第2話 日常から逸脱した日常

 夜が明け、レースカーテンから射し込む朝の日差しで彗斗は目を覚ます。惰眠を貪りたくなる布団から脱するため、まず体を起こそうとする。


「いって……」


 たったそれだけで足が攣りそうになり、慌てて手で押さえこむ。その際には、足だけでなく体の節々にまで痛みが走った。昨日の激走が原因となり、至る所が筋肉痛になっていたのである。


『運動不足だね』

「うるさい……」


 夢ならばよかった。風呂場で頬を抓った時に確かめたことが、無駄であってほしかった。

 寝て覚めて、実姫の声が聞こえなくなって。学校に行けばいつも通り、教室で談笑している実姫の姿があればよかった。彗斗は心の中で思う。

 けれど、全身の筋肉痛と彼女の声は夢じゃないことを――現実を無慈悲に教えてくれるのだ。

 実姫が死んだ。

 その事実を改めて認識すると、昨日感じた気持ちがすぐに蘇ってくる。胸が張り裂けそうになるほどの痛みが走った。

 そして、それと同時に過去の記憶が蘇ってくる。彗斗にとって、決して忘れることのできない辛い過去だ。

 死とは残酷で、突然やってくる別れ。そしてこれはどんな人間にも平等に訪れる終わり。物事は始まれば必ず終わりがやってくるという世の理だ。故に生きていれば、必ず他人の死を経験する。悲しくて切なくて、時には後悔や懺悔もあるだろう。それでも人々は、それらを乗り越えながら生きている。

 彗斗の身近な人の死はこれが二度目。中学二年生の秋に、父親を不運な交通事故で無くして以来であった。

 はっきりと自我が芽生えた年頃であった当時の彗斗にとってこの死は大きく堪えた。非常に多感な時期でもあり、「死とは何か」を考えるという誰しもが通る道において、父の死が大きく影響したのは言うまでもない。その結果、悲しみと恐怖の狭間で声を枯らしながら泣き続けた。彼の自室に慟哭が響き続けること三ヶ月、ついには涙までもが枯れてしまったのだった。

 悲しくても泣けない。だが、胸に残る痛みの強さは当時と同じくらいのものを彗斗は感じていた。違う点があるとすれば、あの時があったからこそ、ほんの少し立ち直り方を知っているということだけ。大人たちが何度も経験し乗り越えてきた道を彗斗もまた歩み始めていた。


「おはよ」

『うん。おはよう』


 いつしか交わさなくなったごく平凡な挨拶。最後に交わしたのはいつだっただろうか、と彗斗は懐かしさに浸った。

 彗斗は両手を組んで大きく背伸びをすると、軽く目を擦る。


「そもそも、今の実姫に寝るって概念はあるのか?」

『ううん。ずっと意識だけははっきりしてて、目の前は真っ暗。彗斗の寝息と鳥の鳴き声が聞こえるくらいで、すごく静かな時間を過ごしてた』

「……そっか」


 それはまるで死と変わらない。むしろ、死よりも辛いことではないかと彗斗は思った。けれど、それ以上深く考えるのを止めた。いつしかのようにど壺にはまれば、きっと抜け出せなくなってしまうからだ。

 ただ事実、それは死よりも辛いことに違いない。寝ることは愚か、何一つ体を動かすことができない。思考こそできるが、ただただ時間が経つのを待つだけのとても退屈な時間。とても耐えられない――否、だからと言って逃げるという選択肢もとれないのである。


「あんまりだろ……」


 現実世界では実姫が死んだことになったとしても、こうして自分の中では生きている。だからまだよかったなんて、彗斗はとても口には出せなくなった。やはり辛いのは本人の方だと改めて認識させられた。

 どうしてこうも彼女ばかり理不尽な目に遭うのか。彗斗はやり場のない苛立ちが募った。


『彗斗、急がないと遅刻するよ?』

「……そう、だな」


 視界に映る時計を見て言ったのだろう。実姫に促されるようにしてベッドから出ると、すぐさま制服に着替え始める。白シャツに紺と黒の中間の色のブレザーが、彗斗の通う高校の指定である。

 それらに袖を通すと、昨日できなかった学校へ行く支度を始める。机の上にある本立てから教科書を引き抜き、それらを順に鞄へと詰め込んでいく。


『今日は三限数学だよ?』


 そんな実姫の声が聞こえて思わず手が止まる。彗斗は国語の教科書を手に持っていた。


「そう、だっけ?」

『先週あっきー言ってたじゃん。もう忘れたの?』

「……そういう時は大体寝てるからなぁ」


 あっきーこと鶴屋亮臣つるやあきおみは、彗斗と実姫の担任教師。実姫の言うように先週に時点で授業の変更があったのだが、亮臣からの連絡を一切聞かずに居眠りしていることの多い彗斗は聞き逃してしまっていた。その点優等生の実姫は、細かい連絡であっても一切聞き逃さない。


『ほ~ら。いいこともあるでしょ?』


 とても誇らしげに実姫は言った。さっきの彗斗の様子を察して、励まそうとしたのである。

 この現象は、全部が全部悪いことばかりではない。まるでそう言っているように彗斗は思えた。


『あ、ごめん!』


 実姫が突如思い出したように謝罪の言葉を口にする。

 彼女の突然は、彗斗にとって本当に突然である。誰だって思いがけない所から人が飛び出して来れば驚くだろう。鞄を持って部屋を出ようとしていた彗斗は、肩をびくっと震わせて冷や汗をかいた。


