二心同体の君と
木崎 浅黄
第1話 終幕と幕開け
秋の夜。窓の隙間から涼しげな風が吹くと、カーテンが波打つ音が響く。その音で、
しかしながら体は鉛のように重たく、瞼は自らの意思に反して下りてくる。これ以上にないほどの疲労感と眠気は、再び彗斗の意識を深い海の底に沈めんとばかりに襲いかかる。
カーテン越しに射し込む月の光と近くの道を照らす外灯が、照明の点いていない暗い部屋を照らしている。それでも照明がなくてもいいとは言えないほどの心許ない光量に過ぎず、部屋の壁に掛けられた時計の針とその下に表示された日付は、彗斗が目を凝らしてようやく見える。
今日は十月三日、日曜日。現在時刻は午後十時半である。
「もう休日終わるのか……」
あと一時間半で迎えるは月曜日――すなわち平日の訪れを意味する。
学生にとってのこの時間帯は憂鬱になりがちである。日曜日の夕方に放送される国民的人気と知名度を誇る長寿アニメにあやかって、その現象に名前がつけられるほどだ。
大半の生徒はこの時間帯、休むことで得られるメリットとそれで被るデメリットを天秤にかけるのだが、結局翌日の朝には重たい足を引き摺りながら学校へと向かう。しかし彗斗は、他の学生とは違う事情を持つが故に、サボる気など微塵も生じてはこない。
重たい体に鞭を打つようにして着替えを用意すると、彗斗は浴室へと向かった。
「ったぁ~~~!」
酷く疲れた体に、三十九度のお湯はよく染みる。あまりの気持ちよさに、自然と声が漏れた。
浴槽に入りながら、彗斗は無機質な天井を見上げる。疲れから思考停止している彗斗は、モクモクと立ち込める湯気の様子を意味もなくぼんやりと見つめていた。
そんな風に心地の良い温かさで身を癒していた時。
「あ、あぁ」
「!?」
どこからともなく変な声が聞こえて、彗斗は驚いて慌てふためく。終いには立ち上がろうとした際に浴槽で足を滑らせた。蓄積している疲労で体が思うように動かなかったのも原因の一つであった。
それでも不幸中の幸い。転倒した場所が浴槽の中心だったために無傷であった。もしFRP(ガラス繊維強化プラスチック)でできた浴槽のどこかに頭でもぶつけていたならば、大惨事になっていたに違いない。
「し、死ぬかと思った……。って、そんな場合じゃない」
九死に一生を得たと安堵したいところだが、彗斗は先程聞こえた声の正体が気になってそれどころではなかった。声からして女性であろうその声の主を探すように周りを見渡すものの、当然浴室内には誰もいない。
この家の住人は、彗斗と彗斗の母親の二人。となれば、最初に疑うべきは母親だろう。
しかし今の時間帯、彗斗の母親は夜勤に出かけているため不在であった。その上、先程の声は明らかに彗斗の母親のものではなかった。これに関しては彗斗が最も聞いてきた声であり間違えようがない。
これらのことからどこかに別の人間がいると踏んだ彗斗は、浴室に取り付けられていた下開きの窓を押し開け、頭だけを出すようにして外を覗き込む。浴室内の照明と僅かな外灯のみの仄暗い周辺だったが、声の主らしき人の影も気配もなかった。
「空耳、か。相当疲れてるんだな」
ごく短時間ではあったが、窓を開けたせいで浴室の気温が下がっていた。そのせいで軽く身震いした彗斗は窓を閉めると、全身がお湯につかるよう深くお湯に浸かる。
「あれ……、ここってまさか」
再び、そんな声が彗斗には聞こえた。ただ、何も空耳は一度しか聞こえない現象ではないだろう、と今度の彗斗は冷静にスルーする。
否、スルーしようにも一つ、あることに気付いてしまった。この声にはものすごく聞き覚えがあるということを。
「なんで
実姫――
しかし今は、幼馴染というよりは元幼馴染、もしくは同級生でクラスメイト、という表現の方が二人の関係性を表すにはより適切であった。今はもう、かつてほど話す間柄ではなくなってしまっていたからである。
空耳だとしても、それがなぜ実姫の声なのか。彗斗はそのことが不思議でならなかった。
「それはこっちの台詞だよ! なんでさっきから彗斗の声が聞こえるの?」
「……は?」
空耳だと先ほど結論付けたはずの謎の声。だが今の声は、それを白紙に戻すような事実を突きつけた。
まるで自分の声を聞いていたかのような――会話するように言葉が返ってきたのだ。当然冷静さなどは保っていられず、慌てて思考を巡らせた。
――本当に空耳なのか?
