第6話 同い年で年上の彼女
次に目を覚ましたのは午前七時頃。
いつもなら日の光だったり、鳥の囀りや住宅地特有の子供の喧騒などで目を覚ますことも多いが、目でも耳でもないところへの刺激が、俺の意識を覚醒させる。
鼻をふわりと掠める奥深い香り。日本人なら誰もが知る、あの匂い。
目を擦りながら体を起こすと、隣にはあの時いたはずの春の姿はない。その一方で、先程からキッチンの方で物音が聞こえる。先ほどから鼻を刺激するあの匂いもまた、そこから来ているようだ。
ガチャっと、部屋とキッチンを仕切るドアが開かれると、春は姿を現す。家から持参していた部屋着の上からエプロンを着て、両手でお盆を持っている。同時にあの香りがさらに強く感じられる。
「おはよう、涼君」
「……おはよう」
何をしてるんだ。そう聞こうと思ったが、そんなことは見れば分かる。
机の上に並べられていくのは朝食だ。ご飯、オムレツ、ウインナーにサラダ、そして味噌汁。先ほどから香っていた、奥ゆかしくも懐かしい香りの正体はこの味噌汁だった。
「朝食、冷めないうちにどうぞ」
普段はほとんど朝食をとらない。一人暮らしになってからは特にだ。
朝ご飯と言えばの品目を目にし、更には食欲をそそる匂い。いつもなら食欲がない朝で、なおかつ起きて間もないというのに、食べたいと思った。
「いただきます」
手を合わせ、しっかりと感謝したのちに箸を手にする。
まずは汁物。お椀に口をつけると、口に入るより先に香りが鼻を衝く。出汁の香りと味噌の香りだけで、もう美味しいと確信できた。少し口に含むとさらに豊かな香りが広がり、同時に心が安らぐ。こんなに味噌汁が美味しいと感じたのは、きっと初めてだ。
次にオムレツ。卵の美味しさとバターの甘い香りが口いっぱいに広がる。中にはほうれん草が入っていた。家の冷蔵庫にはないものなので、おそらく俺が普段から重宝している冷凍のカットほうれん草だろう。切ったり茹でたりする工程が省けるのに、味は生から茹でたものと遜色ない。現代の冷凍技術はまさに革新的で、時間が惜しい人の味方だ。
ウインナー、サラダと次々と口に運んでいく。食事中、箸はほとんど止まることがなかった。そして気づいたころには完食。米一粒たりとも残っていない。
「ごちそうさまでした」
あっという間に朝食を済ませると、彼女はすぐに片付けに入った。
俺はそんな春を呼び止める。
「春」
「うん?」
再び食器をお盆に乗せてキッチンに向かおうとしていた春が足を止めてこちらに振り向く。
「美味しかった」
「よかった」
春が本当に嬉しそうに微笑む。
「春は食べなくてもいいのか?」
「うん。味見しすぎちゃって……」
「そっか」
一体いつからこの準備をしていたのだろうか。布団では眠っていないこともあって疲れているはずなのに、早起きしてここまで美味しい朝食を作ってくれたことには感謝しかなかった。
「何でもしてもらって、ごめんな……」
「ううん。私にできるのはこれくらいしかないから。涼君には万全な状態でテストに挑んでもらって、また夢を追いかけて欲しい」
「うん。頑張ってくる」
俺がそう言うと、彼女はニコッと笑う。
「頑張ってね」
その短い一言がいったどれだけ心を奮わせただろう。その影響だろうか、それとも朝食がもうエネルギーに変わり始めたのだろうか。自然と体から眠気や疲れがとんだような、そんな気がした。
「私、一緒に学校まで行こうか?」
午前八時半過ぎ。靴を履き替えて家を出る前、彼女に問われる。
今日俺は講義がいくつもあるが、春は休講も絡んで一日休み。バイトもないとのことで、せっかくなら部屋の掃除もしてから帰るよと言って、俺からスペアの鍵を受け取っていた。
あとは任せて、俺はテストに専念。そう思って家をいつもより早く出ようとしていた。
「ううん。大丈夫」
