第4話 秋の木枯らし

 あの暗くて沈んだ静けさは、窓の隙間から入る少し早い秋の木枯らしが拭い去ったか。静寂が貫かれていた教室内に、ぽつぽつと話し声が聞かれ始めた。それでも以前の日常を取り戻したとは到底言い難いが、希望の光には違いない。

 クラスの中核をなす魚谷颯に戻った明るさは、彼を光源として周りを照らす。彼らの話し声は、彗斗と早梨奈の方まで届いていた。


「まずは一つ、解決しましたね」


 教室内の喜ばしい進展に、大いに貢献した早梨奈が笑って話す。


「一つ、はな」


 しかし彗斗の口ぶりは。早梨奈と比べ対照的であった。颯を立ち直らせたのはこの件の解決への足掛かりにしかなっていないからである。

 事実、颯を中心として会話が戻った。けれど決してそれは自然なものではなく、周りが颯に合わせているように映る。また、彼の影響をさほど受けない人間も少なからず存在する。それらの人にとっては足掛かりにすらなっていない。

 ――時間が解決してくれる、なんて呑気に言えたならどれだけ楽だろうな……。

 彗斗はそんな風に胸中で呟いた。

 時間は記憶を風化させる。どんなに嬉しくても、悲しくても、時間が経てばその当時の感覚というものはだんだん薄れていく。人が人の死から立ち直れるのは、根本を辿れば時間が解決してくれているだけとも言える。

 昨日の颯の件のように、自分たちが干渉して立ち直りを早める手段は一見最良手にも思える。しかしそれは颯だったからであり、他の人も同様に解決へ導けるかどうかは分からない。場合によっては、関与することが結果的に遠回りを招く可能性だって捨てきれない。

 したがって確実性だけを重視するなら、時間が過ぎ去るのを待つのが最も適切な手段となる。しかし彗斗がそう思わないのは、自身の過去の経験があるから。時間が過ぎるのを待っても、それが何週間、何か月になるかは分からない。その結果途方もない時間が過ぎていくだけで、早梨奈が望むような元のクラスを取り戻すことなく進級する、ということも考え得るのだ。

 一歩目を踏み出したことに胸を撫で下ろす早梨奈とは対照的に彗斗の表情が浮かないのは、そういったこの先に対する不安が顕著になったためであった。

 そんな頃、教室の前側の扉が開かれる。


「射出と烏川。ちょっといいか?」


 亮臣に呼び出され、二人は急いで席を立って亮臣の元へと歩み寄る。


「悪いな。ちょっと荷物運ぶのを手伝ってほしい」

『分かりました』


 彗斗と早梨奈は返事をして、職員室へと向かう亮臣の後ろをついていく。


「ちょっと配布物が多くてね。雑用頼むようで悪いけど」

「いえ。それも学級副委員長の仕事ですから」


 ――本当に真面目だな。

 彗斗は改めて思う。

 このような仕事を頼まれれば、彗斗も含めて大半の生徒が『なんで面倒な雑用を頼まれなきゃいけないんだよ』と、思うだろう。けれど早梨奈はそんな様子を微塵も見せず、さも当たり前かのように答えるのだ。


「それと一つ言っときたかったんだ」


 そう言う亮臣の表情はどこか明るかった。


「お前たちのおかげで、魚谷が立ち直った」

「……何で知ってんですか?」


 彗斗は怪訝そうに尋ねる。


「偶然目に入っただけだよ。昨日の朝、終わってない仕事する前にいつもより早く来たら、校舎裏で三人が話しているのを見かけてな。何してたかその時は分からなかったけど、今日の朝すれ違った魚谷を見て思ったんだよ。きっとお前たちのおかげなんだろうなって」

「……いえ。私たちだけのおかげじゃないと思います」


 亮臣の言葉を聞いて、早梨奈が謙虚な言葉を挟む。

 それを聞いた彗斗。早梨奈の言葉の続きを予見すると、その先は駄目だと首を振って合図した。


『実姫のおかげ』


 それは決して話してはいけない。

 ただ、合図を受け取った早梨奈は迷うことなく言葉を続けた。


「魚谷君自身が乗り越えただけで、私たちはほんの少し手伝いをしただけです」


 早梨奈の言うことは嘘でもなんでもなく事実だった。その裏に隠れた本当の意味は、彗斗にだけ伝わる。


「そうか。それでも、そのきっかけを作ってくれたことには変わりないからな。あり

がとう」


 早梨奈は亮臣から感謝の言葉を貰い、とても嬉しそうに笑った。そして亮臣が再び前を見たタイミングを盗み、彗斗に右手でオーケーサインを送った。

 いくら何でも、彼女に限ってそんな失態はしないよな……、と彗斗は少し反省しつつ苦笑いを返した。

 階段を降り職員室に着くと、亮臣の机の上には大量の紙が積み上げられていた。


「見ての通りだ」

「いや、なんですかこれ?」

「近々生徒会選挙が実施されることについて、少し先にはなるが星島祭について、後は中間試験についてのお知らせだな」


 この時期――二学期中盤は、このように行事ごとが目白押しだ。再来週は生徒会選挙、月末は中間試験、そして来月初旬には星島祭がある。因みに星島祭とは所謂学園祭のことだ。

 これだけの行事が同時に来るので、それに関連した配布物が山積するのは仕方のないこと。決して亮臣の怠慢でないことは、他の教卓を見ても同じであることから分かる。


「これを運べばいいんですよね? 鶴屋先生」

「うん。あと、俺はちょっと別件で用事があるから、朝の時間を利用してついでに配っておいて欲しい。大変だと思うけど頼りにしてるよ、お二人さん」


 亮臣はそれだけ伝えると、少し急いだ様子で別の場所へと向かった。

 そして亮臣の教卓の前に、二人は取り残された。


「仕事丸投げかよ……」


 と、早梨奈の前で思わず愚痴を溢す彗斗。しかしそれを聞き逃さないのが早梨奈だ。


「でも頼りにしてもらってますし、期待には応えないとですね」

「うーん……。そうは言っても、これは大変だぞ」


 面倒事が嫌いな人間は、荷物を運ぶ際の往復を嫌う。多少難しそうでも、何とか一回で済まないかと頭を捻り、効率のいい持ち方を模索する。

 だが今回、一人は愚か二人ですら人手不足な量の配布資料。一度で済まないことはもはや確定していて、彗斗はがっくりと肩を落とす。

 そうなった以上は大人しく諦めるしかない。彗斗は配慮すべき点を移した。


「あんまり持たなくてもいいから。極力俺が持っていくし」

「あ、いえ。私も頑張りますので」


 彗斗の気遣いを振り切るようにして、早梨奈は明らかに無理な量を抱え込むようにして持ち上げる。彼女の場合、面倒事が嫌いだから無理をしているのではなく、少しでも頑張りたいと思うが故に見栄を張ってしまったのである。

 果たして、ただ真っ直ぐに積まれただけの紙の束がバランスを崩し、グラッと揺れた。それを見てすかさず彗斗がサポートに入り、崩れかけた箇所を手で押さえる。


「っと。無理はしないようにな」


 おかげで何とか紙が床に散乱するような事態にはならずに済んだ。

 早梨奈はそんなことがあったため、


「すいません……」


 と、申し訳なさそうな表情を浮かべながら、無理のないように持つ量を少しずつ減らしていく。


「別に謝ることじゃないって。その代わりっていうのはちょっと違うけど、これを教室で配ってくれる? 俺はその間もう一回ここに取りに来るから」

「いいんですか?」

「それでお相子ってことで。そっちの方が効率もいいから早く終わると思うし」

「ありがとうございます。そうしましょう」


 そうして二人が作業分担を決めると、早梨奈が持てる分だけ抱え、彗斗は持てる限りを持って一度職員室を後にした。

 先程降りてきた階段を上っていると、いつものことながら面白がる実姫の声がした。


『やっさし~』

「……」

『そうそう。女の子って案外そう言う細かい所に惚れるんだよ?』

「……喧しいな」


 脳内へ直接語り掛けるように話す実姫。手が塞がっていて文字通り耳を塞ぐことはできない。ただ、そもそも彼女の声をシャットアウトする手段が存在しないため、どちらにせよ対処方法がないのである。だから彗斗はそう言って小さく抗議することくらいしかできなかった。

