何も知れないお姫様

木崎 浅黄

第1話 チュートリアル

 紙を捲る音、シャーペンを走らせる音、そして周囲の生徒一人一人の息を呑む音すらも聞こえるほど静謐な箱庭の中。そんな独特の緊張感は、長時間の蓄積で強張った肩首や背筋を解すための伸びすらも許さない。

 他の人はどうしているだろうか、と視線を巡らせるなんて以ての外だ。それを成せば問答無用でこの空間からの退場を命じられるのみならず、下手すればもっと大きな枠組みからも追放されかねない。今だけは、生理的現象を除くほぼ全てを封じられているのだ。

 制限時間六十分、標的は紙面の中。

 討伐方法は、鉛筆等で適切な文字を空欄に記すこと。

 難易度は人それぞれで感じ方が違うだろう。ただ今回に関しては、全体的に易しいというのが俺の見解だ。故に制限時間を迎える随分前から、俺は暇を持て余していた。

 手からペンを離し、文字が印刷された面を裏返して待つことしばし。ようやく、待ちに待った時が訪れる。


『キーンコーンカーンコーン』


 耳にタコができるほど、もはやDNAに刻み付けられたと言ってもいいこの音が、クエストクリアのサウンドである。

 口ずさみたくなるような軽快さもなければ、何度も聞き返したくなるような壮大さもない、言ってしまえば淡白なサウンド。だが、今この時に限ってはどんなものにも勝る、解放感や達成感を与える神サウンドに化ける。


「試験、そこまで!」


 クエスト――試験の監督官を務めていたクラス担任が、鐘の音を聞いて間もなく宣言した。生徒たちは一斉に、ペンや答案用紙から手を離す。

 すると、先ほどから一転して弛緩した空気が、箱庭――教室内を包み込む。


「終わったぁ~」

「難しくなかった? 今回のテスト」

「最後の大問とか、ほとんど手付けらんなかったわ」

「赤点は何とか回避できそうだよ~」


 至る所でそんな話し声が生まれる。各教科が終わる度目にする見慣れた光景だが、中間考査最後の科目となればさらに気が緩むのだろう。

 けれど、そうするには早すぎた。


「静かに! 私が解散と言うまではテスト中です」


 案の定担任から雷が落ち、話していた生徒たちは一瞬にして口を噤む。先ほどまでとは別種の緊張感が走った。


「それでは解答用紙を回収します」


 その合図をもって、解答用紙が後ろから前へと送られ始める。

 待つことしばらくして、俺の座席である廊下側最前列まで解答用紙が届いた。自分のものを上に重ね、角を揃えるように机の上でトントンとした後、それを回収する担任に手渡した。


「期末考査では今回のようなことはないように。以上、中間考査を終わります」


 教卓の上で枚数を数えた後、先生の口から改めて中間考査の終了を告げられると、生徒たちはこれまでの疲れがどっと押し寄せたかのように椅子にもたれかかった。



 二年生、二学期中盤。十月下旬の今日は、三日間かけ行われた中間考査の最終日であった。

 テスト期間として試験範囲が公示されるのは試験開始の約二週間前。その間努力を重ね続けた勤勉な学生たちにとってこの瞬間は、とても大きな解放感で充溢していることに違いない。

 一方で俺は不憫なものだ。

 解放されて安堵の息を吐きたいのは山々だがそうはいかない。息を吐くことには変わりないが、出てくるのは溜息であった。


朔翔さくと~。この後カラオケに行こうぜ!」


 整髪料で適度に整えられた茶髪のクラスメイト――小紫泰史こむらさきたいしは、机の上に行儀悪く座りながら俺に呼びかける。

 おそらく泰史からの誘いは、試験の打ち上げを兼ねているのだろう。テスト期間で溜まった鬱憤を思う存分発散できる今日という日は、最高に楽しめるに違いない。

 だがしかし――。


「悪い。今日はパスで」

「どうしたんだよ、珍しいな」


 あまりこういう誘いを断った覚えがないので、泰史が意外に思うのも必然だろう。

 だが、そんな俺が断らざるを得ない理由というものがあるわけで。


「進路相談始まるだろ? あれがあららぎ先生の出張の関係で前倒しになってさ。それがまさかの俺だったんだよ」

「うわ~」


 そりゃあ、溜息の一つだって吐きたくなる。

 そんな一人勝手な理由でテスト後も拘束、それも今日は俺だけときた。周りで浮かれている生徒たちを見ていると、ちょっとした殺意すら芽生えてくる。これ以上ヘイトを買う前に、俺の元から去っていただきたい。