「じゃあ、ここでお見送りだね。絶対にやり切って帰ってくること。寝落ちした、は今回に限ってはなしだよ?」
「分かってる。ちゃんとベストを尽くしてくる」
俺一人だけの力でここまで来たわけじゃない。春、翔、小賀。三人の力を借りている以上、それらを水の泡にするわけにはいかない。
俺は改めて拳に力を入れて、グッと気合を入れる。
「それじゃ、行ってきます」
この台詞を言ったのは、何だか久しぶりな気がする。実家でもいつしか言わないようになっていったこの言葉が、未来の世界を妄想させた。
こうして朝。春に玄関で送り出され、夜には迎え入れられる。そんな日々は、やってくるのだろうか。
「行ってらっしゃい!」
微塵も疲れなど感じさせない元気いっぱいの声に送り出され、俺は家を出た。
向かうは、決戦の地である。
* * *
ゴールウィーク明けの久しぶりの大学。と言っても一週間ぶりではあるが、入学式の時のような新鮮な感じがする。
一度しっかり深呼吸した上で、大学の敷地内に一歩踏み入れる。
「涼真君!」
その瞬間、背後から呼びかけられて、びくっと肩を震わせる。
「脅かすなよ……」
「ごめんごめん」
なぜか大学に入るのをやけに躊躇っている、恥ずかしい所を見られたということもあって胸の鼓動が早くなる。
「春は休みだけど、小賀は講義あるのか」
「うん。まぁ一コマだけだけどねー」
俺たちは二人並んで大学の中へ進んでいく。
春ともこうして構内を歩くことはほとんどないので、少し不思議な感じがする。
「それで、付きっ切りの勉強は捗りましたかな?」
「おかげさまでな」
「そうそう。ちゃんと感謝してよね?」
胸を張って、偉そうに話す小賀。
大学生であるにもかかわらず夕方に帰ったあたり、何かしらあるんだろうとは思っていたが、彼女のにやけ顔から企んでいたことを確信した。翔も似たようなところがあるので、今回は結託しての犯行だったのかもしれない。
でも実際、おかげさまでいい時間が過ごせたので感謝せねばなるまい。
「……まぁ、私はまだ躊躇ってるところあったけど」
そう言う彼女の表情が突如として曇る。
「私さ、涼真君のこと嫌いなんだよ?」
「……は?」
面と向かって『嫌い』と言われたこともないし、普通は躊躇うものだから、こういう風に平然と言われても、あっけらかんとした表情を浮かべるしかない。
それに今回、彼女が俺と春の二人きりの時間を意図的に演出した点から、その発言は矛盾しており、なおさら彼女の言った言葉の意味が分からなかった。
「ちょっとだけ、いいかな?」
彼女がそう言って指差したのは、大学のいたるところに置かれているベンチだった。
俺たちはそこに並んで腰を下ろす。
「去年のこれくらいの時だったかな。春花と初めて話したの」
小賀はどこか遠い所を見つめながら、過去の話を打ち明ける。
「私、帰国子女ってのもあったから、大学ではすぐに友達がつくれなくてね。孤立してた私に声をかけてきたのが、春花だった」
高校までと違い、大学はクラス単位と言う括りは薄い。部活やサークルに入れば交友関係を広めることも可能だろうが、それ以外では関係を築き上げるハードルはこれまでより数段高い。
「少しずつだけど仲良くなっていって、一緒に遊びに行くようにもなって。でもそんな春花にはずっと影が見えてた」
「影?」
「楽しいことをしているはずなのに、今私がしているようにどこか遠くをボーっと見つめてて。楽しくないのかなって心配して尋ねると、彼女は必ず笑って楽しいって答えるけど、それが作り笑いで取り繕っていることは私以外の人でも分かったと思う」
あの頃の春が抱いていたのは、あの約束に対する後悔と心残り。自分は今後どうすべきなのかを迷っていたのだと、彼女は言っていた。
「それでその原因を尋ねたんだよ。そしたら、涼真君と交わした約束の話をしてくれたよ」