 しかしその抗議は、隣を歩く早梨奈の耳にも届いている。申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。


「ご、ごめんなさい」

「いや。これは実姫に向かって言っただけで……。それに烏川、何も言ってないだろ?」

「あっ……、それもそうですね。何だか早とちりしちゃいました」


 えへへと自分の勘違いを笑って誤魔化す早梨奈。


「何か言われてるんですか?」

「いや、まぁ、うん。最近ちょっと寒いなぁって」


 説明できないことだったので、彗斗は適当にはぐらかした。


「そういえばそうですね」


 彗斗の言うように、近頃は少し冷え込む。時期的にはまだ冬が遠い十月初旬だが、気温は十一月下旬並み。日中こそ暖かいものの朝や夕方は冷え込むため、寒暖差が激しい。


「風邪には気を付けてくださいね」

「お互いにな」


 早梨奈の小さな心遣いが、朝の冷え込みなんて消えてしまうほど暖かい。

 最初は学級委員長を絶対にやりたくないと抗議しに行った彗斗だったが、早梨奈と過ごす時間が増えて、損ばかりではないなと気付かされた。こういう何気ない時間が増えるだけでも、好きな人と近くに居られるというのは幸せなことだった。

 事の経緯こそ違えど、きっと颯もまた同じようなことを感じていただろう。だからこそ、実姫との別れが辛かった。彗斗はそんな気持ちが今ならよく分かる気がした。



* * *



 翌日の午前八時ごろ。烏川早梨奈は重たい瞼を開けると、視界に入った時計の針を見て焦った。


「いつの間にこんな時間に!?」


 慌てて支度をしようと体を起こそうとした時。体が酷く火照っているのを感じた。全身重怠く、喉がイガイガして気分は頗る悪い。

 自らの手を額に当てると、いつもとは違う温度。

 何とか立ち上がり、部屋にあった体温計を手に取って脇に挟む。そうして待つこと十秒ほど。


「三十七度五分……。自分から射出君に言っておいて何してるんだろ……」


 早梨奈はベッドの上で、慙愧と後悔の嘆息を漏らす。

 これではとても学校に行けないと思い、自らのスマホを手にとって電話をかける。


「もしもし。二年二組の烏川です」

『もしもし。星島高校の――』


 電話をかけた先は星島高校。教務担当の教師が応答する。


「鶴屋先生に代わっていただくことはできませんか?」

『分かりました。少々お待ちください』


 そういってその教師は保留にした。聞き覚えのある電子オルゴールの音が流れ、取り次がれるのを待つ。

 約一分後。その音が突如途切れる。


『もしもし。変わりました、鶴屋です』

「もしもし、烏川です」

『……どうした?』


 二年二組の担任教師である亮臣は、少し心配したように尋ねる。

 自分の声が若干掠れていることもあり、どこか察しているところがあるのだろうと思いつつ、早梨奈は手短に説明する。


「風邪を引いてしまったので、今日はお休みします」

『そうか。近頃は気温差がすごいからな。ゆっくり休めよ』

「……はい。すいません、失礼します」

『お大事に』


 亮臣が切ったのを確認してから、早梨奈はスマホの電源を落とした。そしてそのスマホを枕元に投げつけ、自身はふてくされたようにベッドに飛び込み、枕に顔を埋めた。


「鶴屋先生にまで言われた……」


 穴があったら入りたいほど、分かっていながら対策できなかった自分の不甲斐なさを恥じた。

 再び溜息をつくと、仰向けになって天井を見つめる。熱の影響で焦点が定まらず、ぼやけて映った。


「射出君、大丈夫かな……」


 ふと、彗斗の名を口にしたのには訳がある。

 早梨奈には彼の昨日の表情が、一昨日に比べて暗かったように感じられていた。颯の件が解決して自分はひとまず嬉しかったのに、彗斗はむしろ逆のよう。人の心配をしている場合ではないはずなのに、そのことばかりが頭の中を埋め尽くした。

 ふと、早梨奈の脳裏には過去の出来事が浮かび上がる。


「走馬灯……、じゃないよね」


 早梨奈は走馬灯のように映し出される過去を見るようにして、ゆっくりと目を瞑った。



 遡ること約半年。


「おはようございます」

「うん。おはよう」


 桜が丁度満開を迎えた四月下旬頃のこと。二年生に進級して、偶然隣の席になったのが彗斗だった。

 早梨奈の彗斗に対する最初の印象はさして良くはなかった。決して悪い人ではないけれど、少し暗くて素っ気ない。授業中は真剣だけど、それ以外はめっきりやる気がなく、誰かと話す様子はあまり見かけない男子生徒というイメージであった。

 彗斗はHRになると決まって居眠りをする。その都度起こすのは、隣の席の早梨奈だった。


「射出君? 授業終わりましたよ」


 隣だからといって、居眠りをした彼を起こさなければならないという使命もなければ、誰かにお願いされたわけでもなかった。それでも起こそうとするのは、早梨奈の性分――そういう人がいると放って置けないお人好しな性格だったためだ。


「ん……」


 目をしばしばさせながら、マイペースに身体を起こす彗斗。そんな態度ながらも早梨奈は苛ついたりせず、むしろ彼を気遣うように問う。


「寝不足ですか?」

「……うん」

「遅くまで勉強してましたか?」

「……うん、まぁ」


 やっぱりだ。早梨奈はそう思った。

 彗斗は勉強熱心で、授業中の受け答えも一切詰まったりせず完璧にこなす。成績の優秀さは、実際に数字を見るまでもなく明らかだった。

 そんな彗斗をすぐ近くで見てきた早梨奈。勉強に対して真摯に取り組むのは学校だけでなく、きっと家に帰ってからもそうだろうなと、早梨奈は思っていた。


「勉強を頑張っていることを咎めるつもりは全くありません。ですが、しっかり眠らないと体に悪いです。それに、勉強の効率にも多少影響しませんか?」

「烏川の言う通り……、だけどさ」


 彗斗は言いながら、のっそりと体を起こした。


「どうしても夜更かししちゃうんだよな」


 そう言った彗斗の視線は実姫から外れていた。彗斗は決して人と話す際に目を逸らすような人間ではない。面と向かって話す際も、彼はちゃんと自分の目を見て話す。だからこそ、この小さな違いが早梨奈の中では大きな違和感となった。