彗斗の中でそんな疑問が生じる。
空耳――すなわち幻聴とは、実際には外界からの入力がない感覚を体験してしまう症状の内、本来聞こえないはずの声が聞こえてしまう現象を指す。精神状態に何かしらの障害がある時に起こる症状とされているが、これだけ意識がちゃんとある時点でその線は疑わしかった。
その点をはっきりさせるため、彗斗は一度倒れていた自分の体勢を起こし、自らの頬を強く抓った。
「いって~」
これでもう一つの可能性――夢の中にいるという可能性も同時に潰すことができる。
彗斗は自分の頬に鈍い痛みが走るのを感じた。しかし目の前の景色は先ほどと変わらず、これが夢でないということは火を見るよりも明らか。
「何? どうしたの?」
追い打ちをかけるように相変わらず声が聞こえ上、彗斗の身を心配までする始末。あまりに哀れだったので、彗斗は自嘲気味な笑いを漏らした。
――幻覚じゃなかったら……。
幼い頃から彗斗の家に何度も訪れ、この家のことを熟知している琴浦実姫とは言えども、鍵のかかった家に入れる術を持っているわけではない。仮に持っているとしても、家のインターホンを一回押すだけで済む話だ。
そもそも、何のためにここへ来たのかが彗斗には分からなかった。学校でも同じクラスである以上、いくらでも接触する機会はあるから、こんな夜遅くに訪問する理由も分からない。だとしたら……。
そうやって順々に思考を巡らせたが、分からないことばかりで何一つ結論へとは近づかない。それだけでなく、風呂の温かさでどんどんと思考が鈍くなるばかりだった。
だから彗斗は、一度これについての思考を放棄した。
「……頬を抓った」
そして、特に意味もなく先ほどの問いに答えた。
「なんで?」
「今が現実かどうか、分からなくなったから」
「ふふっ。何それ~。二重の意味で痛いじゃん」
限りなく彗斗の知る琴浦実姫に近い反応。声の主が本当に実姫なのかどうかはさておき、かつてずっと隣にいた幼馴染と二人きりで会話する感覚が、彗斗には懐かしくて心地よかった。
そんな心地よさが風呂の温かさに上乗せされると、段々と彗斗の意識が遠退いていく。このままここにいると眠ってしまいそうだと思った彗斗は、浴槽から出て洗い場に立った。
そして、シャワーヘッドを手に取ろうとした時――。
「えっ! な、ない!?」
突然慌てふためく実姫の声。
「……何が?」
主語も脈絡もない言葉に、考えても考えても答えの出ない理解不能な状況が相まって、彗斗は呆れながら尋ねる。そして、お湯を出すためにカランを捻った。
「胸、が」
「胸が? 女子はそれがコンプレックスになりがちらしいけど、男からすれば別に大した問題じゃないというのが、世間的な一般男性の意見だそうだ。前にテレビで観た」
「大きさの話してないんだけど!?」
「そういう胸(旨)ではないってか」
「うまいこと言ってる場合でもない! そしてなんでそんな他人事なの!?」
「実際俺の身に起きた訳ではないんだから他人事だろ?」
謎の声と適当に会話しながら、彗斗はリンスを少量手に取り頭を洗っていく。泡立てると、シトラスのいい香りが降りてきて鼻腔をくすぐる。柑橘の酸っぱさの中にある甘い香りが、彗斗はお気に入りだった。
指を立ててしっかり洗い終えると、その泡を綺麗にシャワーで流し、確認するように鏡を見る。すると実姫は、困惑した様子で呟いた。
「……待って。どういうこと?」
「そりゃこっちが聞きたい」
「な、何で私が……」
「……私が?」
「彗斗になってるの!?」
「はぁ!?」
元より意味の分からなかった現象が、実姫の言葉によって更に意味の分からない方向へと向かう。
――俺になっている?
