第5話 失われた日

 十月一日金曜日の朝。賑やかな教室の扉を開くと、軽いステップを踏みながら自分の席へと向かう。


「おっはよう!」

「おはよ~。今日も元気だね、実姫ちゃん」


 朝から元気な琴浦実姫は、自分前の席に座る女子生徒と挨拶を交わす。そして、お互いピンと上に伸ばしていた手を合わせた。


「ところで実姫ちゃん、お願い良いかな?」

「もちろんだとも」


 頼られていることに対して実姫は誇らしげに胸を張る。そのお願いが何なのか彼女の口から語られるのを待つと、その女子生徒は薄青色の表紙が特徴的なテキストを見せてくる。


「これさ~。やってくるの忘れちゃってさ」


 そのテキストは、朝提出となっている数学課題のもの。今から真剣にやっていては間に合うか怪しいが、誰かのテキストを写すなら話は別である。

 実姫は話の途中ながら、大体の内容を察した。


「そういうことなら任せて!」


 実姫はポンッと拳を叩くと、鞄の中から女子生徒の持っているのと同じテキストを取り出して手渡す。


「ありがと~」

「ううん。まぁ、誰だって忘れるときくらいあるからね!」


 実姫がそう言うと、女子生徒は感謝と申し訳なさの混じったお辞儀を何度かして、前の方に向き直した。

 実姫は成績優秀が故に、「今回のように課題を写させて欲しい」、「ノート見せて」というお願いをよくされる。彼女にとってみれば決して珍しくもない、日常茶飯事の出来事だった。

 女子生徒にテキストを貸した後、実姫は教室の窓側の方に視線をやる。そこには幼馴染の彗斗の姿があり、どうやら隣の席の子と話しているようだった。

 彗斗の隣の席――烏川早梨奈のことを、実姫は知っているようであまり知らない。クラス中の生徒の顔と名前は一致しているが、全生徒と仲良くするというのは決して容易なことではない。強面男子のような苦手な人間もいれば、早梨奈のように単純に接点が少ない生徒もいる。そんな早梨奈に対して、普通ではない感情を実姫は持っていた。

 ――いいなぁ。

 心の中で漏れる本音。

 早梨奈に対して持っている感情は『嫉妬心』。彼女を憎むほどの妬みではないが、かつて自分がいたその場所に自身を重ねてしまうのである。

 彗斗の父が亡くなってから三か月後。実姫は自らの意思で、彗斗の隣から離れる決断を下した。そしてそれ以降、早梨奈のような人が彗斗の傍に現れることを望んでいたはずなのに、浮かび上がる羨ましいなと思う気持ち。二人の行く末を応援したいなと思う気持ちと、またかつてのように彼の隣にいたいという矛盾する二つの気持ちが、ここ半年は心の中でずっと均衡を保ってきていた。