「……何だよ」

『もしかして今の、言わない方が良かった?』

「……自分から言っておいて、それはどういう意味だ」

『だって教科書を借りる建前で、話すきっかけできたかも知れないじゃん?』

「はぁ!?」


 思いがけない実姫の言葉に、彗斗は驚きを隠せなかった。なぜ、実姫がそのことを知っているのだ、と。

 彗斗はクラスの隣の席の女の子に恋をしていた。だが、決してその恋心は誰にも打ち明けては来なかったし、そのような噂が周りで広がっている様子もなかった。

 自分の好きな人が相手にバレるというのはとてつもなく恥ずかしいもの。ましてや気心知れた幼馴染となると余計である。彗斗は先ほどより何倍も冷や汗をかき、呼吸すら荒くなってきた。


『だって私だよ? そんなの見てれば分かるって』

「嘘だろ……」

『そんなに恥ずかしがることかな~? いいじゃん、青春って感じでさ』

「他人事だからって呑気だな……」

『実際私のことじゃないんだから他人事でしょ?』

「……っ」


 昨日の自分の台詞のせいで完全に墓穴を掘ってしまい、彗斗は完全に言い返す言葉を見失ってしまう。それでも、苦し紛れに先程の実姫の問いに答えた。


「……まぁでも、教科書忘れて借りるのは申し訳ないし、これ以上借りも作れないから教えてくれてよかった」

『借り……、あぁそういうことね』

「だから、ありがとな」


 彗斗は少し照れながら礼を述べる。きっと彼女が前にいたら、その顔の紅潮具合に突っ込まれたに違いない。


『どういたしまして~』


 そんな彗斗の様子が見えない実姫は、呑気に言葉を返すのであった。



* * *



 諸々の学校に行く支度を済ませ、彗斗は玄関で靴を履き替える。


「行ってきまーす」


 座ったまま振り返ってそう言うと、その声が聞こえた優子が急いで駆け寄ってきた。普段からあまり朝食は取らないため、彗斗は彼女のいたリビングには寄っていない。昨日もあの後顔を会わせていないので、夜の気まずい出来事以来の対面だった。


「えっ……? ちょっと、本当に大丈夫なの?」


 まさか学校に行くとは思っていない優子は、心配そうに彗斗を見つめる。


「全然平気」

「……そう。それならいいんだけど」


 一晩経ったからか彗斗の言う通り平気そうに見えたので、優子は無理して引き止めようとはしなかった。

 それでも心配が全て拭えたわけではない。母親らしい優し気な言葉をかけた。


「もし辛かったらすぐに帰ってきていいから。いい?」

「分かった」


 彗斗は立ち上がると、玄関の扉に手をかけた。

 そして改めて。


「じゃ、行ってきます」

「いってらっしゃい」


 優子に見送られ、彗斗は家の外へと踏み出す。真っ直ぐ射し込む日の光に、思わず目を細めた。


『行ってきます』


 少し遅れて、実姫の声が聞こえてくる。


「なんだか久しぶりな気がするな、これ」

『そうだね。二年ぶりくらいだもんね』


 二人は幼馴染であったが、同時に小中高の腐れ縁でもあった。小学校入学から中学二年ごろまで、実姫が彗斗の家まで迎えに行き、二人揃って優子に送り出されながら学校に向かうのが習慣だった。もうそんな日々からは三年の月日が過ぎ、二人にはとても懐かしい感覚だった。

 空は曇りなき秋晴れ模様。朝こそ少し肌寒いが、昼は日差しによってポカポカと暖かい。同じ日差しでもついこの間までは疎まれていたのだが、秋冬はとても好意的に受け取られる。

 季節のない国であっても似たようなものである。時には生命の源として崇められ、時には干ばつの原因だとして蔑まれる。そう考えると、太陽とは実に可哀想な存在なのかもしれない。

 彗斗の家は住宅地の中にある。そこを抜けてしばらく歩くと、一際目立つ建物が見えてくる。彗斗たちの通う星島(ほしじま)高校の校舎だ。比較的都市部の中にあるため敷地の大半がネットや壁で隔てられており、高校そのものが少し遠くからでもよく目立つ。

 高校が見え始めた辺りから、彗斗と同様に星島高校に通う生徒たちの姿が目に付き始める。学校に近づけば近づくほど増える同校生徒の流れに沿って歩くことしばし、彗斗は星島高校に到着した。

 星島高校は一クラス四十人の五クラス制であり、全校生徒は約六百人という規模。星島高校の位置する神奈川県の規模としては比較的小さい方に分類される。ごく普通の公立進学校で、近隣の知名度も決して低くない中堅高というのが一般の認識だ。

 あちらこちらで挨拶を交わし談笑を始める生徒たちを横目に、彗斗は玄関口で内履きに履き替え、教室へと向かう。そうして廊下に差し掛かったところで、まるで他の生徒に聞こえないよう耳打ちするかの如く実姫が囁く。


『私のこと、話さないでね』

「分かってる」


 実姫に言われずとも、初めから彗斗はそのつもりであった。

 この現象において、実姫の声は他の人には届かない。一般的な認識で言うところの『テレパシー』が最も近いだろう。この時点で、仮に実姫はまだ生きていると言ったところで証明のしようがないのである。そんな中で打ち明けてもむしろ不謹慎だと捉えられかねない。加えて、『いつも通りの日常』からはなお遠ざかることになるため、元から彗斗は黙っておくつもりであった。