今こうして自分の身体を動かせているし、何より鏡に映る中肉中背より少し細身のこの裸体は見紛うことなき自分のもの。シャワーを浴びる度、幾度も目にしてきたのだから見間違えるわけがない。一体何を馬鹿なことを言っているのだと、彗斗はそんな声の主と会話をしていること自体が馬鹿らしくなってきた。
「そんなわけないだろ。だいたい実姫が俺になっているのなら、セオリー的には俺が実姫になっているんじゃないのか?」
彗斗の言う『セオリー的には』というのは、ある人物とある人物が入れ替わってしまう現象のことを指して言ったもの。物語によく出てくる王道設定であり、よく映画やドラマを観ている彗斗は、実姫の発言からすぐに入れ替わり現象を疑ったのだ。
「そう言われたって、私にもよく分かんない。目の前に彗斗の身体が映って、今やっと気付いたんだもん……」
そう言われて彗斗はようやく気付く。どうやら自分の裸を見られているらしい、と。
だが別段慌てて隠すようなことはしなかった。いかんせん、裸を見ている側がそれらしいリアクションを取らないために、恥じらいも何も感じなかったのだ。
彗斗は何もなかったように会話を続ける。
「俺の身体を動かすことはできないのか?」
「……できない。できるのは見ることと聞くことだけ」
彼女曰く、視覚と聴覚以外使えないとのこと。正確には、彗斗の視覚情報及び聴覚情報が声の主と共有されているということになる。
――そうか。そういうことか。
彗斗はこのことから、この難解な事案に一つの可能性を見出した。
「謎は全て解けた」
彗斗は鏡の中の自分を指差して、とびっきりの決め顔で言い放つ。
「その言動がまさに謎だよ、彗斗」
「……ゴホン。まぁいい。少し待ってろ」
彗斗は咳払いして誤魔化しお湯を一度止めると、改めて周りを見渡した。背伸びしたりしゃがんだりして、風呂場の僅かな水垢やカビの一つも見逃さないくらい隅々まで、隈なく見ていく。
だが、ぐるりと一周り見終えたところで彗斗は内心焦った。あれだけ見栄を切っておいて、どうやら見当違いだったらしい。
――てっきり隠しカメラかと……。
視覚情報と聴覚情報。これらは隠しカメラさえ設置しておけば、自分自身がここに居なくても得ることが可能。会話もそれを介して通信すればいいわけで、全ての辻褄が合うと彗斗は考えたのだった。
しかし残念ながらそれらしきものは見つからなかった。今一度彗斗は考えてみたが、いくら技術が発達したとはいえ壁に擬態できる性能があったり、目視不可能なほど小さなものは現代技術において製造不可能な代物であるように思う。このことから彗斗は、隠しカメラの線もないと踏んだ。
「なんでさっきから壁をジロジロ見てんの? もしかして、小さな汚れ一つ見逃せないほどの潔癖症だったりする?」
「俺がそんな細かいとこまで気にして掃除するようなタイプじゃないって、お前ならよく知ってるだろ」
「嘘嘘。冗談だよ」
「ったく……」
ますます難解になっていく摩訶不思議な現象。
空耳でも隠しカメラでもなければこれは一体何なのか。鏡の中の自分を真っ直ぐに見つめながら、彗斗は他の可能性を探ろうとした。
そんな時、随分と遠くから玄関の扉が開いた音がした。母親が帰ってきたのだろうか、と彗斗は思う。
「お母さん?」
「……しか考えられないけど、おかしいな」
「そうだね」
この声が本当に実姫かどうかすら、未だに彗斗は分からない。それでもこれが実姫だとすれば、何も説明せずとも察したことには合点がいった。彗斗の家庭の事情――彗斗の母親がこの時間帯は夜勤で留守にしているということをよく知っているからだ。
声の正体に対する真偽はさておき、今起きた現象に対する疑問は簡単に確かめられる。実際に行ってみればいいだけだ。
彗斗は体を洗った後に浴室を出る。バスタオルで全身を拭き、用意した寝間着に袖を通すとリビングへ向かった。
「母さん?」
「あぁ、彗斗。お風呂上がったの?」
彗斗がリビングのドアを開けると、そこには買い物袋に入っているものを冷蔵庫にしまう彗斗の母親の姿があった。