「まぁ、予定より早く終わることがあったら合流する」

「りょーかーい」


 そう言うと泰史は軽い身のこなしで机からぴょんと飛び降りると、鞄を掴んで小走りで教室を出ていった。

 そんな姿を見ていたら羨ましくて仕方がない。先ほど早く帰ってほしいと願ったが、帰る姿を見たら見たで苛々が募るばかり。我ながら面倒な奴だなと思うが、そもそも悪いのはあの担任教師である。

 大きく溜息をつくと思いっきり椅子にもたれかかる。そして壁掛けの電波時計に目をやった。

 時刻は現在四時半。何の都合があるのか知らないが、予定では五時から進路相談が始まる。こういう無駄に暇を弄ぶような時間があることにも苛立ちが隠せない。

 クラスメイト達が久々の部活動に駆けて行ったり、ウキウキで帰っていく姿を見ないよう、俺は机に伏せて目を瞑る。すると今度は、中間考査期間に発売された新作ゲームの内容についての会話が聞こえてきたので、急いで耳栓代わりのワイヤレスイヤホンを装着した。……ここにそのゲームを心から楽しみにして先行予約までした人がいます。良い子の皆さんは発売から間もないゲームの内容を話す際、周りをよく見て迂闊に聞こえてしまわないよう配慮しましょうね?

 そうしてクラスメイトが皆去っていくのを待っていると、テスト疲れのせいか段々と意識が遠退いていく。何もせずに待つというのがさらに眠気を増進させることとなり、うとうと船を漕ぐことしばらくして、意識はぷつりと途切れてしまった。



 一体どのくらい寝てしまったのだろうか。

 微睡みの中から目覚め、ゆっくりと顔を上げると、灰色生地のタイトスカートが視界に映る。そのまま元を辿るようにして見上げていくと、最終的にその人物と目がピタリと合った。するとあろうことか、金縛りのように身体が動かなくなる。睨みつけられて麻痺とか、これは手強い……。


「おはよう酢漿かたばみくん」


 今度は身体に悪寒が走り、全身がカタカタと震えだす。


「私が指定した時間は何時だったかなぁ?」


 年齢より一回り若く見える風貌。その可愛らしさ全てが台無しなドスの利いた低音を耳にすると、自分の目が勝手に時計の方へ動いていく。壁掛け時計の短針は「5」を少し過ぎており、長針は間もなく「3」を指そうとしていた。


「ご、五時十五分です、はい」

「はぁ……。まぁ、疲労のピークに達した日に進路相談を入れた私にも責任の一端はあるし、今回は見逃すわ」

「そうですよ。一応、待っていたのは自分の方ですし」

「……でも、反論していいとは言っていないよね?」

「あ、はい」


 普段、彼女――蘭藍子らんこは穏やかであり、常に笑顔を湛えている。見た目が若々しく、服装を変えれば一見大学生に間違えられそうだ。話していても年齢が比較的近いからか割と距離を感じないこともあり、多くの生徒から慕われている人気の先生である。

 しかし、怒らせるとこのようにやたら怖い。顔はいつも通り笑っているのに、その奥にラスボスばりの得体の知れない黒い魔物が見えるのである。迂闊に踏み込もうなら即死確定の負けイベントであるため、『反論していいとは言ってないよね?』といった最終警告時には撤退を余儀なくされる。

 とは言え、俺は彼女が担任であることに不満はない。真面目で、生徒に対して親身ということに加え、教え方も生徒一人一人に寄り添う方法をとるなど、彼女ならではの教え方が評判を呼んでいる。他クラスから疎む声が上がるレベルで、彼女は一教師として非常に優秀であった。

