第6話 真実はいつも――残酷である

 十月八日。平日最後の日の早朝午前六時の空は、まだほんのり靄がかかったような青空だった。

 彗斗が目を覚ますと、そこには有り得ない景色が映っていた。


「……おい。これは何がどうなってる」


 木の天井、壁掛けの時計、藍色のカーテン。自室にあるはずのそれらは、一つとして視界になかった。

 見渡す限りの住宅地、朝焼けで赤く燃ゆる太陽、風に靡く木々が目に映り、冷えて乾いた秋風の音、風に吹かれ踊る木々の音、甲高い鳥の囀りが耳に入ってくる。

 ここがどこなのか。それを察するに多く時間は要さなかった。

 問題は――。


「どうして俺が公園にいるんだ……」


 彗斗が立つ場所は、昨日墓参りの帰り途中に通りかかった公園。幼き頃から幾度も訪れた場所だった。

 今一度、彗斗は自分の状態を確認するように自身の身体を見渡す。制服に着替えられ、いつも履いている白色のスニーカー、あろうことか学校の鞄まで持っている。

 昨日の夜、確かにベッドの上に横たわっていたはず。そこまでの記憶ははっきりとしていた。

 しかし、彗斗にはそこから今に至るまでの記憶がまるでなかった。


『おはよう、彗斗』

「……あぁ」


 あくまでもいつも通りだと言わんばかりに、実姫は挨拶を口にした。

 昨日の思わせぶりな言葉が脳裏を掠め、彗斗はすぐに懇願する。


「教えてくれ。実姫の知っていることの全てを知りたい」


 彗斗がそう言うと、そこからしばらく実姫は無言だった。もし彼女の体があれば、深呼吸でもしながら打ち明ける心づもりをしていたことだろうと彗斗は思いながら、次の言葉を待った。

 そして実姫は、全てを打ち明けた。

 ――十月一日、一週間前の実姫の命日のこと。

 ――そこから十月三日の夜十時半まで、彗斗の記憶にない時間のこと。


『これが真実だよ』

「……」


 実姫に打ち明けられたことを彗斗は一切疑わず、全て飲み込んだ。

 昨日、ここを通り過ぎた際に感じた違和感の正体は何だったのか、という疑問に対する答えとして辻褄が合っていること。そして今、こうしてここにいることは、実姫の話したことが真実であるということを裏付けているからだ。

 昨晩、実姫が話すのを翌日に設定したのは、まさにそれが目的であった。


『ごめん、彗斗。あの日嘘ついてた。共有できるのは視覚情報と聴覚情報だけって言ったけど、厳密には違う。彗斗の意識がない時に限っては、私が彗斗の身体を自由に動かせるんだよ』


 十月三日の夜。あの日、彗斗は意識を取り戻したタイミングで、体の重怠さと眠気を感じていた。その正体が、自分は意識のない中でも実姫が彗斗として生活していたからだという実姫の説明は筋が通っている。

 そして翌日。


「意識がないというのは、眠っているときも含むってことか」

『……うん』


 HRの最中、眠っていたはずの彗斗が学級委員長になっていた件。亮臣が言っていた「やる気満々」は当初、居眠りをしていたことに対する皮肉だと彗斗は思っていた。

 でも違っていた。

 実姫が勝手に立候補していたのだ。ただ、その意図を彗斗は未だ知らない。


「……これが現実っていうのかよ」


 彗斗は悲痛な心の叫びを漏らす。

 この事実を知る前後で、彼女の死は不条理であったという点が変わったわけではない。

 けれど、その経緯を知れば――本当に理不尽極まりない死であったということを知ってしまい、余計に居た堪れなくなった。

 ただ行き場のない感情が、あの日以上に渦巻いていく。



『本当はずっと黙っているつもりだった。話したくなかった』


 話してしまえば、勇慈が亡くなってからの日々を再び辿ることになる。そうなれば、自分の望んだ日常からはさらに遠ざかってしまう。そう考えた実姫は、このまま隠し通すつもりだった。