どことなく俺が翔に悩みを打ち明けた時と似ている。そんな気がした。
「付き合っているのであれば尽くすし、そうでなければ交わすべきではなかった。だから約束を交わしたのに、中途半端に夢を追い続けたことには怒った。でも何より、春花の友達として悔しかったし悲しかった」
約束を交わしたのなら、付き合っているのなら。その前提があるにもかかわらず中途半端な選択をとったこと。彼女はそれが許せなかったのである。
「だから、私は彼女に変わることを勧めた。君の知っている春花はもうここにはいない。だって約束を破ったのだから。それを言わずして示すためにね」
入学式の日。本当に同一人物だったのか、それが分からなくなるほどに変わってしまった彼女の姿。
それは俺に、罪を改めて悔いさせた。でも、それが意図があってのことだったとは全く知らなかった。
「でもそれは間違いだった。君を言葉だけの空想で、ただの裏切り者だと決めつけてしまった。初めて会った日に君がいい人だと知って、悔いさせるどころか、私が逆に悔いることになったなんて笑えるよね」
彼女は自傷気味に小さく笑う。
「上辺だけで知った気になって、君を傷つけた」
彼女は心憂い表情を浮かべると、すっと上空を見上げた。
「何より、春花の気持ちを……。好きだって気持ちを消しかけた」
彼女の瞳が潤んでいるように見えた。彼女が上を向くのは、涙を溢すまいとしたからだろう。
彼女のやったことは間違っているだろうか。
少なくとも俺は間違っているとは思えなかった。
昨日、彼女は付きっ切りで勉強を教えてくれた。何度も何度も、多少難儀しながらも、彼女は最後まで投げ出さなかった。そんな優しい一面があるから、春にとって大切な友達なのだろうということを知った。
だから前を向かせてあげたい。そう思った。
「今、消しかけたって言ったよな」
「……?」
彼女がその言葉で、俺の方を向く。堪えようとしていた涙が、一滴だけ頬を流れた。
これはいつしか、翔がやった手法。悪く言えば揚げ足取りだ。でも、俺はこれに救われたからここにいる。
「消しかけた。そう、消えなかったんだよ。だから今も、春は俺の隣にいる」
「でも、やったことには変わりないし、消えたりもしない」
「確かに事実は消えない。けど同時に、春のことを大切に思ってくれてた証拠も消えないだろ」
「!?」
彼女のしたことの真相を知った時は確かに驚いた。けれど、決してマイナスな感情は抱かなかった。むしろ春を大切な友達だと思っていたからの行動で、純粋に嬉しいなと思ったのだ。
だから彼女を責める理由なんて一つもなかった。
「『謝らなくていい』って、きっと春ならそう言うはずだからさ。もういいんだよ」
涙に明け暮れる彼女の肩に、そっと手をのせる。
春が変わったきっかけが小賀だったのは、金沢に帰省する新幹線の中で聞いていた。その際、彼女は一度だって小賀のせいだとは言わなかった。
自らを見失う原因になったにもかかわらず、それでも責めなかったのは、このことを全て理解していたからだ。きっと彼女なら、小賀の心中を知っていたはずだ。
それならばきっと、春も謝罪なんて求めていないだろう。
「それに、むしろ感謝してるんだ。俺が自らの過ちで開けてしまった隣を埋めてくれたのは、他でもない小賀だ」
「それは当然、友達だから」
少し照れ気味に小賀は言った。
ちらっと視線を移すと、自動販売機の上部に付けられた電光掲示板に、今の時刻が表示されているのが見えた。
「あと、昨日助けてもらったこと、絶対に無駄にしない」
俺は意を決してゆっくりと立ち上がった。
「ごめん、大切な時に引き止めて」
「ううん。むしろ聞けて良かった。全てが終わったらもう一度、お礼を言わせてくれ」
「Do your best!」
いつもの彼女らしい表情を見せ、俺を見送った。
――でも、英語はやめてくれない?