 夜更かしして勉強していることは確かなのだろう。ただ、そこに何かしらの事情があるように思えてしまう。

 それでも早梨奈は、それ以上の詮索を一切しようとしなかった。たかだか隣の席と言うだけで、簡単に奥へと踏み込まれるのは――きっと嫌だろうから。


「何事も集中したら止まらないものですからね。私もそう言う経験あるので分かります」


 だからそんな風に、会話を途切れないように上手く繋ぎ合わせた。



 この時に違和感を覚えたことがきっかけとなり、早梨奈は彗斗をもっと知りたいと思った。

 いつか、ただの隣の席という遠い関係ではなく友達くらいの関係になったら聞いてみよう。そう心に決めたのだった。

 昨日見せた表情の理由。そしてあの日感じた違和感の正体。きっと今なら、尋ねてもはぐらかされない。そんな根拠のない自信が早梨奈の中にあった。

 だからこそ今日、学校でそのことを尋ねようとしていた――が、その矢先の病。

 早梨奈は再び天井を見上げ、内側の熱を吐き出すように大きく嘆息した。


「今は治すことに専念して、話はそれからだよね……」


 ポツリと独り言を漏らすと、再び静かに瞼を閉じた。



* * *



 同日のほぼ同時刻。

 場所は違えど、彗斗もまたベッドの上にいた。しかしながら、意識は依然として夢の中であった。



 今から三年前。彗斗と実姫が月川中学の二年生だったころ。


「おっはよう! 彗斗」

「朝からテンション高いな、お前」


 まだ眠さが残る中、彗斗が欠伸をしながら家の扉を開けると、元気溌剌な少女が待っていた。

 黒髪ショートヘアの髪が、有り余る元気で跳ねる度に揺れる。彼女――琴浦実姫に、朝は眠いが故にスロースタートであるという概念はないらしく、既にエンジンフル回転と言った様子だった。


「だって今日は学祭の準備で授業なしでしょ?」

「学生の本分忘れんな、って言ってやりたいのに……」

「私の方が成績上だからなんにも言えないって顔、笑える」


 実姫はクスクスと笑い声を漏らす。

 決して彗斗は成績が悪いわけではない。学年成績では中の上から、上の下あたりに位置する。一方の実姫は、常に上の上をキープする秀才。単に実姫の成績が良すぎるのである。


「大体、学祭なんて面倒で仕方ないだろ……」

「面倒?」

「準備と片づけがとてつもなく面倒」

「それ言っちゃうと、何もかもお終いだよ、彗斗」


 美しい青春時代の思い出の一ページ。その中の目玉行事である学祭だが、彗斗はあまり乗り気ではなかった。

 当日はそれなりに楽しい。色んなクラスの展示や出店があって、普段とは違う学校の一面が見られる。催し事も他の中学と比べて派手で、参加する側はとても楽しい行事だ。

 しかしながら、そういう大規模な行事だからこそ、準備と片付けに時間がかかるもの。面倒なことが嫌いな彗斗にとって、一日丸ごと準備時間として用意された今日のような日はとても憂鬱だった。


「そのくせ、行かなかったら行かなかったで文句言われるんだぜ?」

「そりゃあ、有志を募ってやってるわけじゃなくて、あくまでクラス単位だからね」

「はぁ……」


 彗斗は溜息をつきながらも、実姫と横並びで学校へと歩き出す。


「準備も片付けも、それら全部含めて学祭じゃん? 楽しんでいこうよ」

「その言葉、余計やる気なくさせてるってことに気付いてる? ねぇ」


 そんな彗斗の嘆きは全く聞こえておらず、実姫は軽やかなステップを踏みながら鼻歌を歌っていた。


「相当楽しみなんだな、お前」


 実姫が鼻歌で歌っているのは、彗斗たちのクラスの出し物である劇で流すBGMだった。物語序盤で流れる軽快でポップな曲調は、まるで今の実姫のテンションのようだった。


「うん。すご~くね!」


 そう言って実姫は満面の笑みを浮かべた。楽しいこと、面白いことが大好きな彼女にとって学祭は、まさに夢のような時間に違いなかった。


「でもさ、主役なんて大変だろ? 台詞量も多いし、たった一人の演技の上手さが劇の良し悪しを決めるくらい責任は重大だしさ」


 劇の配役決めの際、実姫は自ら立候補して主役を買って出ていた。

 大変なこと、難しいこと、責任重大であること。それらは誰しもが極力避けたがるものだ。実際、主役決めの時には彼女以外に手を挙げる者はいなかった。

 同じようなことが過去何度もあった。クラスの代表、宿泊学習の実行委員、それこそ小学校の時の劇も。彼女は決まって、人々が忌み嫌うようなことを自ら進んでやり遂げていく。

 彗斗は彼女がそうしてきたことを良く知っているものの、こうして改まって理由を聞いたことがなかった。ずっと気になっていたものの、なかなか言い出し辛かったのである。

 一方の実姫は「う~ん」と唸りながら考える仕草をした後に、その理由を語った。


「大変だからこそやりがいがあると私は思うけどな~。大変だったことも最後には、楽しかったな~って、いい思い出になるんだよ」

「犯人の動機や証拠とかをあれこれ考察して、最終的に犯人の予想を的中させたときの嬉しさは、難解な殺人事件ほど増す、みたいな感じか?」

「例えがサスペンスドラマ的過ぎていまいちピンとこないなぁ……」


 呆れ顔を浮かべながら実姫は呟く。


「まぁ、いつかやってみたらいいよ。私の言ってたこと、よ~く分かると思うし」

「絶対にお断りだ。それなら小道具づくりしてた方がマシだっての」

「私からしたらそっちの方がつまらないと思うけどなぁ~。単純作業ばっかりだし」

「お前なぁ……。面白くてやってるわけじゃなくて、消去法で選ばざるを得ないからやってるだけだぞ。そもそも、俺らみたいな人たちがいるおかげで、演者の服装は華やかになるし、演技をする舞台だってあるんだぞ。そのこと忘れるなよ?」

「それもそうだね。みんなに感謝しなきゃだし、だからこそいいものにしないとね!」


 ニヒヒと笑みを浮かべながら、一歩前から走り出す早梨奈。


「早く行くよ~、彗斗!」


 振り返りながら実姫は彗斗の名前を呼んだ。

 憂鬱だった気分も、彼女の晴れ晴れとした笑顔を前にすると浄化されるように消え去っていく。彗斗はそんな彼女の背中を追って、学校へと向かうのであった。



 そんな懐かしい日を夢で見た彗斗は、携帯のアラームの音で目が覚めた。ただし、これは一度目ではない。


「……うん?」


 時計を見れば午前八時半を大きく過ぎている。しっかりと設定されていたはずのアラートがこのタイミングでなったのは、彗斗がほぼ無意識で止めていたからだ。

 今から準備して学校に行っていては九時半ごろになってしまうだろう。


『あっちゃ~。遅刻確定だね~』


 なんて実姫が呑気に声をかける。


「知ってて声かけないのは……」

『どの道無駄だから?』

「だよね……」


 どこかでしたようなやり取りをしながら、彗斗は布団から起き上がった。

 そして素早く制服に着替えて、学校に行く支度を進める。


『……今日さ』


 先程から一転して、実姫は静かに言葉を切り出した。その様子から何かを察して、彗斗は鞄に教科書を詰めている手を止めた。


『お父さんの命日、だよね』

「……だな」


 三年前のこの日。彗斗の父――勇慈ゆうじは、不幸な交通事故で他界した。仕事に向かう際、法定速度を大きく上回る速度で走行していた後ろの車に追突されたことが死因であった。

 事故当時は雨で路面は塗れている状態。制動距離が長くなる路面状況の中、速度超過であったことが重なり、その結果に起きた衝突だった。信号待ちであった勇慈には避けようのない不憫な事故であった。

 あれからもう、三年の時が過ぎた――。


「墓参り。一緒に行くか」

『うん』


 そんな会話を交わして、彗斗は再び手を動かした。



* * *



「遅刻とは珍しいな」


 彗斗が学校に着いたのは九時半。丁度一限が終了したタイミングで、授業を終えた先生たちがぞろぞろと職員室に戻ってくるタイミングだった。

 教室へ向かわず、先に担任の亮臣のところまで出向き、彗斗は直接頭を下げた。しかし亮臣は決して怒ることはなく、むしろ驚いた様子だった。

 遅刻を一度もしていないというわけではない。むしろ他の生徒に比べれば多いくらいである。

 だがそれは、一限がHRのような何でもない授業の時に限られている。今日のように一限が一般教科である日に彗斗が遅刻したことは一度たりともなかった。故に亮臣には意外に思えたのだ。


