぐ苦労もかけることになったし、その詫びの機会を設けられるのでかえって好都合かもしれない。


「さて、この後どうしたものかね」


 湿気た気分になった今、急いで帰って新作をプレイしようという気は起きない。

 気分転換にゆっくり遠回りしながら帰ろう。

 そう思いながら、街の喧噪の中に一人、埋もれていくのであった。



* * *



 駅前から何の気なしに歩いていると、どんどん日が沈みだしていることに気がつく。茜色となった光が斜めに降り注いで照らし……。

 偶然なのか、それとも自分の意思なのかも分からない。だが、気付けば蔦屋高校校舎のすぐ近くまでやってきていた。家へと直線的であれば通らなかったはずだが、気分転換にいつもと違う道を歩いた結果、この場所へと辿り着いてしまった。

 しかし、別段用事があるわけではないのだ。そのまま一瞥し、素通りすることだってできる。

 ――ただ、俺の足は、不思議と校舎の方へ向いていた。



 つい先刻、靴を履き替えたはずの玄関で再び内履きを履く。さっきと大きく違うのは逆走していることだけでなく、周りの人の少なさもだ。部活のある生徒を除いてほとんどいない今の玄関は深閑としていて、昨日の様子とよく似ていた。

 階段を登り、二年教室のある三階へ近づくにつれて足取りが少しずつ軽くなっていくような気がした。もし帰っていたなら会えないと分かっていても、彼女に会えば湿気た気分も吹き飛ぶかもしれないと思う気持ちが、俺の踵を返させない。

 二年A組前。教室内には未だ数人ほど居残る生徒の姿があった。しかしその中に、やはり彼女の姿はない。


「せっかく学校まで戻ってきたしな……」


 もしかしたらいるかもしれない、勉強に適した場所を一通り回って行こう。そう思って教室に背を向けた――その瞬間。


「……うわぁっ!?」


 廊下の影――どうやら階段から来たらしい女子生徒とぶつかりそうになった。相当驚いたのか、彼女は乱れた呼吸を整える。

 そうして再び前を向いた彼女と顔を合わせ、ようやく彼女が誰か分かった。


「桐花?」

「すいません、酢漿さん。お怪我はありませんでしたか?」

「いや、俺の方は全然。驚かして悪かった」

「いえ。私は大丈夫です」


 彼女はそう言いながら、今の件で乱れた髪を手櫛で軽く整える。


「酢漿さんは今からお帰りですか?」

「……いやまぁ、忘れ物取りに来てたんだよ」

「あ、そうなんですか。私も忘れ物を取りに来たんです。教科書を持って行き忘れてたみたいで」


 彼女の言い方から察するに、やはり彼女はここではない教室で勉強をしていたらしい。俺はそのことについて触れ込む。


「……今日は、教室で勉強してないんだな」

「はい。基本的には静かなところ、特に図書室でやることが多いんです。昨日は休館日だったのと教室に誰もいない環境だったこともあって教室でやっていたのですが……」

「なるほどな」


 確かに昨日のような環境ならまだしも、談笑している生徒のいる今の教室内では勉強しにくいだろう。

 一方でうちの図書室は随分とレパートリーに富んでおり、分からないことがあれば辞書でも参考書でも望んだ品がすぐにでも手に取れる。故に放課後の勉強場所としては最適と言っても過言ではない。


「それでは、私はこれで」


 話がひと段落したとみてか、彼女はそう言って軽くお辞儀をすると、教室へと向かおうとする。俺はそんな彼女の肩を掴んで制止させた。


「待った」


 すると彼女は身体を捩り、少し驚いた表情を見せた。


「どう、しました?」

「今から図書室に戻るんだよな?」

「はい。そうですけど……」

「俺も行ったら駄目か? よかったらまた教えるけど」


 昨日のたった一回の出来事だけだったのに、俺はあの瞬間、あの空間に居心地の良さを感じてしまったのだろう。故に、また同じような空間を求めた。

 勢い任せに話したため、つい上からの物言いになってしまったことはまずかっただろうか。ほんの一瞬、困惑の色を見せた彼女の表情からそんな不安も生じたが、全くの杞憂だった。一転して嬉しそうに表情を綻ばせる。


