第14話 今こそ反撃の時

「海原さんは、その瑠奈さんに催眠術を掛けられていたのですよ。それも強力なものを」


「催眠術?」



「はい、なぜ解けなかったか分かりました。――匂いです」


「匂い?」


「瑠奈さんの部屋に入ったとき、強烈な匂いがしたはずです。さっき仰ったように。それはアンカーといって、催眠誘発の切っ掛けを作られたのです。


 それに海原さんは二度もその女性を車できそうになったのですね。その時のショックは一時的でも大変大きなものですね。

 それは、そのショックを利用して催眠を掛けやすくするために故意に起こされたのです」



「なんだって!」



「ショックを与える、それも大きなショックを記憶に刻ませ、失礼ながら、その後、あの週刊誌記事の熱愛報道の内容を強く意識させた。

 あたかもそれが真実であったかのように罪悪感と共に本人にり込ませるのです。それを、匂いで誘発する。その匂いがすると、すぐに催眠状態になるように。


 ――もしかして、その時の匂いを常に携帯されているか、身近に置かれていませんか?」



「あの匂いを?」

 あっ、と裕星はポケットからハンカチを取り出した。

 しかし、それはゴミ箱から拾ったときに汚れていたため綺麗に洗濯されていた。そのお蔭で当初のキツイ匂いは薄れ、催眠が解けやすくなっていたのだ。


「これ……なぜか分からなかったが、寝る前は枕元に、起きてからは胸ポケットに無意識に身につけるようにしていた」


「それですね。それがアンカーでした。すぐこの場で捨ててください。ただし、また同じ匂いを嗅がされて催眠を誘発される可能性もありますので、念のために逆催眠を掛けさせてください」



「逆催眠?」


「はい。この匂いを嗅いでも、もう彼女の思い通りの催眠状態にはならないための催眠です。全くこの匂いには反応しなくなります」



「ありがとうございます! お願いします」






 裕星が診察室に入ってから30分以上が経っていた。

 美羽はその間、ずっと両手を固く握りしめ待合室で無言で待っていた。

 浅加も、いつもはお喋りなマネージャーの松島でさえも無言だった。

 光太は行ったり来たり、まるで手術室前で待つ家族の様だった。



 ドアが開いて、裕星が顔を出した。皆が不安そうに裕星の様子をうかがっていると、先に美羽が耐え切れず裕星に駆け寄った。


「裕くん!」

 しかし、裕星の前まで来ると、涙をいっぱい溜めて立ち止まった。


 裕星は美羽の顔を見ると、ふっと、いつものクシャッとした笑顔を見せた。そして、両手を広げて美羽を抱きしめたのだった。



「裕くん? 私のこと思い出したの?」

 美羽が裕星の胸の中で涙をポロポロと零しながら訊くと、「もちろんだよ、一番大切な人のことを忘れるわけない」とさらにギュッときつく美羽を抱きしめた。



 美羽は裕星の胸の中で声を上げて泣いた。何度も嗚咽おえつしながら背中を揺らし泣いていた。




 側にいた光太も浅加も声をかけられず二人をそっと見守っているだけだった。




 研究所の帰りのバンの中で、浅加が怒りの声を上げた。

「しかし、ひどいやつもいるもんだな。その女、まだ20なんだろ? 末恐すえおそろしいな」


「ホントですね。もし、裕星が催眠術が解けないままだったら、どうなっていたか。結婚までさせられたんじゃないですか?」

 光太が憤りながら裕星の顔を見た。



「そんな……」

 美羽が裕星の隣の席で光太を振り返った。


「俺は、たとえ何があっても美羽の事を思い出せる自信があったんだ。だけど、こんなに簡単にあやつられるとはな……。自分に怒りを感じるし、ガッカリした、ていうか恥ずかしいよ」


「裕くんは悪くないわ。裕くんは今まで気付かなかったと思うけど、あの週刊誌はどんどん追加記事を出して、今では本当に裕くんと高瀬さんが本当にお付き合いしてることになっちゃってるの。

 それなのに、少し前の裕くんは彼女と交際を認める気満々だったのよ」



「俺があんな奴と? ふざけた話だな! それより、たとえ催眠術だったとしても、俺があんな小娘に夢中だったなんて恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいだ。


 それに、美羽のことをすっかり忘れていたのは、今まで細心の注意を払って美羽を隠し通して守りたい気持ちが強かったせいで、催眠術が掛かった時に美羽の存在を心の奥にしまい込んで忘却したらしいと医者に聞いた」



「美羽さんを思う強い気持ちが裏目に出たのか……だが、それにしても、お前、美羽さんのことを知らない女扱いしてたんだぞ。ちゃんと美羽さんに謝れよ!」

 浅加に言われ、裕星は思わず頭を掻きながら、「本当に悪かったな、美羽」としょんぼり頭を下げた。



「ううん、裕くんは意識的じゃなかったんだもの。私を強く想ってくれていたせいよ」

 美羽はどこまでも優しかった。




「しかし許せない。俺は彼女を許さない。こんな方法を使って売名行為をするなんて。何かギャフンと言わせる方法はないかな」

 裕星が憤りながら腕を組んで考え込んでいる。



「裕くんが元に戻れたんだから、もういいわよ……」

 美羽が声を掛けようとすると、「──よし、こうしよう。俺はまだ催眠状態が抜けないことにする。そして、最後に皆の前で暴露ばくろしてやるよ。

 それに、あのケータイショップ前の飛び出しも、駐車場での故意の怪我も、全部ドラレコに録ってあるしな。何かあればこれを公開する。ただし、彼女が反省しない場合に、だけどね」


「催眠術のことはどう説明するんだ?」光太が訊いた。


「それは説明できないだろうな。それこそ、人の心の中までは証拠にはならないからな」裕星は冷静に答えた。

「しかし、証拠はなくても、もう解けてさえいれば、後は俺次第でなんとでもなる。そこは俺に任せてくれ」

 そう言うと満足げに座席の背にもたれてくつろいだ。



 事務所に着く頃には、車内は皆の笑いのうずとなっていた。

 裕星は美羽にそっと耳打ちした。

「これから俺がどんなことをしても、俺に合わせてくれないか。それだけでいいから」

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