 教室の扉を開けると、そこにはいつもとは違う雰囲気があった。異様な静けさが充溢していて、扉を開ける音がいつもよりも大きく聞こえた。

 普段は決してこのようなことはない。非常に喧噪で姦しく、実に高校生らしい生徒の集まりというのが彗斗たちのクラスである二年二組の特色だった。今はそれとは対極にある。

 その原因の一端が何なのか。それはもう、火を見るより明らかだった。だから彗斗は何も言わず、教室の端を歩くようにして窓際中央に位置する自席に着いた。


「まぁ、そうだよな……」


 彗斗は誰にも聞こえないほど小さな声でぽつり呟く。

 周りの人たちの心の内は痛いほどに分かるからこそ同情する。実姫の社交的な性格故に広い交友関係だが、裏を返せばそれだけ彼女の死を惜しむ人が多いということ。どの生徒も表情には影が降り、自分の席で居心地悪そうに座っていた。

 彗斗はただボーっと窓ガラスの外を眺めていた。特に訳もなく、この教室内の彼らの顔を見るのを避けるように。

 スポーツの秋というのには相応しい光景が外には広がっている。グラウンドで朝活動をする生徒たちは、朝の拭えない眠気さに襲われながらも、勤勉に練習を積む。ただ決してこれは秋だからというわけでもなく、いつも見る光景である。

 まるでこの教室の中だけが別の空間軸にいるのではないか。そう錯覚するほど、周りの雰囲気は異質だった。


「おはようございます、射出君」


 彗斗はそんな声が聞こえて、視線を再び教室内――隣の席へと向けた。

 ほんのりと茶色に染まった髪は、まるでこの季節を彷彿とさせる暖かさを感じさせる。若干小柄、少し細身な体躯で、セーラー服がとてもよく似合う少女。そんな彼女――烏川早梨奈うかわさりなの表情もまた、どこか浮かない。


「おはよう」


 あくまでもいつも通りを装い、彗斗は短く挨拶を返す。

 早梨奈は静かに隣の席に腰を下ろすと、そのまま目の前の机の上に視線を落とした。ショートヘアの髪が、僅かに彼女の表情を隠す。


「烏川、大丈夫か?」


 あまり彼女らしくない様子を見て、すぐに彗斗は心配した。けれど彼女は取り繕って、


「大丈夫です」


 と、作り笑いを見せた。

 辛いのは決して自分だけではない。そう思うからこそ、早梨奈は彗斗に気を遣わせたくなかった。人によく気を遣う、彼女らしい言動だった。

 そのことを彗斗は良く知っている。同じクラスになってから、こうして隣から彼女のことを見てきたのだ。だからこそ、その痛々しい引き攣った作り笑いが彗斗の心にチクリと棘を刺した。

 二人の間に、クラス中に蔓延っているものと同様の気まずさが流れ、そのまま朝の時間は静かに過ぎていった。後から後から入ってくる生徒たちは、教室の扉を開けた瞬間にこの雰囲気に呑まれてその一部と化していく。そんな風にして一人を除くクラス全員が着席し、一限開始を待っていた。

 静寂を破ったのは、教室の扉が勢いよく開かれる音。教室の前側の扉の影から、背筋が伸びて凛として見える、スーツに袖を通した紳士の姿。

 誰しもが例外なくこの雰囲気に呑まれると、それぞれの経験からクラス中の皆が思っていた。でもその男――鶴屋亮臣は違った。


「よし。HRホームルームを始める」


 まるで何事もなかったかのような亮臣の様子に、誰もが驚いた。決して取り繕った様子も見せず、声色もいつもと変わりない。

 これが大人になるということか。彗斗は彼を見てそう思った。

 他人の死を経験して、その乗り越え方を少しずつ知っていく。彗斗がほんの少しだけ乗り越え方を学んだように、彗斗より長く生きている分多く経験している亮臣はさらによく知っているのである。


「それじゃあ、この前から言っていた通り学級委員を決めていく。まずは学級委員長だな」


 亮臣は教室内に重い帳が降りていることを察しながらも触れることなく、予定通りに進行していく。

 今日は学級委員の切り替わりの日でもあった。だから学級委員長を決めなくてはならないのだが、本来この話し合いをするときの進行係は現学級委員長が務める。そのことには一切触れず、今それを亮臣が務めているのは――。