「いいんですか!?」


 基本的に無表情で感情の起伏が乏しい彼女だが、その分、はっきりと見せた表情はとびっきり明るく見える。幼い子供が新しいゲームを買ってもらった時のような、そんな幼気な笑顔だ。


「……ですが」

「ん?」


 しかし、すぐに声のトーンを落としてしまい、その笑顔も影を潜めてしまった。


「図書室は私語厳禁なので、昨日のようにはいかないんですよね。どうしましょうか……」

「あぁ、そういえばそんなルールがあったな」


 蔦屋高校入学時にあったオリエンテーションにて一度だけ図書室を訪れたことがあったが、本棚の縁にそんな貼り紙がなされていたことを俺は思い出した。

 何も、この学校の図書室に限ったことではない。市営、民営の図書館であってもよくあるルールだ。その規則があるからこそあの静かな空間が生まれ、本を読んだり勉強をするのに適した環境が生まれる。


「だったら……、あそことかどう?」


『人のいない勉強に適した場所』という検索ワードから一つの候補を見つけ出した俺は、F組のある方向とは逆にある教室札を指差す。


「二年特別教室ですか。確かにあそこなら人いませんよね」


 二年特別教室は各クラスが普段入る教室ではなく、文字通り特別な時に利用される教室。例えばクラスを二分割して授業をする際や、学級委員を集めて委員会をしたりする際に利用されるのだが、今日は委員会等の行事もないので空き教室となっている。内装は他の一般教室と変わりないので、勉強をするには持って来いだろう。


「ですが、勝手に使っていいのでしょうか?」

「結構そういうとこ気にするんだな……。悪ふざけしたり屯したりしてたなら怒られるかもしれないけど、勉強してて怒られることはないだろ。何かに使いたいから他の教室に移ってくれって後から言われたとしたら、それはその時に考えればいい」

「なるほど」

「だからまぁ、気にせず勉強できると思うけど」

「そうですね、分かりました。では、私は教室と図書室に寄ってから行くので、先に行って待っていていただけますか?」

「了解」


 そうして桐花はA組の方へ、俺は二年特別教室の方へそれぞれ向かった。



* * *



 二年特別教室は案の定人の姿がなく、俺は躊躇せず中に入る。教室前方、窓の方へと歩みを進め、窓際にて足をピタリと止めた。

 昨日同様、午後六時に迫ろうという時間帯。窓の外、左奥の方では野球部、右奥ではサッカー部、手前のトラックでは陸上部が精力的に活動している。だが、野球部以外は順次片付けに入っており、それもあってか野球部は異彩を放っているように見えた。素人目でも分かるほど、彼らの動きは洗練されているように映る。

 他の部活の部員だって別に手を抜いてやっているわけではない。ただ彼らからは、強い執念が感じられ、それが動きに反映されているように思えた。バックネットに紐で掲げられた『目指せ甲子園優勝』の文字。それが叶うのは全国でたった一校で、ほんの僅かな可能性でしかないというのに、彼らはその大きな目標に挑む。

 彼女だってそうだ。やろうとしていることは決して簡単なことじゃない。それに向けて血の滲むような努力を重ね、結果が出なければ徒労と化す。そうと分かっていても、なぜ彼女は――。その疑問が、彼女への興味の源となっていた。