 そんな彼女は黒色のバインダーから何枚か紙を取り出すと、隣の席の机上に置く。そうしてから、机を合わせるよう指示を与えられたので、立ち上がって席を向かい合わせた。

 作業を終え、彼女と向き合うようにして座ると、時間が押していることもあるのか即座に話を始める。


「とりあえず、中間考査お疲れ様。感触はどうだった?」


 蘭先生は普段通りの優しい微笑を浮かべながら俺に問う。

 堅苦しい面談となると、生徒は室内の雰囲気、もしくは教師から放たれる無意識の圧力により、とても自然体ではいられなくなる。生徒としっかり向き合うための手段として何気ない会話から入るのは、教師としてのスペックの高さが垣間見える。


「いつも通り、ですかね。特段できなかった教科もありませんでしたし」

「そう。さすが酢漿君ね」

「いえ……。あ、そう言えば」


 俺はふとあることを思い出す。

 遡ること二日。中間考査初日、第一科目であった蘭先生担当の英語科目。


「先生、意地悪ですね」

「うん?」


 彼女はどこかわざとらしく小首を捻る。


「英語のテストですよ」

「あぁ、うん。もしかして難しくし過ぎた?」


 教師という仕事を実際に勤めた経験がないため断片的にしか知識はないが、このような定期テストで作問する際、教師は満点を取らせない作問づくりをするのが良いとされている。満点のテストでは、元来の目的である『生徒の実力を測る』ことが不十分にしか達せられないからだ。

 例えば百点満点のテストがあるとする。そこで、ある生徒が百点をとったとしよう。

 そのテストで満点をとった生徒は確かに百点なのだが、本当の実力は百五十点を取れる程かもしれない。もしそうであれば教師はどうしても過小評価することしかできず、公正さに欠けることになるのだ。実力を測るためにボスへ挑んだが、ボスが弱すぎてさっぱり参考にならなかったというのと同じである。

 今回の英語のテストではその対策が露骨に行われており、大問五の長文問題だけ、他とは大きく毛色が異なっていた。


「他の問題が教科書の引用であるのに対して、最後の問題だけ童話の引用ですよね。いくらテスト範囲の知識で解けると言っても、全文読むだけでそこそこ時間を要します。序盤で少しでも詰まるようなことがあると、大問五の解答が間に合わないのではないかなと思いまして。明示されていた点数配分も結構大きかったですし、平均点はその分低くなりそうですね」

「酢漿君の分析は大正解、百点満点よ。ただ、私はそれでいいと思ってる」


 蘭先生は俺の推理を正しいと認めた上で、開き直ったように言う。


「あくまで私の主観ではあるけど、中間考査の目的は二つ。一つはこのテストを俗に実力テストと呼ぶように、実力を見る目的」


 右手の指を駆使しながら、彼女は淡々と説明を続ける。


「もう一つは努力の方向を見るためよ」

「努力の方向?」

「この中間考査に向けて生徒たちは必死に対策を立てて勉強をする。ただ、多くの生徒たちの頭の中は良い点数を取ること、その一点に固執しているわ」

「学生の本分は勉強ですよね。それが間違ってるってことですか?」

「いいえ。その考え方も正しいわ。ただ、その場凌ぎで対策を立て、テスト後に全て忘れているようでは駄目ということよ」


 多くの学校で行われる中間考査は、予め範囲を指定される。その範囲内から出題す

るという前告知のため、当然範囲外からの出題はない。故に、教科書やテキストから問題を引用することが多々ある。

 このことから、高得点を目指す手法としてひたすら同じ問題を解き続ける方法――悪く言えば丸暗記の方法は一種の攻略法とも言える。しかしそれはそのテスト一回を乗り越える手段でしかなく、少し問題の形式を変えられるだけで解けなくなる上、この先待ち構える大舞台――大学受験では真新しい問題のみが用意される以上、全く意味を成さない。