『新委員長、誰になるんだろうね』


 実姫――現学級委員長はそう呑気に呟いた。

 彗斗は両腕を組みながら机に顔を伏し、周りに聞こえないようにして言った。


「さぁ、な」


 誰になろうと彗斗には興味がなかった。

 実際、この教室の人たち皆が同じことを思っているだろう。

 今はそれどころではないと。


『寝るの?』

「俺が参加しなくても、勝手に決まるだろうからな」


 普段のHRも基本的に寝て過ごす彗斗は、今回も例外なく瞼を閉じた。元々教室が亮臣の声を除けば静かだったということもあるだろう。すぐに彗斗の意識は落ちていった。



* * *



「あの、射出君? 射出君、起きてください」


 彗斗は肩を揺すられたことで微睡みから目を覚ました。目を擦りながら体を起こすと、そこには早梨奈の姿があった。


「一限、終わりましたよ?」

「……あ、そっか。ありがと」


 軽く礼を言うと、早梨奈は軽くはにかんだ。


「改めてこれからよろしくお願いしますね、射出君」

「よろしく。……何が?」


 話の流れでさらりと答えてしまったが、彗斗は彼女の言っていることの意味が分からなかった。話の脈略がなさすぎたためだ。

 そんな様子を見た早梨奈は、困ったように首を少し傾げる。


「学級委員長ですよ」

「なるほど」


 ――烏川が学級委員長になったのか。

 彗斗は納得したように頷く。その挨拶を律儀にも一生徒の自分にする辺りは実に彼女らしいな、などと彗斗は呑気に思っていた。

 しかしそれは、瞬く間に覆る。


「学級委員長の射出君とは、副委員長としてこれから何度も一緒に仕事すると思うので、改めて挨拶をしておこうと思ったんです」

「ちょちょちょちょ、待った待った! 学級委員長? 俺が?」


 彼女の言葉によって先ほどまでの呑気さは一転して焦燥に変わる。信じられないような早梨奈の言葉の真偽を彗斗は改めて問う。


「はい。そうです」


 それに対して早梨奈は、極めて事務的にその問いに対して肯定を返す。「何言ってるんですか?」と、表情が言っていた。


「いやいやいや、それは駄目だ! 文句言ってくる」

「はい……、え? ちょっと待ってください、射出君!」


 彗斗は席を勢いよく立つと、勢いそのままに教室を後にしていった。そして嵐が過ぎ去った後のように、早梨奈は一人取り残される。


「そんなに私と一緒に仕事をするのが嫌だったのかな……」


 寂しげに彗斗の机を見つめながら、早梨奈はそう独り言を漏らすのだった。



* * *



 星島高校の校舎は三階建てで、彗斗たち二年生の教室は三階にある。二階には三年生教室、一階には一年生教室があり、職員室は一年生教室から程近い。

 次の授業に向かったり、少し早めに終わったことで空いた時間を利用して話の花を咲かせている生徒たちを横目に、彗斗はただ真っ直ぐに三階廊下を走り抜ける。


『慌てて転ぶと死ぬよ?』

「極論だし、縁起でもないな……。でもそれどころじゃない。一大事だ」

『そんなに?』

「雲の上から呑気だな、前任者さん。俺がこの手のこと、大嫌いだと知って言ってんだろ?」

『もちろん知ってる』

「だったら、いかに俺が内心焦ってるか分かるだろ……」


 学級委員長になれば行事ごとに教卓前に立って仕切らなければならない。その行事によってはクラス代表として学年、あるいは全校生徒の前に立つこともある。

 彗斗は人の前に立つことが嫌いだった。決して人と話すことは苦手ではないが、多くの人目に晒され、注目を浴びたり、脚光を浴びるということが彗斗にはどうも苦痛なのである。それ以外にも学級委員長を拒む理由はあるが、それが一番多くを占めている。


『でも今更遅くない? もう決まっちゃったんだし』

「そもそも、話し合いの時も全部聞こえてたんだろ? 何で起こしてくれなかったんだよ」

『私の声じゃ起きなかったと思うよ?』

「あぁ……」


 つい先ほど、早梨奈に肩を揺すられるまでは目覚めなかったことを彗斗は思い出し、実姫の言う通りだと気付く。自業自得であり、実姫を責めるわけにはいかなかった。

 階段に差し掛かり、一段飛ばしでリズミカルに降りていく。同時に筋肉痛の影響で、律動的に痛みが走る。


『こうなっちゃわないよう、寝なかったらよかったのに』


 まさに実姫の言うことは正論なのだが、一応彗斗なりに言い訳がある。


「大体いつものパターンなら、誰かしら立候補すると思ってたんだよ……」


 実際、これまで彗斗のいたクラスでは、クラスの中心的存在が自ら立候補していた。二年前半の時も、実姫ともう一人が立候補したために話し合いはごく短時間で済んでいた。

 仮にその立候補者がいなかった場合は推薦と言う形が取られる。だが基本的には、そういう仕事の経験者だったり、多くの人から信頼されているような、それに相応しい人間が選出される。

 客観的に見ても自己評価でも相応しいとは言えない――故に選ばれることはまずないだろう。そんな風に彗斗は高を括っていたのである。


『まぁ、前任の私の顔に泥を塗らないよう頑張ってね』

「今俺は、お前に物理的に泥を塗ってやりたい気分だ……。だがな、泥を塗る云々以前に、この決定は何としても取り消しにする」

『素直に受け入れたらいいのに』

「絶対嫌だ」


 階段を下り切り、職員室にようやく辿り着く。職員室特有の、他とは隔絶された雰囲気に気圧されながらも、彗斗は勢いそのままに扉を開け放つ。


「失礼します」


 次の授業があるからなのか、職員室の中は少し閑散としていた。おかげで彗斗は、すぐに標的である若手教師を視界に入れた。すぐにその人の元へと歩み寄ると、思いの丈をそのまま伝える。