 俺は視線、そして身体の向いている方向を窓の外から教室の内へと移す。そうして背中を窓の桟に預けた。

そうして待つことしばし。教室前側の扉が開かれた。


「お待たせしました、酢漿さん。図書室が遠いので少し時間がかかってしまいました」

「……いや、うん。それは全然気にしてないんだけど」

「はい」

「一体、桐花が何をしているのか、という点はめちゃくちゃ気になる」


 片手に鞄を持っているということに関しては理解がいく。だが、もう片方の手がおかしい。

 指先で器用に本が閉じないような持ち方をし、視線は完全にその本だけに向かっている。その状態でよく普通に会話できるなと、驚愕と感心が入り混じる。

 昨日知り合ったばかりなので知らないのは当然だが、どうやら彼女は読書が趣味らしい。『もしかしたらそういう経緯もあって図書室を利用してたのか?』という疑問が一瞬湧いたが、目を凝らしてその本の背表紙を見ると別のことに気づいてしまう。これはこの学年全員持ってる本――否、どちらかと言えば手帳に近い。


「あ、これですか? ご覧の通り、英単語帳です」

「……それは本当にご覧の通りなので解説要らずだ。俺が気になってるのは……」


 俺は彼女を見くびり過ぎていたのかもしれない。

 現状を悲観することなく、ただ前を向いて努力し続ける人間なんて次元じゃない。きっと彼女はあらゆることをかなぐり捨てて、目標だけを見据えているのだ。

 昨日は一足先に帰ってしまったので気付かなかっただけで、きっと昨日の帰り道もこんな感じだったのではないだろうか。現代病である『ながらスマホ』ならぬ、『ながら勉強』は二宮金次郎を彷彿とさせた。きっとそんな彼女なら立派な……って、違う!

 なぜ彼女はこうまでしなくてはならないのか。その一点がただ気になって仕方がない。

 普通でないから、努力を続けないと置いていかれてしまう。だから勉強をするという彼女の行動原理は理解ができた。だが、移動中までやらないほど追い詰められているようには思えないのだ。

 昨日勉強を見ていた限り、確かに平均よりは遅れているような気はした。とは言え、全教科で赤点連発して落第危機という、本当に切羽の詰まったような状況では決してなかった。

 抱いた疑問。それを直截に尋ねることもできた。けれどそれが、彼女の踏み込んで欲しくない一線を越えることになってはならない。だから俺は、一度慎重になる。


「なぁ、桐花」


 俺の様子の変化を声から感じ取ったのか、ここに来て初めて、彼女は単語帳を閉じて俺の方を真っ直ぐに見つめた。


「勉強、楽しいか?」


 ……必死に考えて出た質問がこれかよと、我ながら呆れる。自分で自分に強いなければならない勉強なんて、楽しいわけがない。

 無駄な質問をしてしまったなと思っていたが……。


「はい。とても楽しいです」


 表情は元より変化に乏しいこともあっていつもとは変わらないが、その回答は俺の予想に反していた。


「……そうか。それならよかった」


 どうやら俺は勘違いしていたらしい。桐花の本心に反して、自らに強い続けているのではないかと、勝手な憶測をしていた。

 けれど、彼女は楽しいと答えたのだ。それならば、俺に止める権利はない。

 上手くなくても楽しいから続けている。ゲームにはよくあることだ。

 ゲームそのものは好きだけど、周りのプレイヤーに全然追いつけないから必死に努力する。全然おかしなことじゃない。

 だから俺はそれ以上追及することを止めた。例え完全に納得がいかなかったとしても、詮索しすぎるのは野暮だと思うから。考えなしに相手の領域へ、安易に踏み込むことが許されるほど、俺たちの関係は深くはないのだ。


「じゃあ、勉強始めるか」

「はい。よろしくお願いします」


 ぺこりとお辞儀した彼女はそのまま俺の方へと歩みを進め、A組の時と同じ場所の席に腰かけた。手際よく鞄から勉強道具を取り出すと、胸ポケットに刺さっていた白色のシャーペンを手に取りボタンを二度押す。勉強開始の合図だ。

 とは言え、俺は彼女から声がかかるまで特にすることがない。昨日も、『教えて欲しい』と言われたときだけ教えるという形をとった。俺が傍でずっと解いているのを監視しているのは、やっている側としてはやり辛いだろうという配慮である。