誰かのためにやれることを全力でやり遂げる。
俺にはできなかったことをやっている小賀はすごいと思う。
だから俺も見習って、俺を助けてくれた人のために――。
* * *
試験会場であるいつもの講義室には、最後まで死力を尽くそうとしている生徒の姿があった。
たかが一回の試験。もし結果が芳しくなくても挽回できる可能性のある試験。
だけど今回は、現役の時の試験と同じくらいの重みを背中に感じる。
俺はいつもの後ろの方の席に腰を下ろすと、すぐさま鞄から単語帳を取り出す。
「まるで奇跡のようだ」
「その奇跡を生み出したのは、貴様の仕業だろう?」
「左様で」
いつものように皮肉めいた冗談を放つのは、このきっかけを与えた人物。随分と久しぶりだが、この場所では彼が隣にいる方がしっくりくる。
翔が目を丸めている光景は、まさしく今の俺の状況だろう。学校に来たらすぐさま講義の用意を済ませ、開始までは執筆に励む。それがいつもの俺のルーティンだから、こうしてテスト勉強していることが異様に映るのは当然ともいえる。
「まぁ、一夜漬けなんてとても褒められた所業じゃないけどな」
「確かにそうだけど、俺がいなきゃ零夜漬けだったわけだ。零と一は天と地ほど違うぞ」
零と一。
数字上は僅か一の差だが、同じ位置の差でも二と三とは大きく違う。やっていないか、やったかの差だからだ。二と三の差など誤差に過ぎない。
「とにもかくにも、今から始まる一時間に全てをかける。今すべきことはそれだけだ」
「健闘を祈る」
「……っておいおい、お前は大丈夫なのかよ?」
先ほどから彼は眠そうな表情を浮かべて、ぼーっと講義室前方を見つめている。
周りの人たちが真剣なのに対し、一人だけ余裕そうにも見えた。
「大丈夫、大丈夫」
「本当かよ……」
大きな欠伸をしながら、目を擦る翔。
「俺が今ここにいることが何よりもの証拠、じゃないか?」
「……そうかもな」
そうだ。これはいつものことだった。
予備校時代の模擬試験を受ける際も、彼は似たような過ごし方をしていた。
受験の日の朝も、大きな欠伸しながら電車に乗り込んでいた記憶が残っている。
けれど、彼は結果を残し続けた。予備校に入った時には難しいとすら思えた地点から、見事合格を勝ち取った。
何も知らない人がこの光景を見ても、きっと才能の差だの運がいいだの言うかもしれない。
けれど俺は知っている。
その眠気と戦っている様は、全て裏での努力の賜物だということを。
そして同時に、勉強会のための根回しが、その眠気に影響していることを。
表立っては何もしていない様にすら見えるが、今回の件を企画したのは全て翔だ。春に予め相談し、早朝の時間を見計らって俺に電話をかけてきた。そして、早めに家に帰ったのは、自らも勉強に集中するため。
俺のことを気遣いながら、自らの努力も惜しまない。加えてそれをさり気なくやってくるあたり、ほんとキザな野郎だと思う。すごいやつだと思う。
春は俺のために、小賀は春のために。そしてこいつも……。
誰かのために何かをしている彼らが、とても眩く輝かしく見えた。
どいつもこいつもかっこいいな。
「まぁだから俺のことは気にしなくていい。全てをかけるんだろ?」
「そうだな」
俺は再び、目の前の単語帳だけに集中し、これ以上は何も口にしなかった。
そして迎えた試験。
制限時間一時間の中、俺は今やれることを全てやり終えた。
先生の合図を耳にした瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、全身の力が抜け落ちた。小説を書き上げた瞬間に似た達成感に、今は満ち溢れていた。
避け続けた英語の試験で、時間を忘れて解き続けたのはいつぶりなのだろうか。
――やればできるじゃん。
* * *
目に映る景色が、ほんのり茜色に染まっている。
講義の終わりを告げる先生の声を聞くと一斉に生徒たちが帰り始める中、俺は呆然と座ったまま、その暖かな色に染まった外の景色を眺めているのだった。
今日一日はあの一限で終わったかのように、それから今までの記憶がほとんどなかった。
燃え尽き症候群、と呼ぶにはいささか燃えていた時間が短いようにも思うけれど、それほどに中身の詰まった時間を過ごしていたのだろう。
静まり返った講義室。講義を担当していた先生も、周りの生徒たちもここを出て行ったからだろう。講義室の外、遠くから話し声が少し反響して耳に入ってくる。
ふと隣を覗くとそこにはもう翔の姿はない。講義が終わってからはもう十分も経っている。きっと声をかけるのも面倒になって先に帰ったのだろう。もしくは、講義中ずっと寝ていたが、それでも寝足りずに急いで帰る決断をしたのかもしれない。どちらにせよ、一言くらい声をかけてくれたらどうなんだ、と思いつつ俺はマイペースに帰り支度を済ませた。