「一体どういうことですか。なんで自分が学級委員長なんですか!?」


 そう言うと担任の亮臣はニコッと笑みを浮かべる。その挑発にも取れる笑みは、彗斗の機嫌を逆撫でした。


「……あれ? やる気満々だったよね?」

「いや、ど・こ・が?」

「自分で振り返ってみたら分かるんじゃない?」


 亮臣にそう言われるまでもなく、思い当たる節が彗斗にはあった。

 そう。居眠りしてたからである。

 居眠りしていたから、先生の裁量で勝手に決められた。だからといって居眠りした以上自業自得なので決して言い返せない。先生あるあるの手法――これはもはや嫌がらせに近い行為である。

 それを知った上で反駁してやろうと息巻いていた彗斗も、一度冷静になると無理があるなと気付いて、諦めたように肩を落とす。

 だが、それでも簡単に引き下がるわけにいかない彗斗。今度は少し路線を変えて、棄却できないものか試みる。


「あのー、取り消せませんかね……」


 今更遅いが、相手のご機嫌を取るように下手に出る。


「でもせっかくの機会なんだし、やってみたらどう?」

「と、言われましても……。先生、自分のことよ~く知ってますよね?」

「知ってて言ってるんだよ。新しいことをするというのは、いい経験になるはずだ」


 亮臣は現在高校教師であり、彗斗たちのクラス担任を務めている。ただつい二年半前までは中学校で教鞭をとっていた。

 彗斗と実姫が月川つきかわ中学校二年生の頃、二人のクラスの担任だったのが亮臣であった。だから二人にとっては偶然なことに二度目の担任となっている。


「経験……。具体的に何が経験できて、何を得られるんですか? 魅力的で具体的なメリットを提示してください」


 彗斗がそう言うとしばし考える仕草を見せた亮臣。そして人差し指を上げて見せる。


「まず内申点が少し上がる」

「そこは実力だけで十分です。それは自分の成績を知ってる先生ならご存じでは? それに学級委員で大変な仕事こなせば当然勉強時間は削られますし、結果的にトントンだと思いますが」


 次に亮臣は二つ目――中指を上げる。


「先生たちの評価が上がる」

「自分の評価、少なくとも悪くはないですよね? 決して非行な真似はしてませんし、課された提出物もちゃんと出してますし」


 最後に三つ目――薬指を立てた。


「何よりも俺の射出に対する評価が上がる」

「一番魅力的じゃないものをさも大トリのように、そしてどや顔で出すのをやめてください。はぁ……」


 大した利点はなく、ただただ人の前に立って大変な仕事をさせられるだけなのだな、と改めて思わされ、彗斗は大きく嘆息する。

 内申点も先生の評価も欲しい人間なら他にいるわけで、わざわざその機会を奪ってまでしてよいものか。そんな言い訳がましい断る理由を口にしようとしたが、亮臣の表情を見て思わずひっこめた。さっきとは一転して少し暗いように見えたのである。


「まぁ本来なら、委員長は魚谷うおたにがやっていただろうな」


 声色に真剣さを滲ませて亮臣は呟く。先ほどとは違ってどこにも冗談めいた様子はなく、彗斗はその話に続いた。


「なんでやらなかったんですか、魚谷」


 魚谷――魚谷はやては、彗斗たちのクラスメイトで前半の学級副委員長を務めていた男子生徒。周りからの信頼は厚くバスケ部では部長も務める器であり、誰が見ても適任と取れる人物。

 前期から後期へと移り変わる際、前期に男子が学級委員長を務めていたならば後期は女子が、女子が務めていたなら男子が、という風に反対になる決まりがある。これは学級副委員長も同様である。そんなルールはあれど、前期学級委員長は後期副委員長に、前期学級副委員長は後期委員長にと、通年で同じ人が務めることが大半。このことから、彗斗も魚谷がやるものだとばかり思っていた。


「君も心当たり、あるんじゃないか?」


 亮臣がそう言った後、実姫が補足するように呟く。


『たぶん私のせい……』


 実姫が亡くなった。その事実がクラス内の雰囲気を変えた。それは魚谷颯とて例外ではないということ。

 ただ、実姫がこうしてはっきりと自分のせいだというのには訳があった。

 亮臣と彗斗の間に、気まずさから静寂の時間が流れる。その間を縫うように、実姫は話を続けた。


『きっと人一倍、辛いんだと思う。仕事柄、彼と一緒に行動することも多かったから……』


 学級委員長と学級副委員長を務めていた二人は、しばしば一緒にいるところを彗斗も見かけていた。

 関わることは別れの悲しみを生むこと。関われば関わるほど、深く自分の中に刻まれれば刻まれるほど、心の中に深い傷が残る。知っている人が死んで酷く悲しいのは、深く関わったことの代償である。

 実姫はそれっきり黙り込んでしまった。ただ、再び空白を埋めるように、今度はある音が耳に届く。――予鈴だ。

 授業間の休み時間はわずか十分。予鈴は授業開始三分前を知らせる鐘である。


「授業、始まるぞ」


 そう言って亮臣は、先生用の大きなデスクの上から教科書を手に持つと、椅子をギギッと鳴らして立ち上がる。


「もし本当に無理だと思うなら、俺にもう言ってくれればいい。だから、一度やってみないか?」


 そしてもう一度、学級委員長をやるように勧める言葉を優しくかけた。

 すると彗斗は、少々渋々という様子こそ見せたが、


「……分かりました。そこまで言うなら、一度やってみます」


 と言ってそれを受け入れたのであった。


「そうか。じゃあ、授業に遅れるなよ?」


 亮臣はそう最後に念を押すと、一足先に職員室を後にした。彼の姿が消えたのを確認してから、実姫が意地悪な問いを投げる。


『あれ~? さっきの威勢はどこ行ったのかな?』

「……正直嫌なことには変わりない」


 苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべながら、彗斗はそう溢す。


『私はてっきり最後まで食い下がるかなって思ってたけど』

「『もし本当に無理だと思うなら、俺にもう一度言ってくれればいい』って言質とれたからいつでも辞められるだろ? このまま議論続けてても、絶対にやらせたい鶴屋先生と全体にやりたくない俺の、矛と盾の対決が続く平行線を辿るだけだし」