 紙を捲る音、ペンを走らせる音、消しゴムを使う音。それらが良く聞こえてくる程、教室の中は静まり返っている。

 開始から約十分。彼女からようやく声がかかった。


「酢漿さん。この問題、分からないです」

「うん? どれどれ……って、これかー」


 桐花が復習していたのは中間考査の英語科目。英語なら昨日の数学よりも得意故、教えるのも幾分か上手くできそうだなと思ったが、すぐにそれは無理だと悟る。彼女がペン先で指し示したのは大問五――そう、蘭先生の悪問である。

 一応粗方解けたつもりでいるが、記述式と言うこともあって自分の解答が正しいのか分からない。課題準拠の大問四までと違ってテキストの解答を見て復習することができない以上、テストの模範解答が配られる日まで待つように言うべきだろうか。

 ……いや、一つだけ手段はある。


「これに関してはちょっと俺も自信なくてさ……。一旦蘭先生に聞いてくる」

「それなら私も……」


 立ち上がって外へ向かおうとする俺に合わせて、彼女も同行しようと席を立つ。


「ううん、大丈夫。桐花はその間、その問題以外のとこ進めてなよ」

「分かりました。では、よろしくお願いします」


 俺は席を立つとスタスタ歩いて教室の外に出る。振り返って扉をゆっくり閉めると同時に、小窓からそっと中を覗いた。

 昨日は衝撃的に見えた光景が、今日は少しだけどこか寂し気に映っていた。



 三階の特別教室から蘭先生がいるであろう職員室までは少々距離がある。

 校舎を俯瞰して見ると『ロ』の字になっている蔦屋高校校舎。日の上る東側は職員室や事務室、保健室や進路相談室などがあり、西側は一般教室や特別教室などがある。三階にある二年特別教室から東側二階に位置する職員室に向かって歩くと、段々と喧噪は遠のいていく。学校祭の話で盛り上がる生徒たちのいる教室から遠ざかっているのもそうだが、部活動中の生徒たちのいるグラウンドも西側にあるためである。

 一般教室がニ、三部屋分ほどの広さがある職員室前に差し掛かり、俺は入り口の扉をゆっくりと開く。すると、偶然にも用のある相手と遭遇した。


「あら、ごめんなさい」


 少しぶつかりそうになったことで申し訳なさそうにするのは、英語の担当である蘭先生だ。


「職員室に何か用事? 酢漿君」

「はい。丁度先生に用事が……」

「私に?」

「ですが……」


 彼女の手には昨日も見たファイルが握られていた。となると、おそらく進路相談の予定があるのだろう。俺自身が昨日で終わっているので、完全に頭から抜けていた……。

 この時期の先生方、特に担任教師は相当多忙のようだ。昨日終わった中間考査の採点、直に始まる蔦屋祭の段取り、そしてこの進路相談ときた。事実、目の前にいる彼女もまた若干疲労の色が垣間見える。

 蘭先生は俺の視線で察したのか、少し笑ってみせる。


「進路相談ならさっき終わったわよ。ただ、忘れ物しちゃって教室に取りに行こうと思ってね。だから、用があるなら気にせず言ってもらって構わないわ」

「英語の大問五、解説してもらえませんか? 模範解答の配布まで待てないので」

「――大問五、大問五ねぇ……」


 少し驚いたかと思うと、腕を組んで考え込むような仕草を見せる蘭先生。


「えっと……、どうかしましたか?」

「……あぁ、ごめんなさい。ちょっと待っててね」


 蘭先生は小走りで自分の机の方に向かっていくと、何やら紙を一枚手にして戻ってくる。既に配布予定の模範解答は作成済みだったのだろうか。


「どの道教室戻るつもりだったから丁度よかったわ。それじゃ、教室行きましょうか」


 職員室周辺には黒板もなければホワイトボードもない。教室に向かうのは、教えるには少々不便なためだろうか。

 先に歩き始めた彼女を追いかけ、横に並んで教室に向かう。


「教室って……二年A組ですか?」

「えぇ」

「二年特別教室でしてもらうことってできますか?」

「別にいいけど……、どうして?」


 元々は、少し早めに模範解答を貰うか、その場で軽く解説してもらうつもりだった。だが講義形式で解説をしてもらえるとなれば、桐花本人もその場に臨席させた方がいいだろう。少なくとも、一生徒をわざわざ経由するより、その道のプロから教えてもらった方が分かりやすいのだから。