大学構内には、部やサークルでの活動に勤しむ生徒たちの声や音が聞こえてくる。だが高校とは違って少しもの寂しい。大学が広すぎるがゆえに、静かにすら感じた。
小説を書く上で、こういう帰り道ですらも貴重な参考資料だ。人々の声、鳥の囀り、生活音といった耳で感じるもの。そして、並んで帰る後ろ姿、群れで飛び回る鳥たち、行き交う車の数々といった目で感じるもの。それら一つ一つが、作品と言うパズルを組み上げるためのピースとなるのだ。
そんなピースを集めながら、歩くこと十五分。
家の前に着いたころには、朱色の空も暗く色づき始めていた。
「ただい……まって、誰もいないのに何言ってんだろ、俺」
玄関の扉を開けて中に入り、ボソッと一人言を漏らす。
俺は靴を脱ごうと視線を床に落とす。その時、視界にはあるはずのないもう一足の靴の姿があった。そう言えば何で鍵が……。
「おかえり、涼君」
部屋の扉が突然開け放たれると、そこには笑顔で帰りを待っていた春の姿があった。
「なんで、ここに……?」
「家にあげてくれたのは涼君、だよね?」
「それは昨日の……、いや、今日の朝までの話だろ」
今日の朝。見送られながら、春より先にこの家を出た。今日は講義がなく、部屋の掃除を済ませてから帰るからと言った彼女に合鍵を渡していたけれど、まさか今の今まで掃除をしていたということはあるまい。
だったらどうしてここに……。
「もしかして、ここにいて欲しくない?」
「いや、そういうことじゃない……。帰らなくてもいいのか?」
俺がそう問うと彼女は表情を濁し、視線を逸らす。
何か事情があるのかも知れない。そう読み取った俺は、彼女の言葉を待たずして家に上がる。
「ちゃんと話すか」
「……うん」
俺に促されるようにして、彼女は俺と向き合うようにしてゆっくりと座り込む。
部屋に入った瞬間に気がついたが、かなりの時間をかけて掃除をしていたことが窺えた。埃は影も形もないし、多少散らかっていた勉強机の上も片付いている。
もし本当に掃除に時間をかけすぎただけなら、さっきの表情の説明がつかない。きっと別の事情があってここにいたはずなのだ。
「私、涼君には何もしてあげられない」
「……何だよ、それ」
「私、涼君の隣にいて何もできてない」
「そんなわけないだろ……」
「ううん。事実、私は涼君に何もしてあげられなかった」
「一体、何言ってんだよ。昨日から今日にかけて、俺の勉強をずっと見てくれた。俺と翔の仲を取り持ってくれた。俺の愚かさや醜さを教えてくれた。何より、誰よりも俺の傍にいてくれた。それだけで十分なんだよ」
「優しいね、涼君。でも、足りないんだよ。身を削り、夢を追いかけ続ける涼君のために、何もしてあげられない。ただ、迷惑をかけないように静かに見守ることしかできないんだよ」
そんな風に自らを責めて欲しくない。
彼女は常に俺のことを思ってくれていた。デートに誘うことも、登下校を共にすることも、自ら言ってくることはなかった。それが、少しでも夢のために時間を使ってほしいから、という理由であることを俺は知っている。
それだけでも十分だったし、気持ちだけでも嬉しい。むしろこれ以上何かしようとすると、俺の心が罪悪感で痛んでしまいそうだ。
なぜなら俺の方こそ、彼女に何も与えられていないのだから。
何をしてあげるべきか考えなきゃいけないのは、むしろ俺の方なんだ。
「でもせめて、もっと近くで。本当の意味で、隣で涼君を支えてあげたい。一緒に夢を叶えたい。涼君にとっての夢は、私の夢でもあるから。だからね、決めたんだ」
その時。突然、インターホンが鳴り、俺はすぐに立ち上がった。
「待ってて」
俺はそう言って、小走りで玄関に向かう。そして玄関の扉を開けたとき、目に入ったのは大型のトラック。それもこれは……。
「こんばんは。引っ越し業者の者ですが」
「……はい?」
「今から運搬作業を行いますので、よろしくお願いします」
「……はい???」
俺は訪問者が口にする言葉の意味を全く理解することはできず、ただ首を傾げるばかりだった。すると家の奥の方から、勢いよく声が飛んでくる。
「よろしくお願いします!」
「では、今から作業の方を始めさせていただきますね」
春の言葉を受け取り、訪問者は乗ってきたトラックの方に引き返していく。
間違いない。あのトラックは、引っ越し業者のもの。詐欺紛いの訪問者と言う線はないだろう。
だがちょっと待て。引っ越し? 一体誰が?