『すごい卑怯……。本当に嫌なんだね』


「そこまでしてやりたくないのか?」と、あまりの執念深さに実姫は少し引いていた。


「それに……って、やべっ。遅れる!」

『慌てると教卓の角に小指ぶつけて死ぬよ?』

「極論だし、そいつ弱すぎだろ!」


 間もなく授業が始まるということを思い出した彗斗はそんな突っ込みを入れながら、急いで教室へと戻っていった。



* * *



 放課後。この時間帯もいつもとは大きく異なった。

 いつもであれば部活に勢いよく出ていく生徒たちの足取りは重く、「寄り道して帰ろうぜ~」と楽しそうに帰っていく生徒たちも今日は、「帰るか」と静かに教室を後にしていく。まるでこの教室から逃げるかのように、他の生徒たちの姿は放課後すぐに消えていた。

 他の生徒が去っていき、静謐な二年二組の教室内。廊下で他クラスの生徒たちが、愉快な足取りでどこかに向かう音が、この教室では悲しげに響いた。


「なぁ、実姫」


 周りには誰もいない。だから遠慮なく実姫と話をすることができた。


「魚谷のこと、心配だろ?」

『……』


 そう問われても、実姫は黙ったままだった。そしてそれは肯定を意味した。


「だろうな」


 彗斗は誰もいない教室の中で、廊下側前列の席を見つめる。そこには件の颯の席、そしてすぐ近くに実姫の席もあった。

 実姫が望むのは、自分が死ぬ前の日常。そこに、悲しみに暮れる魚谷の姿はない。

 実姫と時間を共にすることが多かったため、深く悲しんだ魚谷。逆に言えば、実姫だって魚谷に対して思うことはたくさんあるだろう。そう思う彗斗の予感は的中していた。


「俺にできることなんてちっぽけだろうけど。それでもやらないより幾分もマシだろうからな」

『それは委員長らしくて、殊勝な心掛けだけど……。一体どうするつもり?』

「まぁ、それはまた明日だな。……にしても、身が入らないだろうに、ほんとそういうところも真面目な奴だな」


 そう言いながら、今度は窓の外を眺めた。見通しのいい三階からは、グラウンドを一望することができる。そのグラウンド端には部室が並んでいて、その一角にバスケ部の姿が目に入った。特徴的な練習着と朱色のボールで、遠くから見ても判別がつく。


『うん。真面目で、だからこそ余計に辛いんじゃないかな。全部自分のせいだって、背負いこんでるんだと思う』

「誰かと一緒だな」

『……え?』


 驚いたように実姫は声を上げた。彗斗は律儀にもしっかりその言葉の意味を説明する。


「実姫も同じだろ。クラスメイトが悲しそうにしてるのも、魚谷が辛そうなのも、全部自分のせいだって思って気に病んで」

『でもそれは、本当に自分のせいで……!』

「自らの意思と反しての死で、どうしてお前が責任を追わないといけないんだよ」


 自ら死を望んでいたわけではなく、そういう運命を辿ってしまっただけ。

 仕方ない。その言葉に尽きてしまう。


「悪いのは全部、全部……」


 だから悪いのは決して実姫ではない。

 だとしたら誰が悪いのか。


「誰のせいなんだよ、一体……」


 ――いや、誰も悪くないのだ。

 恨むものがあるとすれば、そういう運命を仕向けた神だろうか。――いや、居もしない神を恨んだところで意味なんてない。

 それでも前を向かなくてはならない。そう教えてくれたのは昨日の実姫だった。

 静かに立ち上がると、鞄を手に持ちゆっくりと帰宅の途につく。


「それ以上は責めるなよ。自分を」

『……うん』


 本当は目を見て言ってあげたい言葉も、どこまで届いているのか分からない。

 決して彼女は泣いている姿を見せないから分からないけれど、今にも堰を切りそうなほど、思いは張り詰めていると思うから。

 だから彗斗はただ優しく、語り掛けるように慰めの言葉をかけた。それくらいしかしてあげられないもどかしさに、拳を震わせながら。



 いつもと変わらない風景に声、音。校庭には生徒がまばらに帰っていく姿が映り、部活動に励む生徒の声、靴の擦れる音や楽器の音色が響く。

 それらを感じながら、彗斗は玄関で靴を履き替える。その時ふと、玄関前で壁にもたれている少女の姿を見つけた。どこか遠くの空を見つめていて、僅かに見える表情が空の晴れやかさとは対極に曇って映った。