 けれど、時は流れる。二人の距離は次第に近づき、均衡は徐々に崩れていく。

 取り返しがつかなくなる前に、踏み出さなくてはならない。


「……実姫ちゃん。実姫ちゃん!」

「……おっと! ごめんごめん」


 ボーっとしていて、実姫は前の席の女子生徒が呼びかけていることに気付くのが遅れた。


「これ、ありがとう」


 そう言って彼女は、先程実姫が貸したテキストを返す。だが、短時間で返却されたので、実姫は驚いて問う。


「え? もういいの?」

「もう、って、私結構借りたよ?」


 女子生徒が困惑した様子で首を傾げるので、実姫は教室内の時計を確認した。気づけば、貸してから十五分は経過している。


「……そっか。うん。役に立ったのならよかったよ」


 実姫はそう言うと彼女からテキストを受け取り、再び鞄にしまう。そして再び女子生徒と向き合ったのだが、そこには心配そうに眉を顰める彼女の姿があった。


「顔色、悪いよ? 大丈夫なの?」

「え、えぇ? 気のせいだって。ほら私、元から色白だし」


 口から出まかせを言うと、彼女は小さく溜息をつく。


「そっか。辛い時は無理しちゃだめだよ?」

「うん。ありがとね」


 実姫は曇りのない笑顔を見せて、彼女の心配を払拭してから。


「ごめん。ちょっと学級委員長の仕事行ってくるね!」

「ほんと大変だね~。いってらっしゃ~い」


 実姫は勢いよく席を立って教室を出た。

 しかし、行く先などない。学級委員長の仕事と言ったのは、あの場所を出るための口実に過ぎなかった。きっとあの場所に居たら、余計に辛くなるだけだから。

 実姫はすぐに戻るわけにもいかないので、教室を離れるように適当に廊下を彷徨った。

 ――もうこんなのは終わりにしよう。潔く気持ちを伝えて、それで終わりにした方が性に合ってる。

 実姫は廊下の隅でスマホを取り出すと、一通のメッセージを送りつけた。

 そして大きく息を吐く。


「今日で終わりにしよう」


 周りに誰もいない静謐な廊下の中でも響かないほど小さく、されど強く。実姫は決意を呟いた。



* * *



 放課後。学校を出た実姫は一人である場所を訪れた。

 子供の頃、よく訪れていた小高い丘の上にある公園。数多の思い出の詰まった場所だった。

 粒の荒い砂地の地面を踏みしめると、ザッザッと音が鳴った。その音がどこか記憶より重く感じるのは、あの頃から時間が経った――成長したからなんだろうなと実姫はしみじみ思った。

 公園の端にある見晴らしのいい腰の背ほどの柵の前に立ち、雄大な景色を見下ろす。

 午後六時頃。もう太陽は地平線を跨ぎ、僅かにその周辺が茜色、それ以外は薄っすらと灰色に染まっていた。街は外灯に彩られ始め、もうすぐ長い夜がやってくることを知らせてくれる。