 改めて考えてみれば、これがいかに悪手かということはすぐに分かるだろう。それでもその手法を選択するのは、人間誰しも楽な方向へ進もうとするが故。言ってしまえば、仕方ないことなのかもしれない。


「なるほど。勉強の本質を見誤っている生徒を見分ける手法ということですか」

「さすが酢漿君。物分かりが良くて助かるわ」


 理解を示してくれたことが嬉しかったのか、蘭先生はにこりと笑みを溢す。

 こんな声を聞くことはないだろうか。


『こんなこと勉強して何の意味があるんだよ』


 と。一度は誰しもが思うことである。

 確かに、学生生活で学ぶことの多くは社会で直接使うことは少ない。実際、それらの教養がなくとも生きていくことは可能だろう。

だが、何事にも意味はある。論理的思考を養うために国語や数学を学び、過去の成功や過ちを学習するために歴史を学び、グローバル社会に適応していくために英語を学ぶ。視野を広げれば、いくらでも意味を見出すことが可能だ。

 そしてそれらを学ぶこと――勉強することにも意義がある。失敗したことを反省し、分析し、努力して成功へと導く。学校が社会の縮図であるというように、勉強をすることは社会に出て行くための術を学ぶことに他ならないというわけだ。

 因みに、こんな言葉を聞いたことはないだろうか。


『ゲームなんて、一体何の役に立つって言うの?』


 誰しもが母親に言われる台詞トップテンには入る言葉だろう。

 何事にも意味、意義があるという以上、当然ゲームにだって意味がある。ゲームを制作、販売することで経済は回るし、実際にプレイすることは人生に安らぎの時間を与える。……この際、一部ゲームではストレスの方が快感を上回ることがあるという点は目を瞑るとする。

 兎にも角にも、勉強には意味があるから勉強をしなさいというのなら、ゲームも同じことが言えるわけで、そういうことを言う際には一度このことについて考えてみてはどうか、と一ゲーマーとしては思うわけです。

 酷く自分の趣味の方向へと脱線したので、話を戻そう。

 蘭先生が大問五だけ特別な問題を用意したのは、その本質を理解しているかどうかを見るためだという。それならば全問そうすればいいではないかという意見もあるだろうが、そういうわけにもいかないのである。

 もし、全問題で初見かつ難易度高めの問題を用意したとしよう。そうなれば必然的に平均点は大きく下がるだろう。しかしそれは、成績分布が酷く偏ることになり、百分割評価をしている以上は評価がし辛くなる。おそらく彼女はそこまで考えた上で、作問していたのだろう。

 そういう意図を知った今、彼女が教師として素晴らしいことを改めて理解した。とは言え、俺が指摘した点に関しては多少陰湿な面が垣間見えるので、やはり彼女は恐ろしいということも改めて認識しなければいけなくなったわけだが。


「ちゃんと頑張った子を正当に評価してあげたいのよ。世の中は理不尽だからって、理不尽な評価をしていい道理なんてどこにもないのだから」


 蘭先生は少し俯き気味に、どこか悲し気に語った。自分よりも長く生きている故に、より多く世の暗い面を見てきたのだろう。彼女の様子に、少し胸が痛む。


「さてと。それじゃあ本題に入ろうかしら」


 一転して明るく見せる彼女を見て、逆にこちらは肩を落とす。

 そう言えばこれ、進路面談だった……。

 かくして五時十五分から始まった面談は前置きが長すぎたため、本来十五分間のところ、まさかの三十分以上に及ぶこととなった。



* * *



 時折外から聞こえてきていた部活動に励む生徒たちの声が、段々と反響して聞こえるようになり始めた夕刻。外の部活動ではナイター照明のある野球部を除くと、ほとんどの部活が午後六時前に切り上げ始める。