 彗斗にあの時以降の記憶がないだけでなく、公園に呼び出されたことの記憶すらも失っていたことは、そういう意味では都合よく働いたのである。

 けれど昨日の優子の一言が、話さざるを得ない状況を作り上げてしまった。いつかその時が来るのではないか。実姫は常に恐れ続けていた。

 嘘に嘘を覆いかぶせても、それでもどうしようもない時があった。犯罪には完全犯罪が存在しないように、隠しきれない小さな部分はいくつもあったのだ。それらが彗斗の中で違和感として積み重なり続けていた中起きた昨日の出来事。

 実姫が自分から言い出さずとも、彗斗が何か知っているのではないかと実姫を疑うのは時間の問題だった。


『私は本当ならいないはずの存在なんだよ? だからあの時、この場所で私が言ったことも忘れて欲しい』


 実姫はそう言いながら、下唇を噛みしめるような自分への苛立ちを感じた。

 彗斗が三年前と同じにならないように希望を持たせようとしたのとは真逆の実姫の思い。

『自分のことを忘れて、烏川さんと幸せになってほしい』という気持ちと、『三年前の出来事の再来にならないように、自分は隣にいると希望を持って欲しい』という気持ちは、矛盾するものだった。同時に両方を実現することは不可能だと言えた。

 まるでこれでは、告白する前と同じ――いや、今回も元を辿れば同じ問題だった。

『隣にいるべき人と一緒にいて欲しい』という気持ちと『彗斗の隣にいたい』という気持ち。それの延長線上に、今回の気持ちがある。あの日で終わりにしようと決めておきながら、今日まで引き摺り続けた。

 結局、あの日から何も変わっていない。

 まるであの時から時計の針が止まったままのようだった。


「何、言ってんだよ……」


 実姫も彗斗と同じ思いだった。

 やっていることと言っていることがまるでちぐはぐだったのだから。

 彗斗は顔を強く顰めながら、力任せに叫ぶ。

 ほんの近くに居る彼女への言葉なのに――。


「『隣にいたい』って思ったんなら、どうして自分から離れて行ったんだよ!」



* * *



 三年前、勇慈の死から数日が経過した頃。

 彗斗は自室のベッドの上で布団に蹲るようにしながら、時を過ごしていた。

 父の突然死に対して悲しみに明け暮れる挙句、思考は良からぬ方向へと転換していた。彗斗は「死」の恐怖に怯えていたのだ。

 人はいつか死ぬ。

 そんなことは当時中学二年の彗斗にも分かっていた。

 けれどこうして死を目の当たりにしてしまえば、嫌でも考えてしまう。人は死んだ後、どうなってしまうのだろうか、と。

 人は死んだ後、天国か地獄に行く。そんな世界は幻想である。

 本当の死とは、死んだことすら知覚できない。五感全てが存在せず、考えることもできない。死とは無に帰すことに他ならない。

 彗斗はそれが怖いと感じた。恐怖とは「知らない」、「分からない」ことである。未確認飛行物体や地球外生命体に恐怖するのもそう。お化け屋敷や先生からの突然の呼び出しも、いつお化けが出てくるか「分からない」、この後何を言われて何をされるのか「分からない」からこそ人は恐怖する。死とはその典型例であり、その経験を伝聞できない事象である。故に人は「死」に恐れを抱くのだ。

 身近な人が死んでしまったことで、決してそれは自分にとって縁遠いものではないと知った。だからこそ、彗斗は酷く死に恐怖を覚えた。

 自室のベッドの上で布団に包まりながら、ワナワナと震える日々が続く。何をしようとも、片時もその思考は離れない。決して答えが見つからないことであるが故に、彗斗の思考は結論に辿り着かない。

 そんな日々が三ヶ月も続いた。食事もほとんど喉を通らずで、体は痩せこけた。それこそ死に近づいているのだと分かっていても。

 毎日のように咽び泣き続けた結果、喉は常に枯れ、終いには涙すら枯れてしまった。



 ある日。実姫が射出家を訪れた。――否、その日に限らず、実姫は毎日のように彗斗の家を訪ねていた。

 優子に彗斗の様子を尋ね、その度に「そうですか……」と優子の胸中を推し量る日々。そうしながら実姫は、彗斗の状況が好転する時を待ち続けていた。

 ただ、三ヶ月経ってもそれは変わらなかった。いつだって部屋に籠ったまま。呼びかけても、何も返事はなかった。自分の声が届いているのかどうかすら確認する術がない。

 いつか、またいつもの彼に戻ると信じて実姫は待ち続けたが、何も変わらなかった。もしこのままなら、きっと彗斗は何も変わらないだろう。そう思った実姫は、一歩踏み出す決意を固めた。