一見すればさして珍しくもない主婦の図。だが日曜日のこの時間帯、射出家では決してみられない光景で、当然彗斗の目には奇異に映っていた。
「何呑気なこと言ってんだよ。夜勤は?」
「夜勤? 今日はお休みだけど」
彗斗の母親――
あまりにも平然と言うので、彗斗は勘違いを疑った。けれど自室で確認したように、確かに今日は日曜日なのである。
三年前に彗斗の父親が亡くなって以降、体の調子が悪くても無理して出勤するなど、決して休もうとしなかった優子。彗斗が今の優子に違和感を抱くのは必然的だった。
「もしかして体でも悪いとか?」
「ううん」
首を横に振りながらはっきりと否定する優子。
いくら親子関係がいい方だとはいえ、こんなことを聞く彗斗は珍しい。故に優子もまた、彗斗に対して違和感を抱いた。
「……そんなこと聞くなんて一体どうしたの?」
「それはこっちの台詞だ……」
「今日は休みにしてもらったのよ。さすがにこの状況じゃ行けないからって。言ってなかった?」
「この状況って、どんな状況だよ……?」
優子は彗斗が立て続けに疑問を呈してくる様を見て、怪訝そうな表情を浮かべた。
「……熱でもあるんじゃないの?」
「いや、これは風呂から上がったからだって」
「ううん。そういう意味じゃなくて。それに、さっきとは随分と様子も違うし……」
彗斗は、先ほどからの優子の言葉を何一つ理解できていなかった。だから彼女が心配そうに見つめる手前で、ただ小首を傾げることしかできない。
そんな彗斗の様子から、母は安堵とも心配ともとれる息を吐き、小さく呟いた。
「実姫ちゃんが亡くなってから、あんなに暗かったのに……」
「……今なんて言った」
冗談、もしくは気のせいだと彗斗は思った。だから聞き返すように言葉を発した。
だが、優子はそんな不謹慎な冗談を言う人間でないことを彗斗は良く知っている。ましてや、家族ぐるみの付き合いで実姫のことを幼い頃からよく知っている優子である。
嘘ではない。だとすればこれは真実――。
あまりに突然なその受け入れ難い事実に、彗斗の頭は拒絶しようとした。
――まさか……。
優子は続けて、ぼそぼそと呟く。
「それなのに今はいつも通りで……。空元気なんじゃないかって、心配になる」
「嘘……だろ?」
これが冗談ではないと彗斗は分かっている。それでもそう口にするほどには、この事実が受け入れられなかった。
考えたくないことばかりが頭の中で錯綜する。気を抜けば倒れてしまいそうなほどの眩暈、自らの意思に反する腕の震え。彗斗は気が動転する寸前まで陥った。
受け入れられない、受け入れたくない。
受容してしまえばそれは事実になってしまうから。
それが事実でないとすぐにでも証明がしたい、安心したい。
そんな思いが、彗斗を突き動かす。
「彗斗!」
呼び止める優子の声は、勢いよくリビングを飛び出していった彗斗に届かない。優子が彗斗を追って玄関へと向かった頃には、勢いよく開け放たれた扉が閉まろうとしていた。
「彗斗……」
バタンと音を立てた扉の先を見つめるようにして、ただ心配そうに息子の名前を呟く。そして力なく、膝からその場に崩れ落ちた。
「あの日から、私は何か勘違いをしてたのね……」
* * *
もう時刻は十一時を回っていた。
この時間に外出をすることが良くないこと――補導される可能性があると、彗斗は知っていた。だが、今の彗斗にとってそんなことはどうでもよかった。
ただ我武者羅に、足を進めた。息が切れようとも、足が次なる一歩を踏み出し続ける。
それでも、目指した場所までは体力が持たなかった。元より体力不足であるのに加えて、今日は特別身体が重い。強すぎる思いが本来守るべきペースを乱したがために、すぐに限界が訪れた。
夜の照明に照らされた住宅街の路地の真ん中で、彗斗は激しく息を切らし膝に手をつく。
呼吸を整えようにもなかなか整わない息。呼吸の度、肺に凍り付くような痛みが胸元を走る。風呂に入ったばかりだったが、額からはもう汗が滴っていた。
『風邪、引くよ?』