「ただの寝坊ですよ」

「……そうか。まぁ、射出のことだから理由は想像がつくし、そこまで責めないでおこう」

「助かります」


 昨日の夜、いや、今日の夜ともいえるだろう。つい昨日出た仮の中間試験範囲を見て、彗斗は夜中まで復習をしていたのであった。ある程度見切りをつけて就寝したのは、午前三時ごろ。これが遅刻の原因になっていたのは間違いなかった。


「……にしても、随分と今日はしおらしいな」


 亮臣は彗斗の様子を見てそう言った。どちらかと言えばフランクに話しかけてくるタイプの彗斗にしては、話し方がどこかよそよそしいように感じたのだ。


「今日は父の命日なんですよ。丁度思い出してたんです」

「……そうか。辛ければ休んでもいい。無理だけはするなよ」


 あの日以降の彼の様子を知る亮臣は気を遣ってそう言ったが、彗斗は逆にからっと乾いた笑いを見せた。


「一応三年経ってますからね。大丈夫です」

「そうか」


 彗斗は話が終わったとみて一礼し、この場を後にしようとする。長居していれば二限にも遅れかねないからだ。


「……あ、ちょっと待て」

「?」


 しかし亮臣は、そんな彗斗を呼び止めた。すぐさま彗斗は亮臣の方を振り向く。


「実は今日な」

「……はい」

「烏川が休みなんだ」

「それこそ珍しい気がします」

「風邪だそうだ」

「そうですか。……どうかしました?」


 彗斗は亮臣が訥々に話す様子に異変を感じ、眉を顰める。何やら言うのを渋っているような、そんな気がした。


「人の家庭のこと、他人に話すのは駄目だというのは重々承知の上で、一つ頼みたいことがある」


 そう言った亮臣の顔は、実に深刻そうであった。



* * *



 星島高校から彗斗の家へと向かうようにして歩き、途中の曲がり角で少し細い路地に入る。そしてすぐ左手に、黒を基調としたモダンなアパートがある。その建物の三階に彗斗はいた。制服を着たまま、右手には中身の入ったビニール袋を持っている。


『ここじゃない?』

「みたいだな」


『301号室』と書かれた扉の前で、彗斗は深呼吸した。

 朝、彗斗は亮臣に頼みごとをされていた――。


「烏川は一人暮らしだ。風邪とは聞いているが担任としては心配で仕方がない」

「高校生で一人暮らし、ですか。これまた珍しいですね」

「そうだな」


 先日、早梨奈と帰った際のことを彗斗は思い出した。大体の場所は、彼女と別れた位置から見当がつく。


「今日の配布物を届けるついでに、様子を見て来てくれないか?」

「俺が、ですか?」

「あぁ。他の生徒に任せるより、射出に任せた方がいいと思ってな」

「……分かりました」


 彗斗はとても複雑な気持ちだった。

 確かに隣の席という縁はあるし、意中の相手であることもあって決して嫌な気はしない。だが、こういう時は女子生徒に頼むのが通例である。生徒から嫌われていて頼む相手がいないということならまだしも、亮臣は比較的生徒に人気の先生。普通に頼めば、大半の生徒が快く引き受けてくれただろう。

 加えて、『射出に任せた方がいい』という言葉がどこか引っかかった。亮臣が自分に頼んだのには何かしらの理由があるのだろう。そう、彗斗は考察する。故にその意図を汲み取り、彗斗は断ることなくそれを承諾した。

 そして放課後。亮臣に教えてもらった住所を頼りに、こうして烏川の自宅前までやってきていた。

 防音されていて分厚い漆黒の扉の先に、おそらく烏川がいる。後はインターホンを押せばそれでいい。しかし彗斗は、たったそれだけのことに躊躇いが生じていた。

 そんな様子を見て、実姫はいじり倒す。


『この甲斐性なし~』

「……」

『この奥には私服姿の彼女が……』

「……止めてくれ」


 実姫の冗談に付き合っていられるほど、彗斗に余裕はない。亮臣のあの時見せた表情が、ただならぬものを予感させていたからだ。


『別に躊躇うことないじゃん? 嬉しくないの?』

「相手は病人だ。今はそんな邪な気持ちなんてない」

『だったら余計に躊躇う理由なんてないじゃん?』

「そう、だけど……」

『とにかく押さないと来た意味ないんだし、頑張って!』


 実姫に背中を押される形で、彗斗はインターホンのボタンに人差し指をかけ、ゆっくりと押し込む。『ピンポーン』というよく聞く音が、家の内外にそれぞれ響いた。



「……誰?」


 風邪を治すために眠っていた早梨奈は、この音で目を覚ました。相手が誰か確認するために体を起こしたが、朝のような全身の怠さはない。病み上がりだからか、少しだけ違和感はあったものの、それでもほぼいつも通りの調子を取り戻していた。

 ベッドから出て、部屋の中にあるインターホンと連動するモニターを確認する。するとそこには予想していなかった人物の姿があり、早梨奈は思わず身を引いた。


「なななな、な、なんで射出君が!?」


 早梨奈はここ最近で最も焦った。住所を知らないはずの彗斗がなぜ自分の家を知っているのかという点には頗る驚いたが、何よりも今の自分の状況が問題だった。

 服は寝間着、髪は寝起きでぼさぼさ。肌も手入れできておらず、目元は少し腫れている。額には熱をとるシートが貼られたままという、とても人様の前に出られる状況ではない中、あたふたと足をバタつかせた。


「どどど、どうしよ! 今からシャワーして髪乾かしてたら間に合わないし、でも掃除もしないとだし……」



 そんなひたすらに混乱する早梨奈の様子を知るはずのない彗斗は、首を傾げていた。一度目のインターホンを押してから約一分。防音ということもあってか、中から近づいてくるような音もしない。


「まだ寝てるのか?」

『そうかも』

「わざわざ起こすのも悪い気するよな……」


 そんな風に思いながら、この後どうしようか悩む彗斗。

 念のためにもう一度押して、それで出なければドアノブに荷物だけおいて大人しく帰ろう。そんな風に思い、再びインターホンに手を伸ばしたときだった。

 ガチャリと鍵の開いた音とともに勢いよく開け放たれた扉が、彗斗の額に直撃した。脳天に想像を絶する衝撃と痛みが走る。


「うごっ!?」


 声にならない叫び声を出し、すぐさま額を抑えてその場に蹲った。


『あっちゃ~。これはクリーンヒット……』


 痛覚は共有されていない実姫が他人事のように呟く中、扉の向こうから顔を出した早梨奈は顔を真っ青にしていた。


「い、射出君!? 大丈夫ですか!」


 不慮の事故、と言わざるを得ないため、彗斗は一切咎めることなくフラフラと立ち上がると、苦笑いを浮かべた。なお、堪えきれなかった涙が、僅かに零れていた。


「だ、大丈夫。烏川の方こそ大丈夫なのか?」

「……色々大丈夫じゃないですけど、大丈夫です」


 彗斗の問いに対して、早梨奈も同じように苦笑いを浮かべるしかなかった。


「とりあえず、中へどうぞ」


 早梨奈の家は、学生が住むにしては広い。玄関から入ると廊下のような通路があり、その左右にはお風呂場やトイレがある。突き当りの扉を開くと、十六畳越えのリビングと寝室が一体になった部屋が広がっている。