 彗斗の部屋の前。僅かな扉の隙間から漏れ出る空気感だけで足がすくむ。

 それでもドアノブに手をかけると大きく深呼吸し、意を決して開け放つ。


「……彗斗」


 部屋の外から入る明かりで僅かに射し込む光が、変わり果てた彗斗を映し出す。そのあまりの痛ましさに、実姫は言葉を失った。あの頃の彼の姿など、もうどこにも見当たらない。外見も、心も荒んでしまった彼はもう、別人にすら思えた。



 実姫が彗斗の名前を口にしたためか、それとも射し込む光に気づいたのか。ベッドの上に俯いて佇んでいた彗斗は顔を上げ、約三か月ぶりに人と目を合わせた。


「……」


 声が枯れていたから何も話せなかったわけではない。何も言いたくなかった。

 きっとこの三ヶ月。実姫は自分のことを心配し続けただろう。そのことに、申し訳なさはたくさんあった。

 けれど――。


「帰ってくれ……」


 絞り出すように彗斗は言った。

 誰にも会いたくなかった。こんな醜態を晒したくなかった。

 ――特に実姫には。


「帰ってくれ!」


 彗斗はそう強く叫ぶ。見たこともないその彗斗の様子は、実姫の心配する気持ちを掻き消してしまった。


「……分かった」


 実姫はそう呟くと、静かに部屋を出た。その際の表情を――彗斗の知らない表情を彗斗は見逃したのだった。



* * *



 実姫は三年前の当時のことを思い出しながら、「どうして自分から離れて行ったんだ」という彗斗の問いに対して答える。


『私は彗斗の隣にいるべきじゃないって、そう思ったからだよ。ずっと一緒にいた私があの場から救い出せなかった時点で、もう失格だって思った』

「……っ」


 実姫がそんなことを思っていたことを彗斗は知らなかった。

 だから勘違いをしてしまったのだ。本当は自分の隣より、たくさんの人の中にいる方が幸せに感じていたのではないかと。


「ごめん……実姫」

『どうして彗斗が謝るの……?』

「失格なのはむしろ俺の方だ」


 彗斗はあの暗闇――自室に閉じ籠る日々から抜け出してすぐ、実姫の元を訪れた。あの時の非礼を詫びるためだ。

 だが彼女は、「全然気にしないで!」と笑って答えるのであった。それが全て取り繕いだと、当時の彗斗は気付かなかった。

 それ以降、元に戻っていくと思われた関係はむしろ遠ざかる。登下校を共にすることはなくなり、一緒にいる時間は減っていった。

 きっとあの時、彼女にもう一言言っていただけで変わっていただろう。

 自分の思いを伝えていたなら――。


「ずっと隣にいて実姫のことをよく知っていたはずなのに、そんな実姫の気持ちに気付けなかったこと。『また一緒に登下校したり、馬鹿なことやったりしよう』って、その一言が言い出せなかったこと。本当にごめん」


 たった一言。たった一つの行動次第で、全然違った今を迎えていただろう。

 彼女が隣にいなくなってからしばらく、どこか物寂しさを感じたなら。いつか彼女が隣に戻ってきた時、自分の方が上だと言って見返してやりたいなと思ったことも、勉強熱心になったきっかけになっていたのなら。