鳴りを潜めていた現象が再び顔を出す。彗斗の身を心配する声であったが、彗斗はそのことに納得がいかなかった。
「……なんでだよ。どうして、自分が死んだってことを聞いても、人の心配なんかしていられるんだよ」
『驚いた』
一切の躊躇いの間もなく、まるで元から考えていたかのように、すぐに短い言葉が返ってくる。まるでそう思っているとは思えないほど、彗斗にはその声が淡白に感じられた。
「だったら……。だったら、なんでそんなに冷静でいられるんだ、教えてくれ……」
彗斗は、あの現象が幻覚でもなく夢でもないことに確信を持っていた。そしてこの声の主が本当に実姫であるということも。
実姫が死んでしまったからこそ、今実姫の声が聞こえるのだと彗斗は考えたのだ。
死んだ実姫の魂が、もしくは幽霊となった実姫が彗斗に憑依した。そう仮定すると、実姫の視覚と聴覚が彗斗と共有されているという実姫の証言にも矛盾は出ない。
だがそれは、まさに超次元的なことであって彗斗も簡単には飲み込めなかった。ただ、起きた事実だけ拾い集めると、この仮定が成り立ってしまうのだ。
そして今。彼女が本当に死んでしまったかどうかの真相を確かめようと、彗斗は実姫の家に向かっていた。その真偽こそがこの現象が真実かどうかを確定づける。自分の目で確認するということが、何よりもの証拠になるのだ。
彗斗はよろめきながらも立ち上がると、覚束ない足取りで一歩一歩前へと踏み出す。どれだけ遅い足取りでも、着実に目的地へと向かっていた。
『無駄だよ、彗斗』
けれど実姫は、その行動をバッサリ切り捨てた。まるでそれは無駄な抵抗だと諭すように。
それでも彗斗は聞き耳を立てず、むしろペースを上げようと歯を食いしばり、足を強く踏みしめる。
『彗斗のお母さんは、私が死んだなんて嘘、つくような人じゃない』
「……」
『それに、私はまだ生きてる』
「……」
『死んでいないからこうして話せる』
「だったら……」
実姫の言葉がようやく届いたのか、彗斗はようやく歩みを止めた。
けれどそれは、彼女の言い分を決して受け入れた訳ではなかった。先ほどから強く握られている拳が震え、全身に力が入る。
「生きてるって言うなら目の前に姿を現せよ!」
力任せに叫んだ彗斗の声が、夜の空の下で無情にもよく響く。
何て無茶なことを言っているのだろう。
分かっていても、そう言わずにはいられなかった。
「……分かってんだよ。……そんなのもう、分かってんだよ」
――確かめるまでもなく真実だって。
実姫の言う通りだった。彗斗は優子から話を聞いた時点で、事実だと理解していた。それでも我儘な幼い子供のように、それから逃げるようにして悪あがきをしている。それほどに、信じたくない事実――訃報だったのだから。
受け入れ難い現象が現実に起きていると知って、大切な幼馴染を亡くして、彗斗の感情が堰を切ったように溢れてくる。もう彗斗に、この先を進む気力はなくなってしまった。
けれど、涙だけは決して流れなかった。彗斗は随分前にその機能を失っている。
それでも涙が流れるくらいこの事実は悔しくて悲しくて、胸が張り裂けそうだった。
『……正直、私にも何が何なのかは分からない。死んだって感覚もない。この先どうすればいいのかって、すごく不安』
この先に対する心配を実姫は吐露する。
突然やってきた現象。その当事者である実姫がそう感じるのは至極当然だろうと彗斗は思う。
けれど、それと同じくくらい。
――俺も、この先どうすればいいか分からなくて不安だよ……。
『だけど、彗斗がいるからなんとかなるって今は思うから』
「もう……死んでるんだぞ。それに……」
これがもし、ごく直近に起きたことだったなら彗斗も少しは希望が持てていた。これが魂が一時的に抜けただけというのなら、元の彼女の肉体に戻れば生き返る可能性があったからだ。
しかし、優子は言っていた。『亡くなってから』、と。その肉体は焼かれ、既に壺の中に納められたことだろう。