 俺は蘭先生に問われたことを一から説明しにかかる。


「……桐花燈佳って生徒、知っていますか?」

「もちろん。英語は全クラス受け持ってるから。あぁそう言えば、昨日も一緒にいたわよね。仲いいの?」

「いえ。知り合ったのはつい昨日のことです」

「へぇ……。桐花さんはすごく努力家でね。熱心に勉強しているんだろうなってのは節々から感じるし、何より彼女の担任の先生も高く評価してるの。みんなあれくらい勉強熱心ならなぁって。ただ……」

「ただ?」


 不穏さを滲ませた物言いに疑問を抱き、彼女の表情を窺うと、ばつが悪そうに視線を逸らす。


「ただ彼女は、その努力量に見合った結果がついてこないのよ」


 悲し気に映るその表情は、昨日の面談時に見せたものと同様のものだった。だからこそ、確信をもって問うことができる。


「昨日先生が言ってたのって、桐花のことですよね?」

「……えぇ、そうよ」


 そんな予感はしていた。


『ちゃんと頑張った子を正当に評価してあげたいのよ。世の中は理不尽だからって、理不尽な評価をしていい道理なんてどこにもないのだから』


 その言葉は、まるで彼女一人を指して言っているようにすら思う。

 自分のできていない部分を自覚し、それを改善しようと必死に努力して、あらゆる時間をも犠牲にしながら、振り落とされないように足掻き続ける。しかしそうしても追いつかない人間はいて、結果が出ない以上、それらの努力は決して報われない。そんな人間を相応の評価をもって、努力に対する意味を、価値を見出させたい。それが蘭先生の考え方だ。

 俺は桐花との出会いを経て、その考え方の正しさを知った。そんな今、彼女のためにできることがしたいと思う。


「彼女はもっと頑張れば、いずれ結果が出ると思います。それはたった二日間見ただけでも確信が持てました。ですから自分は、その手伝いがしたいんです。良かったら彼女に教えてあげて下さい」


 きっと同じ考えを持つ蘭先生なら快く引き受けてくれるだろう。そう思い、彼女の回答を待った。


「そっか。君の行動にしては珍しいと思ってたけど、そういうことだったのね。私の意見に賛同してくれて、どうもありがとう」


 蘭先生は特別教室へと向かう階段の下で足をピタリと止めた。

 お礼なんていらない。自分がやりたいからやっているだけ。

 そんなキザな台詞でも言ってみようかな、と彼女の方を振り向いた時。彼女は質問に対する本当の回答を口にする。


「でも、その提案には乗れないわ」

「…………どうして、どうしてですか?」


 けれどそれは、期待していた回答とは真反対だった。

 俺は慌てて彼女にその回答の訳を問うたが、彼女は口を真一文字に閉じて首を横に振った。そして試すように言葉を続けた。


「いい? 酢漿君」

「……はい」

「君のそれは、私のやろうとしている解法とは真反対なの」

「それってどういう?」

「数学でも解法が違えど解ける問題ってあるでしょ? 化学だとヘスの法則みたいに最初と最後の状態だけ決まっていて経路を問わないみたい……な?」

「疑問形で返されても……。先生、文系なのに無理に理系単語使う必要ないでしょう。もっと直截に言ってくれないと分からないです」


 俺が呆れた様子でそう言うと、彼女はきゅっと表情を引き締める。その瞬間、周りの空気感まで引き締まった。


「彼女を正当に評価される道へと導く手段、それって一つかしら?」

「努力をしている生徒にアドバイスするのは、少なくとも教師の仕事だと思いますが」

「いいえ。私たち教師という仕事の本質は、生徒の望む未来へと導くこと。勉強を頑張る生徒の手助けをするというのは、そのうちの一つでしかないの」

「それなら……」

「つまり、それが生徒の望む未来へと導くものでなければ――。っと、これでは答えを教えているようなものかしらね。とにかく、もし君がそのやり方でいいと思うのならそれでもいいわ。ただし私はそれに協力しない」