 決して内に秘めるのではなく、ありのまま伝えたらよかった。今更な反省ばかり、彗斗の脳内に渦まく。



 同じようなことを実姫も思っていた。もし、彗斗の気持ちを知っていたなら、気付けていたなら――。

 些細なすれ違いで、事の結末はこうも両極端になってしまう。幸と不幸は常に紙一重で表裏一体。世の理とは、実に残忍であった。


『――ありがとう』

「なんでそこで感謝の言葉が出てくるんだよ……」

『そう思っていてくれてたこと、知れてよかった』

「今更そんなこと知っても……」

『やっと、諦めがつくよ』


 もしその気持ちをもっと早く知れていたなら。そう思う気持ちは確かにあるけれど、諦めへの餞の言葉としては十分だと実姫は思った。

 あの日、あの時点でもとより決まっていたこと。

 現象が起きて再び燻ってしまった気持ちに、今度こそ終止符を打てる。

 実姫の気持ちの中には、どこか清々しさすらあった。



『どの道もう、私にはいつも通りを歩むことはできない』


 実姫の言う『いつも通り』という言葉は、彗斗の中で一つのことを連想させた。


『いつも通りに戻ってほしい。ただそれだけだよ』


 あの夜、彼女はそう言った。その『いつも通り』には二重の意味があったのだと、彗斗は今なら分かるのである。

 今、彼女が否定した『いつも通り』が指すのは、そのうちの一方だけ。幼馴染として、かつてのように彗斗の隣に立つこと。

 それはもう叶わない。そのことだけは確かで、彗斗は反論する言葉の一つも見つけられなかった。


『だけど、だけどね……。最後に、彗斗にお願いがあるの』

「……うん」


 最後に。それは最期にとも捉えられる。


『琴浦実姫として、一つだけさせて欲しいことがある』


 実姫は静かに、その内容を語った。



「――分かった」


 彗斗はそう返事した後、ポケットからスマホを取り出してある場所に電話をかける。

 教職の先生が初めに出たが、すぐに取り次いでもらうようお願いする。すると保留されるほどの間すら要さず、別の所へと電話が繋がった。


「もしもし」

『もしもし……。射出か?』

「はい」


 電話の相手は彗斗のクラス担任、亮臣である。


『どうかしたのか?』

「今日、学校休みます」

『……分かった。また月曜日、な』


 なぜ学校を休むのか。そう理由を問わなけばならない教職の亮臣だったが、彗斗の様子から察したのか問うようなことはなかった。


「はい。失礼します」


 用件を伝え終えた彗斗は、静かに電話を切った。電話のやり取りを聞いていた実姫は、少し心配そうに彗斗に問う。


『彗斗……。自分から頼んでおいてあれだけど、よかったの?』

「馬鹿。ほんとその通りだ。頼んでおいて今更なんだっての」

『だって、だってさ……』


 闇の中から抜け出し勉学熱心になった彗斗は、以降学校を休むことはなかった。その理由を知っているからこそ、実姫に申し訳なさが込み上げていた。

 けれど彗斗は、そんな思いを払拭するように言う。


「幼馴染の大切なお願いを断れるほど、俺は大切な日々のことを忘れてないんだよ」


 彗斗はかつてのように一度空を見上げた後、踵を返す。

 その言葉に、その行動に。

 泣ける身体もないはずの実姫は、心の中で涙を流した。



* * *



「……分かった。また月曜日、な」


 亮臣はそう言うと、ゆっくりと受話器を下ろす。


「風邪、だそうだ」


 亮臣がそう呟くと、偶然そのすぐ隣にいた早梨奈の表情は一気に暗くなった。



 時刻は午前八時過ぎ。学級副委員長として朝の仕事をするため職員室を訪れた早梨奈。


「射出はどうした?」

「まだ来てないみたいです」

「……そうか」


 どこか表情が険しい亮臣に違和感を覚えていたところ、早梨奈はふと昨日のことを思い出した。


「昨日射出君がお見舞いに来てくれたのですが、もしかしたら風邪、移してしまったかもしれません……」


 もしそうだったら申し訳なかったなと早梨奈は思いながら、念のため亮臣に報告する。

 するとそのタイミングで、ピロピロピロと遠くの電話がけたたましく鳴った。教務の先生がその電話を取ったのだが、短いやり取りの後すぐに受話器を下ろす。

 そして、亮臣を呼んだ。


「鶴屋先生。外線一番にお電話です」

「はい。分かりました」


 亮臣は教卓上の電話の受話器に手をかける。


「すまん。少し待っていてくれ」


 亮臣はそう早梨奈に伝えると、ボタンを一つ押し受話器を取った――。



 そしてその電話が終わった今。相手が彗斗であり、彗斗が休みであることは、亮臣の様子を見ていれば察しがつく。早梨奈は申し訳なさを顔に滲ませる。