 早梨奈は彗斗を大きなテーブルの前に座らせると、リビングと一緒になっているキッチンの方へ向かった。そして観音開きの冷蔵庫を開け、袖のスペースで冷やされていたシートを手に持つと、彗斗のいる方に戻る。


「これ、よかったら」


 そう言って早梨奈はそのシートを渡す。それは今、早梨奈が額に張っているのと同じものであった。

 だがこれはあくまで熱をとるためのもので、湿布のような鎮痛効果があるわけではない。彗斗は小さく笑って、そのことを指摘した。


「これ、多分そういうのじゃないと思うよ」

「……へ? そ、そうでした!」


 早梨奈がその過ちに気がついて、一気に顔を紅潮させた。そして湿布と取り替えようと、渡したシートに手を伸ばす。しかし彗斗はそのシートを取らせまいと手を引き、あろうことかそのシートを自分の額に張り付けた。


「射出君、それじゃ効果ないですよ?」

「ううん。これでいい」

「いいんですか……」

「うん」


 彗斗の行動の意図が分からず、早梨奈は小首を捻る。


「にしても、案外烏川って天然なところあるんだな」


 昨日、早梨奈が誤って亮臣に暴露するかもしれないと懸念していたことは、強ち間違いではなかったのかもな、と彗斗は内心思う。


「……か、風邪のせいです。なかったことにしてください」


 耳まで真っ赤にしながら、早梨奈は恥ずかしそうに俯いた。


『もっかい額に何かお見舞いしたら忘れるかもね~。お見舞いする立場が逆になっちゃうけど』

「それはさすがに死ぬ……」


 実姫の冗談に、彗斗は自らの額を抑えるようにして呟く。早梨奈はそんな彗斗の言動を見て、実姫とのやりとりを思い浮かべて微笑んだ。


「とりあえず元気そうでよかった。一応アポのメールはしたんだけど反応なかったから、寝てるかもしれないと思いながらちょっと心配してたんだよ」

「ご心配ありがとうございます。でもおかげで良くなりました」


 彼女の足取りがしっかりしていたことや、こうして話す際にも違和感がないあたり、見栄を張っているわけではなさそうだった。彗斗はひとまず、ほっと一安心した。


「そういえば」


 彗斗は思い出したように切り出す。彗斗からすれば、ここからが本題でもあった。


「鶴屋先生から聞いたんだけど、一人暮らしなんだってな」

「……そうですね。一応」

「一応?」


 早梨奈は明らかに表情を曇らせ、コクリと頷く。

 どこか濁すような言い回しをした早梨奈。彗斗はここに、亮臣が懸念していた点があるのではないかと思い、もう少し踏み込もうとする。

 すると彼女は、一つの条件を提示した。


「ただ、その前に教えて欲しいことがあるんです」

「……分かった。それで、その教えて欲しいことって?」


 顔を上げてしっかりと彗斗の目を見る。そして包み隠さず、早梨奈は問う。


「勉強に熱心なのは、何か特別な理由があるのではないですか?」


 そう問われ、彗斗は視線を逸らすしかなかった。

 全く脈絡のないこの問いを改まってするのは、これに何かしらの事情があると確信を持たれているから。そうなるとおそらく誤魔化そうにも誤魔化せないだろう、と彗斗は悟る。

 彗斗は彼女の問いにできるならば答えたくなかった。故に、話さないで済む道を模索しようとする。

 だが、そんな逃げ道を考える余裕すら、早梨奈は封殺していく。


「射出君。何か疚しいことがあるときは決まって目線を逸らします」

「……」


 そう言われて彗斗は慌てて視線を戻したが、それは手遅れ。そしてむしろ、それが正しいと言っているようなものだった。

 もうこの状況になっては、機転の利く策を打っても無駄だと彗斗は思った。ここはあくまでも早梨奈の家。そんなアウェーの中、聞きたいことを答えなければ帰さない、そんな意志が彼女から垣間見えた。


「……分かった。ちゃんと話すよ」


 別に彼女だから特別話せない理由があるわけではない。単に、これは人に話すべきものではないと思っていたからだ。

 どの道、いつか話さなくてはならない予感はしていた。好きな相手だからこそ、隠し事もできるだけしたくはない。

 だから彗斗は神妙な面持ちで彼女を真っ直ぐに見つめ、彼女の問いに正面から答える。


「三年前だ――」


 彗斗はそう切り出し、当時のことを回想した。



 丁度三年前の今日。それは月川中学の学祭の日、当日でもあった。

 早朝、大切な会議があるとのことで早々に家を出た彗斗の父――勇慈が支度をしている音で彗斗は目を覚ました。

 いつも起きる時間より、二時間近く早い起床。学祭とは言え、殆どの準備を前日に終わらせているため、登校時間は通常通りでよかった。


「……」


 二度寝をしようと布団を被ったが、そこで頭の中を過ったのは幼馴染の顔。学祭を心から楽しみにしていた実姫なら、いつもより早い時間に家に来ても全然おかしくなかった。後々急かされると面倒になると思った彗斗は、溜息をつきつつもベッドから出た。

 その日の朝はやけに冷え込んでいた。ベッドの中の温もりから一転して、寒々とした部屋に体が少し震える。

 その寒さ、そして静かな部屋故に響くポツポツと、何かが屋根に打ち付けるような音。確かめるようにしてカーテンを開くと、決して土砂降りではないものの雨が降りしきっていた。

 体育祭とは違って雨天決行。模擬店も屋内メインで、屋外の店もテントであるために支障は出ない。とはいえ、学祭という華々しいイベントに、文字通り水を差す形になった。

 そんな雨模様を見つめながら、彗斗は独り言を呟く。


「早く起きたはいいけど、何してたらいいんだ……」


 今日は学祭であるため、学校に行くための支度はほぼ着替えるだけで済む。それだけならさして時間を要さない。

 肌寒い寒さから再び布団に包まりたいという衝動に駆られつつも、とりあえずリビングへと向かうことにした。


「あら。おはよう、彗斗」

「うん。……うん」


 リビングでは勇慈を見送った優子が、のんびりとソファーに腰かけてテレビを見ていた。

 これ自体は決して珍しい光景ではない。彗斗のドラマ好きは、テレビ番組全般が好きな母親の影響を強く受けていたからだ。

 問題は今優子が見ているテレビの内容。それを見て彗斗は、酷く顔を顰めた。


「ちょっと母さん。それ、俺が録画したやつ」


 その内容は昨日のドラマの録画。学祭の準備によって疲れ果てた状態で観るのはもったいないと思い、後で観ようと前日に予約しておいたものだった。果たして昨日は準備が長引き、あろうことか前夜祭かつ決起集会的なことまで行われ、帰宅したのは夕暮れから夜へと変わる頃。とてもドラマを観て楽しむ余裕などなかった。

 一方の優子。彗斗の咎めなど気にする様子もなく、平然と答える。


「昨日、私も見逃したのよ。他に観たかったのがあってね」

「それは別に良いけどさ……」


 そのドラマはワンクール最終盤。前回は、次回を今すぐに観たくなるようなもどかしい演出になっていたため、面白くなるに違いないと彗斗は期待していたのだ。それなのにこうして目の前で一部だけとはいえネタバレされると、気持ちが段々と冷めていってしまう。


「しょうがないでしょ? まさかこんな時間に起きてくるとは思ってなかったんだし」


 と、優子は少し拗ねたように唇を尖らせ、リモコンで録画の再生を停止させた。


「実姫が早く来そうだから起きたんだよ」


 確かに優子の言うことも一理ある。故に彗斗はそれ以上咎めることはせず、キッチン近くの椅子に腰かけた。普段は朝食を取らない彗斗だが、その様子を見て察した優子が立ち上がってキッチンへと向かう。