 実姫はそんな景色を見ながら、かつて二人でここに来た頃に思いを馳せる。



 丁度、似たような空模様だった。

 当時小学生だった二人が帰らないことに心配した母親たちが、ここまで迎えに来たことがあった。

 暗くなる前に帰るのが一般的とされている小学生。もうじき夜がやってくるというのに、一度も家に帰っていないとなれば、親が心配するのは当然である。

 けれど当時の実姫は保護者がいることをいいことに、「もう少し遊ぶ!」と言い出して延長を申し出た。

 そんな子供の我儘に対し、彗斗の母――優子は決して嫌な顔を見せない。

 小さく微笑みながら、


「あまり遠くまで行かないようにね」


 と、暫くの延長を快く許可した。そのことがとても嬉しかった実姫は足をバタつかせながら彗斗に声をかける。


「鬼ごっこしよ! 彗斗」


 まだ遊べることが嬉しい実姫に対して、彗斗はさほど乗り気ではなかった。


「え……。疲れてないの?」


 子供の表情とは思えないほどげっそりとした彗斗が実姫に問う。

 小学校から直接ここに来てから、もう四時間近くが経つ。いくら元気が取り柄の小学生とはいえども、実姫に振り回され続けた彗斗の体力は限界だった。

 だが、体力無尽蔵な実姫は彗斗の周りを走りながら、


「全然!」


 と元気そうに答えるので、彗斗は疲れから来たものもあるだろう小さな溜息をつきながら、「じゃあ、俺鬼ね」と言って渋々要件を飲む。

 しかし、実姫の表情は不満げであった。


「えぇ~! それだと彗斗、一生捕まえに来ないでしょ?」

「……バレてた」


 彗斗の悪知恵をいとも容易く見抜く実姫。楽しく遊ぶために、実姫は条件を付け加えた。


「じゃあこうしようよ。私にタッチできたら終わり。良いでしょ!」

「え……」

「はい、よ~いスタート!」


 反論の余地を与えず開始を宣言した実姫は、彗斗からそそくさと離れていく。だが、それを追いかけてくるような足音は一切聞かれなかった。

 不審に思って振り返れば、彗斗はなぜか空を見上げていた。


「捕まえないと帰れないよ?」


 実姫はそう問いながら、彗斗の方に歩み寄る。


「……」


 彗斗は何かに夢中になっている様子で、実姫の問いには一切返事がなかった。実姫は彗斗と同じように空を見上げた。


「星……」


 ぽつり、彗斗はそう漏らす。

 灰色の空。まだ少し明るい中でも一つだけ、眩く光る星があった。彗斗はそれを見つけて、実に小学生らしく夢中になっていたのだ。

 しかし、しばらくして――。

 実姫は肩に誰かの手が触れたような感触を感じた。慌ててその主に目をやれば、そこにはしてやったり顔の彗斗の姿があった。


「はい、タッチ」

「……え?」


『タッチできたら終わり』という約束通り、彗斗はそそくさと親の待つ方向へと歩いていく。


「彗斗、今のはなし!」


 その声を聞いて、怪訝そうな表情を浮かべながら彗斗は振り返る。


「自分からそう言ったくせに……」

「とにかくもっかい!」


 しつこく駄々をこねる実姫に何を言っても聞かないということを良く知る彗斗は、


「……仕方ないなー」


 と言って、再び鬼ごっこをするのであった。



 当時の光る星を見上げていた彗斗の表情は、実姫の印象に色濃く残った。

 だから今、こうして薄暗い夕暮れと夜空の合間にある空を見上げると、こうしてあの頃のことが思い出される。彗斗は覚えていないだろう何気ない一コマも、実姫にとっては大切な思い出だった。

 偶然か、はたまた嫌がらせか。あの日と同じように、空には一つ、煌々と光る星が浮かんでいた。しかし、星は星でも一番星は惑星――金星であることが多いということを実姫は知っている。だからこそ、時間は流れてしまったということを嫌というほど感じてしまうのだ。

 伝えて実らなければ、もう二度とあの日々は帰らない。

 それでも、一縷の望みだとしても、彼の隣に戻りたいという気持ちに、今日だけは正直にいたい。

 実姫は静かに胸の前で指を組み、そして目を閉じた。

 流れ星に自らの願い事をするかのように、実姫は小さく呟く。


「――もっと近くにいれますように――」


 その思いが届いた。

 それならばどれほど幻想的なのだろうと、実姫は自傷気味に笑いながら、自分の方に近づく砂を蹴る音の方へとそっと振り返る。


「どうしたんだ? こんなところまで呼び出して」


 子供の頃のあどけなさはなく、大人の凛々しさを感じさせる顔立ち。若干細身ではあるが、決して弱々しさを感じさせない立ち振る舞い。そんな彼――彗斗は、事情を知らないが故に不思議そうに尋ねた。

 今日の朝。実姫が送ったメッセージ。


『午後六時半、あの公園に来て欲しい』


 その約束を守り、彗斗はここまで来たのである。それ以上は何も伝えていないのだから、彼が疑問を抱くのは仕方がなかった。

 けれど、それは実姫が意図してのこと。


「……うん。ちょっとね!」


 だから、実姫は笑顔でそう言って誤魔化す。

 あの日以来距離が開いてしまったはずなのに、彗斗から気まずそうな様子は感じない。実姫の心は小さく跳ねて、緊張していたはずの心が弛緩する。


「にしても、久しぶりにここに来た」

「うん。私もだよ」


 彗斗は実姫の横に並ぶようにして、背の低い木の柵に手をかけて街を見下ろした。けれど実姫の視界には街の姿はなく、ただ彗斗の横顔だけが映っている。当たり前のようにこうして間近で、隣で見てきた横顔が随分と久しぶりに感じた。