「烏川?」


 その少女――早梨奈に声をかけると、彼女は少し驚いたように振り向く。


「どうかしたのか? 誰かと待ち合わせ?」

「そう、とも言えます」

「……?」


 曖昧に言葉を濁す早梨奈に、彗斗は違和感を覚える。さっきから視線は合わず、彼女はただ目のやり場に困っているようにも見えた。

 それでも小さく息を吐くと、初めて彗斗の目を見てから言葉を口にする。


「一緒に……、帰りませんか?」


 突然の誘いに彗斗が目を丸めると、早梨奈は慌てたように再び目線を逸らす。


「……あの、迷惑だったらすいません」

「ううん。じゃあ、一緒に帰るか」

「ありがとうございます」


 承諾してくれたことに、嬉しさを滲ませて笑みを浮かべる早梨奈。けれどその笑みは、どこか引き攣ったような屈託のない笑みとは程遠いもので、彗斗の知る彼女らしさはそこになかった。


『よかったじゃん』


 茶化すように実姫は言う。

 事実だけ切り取るなら、素直に嬉しかっただろう。けれどあの笑みが、そして朝からの彼女の様子が、そんな彗斗の気持ちを覆い隠してしまう。

 彗斗が静かに一歩踏み出すと、それを合図に早梨奈も歩き出す。

 夕暮れ時の秋風は、まだ冬は遠くとも少し肌寒くあった。道路脇に植えられた木々や植物たちがその風で靡く。季節柄当然のことだというのに、彗斗はいつもよりも何倍も哀愁が漂っているように感じていた。しかしそれは、二人の間に会話がなかったからかもしれない。


「今日の英語の小テスト、難しかったよな」


 彗斗は異様な静けさを孕む雰囲気を嫌って、何気ない話題を振った。本当にどうでもいいことを口にしなければならないほど、二人の間にはかつてない気まずさが生まれていた。


「……」


 そんな彗斗の呟きに、早梨奈からは言葉が返ってこない。

 そんな早梨奈の方を向くとその視線に気づいたのか、彼女は立ち止まった。

 学校から離れ、市街地からも少し遠いためか辺りは人通りが少ない。元より殆ど足音しか聞こえない程静まり返っていた辺りは、彗斗が早梨奈に合わせるようにして歩みを止めた瞬間、完全に音が止んだ。

 しかしその静寂に、平穏さなどは微塵もない。込み上げてくる緊張感で、彗斗が口にしようとした言葉が少し途切れた。


「うか……わ?」

「私、射出君のことが心配です」


 早梨奈は俯きながら、風が少しでも強く吹けば聞こえなくなってしまいそうなほどか細い声で呟く。

 そして一歩彗斗の方に近づくと、顔をほんの少し上げ、上目遣いで目を合わせる。


「無理、してませんか?」


 全てを包み込むような優しい声色。そんな声を聞き、取り繕いの仮面に罅が入る。


「いや……」

「していない、とは言わないんですね」


 無理をしていないと、彗斗は言えなかった。

 一度経験しているから、ほんの少しだけ立ち直り方を知っている。されど、それはほんの少しでしかない。

 昨日の今日。大きく取り乱した昨晩から一夜明けただけで、全てが元通りになればどれだけ楽だっただろう。それでも前を向こうと、見ないように、考えないように、いつも通りに。そうやって取り繕い続けた。

 特に彼女――烏川早梨奈の前では、決して見せないように。

 それでも早梨奈には看破されてしまった。彗斗が彼女の違和感を隣の席で長く見てきたからこそ気付いたように、彼女もまたそうであるから。


「琴浦さんとは幼馴染、ですよね」


 彗斗はコクリと頷く。


「きっと誰よりも辛いはずの射出君が、そうやって誰にも見せないように取り繕うとしている姿が私は……、すごくすごく胸が痛くなります」


 早梨奈は胸元に両手を重ね、ギュッと片方の手を握った。


「それは……」


 彗斗はそこで言葉を途切れさせた。

 それは――例えハリボテのいつも通りであっても、実姫をこれ以上心配させるべきではないと思うから。実姫が望むのは、自分が死ぬ前のいつも通りだから。

 そう口にしようとしたところで、彗斗ははっとして別の言葉を続けた。


「烏川も同じ、だろ?」


 彗斗がそう尋ねると、早梨奈は視線を逸らすように目を伏せた。

 早梨奈が、『彗斗は無理をしている』と気付いたのは、確かにずっと隣の席だったからかもしれない。けれど本当は、自分が同じことをしているからこそ、嫌でも気付いてしまったのではないか。朝、彼女の見せた作り笑いを思い出し、彗斗はそう思ったのである。

 そしてこのことは、もう一つ意味することがあった。

 彗斗は付け加えるように口にする。


「いつも通りを望むのは」

「……っ!」


 早梨奈は驚いたように目を丸めた後、ギュッと唇を噛みしめる。

 いつも通りを求めていたのは実姫だけではなかった。

 実姫がクラスの中心にいた頃は常に賑やかだった。クラス全体にその明るさは伝播し、そこに居心地の良さが生まれていたのである。

 それとは対極であった今日の教室。

 それを見て思った所があったのだろう。普段物静かでお淑やかなイメージとは対極な人が適任とされる仕事――学級副委員長になったのは、きっと実姫がクラスの雰囲気を作り出したように、あの頃のクラスに戻らせたいと思うからこそ。