「職務放棄。そう見做していいですか?」


 蘭先生は良い先生だと皆が口を揃えて言う。実際、昨日彼女と直接話してみて俺もそう感じていた。

 だが、それは表の仮面に過ぎないのかもしれない。ニコニコと人当たりの良い笑顔の裏に黒い悪魔が潜むように、彼女に抱く理想の先生像というのはまやかしで虚像だったのかもしれない。

 そんな疑念が確信に変わるかどうか。それはこの問いにかかっている。

 俺の試すような口調を聞いてなのか、彼女は噴き出すように笑った。


「そんなに怖い目で見ないでよ。安心して? 私がこういう行動をするのには訳があるの。その訳を君自身で見つけ出せたなら。きっとその時、君のアプローチは私と同じになるから」

「どうですかね。僕のやり方が正しいって証明することになるかもしれません」

「それならそれでいいの。その時は、君の方法が正しかったって潔く認めるわ」

「そうですか。では自分は、自分のやり方を曲げずに貫かせてもらいます」

「そう。それじゃあ私は、先に行くわね」


 彼女はそう言って、靴を鳴らしながら俺の横を通り過ぎる。


「Good luck」


そして最後に言葉の意味とは裏腹の嫌味を残し、軽く右手を上げて一足先に階段を登っていった。

 俺は少し苛立ちが募っていた。まるで自分のやり方こそ正義、そしていずれ自分が思っている通り――俺のやり方の間違いに気付くだろうと確信めいた口調であることに。

 それでも意地を張ったつもりはない。あくまでも寛容に、彼女のためになる最適解であろう選択を取った。そこに後悔はない。

 俺が桐花のところへ戻ろうと、階段に一歩踏み出した時だった。一つ上の階から、ニ、三言言葉を交わす声が聞こえてくる。一方は蘭先生、そしてもう一方は――。

 俺は蘭先生を追いかけるように、一段飛ばしで素早く上った。すると、上ってすぐの所に、一人佇む桐花の姿があった。


「何かあったのか? 桐花」

「あ、いえ。お手洗いに行こうと思ってたところ、丁度蘭先生とお会いしたので、もしかしてすれ違いになったのではないかなと思っていたのですが……」

「ううん。大丈夫」

「そうでしたか。すいません、お手洗いに行ってくるので待っててもらえますか?」

「分かった」


 桐花は軽く会釈するとそのままトイレの方へと向かっていく。

 さて、この後どう誤魔化したものか。

 桐花のいないところで勝手に起きた論争。いくら彼女のこととはいえ、責任感が強そうな彼女に話せば、余計な気遣いは無用だと言われるに違いない。だとしたら――。

 そんなことを考えながら、特別教室の扉を開いた頃。学校のチャイムが鳴った。すなわち、下校時刻が迫っていることを知らせている。

 また帰りを急かされるのも嫌だし、帰るならキリもいい。今日のところは早めに切り上げた方が無難だろう。

 それから五分ほどして桐花は教室に戻ってきた。


「それで酢漿さん、大問五のことは教えてもらえましたか?」


 桐花は席について早々、俺が一度席を立った目的に触れる。


「……ううん。模範解答の配布前だからそれまで待てってさ」

「そうでしたか……。すいません、お手数を煩わせてしまって」

「ううん、全然。それより、今日はもうお開きにしよう。さっき鐘もなったことだし」

「そう、ですね。今日も本当に、ありがとうございました」

「ううん。結局今日は何も教えられなかったし……。あ、そうだ桐花」

「はい?」


 桐花は帰り支度していた手を止め、軽く小首を傾げる。


「良かったら一緒に帰らない?」

「分かりました。では、急いで帰り支度を整えますね」


 そう言って再度手を動かし始める彼女を待ちながら、俺は窓の外に目線をやる。

 夕焼け空の向こうには、その鮮やかさと対照的な黒い夜の色が顔を覗かせていた。



* * *



「…………」


 校舎を背に、桐花の家があるらしい方面へと並んで歩き始めた。

 それはいいのだが、やはり気になって仕方がない。

 歩き単語帳。

 近代社会を逆行していることをやってのける彼女は、予測していた通り下校中でも同様である。足元に注意がいっていないと転ぶのではないかと、隣を歩く俺は心配のあまり気が気ではなかった。