 ただそこにはもう、懐かしさはなかった。


「背、伸びた?」

「……伸びたな」


 いつと比較して言っているのか。

 実姫に問うまでもなく、彗斗はそれを察して答える。


「私はあんまり伸びてないんだよね~」

「だろうな」

「だろうなって何!?」


 実姫は頬を少し膨らませて少し反抗した。

 実姫が彗斗の横顔を間近で見ても懐かしさを感じなかったのは、彼の顔つきが大人に近づいたことと、自分の目線が変わってしまったから。

 感じるのは心地の良い懐かしさではなく、時は滞らず流れ続けるという理の残酷さばかりだった。


「あの頃はまだ、ほとんど一緒だったからな」

「何を勝ち誇ってるのか知らないけど、私はここから成長期来るんだから!」

「一体どこからその自信が来るのか知らないけど、それはないだろ」

「むぅ~」


 彗斗は悔しそうに上目遣いをする実姫を見て、ふふっと小さく笑った。


「相変わらずだな、実姫」


 そう言う彗斗の表情は、どこか浮かばれないように実姫には映る。まるで自分は変わってしまったと言っているようにも思えた。


「ねぇ、彗斗」


 彗斗は確かに変わってしまった。顔つきも身長も変わった。中学二年の頃、変声期を終えていた声すらも、今はどこか大人びて聞こえる。

 だけどきっと、根幹だけは変わっていないように実姫は思う。

 街を見下ろす彼の表情から見て取れる優しさは、決して今も変わらないのだから――。


「好きな人、いるでしょ?」

「……」


 直截に尋ねると、彗斗は口を閉じたままだった。けれど、ほんのりと頬に紅を差す。

 実姫は笑みを溢しながら、煽り口調で呟く。


「そっか。烏川さんねぇ~」

「……は!? 何でそこで烏川の名前が出てくんだよ」

「あれ~? 気付かれてないとでも?」

「……」


 実姫が意地悪に問うと、彗斗は顔を真っ赤にしながら顔を背けた。

 実姫が思っていた通り、彗斗は早梨奈のことが好きだった。知った上でも、それが勘違いであってほしいと願うあまり、こうして彼に問うたのである。

 けれどそれなら、例えば校舎裏や誰もいなくなった教室、もしくは帰り路でもよかった。それどころか、メール一つで済ますことだってできたかもしれない。

 実姫がそうしなかったのは、彗斗がこの景観を見てかつてのことを思い出し、少しでも気持ちが自分に傾いてくれないかな、と願ったからだ。

 ただ、結果は――。全て無駄骨に終わったのかもしれない。

 それでも心積もりをした上で、分かっていたはずの結果を突きつけられたからか、実姫は元より決めていたように自分を上手く取り繕えていた。

 もう事の終幕は決まった。何をしようと結末が揺らぐことはない。

 だったら最後に、全てを吐いて気持ちよくなろう。一度悪あがきをしたなら、最後まで突き通したらいい。

『今日で終わりにしよう』と、そう決意したのだから。

 実姫は少し俯く。


「……あのさ、彗斗。私はね……」


 声が湿り気を伴う。覚悟していたはずなのに、泣かないと決めていたはずなのに。

 それでも、これまでの幼馴染という関係に完全に終止符が打たれるこの瞬間は、実姫にとって何よりも辛いことだから、自己抑制を振り切って溢れだしてくる。


「あの頃の日常が、あの頃の何気ない時間が好きだった」


 一度実姫は目を瞑った。すると、瞳に溜めていた涙が弾けて宙に舞う。


「――もっと一緒にいたかった!」


 実姫は彗斗の後頭部に右手をやると、互いの額を近づけて合わせた。



 その瞬間――。



 実姫の意識が突如として消えた。

 とは言え、決して長くはなかった。しばらくして意識を取り戻すと、気付けば目の前は真っ暗になっていた。

 ゆっくりと目を開くと、視界がぼやけていた。先ほどの涙のせいかと思いながら瞬きをすると、段々と視界が綺麗になる。

 意識を失った時に尻もちをついていたため、実姫は体勢を起こしながら現状を確認した。

 すると目の前に先程まで一緒にいたはずの彗斗の姿はなく、別の人間の姿が映った。どうやら女性らしいその人は、完全に意識を失ったように力なくその場に倒れ込んでいる。


「……!」


 その女性の顔と髪を見れば一目瞭然――その女性とは、なんと自分自身であった。

 自分の視界に自分の身体。そして力なく倒れていて、意識を失っている。

 何が起きているのか理解が追い付かない中、倒れている自分自身に膝をつきながら近づく。その際、体の節々には違和感が生じていた。まるで自分の身体ではないかのように。

 トントンと倒れている体の肩を叩く。しかしながら全く反応はない。

 続けて、ゆっくりと手のひらを唇の方へと近づけた。


「……!?」


 その肢体は意識を失っているだけでなく、一切息をしていなかった。

 すぐに手首の脈を確認するようにして触れたが、脈拍もなかった。触れている肌が、段々と温もりを失っていくのを感じる。


「一体何が起きてるの……」