「いつも実姫ちゃん待たせてるし、いい心がけじゃない。いつもそうしたらいいのに」

「待たせてるというか、あいつが早すぎなんだよ」

「だったらそれに合わせればいいじゃない?」

「合わせたら合わせたで、それに応じて早まるんだよ」

「わざわざ来てもらってるんだから文句言わない」


 そう言って優子は、炊飯器からお椀によそったご飯を彗斗の前に置いた。炊き立てだからか、粒が立った米から湯気が立ち込める。

 彗斗は、決して朝に食欲がないから食べないわけではない。食欲より睡眠欲が僅かに勝るが故に省いているに過ぎない。こうして目の前に米が置かれ、キッチンの方からいい匂いが立ち込めれば自然と食欲がわき上がってくる。


「あ、そう言えば今日はご飯要らないかも。打ち上げあるし」


 ご飯と言えばで思い出した彗斗が、キッチンに向かってそう伝える。

 だが、暫く待っても優子からの返事はない。


「聞いてんの?」


 視線をキッチンに移すと、優子はスマホを直視していた。


「朝ごはんの支度中にそれ、は……」


 彗斗の言葉が途中で止まった。優子の明らかな異変に気がついたからだ。

 表情を強張らせ、動かない優子。

 ――一体どうしたのか。

 そう彗斗が聞こうとした時、優子の手からスマホが滑り落ちた。スマホの液晶が硬い床にぶつかると、割れたような音がした。


「うそ……でしょ」


 ようやく言葉を口にした優子は、明らかに正気ではなかった。


「何か、あった?」


 少し遅れて、重々しい様相で彗斗は尋ねた。

 優子はゆっくりと視線を彗斗に向ける。その表情は、彗斗の知らないものだった。


「お父さんが、事故に遭ったって……」

「え……」


 信じられないような言葉を聞き、彗斗も優子同様に取り乱した。ただそれでも、今はそんな風に呆然自失としている場合ではないということだけは分かった。

 彗斗は荒れる呼吸を落ち着かせてから、口をワナワナと震わせながら立ち尽くす優子の名を呼ぶ。


「母さん!」


 その声でようやく我に返った優子。


「彗斗、すぐに病院行くから支度して」

「分かった」


 味噌汁を温めるために付けていたコンロの火を消すと、彗斗を連れて車に乗り込んだ。

 それから二人は、勇慈が搬送された近くの病院へと直行した。

 しかし――。

 後ろから激しく追突された勇慈は、頚椎を激しく損傷。しかし一番の問題は、脳への衝撃にあった。後ろからぶつけられた反動で、頭を強くハンドルに打ち付けてしまい、それが原因で意識不明の状態。

 医師による懸命な治療が施されていたが、事故発生から数時間後。治療の甲斐なく、勇慈はこの世を去った。



 彗斗はそんな父を亡くした経緯を早梨奈に打ち明けた。あれから三年の時が経ち、彗斗は初めてこのことを人に話したのだった。

 それについての話を求められたことがなかったということもある。だがどちらにせよ、このことを話せるだけの状態ではなかった。

 今だからこそ、相手が早梨奈だからこそ話せた。彗斗は内心そう思っていた。


「それから家は母子家庭になった。母は精一杯働いてくれているけど、そんな様子を見てできるなら少しでも楽をさせてあげたいと思った。だから勉強して、いい所に就職したいんだ」

「そう、だったんですね……」


 早梨奈はテーブルの上に視線を落とす。

 彗斗は今までずっと語るのを躊躇ってきた過去を打ち明けた。

 それならば今度は――。

 早梨奈は絞り出すようにして打ち明ける。


「……私は両親がいません」


 突然の早梨奈の告白。それは先ほどの自分の疑問に対しての答えだと彗斗はすぐに気付いた。決して口を挟むことなく、早梨奈の口から話される言葉にだけ集中する。


「父は母が私を身籠った頃に離婚して行方知れず、母は若かったことと元々病弱であったこともあり、私を産んで間もなくしてこの世を去りました。だから私は、両親を直接見たことはありません」


 そう言って早梨奈が見つめた先――キッチンとリビングを隔てる場所に飾られた一枚の写真。彼女によく似て愛嬌のある笑みを浮かべた女性は、早梨奈の亡き母だ。写真が撮られた当時の年齢が若いことから、余計に早梨奈の面影を感じさせる。


「それから先は母方の親戚に引き取られましたが、中学を卒業するタイミングで家を出ました。今は親戚から金銭的援助を受けながら一人暮らしです」


 早梨奈はどこか自身を憐れむような笑みを浮かべた。

 そんな彼女の微笑は、彗斗の胸を強く締め付ける。痛々しさが伝染するように。


「時折、親のことを楽しげに話す声を聞いて胸が痛くなるんです。でもそれが自分だけじゃないんだなって、射出君の話を聞いて気付かされました」


 彗斗も早梨奈の話すような経験は何度もあった。

『両親』と遊びに出かけた。

『両親』にこっぴどく叱られた。

『両親』に頑張れと応援された。

 楽しいこともあれば、時には嫌に思ったりすることもある。それでも、『両親』がいるだけで十分に幸せなことだと彗斗は知っているから、そういう人を時に羨んだりもした。自分の境遇を恨んだりもした。


「俺も似たようなことを感じたよ。俺には母さんがいる。それだけで幸せなんだって……」


 ――なんて俺は情けないのだろう。

 ――なんて私は愚かだったのだろう。

 互いのことを知り、それぞれが自分のとってきた行動を悔やんだ。

 ――『辛いのは自分だけじゃないのに』。

 早梨奈は堪えきれなくなった涙を溢した。それを見た彗斗が彼女にそっと近づくと、早梨奈は彗斗の胸元へと顔を埋める。そうして、互いが互いを慰め合った。

 彗斗も早梨奈も、自分のこの境遇が辛かったと他人に吐露してこなかった。

『話せば楽になる』

 世に溢れたこの言葉は決してまやかしなどではなく確かなことだったと、二人はこの時初めて知ったのだった。



* * *



 星島高校の職員室を出たところにあるガラス窓からは、校舎裏やその先の住宅地を望むことができる。

 仕事が大方片付いた亮臣は窓を半分ほど開け、窓の桟に左肘を置いて頬杖をつく。そして大きく息を吐いた。直に訪れる冬季であれば、その息は真っ白に染まって空へと上っただろう。

 亮臣は拭いきれない不安を抱えていた。おかげで、頭の中は靄がかかったようにすっきりしない。

 三年前の秋。学祭の日から先の彗斗を知っているからこそ、朝の彼の様子は当時を彷彿とさせ、気がかりでならなかった。


『一応三年経ってますからね。大丈夫です』


 ――だったら、どうしてそんな表情を見せるんだ……。

 三年経っても、本当の意味では今も立ち直れていないように思えた。多感な時期だったために彗斗の受けた心の傷は奥深くにまで及び、その分人より長く引き摺り続けている。

 学祭の日以降――勇慈が亡くなってから、彗斗は学校に姿を見せなくなる。担任であった亮臣は、ほぼ毎日のように射出家を訪れていた。

 訪ねる度、決まって彗斗の居場所は自室にあった。扉越しですら伝わる部屋の重苦しい空気感。亮臣はそれでも、立ち直れるよう言葉を尽くした。

 しかし、彼に届くことはなかった。彼との間を隔て続けた扉は、まるで教師と生徒の決して消えない境界線を突きつけるようだった。

 このまま、彼の二年生は終わってしまうのだろうか。そんな風に亮臣が思っていたところに、彗斗は突然姿を現した。約三か月ぶりに学校に来たのである。

 亮臣はこのことが嬉しいと思う反面、悔しさに心を痛めた。

 ――きっと自分の声が届いたからではないのだろう。

 たった一人の生徒を立ち直らせることすらできない自分の不甲斐なさが、問題解決後も強く残った。

 生徒を導く職業である教師。自分は本当にそうであっただろうかと、あれから三年経った今ですら悩み続けている。あの時の出来事を引き摺り続けているのは、決して彗斗だけではなかったのだ。