 もちろん、先ほど同様指摘はしている。だが、「いつものことなので慣れてます」と真顔で言われてしまうと、それ以上は何もできない。大体、そういう問題じゃなかろうに……。

 仕方がないので文字通り転ばぬ先の杖となり、行き先に危険な場所はないかと細心の注意を払う羽目になった。

 それにしても、彼女が勉強以外のことをしているのは見たことがない。加えてそれ以外のことについてまともに話したこともなかった。故にどうも、俺たちの関係性の進展はほとんどなく、一緒に居た時間の割には彼女のことをほぼ何も知らずにいる。

 俺は彼女の用心棒を務めたまま、適当な話題を掻い摘む。


「桐花、趣味とかあるのか?」

「趣味、ですか……。酢漿さんはありますか?」


 彼女はやはり単語帳から一切目を話すことなく、器用に話を続ける。


「俺はゲームかな」

「ゲームですか。どんなゲームが好きなんですか?」

「オールジャンルで機種問わずって感じで、これが一番好き、みたいなのはないんだよなぁ。ゲーセン行ってやることもあるし」

「あまりゲームのこと知らないのですが、最近だとどういうゲームが流行ってるのですか?」

「そうだな。例えば最近は空前のRPGブームでさ。ゲーム機で人気だったビッグタイトルがスマホでも遊べるようになったのが大きいかも。いつでもどこでもゲームができる環境ができてから、ゲームの幅が広がってさ。本当飽きさせないんだよな、ゲームって」

「スマートフォンでもゲームってできるんですね、知らなかったです」


 そんな話をしている内に目的地周辺に辿り着いたのか、彼女は周りに一度視線をやって立ち止まった。


「……あ、ごめんなさい。私の家、この辺りなのでそろそろ。わざわざ送って下さり、ありがとうございました」


 桐花は懇切丁寧に謝辞を述べ、頭を軽く下げた。

 あまりこういう機会もないので、どういう対応をしていいのか分からなくなる。


「……うん。それじゃあまたな」


 最後にもう一度軽く会釈をすると、桐花は自宅の方へと歩いていった。

 俺はその背中を見送りながら、胸中が複雑だった。

 ごく自然な会話にも思えたが、あまり多くを語ろうとしない彼女の情報を収集しようとした俺は、わずかな違和感に気付いてしまう。

 彼女は俺の質問に最後まで答えなかった。あくまで自然な流れで、質問の対象を移行。そうして自分が語ることを回避し、そこから立て続けに質問を続けてカウンターを回避。まるで上級者のような手捌きをもって、俺の意図を搔い潜った。

 俺ができることは勉強を教え、彼女の努力が少しでも報われるようにすることだ。それは決して揺るぎないけれど。

 ほんの少しの疑念が、頭を過っていた。



* * *



 彼女を見送り、一人のんびり帰宅すると、玄関先に俯いてしゃがんでいる人の姿があった。

 一瞬誰かと思ったが、蔦屋高校の制服を着ていることと、すぐそばに置かれた鞄が俺のものだったことからすぐに分かった。


「寒い」


 足音が手前で止まったことで気が付いた泰史が顔を上げ、短く愚痴を漏らす。


「悪かったな、待たせて。まさか今日の今日で来るとは思ってなかった」


 秋の夜風は冷たく、外で長時間待たされたりすると随分と肌寒く感じる。少し申し訳なく思っていると、泰史は鞄をポーンと放り投げた。俺はそれを抱え込むようにしてキャッチする。