 自分の肢体が意識も呼吸も脈もない状態で目の前に倒れているという事態に、実姫は思わず思っていることを口にした。

 だが――。


「……っ!?」


 ここにもまた一つ異変があった。

 女子特有の高い声ではなく、声変わりして低くなった男子の声。明らかに自分の声でないだけでなく、それは確かな聞き覚えがあるものだった。


「彗斗……?」


 自分の声が彗斗のものになっていることに気付いたのと同時に、周りを見渡す。この声の主である彗斗はどこに行ったのだろうか。

 ある程度周囲を見回したがどこにもその姿はなく、公園一体はものの見事に静かで人の気配がない。

 実姫は一度冷静になり、倒れた肢体のポケットから自分のスマホを取り出す。


「……どういう、こと?」


 実姫は唖然とするしかなかった。目の前の画面――スマホの液晶に反射して映ったのは、自分の顔ではなく彗斗の顔だった。

 実姫は恐る恐る自分のスマホを操作し、彗斗に電話をかけた。その電話が繋がれば、どこで音がするのか。その答えはもう分かっていたのに――。

 スマホの着信音が自分の右ポケットの中から聞こえてくる。


「どういうことなの……」


 立て続けに発覚していく事実。実姫はそれら全てに理解ができず、もう何が何なのかが分からなくなってきていた。

 自分の身体は目の前で息をしておらず、彗斗はいなくなった。そして自分が動かしているのは、彗斗の身体。

 そんな信じ難い事実をいざ目の前にして実姫は一時的にあっけらかんとしていたが、思考を切り替える。とにかく今、自分がすべきことは何かを必死に考えた――が、思いつくのはこの後起こる悪夢のような事態ばかり。どんどんと冷静さは失われていく。

 きっと誰に何を言ってもこのことを理解してくれる人間はいない。唯一彗斗だけは、それを信じてくれるのではないかと思ったが、その彗斗はどこにいるのか分からない。

 そうして考えを巡らせ、実姫は一つの仮説に辿り着いた。同時に、顔から血の気が引いていくのが分かった。


「……嘘、でしょ」


 まさか、と思うほど非現実的な仮説。けれど今こうして確認できる事実を拾い集めただけでも、十分に論理性のある仮説だった。

 自分と彗斗の身体が入れ替わってしまったのではないか。つまりこうして今倒れている自分こそが彗斗である。実姫はそう考えたのだ。

 慌てながら自らの携帯を操作し、実姫はすぐさま救急車を呼ぶ。そして、手を倒れている自分の身体の胸のあたりで重ね、周期的に強く押しつける。


「嘘だと言って……!」


 自分自身で確認してしまった死の事実が間違いであったという一糸の希望にかけ、実姫は思いつく限りの救命措置を行う。右手で顎を少し上げ、気道を確保してから息を吹き込む。その反動で胸のあたりが少し膨らんだのを確認して、再び心臓マッサージに戻る。

 そうして、心臓マッサージと人工呼吸を繰り返すこと約十分。ようやく、救急車のサイレンとともに現場に駆け付けた救急隊員が、実姫の身体を運びこむ。それに合わせて、実姫も救急車に乗り込んだ。

 しかしそれから僅か三十分後。懸命な救命措置は実ることなく、その体――琴浦実姫の死亡が確認された。同時にそれは、その中にいるであろう彗斗の死も意味していた。

 実姫は彗斗として、その最期の瞬間を看取っていた。どれだけ悲しい現実がやってこようと、実姫の目に涙は浮かばない。きっとこの身体のせいだろう。その理由を誰よりも知っている実姫は、余計に辛い思いに苛まれた。

 これから先、一体自分はどうしていけばいいのか。誰にも問えないその難問が頭に浮かんだ。

 そんな時。


「実姫!」


 実姫の母――琴浦あいが、血相を変えて病室の扉を開け放った。


「お……」


 それを見て思わず「お母さん」と口にしかけたところで、実姫は口を閉ざす。

 藍はすぐに駆け寄った――ベッドに眠る自分の肢体へと。

 分かっていたけれど、今の今まで心積もりはしたはずだったけど。それでも辛かった。

 ベッドの上に眠る自身の肢体の前で泣きじゃくる母を見て、もう自分は琴浦実姫として生きることができないのだと、嫌でも事実を突きつけられる。

 今の身体――射出彗斗として、これから先は生きていかなければならない。もし彗斗と入れ替わってしまい、その結果彗斗が死んでしまったというのなら、なおさらその責務を全うすべきだと思うから。


「彗斗……」


 そこには彗斗の母――優子の姿があった。混乱と悲壮に打ちひしがれている中、実姫は彗斗としての振る舞いが求められる。


「俺は、実姫の分まで頑張るから――」


 もし入れ替わりなんてなかったなら。

 自分が死んだとき、本当に彼はこんな風に言うのだろうか。

 そんな疑問を抱えながら、決意を口にしたのであった。



 それから実姫は彗斗として、翌日のお通夜、葬儀・告別式に参列。そのため、一連の法事が終わり落ち着いた状態で彗斗の自室へと戻ったのは、十月三日の午後十時を大きく回った頃だった。