 日が傾いて教室内もほんのり茜色に染まる中、向き合わせた机を元に戻すと、一足先に蘭先生が教室の扉に手をかける。そして半身で振り向いた。


「気を付けて帰ってね」


 気を遣ってそう声をかけられたので、俺は会釈して返す。それを見て微笑みを見せた後、彼女はカツカツと靴の音を立てながら教室を後にした。

 肝心の面接の内容は至ってシンプル。予め提出するよう言われていた進路希望調査票を元に、本人の意思を確認するだけ。一学年上の受験生は丁度大事な時期を迎えている一方、まだ一年以上先の二年生には大学受験と言われてもどこか遠いものに感じられる。それを考慮されているのか定かではないが、その進路希望調査もほぼ形式上やっているにすぎず、いくつかの選択肢に丸を付けるだけという簡単なものだった。

 これだけならわざわざ面談をする必要がないようにも思う。だが、先程も言ったようにこれにだって意味は存在する。受験の意識が遠い二年生に実感を沸かせ、少しでも意識させようという狙いがそこにはあるのだろう。

 それは良いとして、現在時刻六時前。本当なら五時十五分くらいには解放されるはずだったのに、随分と遅れてしまった。手早く周囲の荷物をまとめて鞄を手に持つと、照明を落とし、教室を後にする。

 泰史たちがどこにいるのかは大体検討がつく。学校から徒歩十五分程の場所に位置する駅前のカラオケ店だ。かなり出遅れはしたが、まだ遊ぶには十分時間が残っているだろう。

 俺のクラスである二年F組から二年A組の方向へと気持ち分だけ速く歩きながら、教室の中を覗いていく。この時間までいることが稀で比較こそできないが、中間考査後ということもあって生徒の姿は全くない。帰宅か部活か。大半の生徒がそのどちらかであるためだろう。

 そんながら空き教室に、普段賑やかな教室とのギャップを感じながら歩き、A組前に差し掛かった時だった。

俺はほぼ無意識的に歩みを止め、ある方向に視線が釘付けになった。


「……」


 傾く西日が射し込む故かその姿はとても映えていて、窓際最前列の席に座る黒髪セミロングヘアの少女から目が離せない。

 誰もいないと思っていた中、学年で唯一教室に残る彼女が何をしていたのか。それは一目見れば分かる。シャーペンを握り、ノートにつらつらと文字を綴る。その前に置かれたテキストをちらちらと見ながら。

 そう。彼女は勉強をしているのである。

 別段おかしな光景ではない。学校で――教室で勉強をする姿は、学生なのだから当たり前に見てきた光景だ。

 けれどなぜだろう。心がじんわりと温かくなるのは。

 夕日の優しい温もりがここまで届くからだろうか――否、その夕日に照らされた彼女が美しいと思ったからに違いない。

 俺はそうしてどれくらい彼女を凝視したのか分からない。おかげで、視線に気づいたらしい彼女と目が合ってしまい、それをきっかけに身体の硬直が解けた。

 彼女は目線が合った後、ペンを置いてばつが悪そうに目線を伏せてしまう。勉強の邪魔になるから、とそのまま何もせず帰っても良かったが、自然と足は本来の進行方向とは垂直を向き、手は教室のドアへと伸びていた。


「ごめん、勉強の邪魔しちゃって」


 俺が彼女なら、『だったら帰れよ』と言いそうな言葉で、教室に入った訳は謝罪にあったという名目付けをする。

 彼女は相変わらず紙面上に視線を向けたままではあったが、


「いえ……」


 と、小さく言葉を返す。そして再び、白色のシャーペンを握った。


「テストの復習?」


 彼女の方に向かいながら、俺は尋ねる。


「……はい」


 彼女は短くそう答え、勉強の続きを始めた。

 俺は彼女の隣の席付近で立ち止まると、机の上を静かに覗き込む。どうやら復習しているのは数学らしく、問題用紙の横には教科書が置かれていた。テストが終わった今日、おそらく初日の教科から順に進めているのだろう。


「すごいな」

「……?」


 俺の本心から漏れた呟きに、彼女は驚いた表情で俺の方を見る。

 近くで見ると、かなり顔立ちが整っているのが良く分かる。柔らかそうで綺麗な白い肌は夕刻の空の光でほんのり朱く染まり、円らな瞳の奥はゆらゆらと揺れていた。


「テスト終わってすぐに復習なんて、普通はしないだろ。ある人は部活へ、ある人は帰宅、ある人は打ち上げに、ある人は新作ゲームを、って感じでさ」


 後ろ三つは俺のことなんだよな……。

 だが、大半の生徒がそう言うものだろう。受験は遠く、次のテストだってまだ先の話。一時的に解放された今日この日くらいは勉強のことを忘れたいと、現実逃避に走るものである。