一縷の望みがあるかないかというのは大きな違いだ。縋るものがあれば縋っている間だけは、悲しみもこの先への不安も考えなくて済むのだから。
そのほんの僅かな可能性すら見出せない今、彗斗は完全に途方に暮れてしまっていた。
「俺はこの先、どうすればいい……」
だから、今度は彼女に縋った。その答えを求めているのは――この先どうすればいいのか分からないのはむしろ当事者の実姫だというのに。
どうしてこんな時に彼女を頼ってしまうのか。自分の不甲斐なさに、彗斗は嫌気がさした。
『私が望むのは、いつも通りに戻ってほしいってこと。ただそれだけだよ』
「いつも通り……」
『いつも通り』という言葉が、彗斗には理解ができなかった。
決して言葉が抽象的だから、というわけではない。それを望んでも、決して叶いようがないことだからだ。
実姫の言う『いつも通り』の日常は、もう帰ってこない。
――実姫がいない日常のどこが、いつも通りなんだよ……。
『とにかく、風邪ひいちゃうから早く帰ろ? ね?』
だが、こうして実姫は彗斗のすぐそばにいて、声がする。死んでしまった事実があっても、目には見えなくても。こうして彼女はそこにいるのだ。
「……また風呂に入らなくちゃいけないのか」
本当に小さな声で言った。自分以外はまるで聞こえないほど。
けれどそんな声ですら、どんな人間よりも近くにいる彼女にはきちんと届く。
『そうだね』
これ以上、こんな沁み垂れた面をしているわけにはいかない。例えハリボテのいつも通りであっても、彼女をこれ以上心配させるべきではないと思うから。
彗斗は、一度深呼吸をした。
そして彼女の言う『いつも通り』へ、向かう覚悟を決めた。
「まったく、何のために風呂入ったんだか……」
『ふふっ。ほんとだよ~』
実姫の姿は、もう見ることはできないかもしれない。
それでも、彼女の声だけで彼女がどんな風に仕草をして、どんな表情を見せるのかを彗斗はよく知っている。
だから彼女は生きているように思えた。それが例え、ただの錯覚だったとしても――。
* * *
彗斗が家に戻った頃、既に優子は自室に戻ったらしく姿がなかった。
二度目のお風呂に入った後、自室に戻ると机の辺りが光っていることに気がついた。その正体に、先に気がついたのは実姫だった。
『彗斗は私が生きているのか確かめたかったんでしょ? それならはじめっから携帯使えばよかったのに』
どうやらスマホが何らかの通知を受けて光っていたということらしく、彗斗はスマホを手に取る。すぐに確認すると、クラスメイトたちがやり取りするグループチャットに新規メッセージが送信されたという通知だったらしい。
「……」
ふと、彗斗の頭の中を過るのはクラスのことだった。やり取りの内容は極めていつも通りに映るが、文面だけならいくらでも偽れる。きっと彼らも彼女らも、自分と同様の感情を抱いているだろうに、あくまで平静を装おうとする姿が痛々しく思えた。
彗斗はそれから目を背けるように電源を落とすと、スマホを近くにおいて床に就く。寝転びながら、先程の実姫の問いに答えた。
「それだと意味ないだろ」
『なんで?』
「メッセージや電話じゃ本人かどうかを確かめたことにならない」
『そうかな~? メッセージはともかく、電話なら分かると思うけど?』
「現代技術だとそこまで偽装が可能になってるかもしれない」
『ドラマかなんかの見すぎだよ……。大体、もしその技術? があったとして、一体何の目的でそんなことしてるの?』
「この現象は実は誰かが意図的に作り上げたもので、解除方法を知る黒幕が『知りたかったら金だ。一千万だ』、と言って身代金を要求する、とか」
『やっぱりドラマの見すぎだよ、彗斗……』
そう実姫が呆れながら呟くと、彗斗は軽く咳払いした。
「……ってのは嘘。本当はちゃんと会って確かめたかった」
『……そっか』
例え照明のついていない暗がりの中でなくとも。
彗斗が照れて赤く染めた頬を、実姫は見逃してしまうのであった。
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