 照明の点いていない部屋の真ん中に立ち尽くし、実姫は大きく息を吐いた。束の間の安堵である。

 嘘を隠し通すことは決して楽ではなかった。本当は知っていることを知らないと言い張り、彗斗しか知らないことを聞かれれば「忘れました」と言ってその場を凌いでいく。その嘘が、前の嘘の矛盾にならないよう、過去の嘘を記憶した上で回避しなければならない。いついかなる時も脳を休める余裕がなかった。

 蓄積するのは何も疲労だけではない。

 嘘を嘘のままにしておくためには、更なる嘘で塗り固めていかなくてはならない。そのための演技は、いつしか猛特訓した演劇の練習おかげか辛うじてこなせてはいる。だが、同じ演技にしても、嘘をつくというのは一種の自傷行為。重ねれば重ねるほど良心は痛み、罪悪感はのしかかってくる。

 唯一の安息地は、この時間帯のこの場所だけだった。肩の荷が下り張っていた気が緩むと、瞼が垂れ下がってくる。

 ベッドを目の前にし、実姫は眠りに就こうと足を踏み出そうとした。

 だが……。


「あ、れ……」


 まるで制御装置が壊れたロボットのように硬直し、突如として体が言うことを聞かなくなった。

 それだけではない。あろうことか、自らの意に反して言葉を口にしたのだ。


「もう休日終わるのか……」

『……!?』


 当然、実姫は驚きを隠せなかったが、それと同時に安堵が入り混じった。

 彼が――彗斗が戻ってきたのである。

 身体の全ての制御は元の持ち主である彗斗へと返り、視覚と聴覚、思考能力を除いて実姫は全てを失った。

 彗斗が戻ったことで、自分が本来いる場所へとすぐに誘われるものとばかり思っていた。それなのに一向にそんな時は訪れず、実姫は今の状態でできること、すべきことは何かと考え始めた。

 そんな頃に、意識を取り戻した彗斗はお風呂場へと向かった。


「ったぁ~~~!」


 彗斗がお湯につかり、気持ちよさのあまり声を漏らす。一連の法事があったこともあるが、別の理由も相まって随分と脳や体を酷使していたので、そんな声が出るのは当然だと実姫は思った。

 今後、こうして彗斗の中から彼の人生をただ見送ることになるのだろうか。実姫は行く末を推し量った。

 もう現実世界では琴浦実姫という人物はいない。

 今の彗斗の様子から、どうやらあの時以降の記憶はないように見える。とは言え、無知でいられる時間は長くない。いずれ嫌でも知ることになるだろう。

 ――このままじゃだめだ!

 そう心の中で実姫は叫ぶ。

 これではまるで、三年前の出来事の再現――決して癒えることのない彼の傷が、再び疼きかねない。今度ばかりは、もう二度と立ち直れなくなるかもしれない。

 せめて自分はここにいるって、そう言えたなら。少しは結末が変わると思うから。


『あ、あぁ』


 マイクチェックのように、実姫は試すような声を発した。


「!?」


 視界が突如大きく揺らいだ。どうやら驚いて浴槽ですっ転んだらしく、激しく飛び散る水飛沫が見え、パシャーンと大きな音が浴室で反響して聞こえてくる。


「し、死ぬかと思った……。って、そんな場合じゃない」


 そう彗斗の声が聞こえた後、


「空耳、か。相当疲れてるんだな」


 その言葉を聞いて、実姫は気付いた。

 どうやら自分の声は彗斗に届くらしいということを。それは彗斗との会話が可能であるということを意味しており、まさに僥倖であった。


『あれ……、ここってまさか』


 次に実姫はそう呟く。まるでこの事態が今起きたかのような――今以前の出来事をまるで知らないかのような口ぶりだった。

 これはあの時、はっきりと決めたこと。

 もう傍にいるべきは自分ではない。そしてどちらにせよもう、隣には立てない。

 自分がすべきことは何か。それは自分のいない世界にいつも通りを取り戻させること――自分が死ぬ前のあの時に繋げることだ。

 それが彗斗にとっても、自分にとっても、大切なことだと思うから。

 そうして実姫は自分の知る過去を隠し、更なる嘘を重ねたのであった。

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