 彗斗は思う。きっと人思いな早梨奈は、自分の心情を察したようにクラスメイトの内心を慮り、余計に心苦しい思いをしているのだろう、と。

 性格やクラスの立ち位置はまるで真反対。それでも根幹の部分では、実姫と同じものを持っているように彗斗は感じた。


「あんまり背負い込むなよ。……って、俺も言えないわけだけどさ」


 彗斗が苦笑いを浮かべながらそう漏らすと、早梨奈は静かに顔を上げる。


「せめて二人なら、少しは負担軽くなるんじゃないかって思うんだよ」


 ゆっくりと早梨奈の方へと歩み寄る彗斗。その表情は、少し不器用ながらに笑っていた。


「改めてこれからよろしく、烏川」


 その言葉は、HR後の早梨奈の言葉の引用だった。自分が言ったからか、どういう意味で言ったのかを瞬時に把握すると、慌てて尋ねる。


「射出君、学級委員長、断ったのでは……?」

「事情が変わった。だからやるよ、委員長」


 性に合わないから断ろうと思っていた学級委員長。けれどもう、その気持ちは消えてしまった。彼女にクラスのことを任せっきりにする方が余程性に合わないのだから。

 例え柄でなくとも頑張ろうとする彼女の姿を見て、彗斗は大きく感化されていたのである。


「よ、よかったです……。副学級委員長が私だから、てっきり嫌がられたのかと」

「違う違う。そんなんじゃないって」


 首を横に数度振って彗斗ははっきりと否定する。もしかしたら、そういう心配もかけてしまったのではないかと、内心申し訳なさが募った。

 抱いていた不安を完全に払拭するような彗斗の言動に、早梨奈はほっと安堵の息をつく。


「だからよろしくな、学級副委員長」


 彗斗は改めてそう言うと、早梨奈の前に手を差し伸べる。

 すると早梨奈は、一瞬たりとも逡巡することなくその手をとった。


「はい! こちらこそよろしくお願いします、学級委員長」


 そう言った彼女の表情には、笑顔が浮かんでいた。その笑顔には朝に感じたような違和感などどこにもなく、彗斗が知る、彗斗が惚れた曇りのない優しい微笑みであった。



* * *



 再び歩き始めてからほんの僅か。次の会話に映る間もなく、早梨奈は再び歩みを止めた。

 それに気づいて彗斗はすぐに実姫の方を振り向くと、早梨奈は細い路地を指差した。


「ごめんなさい。私こっちなのでこれで」


 正面を少し歩けば、大きな住宅地がある。彗斗の家はその中にあるのだが、早梨奈の家がある方向とは別方向であった。

 早梨奈は軽く会釈してその路地の方へと二、三歩進んでから、くるりと軽々しく振り向いて彗斗を見つめる。


「また明日、学校で」

「……またな」


 再び見せた早梨奈の笑みは、夕暮れの陽も相まってかとても絵になる美しさがあった。

 彼女の背中が遠くなるのを見届けてから、彗斗は再び帰宅の途に就く。


『よかったね』

「……何だよ、さっきから」


 会話はできるタイミングを待っていたと言わんばかりに、再び茶化すような言葉を口にした実姫を彗斗は咎める。


『いやぁだってさ、好きな人に誘われて一緒に帰り路を歩いたんだよ?』

「でも、どうだろうな」

『うん?』

「いつも通りから逸れた結果が生んだものに過ぎないだろ、きっと。だから素直に喜ぶのは違うんじゃないかって」


 いつも通りの日常が続いていたのだとしたら、彼女がこうして帰りを誘うことはなかっただろう。いつも通りを求めるのであれば、いつも通りでないことで喜ぶのはどこか矛盾しているように彗斗には思えた。


『まぁまぁ、そう悲観することはないって。確かに初めてが女子側からってのはどうかと思ったけどね?』

「はい、そこ。思ってても口にしない。もしくはオブラートに包む」


 実姫の言ったことが、実姫が思わぬところで彗斗に刺さった。

 本当は自分の方から彼女の心配をして話しかけるべきだった。朝の時点で違和感に気付いたなら、いつだって話しかける機会はあっただろう。彗斗は自省の念に駆られた。

 けれど、すぐに気持ちを後ろ向きから前向きへとシフトさせる。

 一つ、実姫に尋ねたいと思っていたことが彗斗にはあったからだ。


「なぁ、実姫」

『何?』

「彼女にこのこと……、今の実姫について話したら駄目か?」


 彗斗がそう尋ねると、実姫は黙り込んでしまった。

 視覚的に彼女の様子が見えないからこそ、彼女がどう思っているのかが分からず、彗斗は固唾を飲みながら次の言葉を待った。


『……許可、いる?』


 少しトーンの低い声で実姫はそう問い返す。


「烏川には隠し事をしたくない。それに彼女なら信じてくれると思うから」


 彗斗がそう言うと、実姫は再び沈黙する。けれど今度の間は、ほんの僅かだった。


『ほんとに烏川さんのこと好きだね~、彗斗。その真っ直ぐすぎて目を逸らしたくなるほどの気持ちに免じて許可する』

「……ツッコミたいとこだらけなんだけど、分かった。明日話すことにする」

『……そっか』


 彗斗は空を見上げた。気づけば夕暮れも終わりに近づいている。日の沈む西とは対極の東の方は随分と暗くなり始めていた。



 間もなく夜がやってくる。そしてその夜が過ぎ朝日が昇ればすぐ、次の日がやってくる。

『すぐ』に。

 実姫は彗斗の目を通して暗い色を帯びた空を見ながら、自らの境遇を呪った。

 ――せめて眠らせてくれたらいいのに。

 そんな切なる願いは、非情ながら決して届かない。

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