 そんな中、彼女は誰よりも早く復習を始めた。テストの復習は大切だと教師は口々に言うものの、提出の義務がなければやらないという生徒も少なくない。それをやっているだけでも賞賛されるべきだ。例えそれを明日にやろうとも、誰かに咎められることは決してないのだから。

 俺の言葉を聞いた彼女は顔を俯かせた。夕日を遮る前髪が、表情に影を落とす。


「私は普通じゃないんです。普通じゃないからこうしていないといけないんです」


 誰かから押し付けられた義務であるかのように、彼女は言う。

 誰が押し付け、そこにはどういう背景があったのか。

 俺が疑問に思ったことを補完するように、彼女は言葉を続けた。


「同じ努力をして人に劣るなら、人が努力をしていない間も努力しないと追いつけないんですよ」


 悲し気に言う彼女の言葉を聞いて、俺は居た堪れない思いから視線を落とす。

 その先に映る、机上の教科書。開いているページには練習問題が載せられていて、それを解くために用意したのが手前に置かれたノートなのだろう。見やすいように赤いペンで正誤マークが記されていた。

 しかし、そのノートの大半はチェックマークで占められている。力強く撥ねられている様子に、解けないことに対する悔しさが垣間見えた。

この問題をやったことがあるから分かる。これらは決して難しくない、基礎を身に着けるための問題だ。

 このことから、会ったばかりの彼女の状況は推測できてしまう。故に、次にかける言葉がなかなか思い浮かばない。


「酢漿さんに褒めていただけたことは光栄です。ですが、自分から進んでやっているとはとても言えないんです」


 彼女は誰かに強制されているわけじゃない。そうせざるを得ない状況が自分を動かしている。言うなれば、自分で自分に強制させているだけ。

 彼女はそう言っているのである。


「……俺のこと、知ってたのか」


 ふと、さり気なく自分の名前を出されていたことに気がつく。


「はい、もちろんです」


 彼女は顔を上げ、若干驚いたようにそう言った。言外に、知らない人はいないだろう、という意味を含んでいるように思う。

 突然だが、この学校の考査における結果発表の形式は二種類ある。

 一つは、どの学校でもさして変わらない、点数と番数が書かれた紙が配布される形式。貰って自分の番数の上下に一喜一憂するのは、各教室恒例のイベントである。

 そしてもう一つ。成績上位者のみ、特別に名前付きで張り出されるという形式。点数こそ伏せられているが、『次は自分の名前がその場所に載せられるように!』と、発奮を促すために掲示しているのだろう。上位者は上位者で、陥落すれば一瞬で分かられてしまうため、落ちまいと努力するのを促している。

 しかしながら、後者には教師陣が想定していないだろう側面がある。成績上位者の中で本当に一握りの優秀者は、必然的に名前を覚えられてしまうという点だ。その席を長く保てば保つほど知名度は上がるのだが、これを光栄と捉えるか、迷惑と捉えるかは完全に人それぞれである。

 つまり、学年成績の推移が常に横ばい、万年二位の俺はその迷惑を被っているということ。彼女とは初対面であるにもかかわらず、一方的に名前が憶えられているのはこのせいである。


「私にとって酢漿さんは雲の上のような存在です。毎回あの名誉ある場所に名を連ねていらっしゃるのですから」


 どこか遠い目をして、それこそ雲の上を見つめるようにして彼女は語った。

 上位者に名前が載ることに、俺は大してメリットを感じないし名誉もないように思う。けれど彼女がそう言うのは、それだけ憧れていてその場所を目指しているからなのだろう。


「だったら、その雲の上のような存在から褒め称えられた人はどうなるんだろうな」

「……はい?」


 俺の言葉に対して、彼女は呆けた面を浮かべ首を傾げる。

 世の中では学歴のある人間が優遇され、ない人は冷遇される。それは確かな事実として存在している。

 学校は社会の縮図であるというのなら、この学校は上手くできているのかもしれない。成績上位者は「すごいすごい」と持て囃され、成績下位者は上位者に蔑まれるという光景を幾度も目にした。