 再び見せた、まるで何かを諦めたかのように希望を持たない彗斗の表情。今度こそ何か手助けをしてやりたいと、心の底から思った。

 だから――。


「……先生。鶴屋先生」


 ふと、後ろの方から亮臣を呼ぶ声が聞こえた。振り向くとそこには、心配そうに見つめる魚谷颯の姿があった。


「先生、大丈夫ですか?」

「いや大丈夫だ。それで、何か用か? 魚谷は今、部活中だろ」


 バスケ部の練習着姿であった颯を見て、亮臣はそう問う。


「あ、えっと。国語の提出物、出し忘れてたのを思い出したんです」


 そう言って颯は手に持っていた一冊のノートを掲げる。


「提出物……、あぁ、それなら明日の朝でもよかったのに。わざわざ部活抜け出さなくても」

「いえ。一応今日提出ですし、遅れて出すのはどうかと思いまして。それが通じるなら、他の生徒の逃げ道にもなりかねませんし」

「そうか。それじゃあ貰っておくよ」


 他の生徒の模範的存在である彼らしいなと思いながら、亮臣はノートを受け取った。


「それじゃあ自分は練習に戻ります。失礼します」


 そう言って律儀に一礼し、早々と去っていこうとする颯を亮臣は呼び止める。


「魚谷」

「?」


 不思議そうな目をする颯に、亮臣は問う。


「今日の射出、どうだった?」

「どうって言われましても……。まぁ、いつもよりちょっと暗いような感じはしましたけど、それ以外はいつも通りに見えましたよ。それがどうかしました?」

「いや、何でもない。聞いてみただけだよ」

「そうですか」


 そう言うと颯は一瞬戸惑いながらも再び一礼して、


「失礼します」


 と挨拶をすると、駆け足で体育館へと戻っていく。


「廊下は走るなよ!」

「は~い」


 颯を見送り、亮臣は再び外を眺めた。

 日が傾き、もう地平線の下に落ちて見えない。まだ空の明るさは残っているが、間もなく夜がやってくるだろう。

 亮臣が朝、他の生徒を頼らなかったのは、彗斗が立ち直るきっかけを早梨奈が持っているように思ったからだった。同じような辛い境遇を持つからこそ、分かり合える部分は少なからずあるのではないか。そう考えた亮臣の、一つの気遣いが生んだ策略であった。

 教師と生徒の間にある絶対的な境界線は、残念ながらそこに存在し続ける。例え年齢が近くとも、やはり立場の違いがそこには存在して、教師が生徒を導く上でできることには限度がある。そう、亮臣は結論付けたのである。

 ただここで悲観的になるのではなく、できる限りのことをしようと考えた。教師と生徒の関係性があっても、人と人との関係である以上、困っていれば助けたいと思うから。

 亮臣はこの先の好転を祈るようにして、静かに目を瞑った。



* * *



 マンションの三階にある一室。溜め込み続けた悲しみが吐き出されることしばらくして、早梨奈は体勢を軽く起こして彗斗から距離を取る。

 ――や、や、やってしまった!

 あくまで顔を伏せたまま、早梨奈は心の中で嘆く。出し尽くしたのか、もうそこには悲しみや悔しさなどはなく、代わりに恥じらいが込み上げていた。

 ほぼ無意識的とはいえ、気を遣って寄り添ってくれた彗斗に甘えるように胸へ飛び込んだこと。思い出せば、顔から火が出そうだった。

 そんなことを思っているとは露知らず。彗斗は早梨奈の肩に手をポンと乗せ、そっと立ち上がる。


「一応病み上がりだし、俺はもう帰るよ」


 再び気を遣う彗斗の気持ちが早梨奈は嬉しかった。

 欲を言えばもう少しいて欲しかった。けれどこれ以上彼に縋ることに、引け目も感じた。引き止めたい気持ちをぐっと堪え、早梨奈は俯いたまま「分かりました」とだけ返事をした。


「色々買ってきたから、ここに置いとくよ」


 彗斗はそう言って、買ってきた風邪薬とスポーツドリンク、そして少しの食糧をテーブル上に置く。ビニール袋が擦れる音と、それらが置かれた際のコツンという音が、夕刻の一室にはやけによく響いた。


「じゃあまたな」


 彗斗は言外に「見送りは要らないから」と含めると、玄関の方へと歩き出す。

 そんな彼を慌てて追いかけ、早梨奈は制服の背中側の裾を掴んで呼び止めた。


「ま、待ってください!」


 そんな早梨奈の方を彗斗は向こうとするが、早梨奈は立て続けにお願いする。


「こっちは見ないでください。絶対にです」


 ――こんな顔、絶対に見られたくない……。

 あまりにはっきりと言われたので、彗斗は後ろを向くのを止める。そしてこの先続くであろう早梨奈の言葉を静かに待った。

 慌てて若干乱れた息遣い。必要以上に強く引かれた裾。


「本当に、ありがとうございました」


 そう言った瞬間、早梨奈は裾から手を放す。

 とても優しく、恥じらいを感じさせる語気は、彗斗の顔を紅潮させるには十分だった。


「ううん。またな」


 改めて彗斗はそう告げると、決して彼女のことを向き直すことなく部屋のドアノブに手をかけた。


「はい。また明日」


 そんな小さな声を背に、彗斗は早梨奈の家を後にした。



 夜が段々と近づき、空は灰色に染まり始める。街灯は徐々に灯り始め、街を彩っていく。

 時刻は午後六時過ぎ。辺りは異様なくらいな静けさを孕んでいて、鈴の音を奏でる虫の羽音が反響する。

 早梨奈の家から徒歩十五分ほど。彗斗の家を含めた一面の住宅地を一望できる小高い山の上には人の姿はない。

 ここには高く伸びたの石碑――墓石が周りに広がっている。公営の墓地だ。

 昨年のこの日は優子と訪れたこの地も、今年は仕事で都合が合わず、それぞれが別の時間にお参りに訪れることになった。仕事の前に、ということで早朝に訪れた優子が花を供えているため、彗斗は持参した数珠のみを手に持ち、父――勇慈の墓前に立った。

 白御影石の墓石に刻まれた父の名前。先祖代々同じ墓に入る場合もあるが、この墓石には勇慈だけが眠っている。

 墓石は時に日に晒され、時に雨に濡れる。そうして年月が経てば、表面に苔が生す。射出家の墓石にはそれがほぼ見られず、表面が実に艶やかであった。建てられてから日が浅い証拠――亡くなってからの年月がまだ浅いことを示していた。