「……気にすることはない。きっと射出もそう言うだろうしな」

「そう、ですか」


 罪悪感を抱いているであろうと思い亮臣は宥め賺したが、早梨奈は依然として少し落ち込んでいた。


「これ、持っていけばいいんですよね?」


 そう言って早梨奈は、教卓上に置かれた配布物――返却課題を抱える。この前のように二人ですら手に余る量ではなく、一人でも十分に運べる量であった。


「ん、あぁ。配っておいてくれると助かる」

「分かりました。それでは失礼します」


 ノートの束を抱えながら小さく会釈すると、無理のないペースで歩いて職員室の外に出た。

 職員室の外に出ると、いつものように生徒たちの声が良く聞こえてくる。特に一年生教室の近いこの辺りは、他の階に比べてより喧噪であった。

 そんな廊下をしばらく歩き、階段を登りながら早梨奈は色々思案する。

 ――先生はきっと隠している。

 なぜ彗斗が休むことになったかをさり気なく明言しなかったことから、早梨奈はそう感じていた。そして仮に彗斗が本当に風邪だったとしても、彼は本当に休むのだろうかという点には疑問が生じる。過去にはいかにも体調が悪そうな状態で出席していたこと、何より昨日聞いていた話からすれば、その可能性は頗る薄いように早梨奈は思う。

 ――何か別の事情があるのではないか。

 その思考に行きつくと、彼は今もなお一人で抱え続け、苦しみ続けているかもしれないと思い、早梨奈は居た堪れない気持ちになる。昨日会った時に、気付いてあげたかったという悔恨の念が押し寄せた。

 自分のことを心から心配してくれた彗斗。出来る限りの恩返しをしたいと、早梨奈は思い立つ。

 階段を登り切り、三階の廊下を歩いていると、見覚えのある顔を見つける。その男子生徒は、朝練あがりのためか、体がまだ少し火照っているようだった。


「おはようございます。魚谷君」

「おはよう、烏川さん」


 魚谷颯は笑顔で挨拶に応じる。

 配布課題を抱えている早梨奈の様子を見た颯は、この光景に少し疑問を抱いた様子で首を傾げた。


「射出君は一緒じゃないの?」

「……はい。風邪でお休みみたいです」

「そっか。ここ最近、風邪流行ってるみたいだしな。烏川さんはもう大丈夫?」

「はい。おかげさまで今はすっかり元気です」


 そう言って早梨奈は笑みを浮かべると、颯も安心した様子だった。


「あ、よかったら返却の仕事手伝うよ」

「いえ。これぐらいならすぐに終わると思うので、大丈夫です」

「遠慮しないでよ。これでも元学級副委員長だし、何より烏川さんには借りもあるしね」


 そう言って颯は、早梨奈が持っていた課題の一部を――否、ほとんどを手に持った。


「ありがとうございます」


 ここまでされてしまって断り辛くなった早梨奈は、颯の厚意に甘えることにした。

 早梨奈と颯は横に並んで教室へと向かう。こうして歩くのは、あの日の体育館以来だった。


「部活、調子はどうですか?」

「うん。おかげさまで楽しくやれてる。ほんと、二人のおかげだよ」

「そう、ですかね……」


 早梨奈は謙遜したようにそう呟く。

 あの時、彼を救ったのは誰か。そう考えると、その颯の言葉が申し訳なく感じる。

 思い返してみると、突きつけられる。

 あの時も、昨日も。自分は何もできていないのに、その現状に満足していた自分がいた。

 誰かがいなければ何もできない。一人では何もできない。そんな自分に、早梨奈は嫌気がさした。


「あの時、嬉しかったよ」

「……はい?」


 突如そう言う颯に早梨奈は首を傾げる。


「ほんの小さな所まで見逃さないで、俺の本心に気づいてくれた。ちゃんと俺のこと考えてくれてたんだなって思ったよ。それって誰にでもできることじゃないし、簡単にできることじゃない。烏川さんの長所だよ」


 早梨奈の心の奥まで、その言葉は真っ直ぐ届いた。ネガティブな思考が、再びポジティブな思考へと変換されていく。


「だから、本当にありがとな!」


 颯は気持ちの良い笑みを浮かべて感謝を述べた。

 これまで人に感謝してばかりだった早梨奈にとって、その言葉は一つの報いとなった。

 こんな自分でもちゃんと誰かの役に立っていたのだと、一つの自信となった。


「いえいえ。こちらこそです!」


 颯以上の清々しい笑みを浮かべながら、早梨奈は二重の意味を込めた。

 そして改めて、彗斗を救おうという強い意気込みを持ったのであった。

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