 世の中が実力主義であることを否定するつもりはないが、人はあまりにも表面でものを見すぎている。実力は劣るが必死に努力をして上を目指そうとしている者と、実力は勝るがさらなる上を目指そうとせず、現状維持に満足をしている者がいるとすれば、どう考えても前者の方が評価されるべきだと思う。

 蘭先生の言っていたことが今なら分かる気がした。

 こうして頑張っている人が、それ相応の評価を受けて欲しい。実力がないから、という理由だけで一蹴され、評価されないのはとても不憫に思うから。


「現状を悲観して諦める人はいっぱいいる。けどそれでも諦めず、人よりも努力を重ねようとする。そういう意味では確かに普通じゃない。『特別』として、良い評価を受けるべきだと思う」


 俺は開かれた教科書に目線をやる。先ほどからやたら目に入るのは、ものすごくたくさん張られた色とりどりの付箋だ。自分が苦手な問題の場所、重要な公式の載っている場所など、どうやらそれぞれで色分けされているらしい。

 それ以外にもマーカーで線引きしていたり、余白に先生の言うことを書き足したりなど、至る所に彼女の努力の跡が窺える。少なくとも、俺にはここまでできそうにない。


「自分から進んでやっていないから褒められた点じゃない、か。そんなことはないと思うけどな。課題として与えられている以上の問題をこなしていることが、褒められない行為なわけないだろ?」

「ですが……」


 そう言って反論しようとする彼女を制して、言葉を捲し立てる。


「だから、もう少し胸を張ったらいいと思う。自分はすごくなんかないって、結果だけに目を向けるんじゃなくてさ。……あ、これに関してはもっといい解き方あるぞ」


 彼女に一切反駁の余地を与えないよう、彼女が手にしていた白色のシャーペンを拝借してノートを指す。

 しかし、彼女は暫くだんまりとしていた。口を噤み何か考えるように、飲み込むように、机の上に視線を落としながら。

 生まれた無言の空間。それを埋める言葉を探したが、それより先に彼女が動く。

 彼女は顔を上げると、初めて表情を明るくした。


「ありがとうございます。おかげで、もう少し頑張ろうって思えました」


 とても柔和な優しい彼女の微笑みは、心を揺さぶるものがあった。そして、彼女の沈黙する様子を見て、余計なことを言ってしまったのではないか、烏滸がましい台詞だったのではないか、と不安に思った俺の気持ちを払拭してくれた。

 そんな嬉々として頬を緩める彼女に、俺はどうやら見入っていたらしい。彼女がポカーンとしていたのを見て、俺は慌てて視線を逸らす。そして、持っていたシャーペンをカチカチカチカチと連打した。


「下校時刻までもう少し時間あるよな。それまではここにいるよ。少しは役に立てると思うし」

「……いいんですか?」


 俺はコクリと頷いて承諾する。

 俺があの時足を止めたことから始まって今に至るまで、少なからず彼女の勉強時間を削ってしまっている。その埋め合わせになるかどうかは分からないが、少しくらいは手助け出来ないかと思ったのだ。

 時刻は気付けば六時を回ろうとしている。泰史には、『新作のゲームが今すぐやりたくなったから』と言って断りを入れておこう。実際、クラスメイトが話していたのを聞いた時からそう思っていたので嘘ではない。

 俺が承諾したことに対し、彼女は再び笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。少しどころか、百人力です」

「どうだろ。教えたことないから、正直……。そう言えば、名前聞いてなかった」

「桐花燈佳(きりはなとうか)です」

「桐花、か。桐花に上手く教えられるかは分からないけどできる限りやらせてくれ。これからよろしくな」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 こうして急遽始まった勉強会は、施錠当番であった蘭先生が見回りに来て、帰りを促されるまで続くのであった。

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