 彗斗は数珠を手にかけ、静かに膝を曲げてしゃがむ。合掌し、静かに目を瞑る。

 しばし経ってからゆっくりと瞼を開き、墓石と改めて向き合った。


「久しぶり、父さん」


 墓の中に眠る勇慈に、彗斗は静かに語りかけた。


「父さん、もちろん覚えてると思うけど、実姫がさ……。実姫がこの前、亡くなったんだ」


 先に母が報告したかもしれない内容と知りながら、あえて復唱するように言った。

 そして自分の胸辺りに右手を添えると、先ほどの言葉を訂正するようにして告げる。


「だけど、実姫はここにいるんだ。まだ生きてる」

『おじさん。彗斗の言う通り、私はまだ生きてます。今は誰よりも近く、彗斗の傍にいます』


 実姫は彗斗の言葉に続けるようにして勇慈に報告する。

 幼い頃はよく遊んでもらい、実姫のたくさんの思い出の中にも勇慈の姿があった。彗斗を家まで迎えに行くと、嬉しそうに笑顔を見せた勇慈の表情は、今でも実姫の記憶の中に飾られている。

 実姫の報告を聞き届けると、彗斗は少しだけ表情を綻ばせた。


「それともう一つ。……好きな人ができた」


 父が生きていたなら、もっと気恥ずかしくて絶対に言えなかっただろうことも、目の前が墓石という現実の前なら言えてしまう。それが少し悲しくて、喜ばしいはずの報告も頬が緩み切らなかった。


「いつかちゃんと紹介するから」


 そう言うと、彗斗はゆっくりと立ち上がる。


「また来る。それまで元気で」


 別れの挨拶を告げると、彗斗は静かに勇慈の墓を後にした。



 秋の夜。辺りが自然に囲まれていることもあり、寒さを乗せた風が吹けば木々の枝葉はゆらゆらと靡く。虫の音も相まって趣深く風情のある音が、夜の静けさで大きく聞こえる。

 小高い場所にある墓地からの帰り道は下り坂。その途中、少し開けた場所に差し掛かった。彗斗は歩きながら、その方向を一瞥する。


「……」


 随分と久しぶりに――彗斗は来た。

 彗斗にとって、いや、彗斗と実姫にとってここは懐かしい場所だった。

 幼い頃、彗斗はこの場所――この少し大きな公園に、実姫に連れられて何度も遊びに訪れた。遊具はジャングルジムとブランコ、小さな滑り台と、敷地面積に対しては少し貧相な品揃えだが、逆に言えば多目的に利用が可能な場所ともいえる。ラジオ体操の開催場所だったり、朝の散歩スポットになっていたりと、何かと近隣住民にとってはよく利用する場所でもあった。

 幼い頃の思い出が詰まった場所。懐かしいと感じるのは当然であったが、彗斗はなぜかそこに違和感を覚えた。

 思いの外、懐かしいという感覚が薄かったのである。

 最後に来た記憶があるのは、かれこれ五、六年程前。つまり、当時はまだ小学生だった。懐かしく感じるには十二分に要素は揃っているはずだ。

 だったらなぜ――。


「……まぁ、いっか」


 しかしながら、これ以上考えても仕方のないこと。そして仮に結論に辿り着いても、大した意味もないことだろう。

 彗斗はそれ以上深く考えることはなく、そのまま公園を素通りした。



* * *



 彗斗が家に帰宅すると、家の中に明かりが点いていた。玄関で靴を履き替えると、すぐにリビングへ向かう。


「おかえり。今行ってきたの?」


 部屋の扉が開くやいな、優子が話しかけた。


「うん。別に用事があってその後に行ったからちょっと遅くなった」

「そう。それなら一緒に行けばよかったわね。母さん、思いのほか仕事が早く終わったものだから……」

「まぁ、これはこれで良かったんじゃない? お互い遠慮せず、ゆっくり父さんと話せたんだし」

「……そうね」


 二人が同時に墓参りに行けば、必ずどこかで相手のことを気にしてしまう。その点、一人で行けば同行した人のことを考えずに済み、自分のペースでゆっくりと向き合える。

 偶々だったとはいえ、いい過ごし方ができたのではないかと彗斗は思った。


「そうだ、彗斗」

「うん?」


 優子は思い出したようにして彗斗の名を呼ぶ。


「実姫ちゃんの両親が、『葬式の時に言ったかもしれないけど、本当に気兼ねなく、いつでも会いに来て欲しい。きっと実姫も会いたがってると思うから』って」

「――あぁ、うん。近いうちに行ってくる」


 彗斗は、優子の言葉を聞いてからの反応がニ、三秒ほど遅れた。

 それは葬式の日、実姫の両親からそのように言われた覚えがなかったから――否、それは違う。

 じんわりと、額に汗が滲むのが分かった。それでも取り乱しを悟られないよう、彗斗は何とか取り繕う。


「ごめん母さん。今日はこのまま寝るよ。歩き疲れたし」

「そう。お休み」


 そして彼女の前から逃げるようにして、慌てて自室へと戻った。

 自分の部屋に入って後ろ手で扉を閉めると、そのまま力が抜けたように扉に背中を擦りながらしゃがみ込む。

 ――また……、まただ。

 同じようなことが日曜日にもあった。優子の言っている言葉の意味が全く分からなかったのだ。

 実姫の葬式の日に、実姫の両親から何か言われた記憶などない上、最後に会った記憶があるのは三年近くも前だった。それ以前に、実姫が亡くなったことを後になって知った彗斗は、葬式が行われた期日も知らないのである。

 まるで自分が葬式に参列していたかのように話した優子。不自然で不可解な事実に頭が混乱する。

 ――俺はあの日以前、一体何をしていたんだ。

 そもそも、なぜ自分は後になって実姫の死を知ることになったのか。目先のことにばかり囚われていた彗斗に、その問いが初めて生じた瞬間。


『思い返そうとしても無駄だよ』


 実姫が諭すように囁く。その声音はどこか悲しげで、切なげに彗斗は感じた。


「……なんで、そう言えるんだよ」


 そう彗斗は絞り出すように問う。彼女の次の言葉にだけ聞き耳を立てると、彼女の声が脳内で際立って聞こえた。


『記憶されていないものを思い返そうとしているから』

「!?」


 彗斗は呆然とした。

 そのまるで全てを知っているかのような実姫の口ぶりは一体――。


「何だよ、それ……」

『言ったとおりだよ。彗斗に、その頃の記憶はないよ』

「……だったら、さ。なんでお前はそのことを知ってるんだよ。教えてくれ……」


 彗斗の頭の中は混乱していた。記憶を失っていること、そのことをなぜか実姫が知っていたこと……。考えても自分一人では結論に辿り着けないと知っていても、それでも考えずにはいられない。分からないことが堪らなく怖かった。


『全部、ちゃんと話す。でも、今日はだめ』

「……どうして」

『明日の朝にはちゃんと話すから。だから今は……』


 少し苦しそうに、声を途切れさせる実姫。

 話すには彼女なりの心の準備が必要なのだろうと、彗斗は思った。


「……分かった」


 彗斗はそう言うと、明かりのない暗がりの部屋の中で立ち上がり、ゆったりとした足取りでベッドに歩み寄る。そして目を瞑り、そのままベッドに倒れ込んだ。

 本当なら今すぐ真実が知りたかった。

 実姫がいつになく苦しそうに話すその様子が、少なからず深刻な内容であるということを教えてくれているようなもの。そしてそれはおそらく、実姫の死の真相に繋がっているようにも感じるから。

 明日がものすごく遠いものに感じる。

 時間の流れが、酷く滞っているように感じる。

 夜の暗さがそれに拍車をかけているのかもしれない。そんな夜を、彼女は毎晩過ごしてきたのだろうと彗斗は思い、さらに心を痛めた。


「……っ」


 彗斗は頭をベッドに擦りながら、横に何度も振る。考えれば考えるほど、沼にハマっていくだけ。どの道明日にならないことには、何も分かりはしない。だから雑念を頭から払い去り、何も考えないように努めた。

 そうしてしばらく。彗斗の意識はパタリと落ちた。

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