「ほれ、頼まれていた品。しかと届けたぞ」

「助かった。……後始末も」

「ほんとそれな。何で帰ったかも知らないから、誤魔化すのに苦労したんだぞ。ってか大体、ここに来るまで何してたんだ。結構な時間あったろ」

「人助け……?」

「何で疑問形? お前って、道端で困ったおばあちゃんいたら助けるタイプだったっけ? 俺はてっきりそれでも新作ゲーム最速クリアを優先するような薄情者だと思ってたけど」

「酷い言われようだな……」


 確かに日常生活におけるゲームの優先度は高いように思う。だがそれはそれ以上にすべきと思うことがなかったからで、必要とあらば優先度は下がる。まさに今回のように。


「で? 本当のとこはどうなんだよ」

「実はな……」


 俺は泰史にことの全てをありのままに語った。

 このまま隠していても良かったが、いずれどこかでバレてしまう。泰史の勘の鋭さと観察眼は搔い潜れないだろう。バレたときに追及されるのも野暮なので、俺は打ち明けることにしたのである。

 泰史は時折、「なるほど」、「ふんふん」と真面目に聞いているのか否か、絶妙に判断しかねる相槌を打ちながら俺の話を聞き届けた。そうして事の顛末を聞き終えた泰史は、納得したように唸り声を上げた。


「はぁ~ん、なるほどな。だから他の女に構ってる場合じゃないと、そういうわけだな」

「お前、話聞いてなかったろ。……いや、もしくは根に持ってるな」

「い~や、これっぽっちも。今回無理に誘ったのは俺だし、その件に関してはむしろ俺の方が悪かった。だからその件はお相子で」

「……そっか」


 こいつがただの浮ついた人間と一括りにできない理由の一端はここにある。自らの矜持を保ったりなどせず、自分の非をきちんと認めるところは人として見習うべきところだ。


「まぁ、事情は分かった。で、どうすんのさ?」

「どうするって?」

「決まってるだろ? その桐花って子を救うにあたって、朔翔はどうするつもりなのかって話。本当に蘭先生が否定したやり方を突き通すつもりか?」


 泰史がそう改めて問うのは、蘭先生が何かしらの根拠をもって俺のやり方を否定していたからだろう。そしてその否定を振り払って進むことで、救うとは真逆の方向に進む可能性が生まれることを懸念したからだ。

 けれど――。


「あぁ。俺は自分のやり方が間違っているとは思わないから」

「ふーん。まぁ多分、俺も朔翔の立場ならそうすると思うけどさ。こんな聞き方しておきながらなんだけど」

「全くだ。柄にもなく試すようなことしやがって」

「ごめんごめん。ただ、それでも朔翔はちゃんと答えを出したんだ。胸張って頑張れよ? 暫く俺らも誘わないようにするから」

「……悪い」


 半分成り行きとはいえ、この件を泰史に話したことは余計な心配や気遣いをさせることになってしまった。そのことが少々心苦しかった。

 だがそれでも、泰史は何も気にしていないと言わんばかりに笑った。


「謝ることないだろ。人助けに協力することもまた人助けだ」

「お前のそれはただのお人好しな気がするけどな。合コンの件がそのいい例だろ」

「ったく素直じゃねぇなぁ」


 泰史は困ったように苦笑いながら、ガシガシと頭を掻く。


「まぁ、聞きたいことも聞けたし、俺は帰るわ。何かあったらいつでも相談に乗るから、その時は気軽に言ってくれ」

「あぁ。悪いな」

「そんじゃ、また月曜」


 そう言い残すと、泰史は颯爽と帰って行った。

 俺はそれをしっかりと見送った後に大きく息を吐く。


「胸を張って、ね……」


 その助言の通り、俺はさっきまで感じていた一抹の不安――疑念をそっと胸にしまい込むと、随分と暗くなった空を見上げた。

 そこには一番星が、夜空に埋もれまいと煌々と光り輝いていた。それがどこか彼女にいているような、そんな気がした。

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