「おい、春。これは一体どういうことだ。……もしかして、俺を勝手に引っ越しさせるつもりなのか!?」
俺が慌てて問うと、彼女はいたずらな笑みを浮かべる。
「違うよ。私だよ、私」
「言ってる意味がさっぱり分からん。そもそも春はこの家の住人じゃないだろ?」
「うん。だから今からなるんだよ」
今からなるって何に? 引っ越し業者にか。いや違うな。
そんな自信の脳内でノリツッコミをしていると、事件の謎が解けた瞬間かのような電撃が脳内に走った。
「……ちょっと、まさかとは思うけどさ」
「そうだね。まさに、涼君が想像している通りだと思う」
「俺の家に住むつもりか?」
彼女はやってやったという表情で笑って答えた。
ということは、彼女が帰らなかった理由は、この引っ越し業者がこの時間に来ることを知っていたからだろう。
「さっきと同じことを聞くよ。ここにいて欲しくない?」
確かに一言一句違わぬ問いだけど、今回は意味が違う。
さっきはここにいないで欲しいのか、と言う意味であるのに対して今回は、ここにいて欲しいよね、という意味を持っている。だから微妙に抑揚が違ったのだ。
昨日から今日にかけて彼女がしていたことは、これから先の予行練習も兼ねていたのだ。そして俺は、そうして過ごした時間に居心地の良さを感じた。だから、名残惜しさが胸にしこりとして残っていたのだろう。
そして今回も、半ば誘導するような方法をとったのは、昨日の散歩の時と同じ理由だ。自らの思いに反し、気を遣って断ろうとする俺を見抜いていたのだ。
どこまでも俺のことをよく見ているんだな……。
嬉しい気持ちがたくさん溢れる中、もはや呆れたような表情を浮かべて俺ははっきりと答える。
「うん。いて欲しい」
本当にずるい。そんな純白の笑みを浮かべられたら、何も怒る気にならないのだから。
約一時間の作業を経て、彼女の引っ越し作業は終わった。
ようやく今回の件のことを突き詰められると、俺は彼女を座らせて白状させる。
「で、説明してもらおうか?」
「さっきの話の続きになるけど、私はもっと涼君の近くで夢を叶えるその瞬間も、その先も見ていたいの。私にできるのは、身の回りのサポートくらいしかできないんだけどね」
「十分すぎるよ……」
そう嘆きながら、俺は視線を近くの棚に向ける。そこには数々のカップ麺たちが並んでいる。深夜帯の活動のために貯蓄してあるのだ。
「きっと無理ばかりするだろうし、このままじゃ夢を叶える前に倒れる。それほど、涼君は夢に対して真剣だし、いざとなったら集中して周りが見えなくなるからね」
一度本気になるとなかなか自制が効かなくなる。だから限界を遥かに超えていても動き続けられる。それは長所でもあり、最大の短所でもあった。
プロになった先、体を壊して作品を出すまでに時間を要しているケースは山ほど存在する。実家であれば母親もいたし、自分よりもこのことを良く知る父もいたから良かったが、この場には誰もいない。誰も止めてくれることはなく、夢へと真っ直ぐに走る傍ら、破滅への道も突き進んでしまう、まさに諸刃の剣といった状況に今まではあったのだ。
「一体いつからこのことを?」
「初めは高校の時。授業中、眠気と戦いながら筆を走らせていた涼君を見ていたことがきっかけ。実行に移そうと決めたのは、つい最近」
「最近って?」
「金沢に戻った理由の一つがまさしくこのためだったんだよ。親にちゃんと了承を得て、あの家を近々退去するってことを伝えるために」
彼女はいつも決まってそうだ。こういう断り辛い状況をつくるために、引いては俺のために、何一つ努力を惜しまない。
とは言っても、そこまで用意周到だと少し怖いまである。
「だからもうしばらくは、行き来することになっちゃうかも。ごめんね」
「いや、それは全然気にしなくていいけどさ」
どこまでも気を遣える彼女。でもそれは同時に俺の胸を締め付けている。
「本当に良かったのか?」
「どういうこと?」
「俺ばかり春にたくさんしてもらうのは、何か不平等って言うか……」
何かしてあげたい。でもしてあげられることなんて限られている。
彼女には本当にたくさんのものを貰った。そしてきっとこれから先も――。
でも、それに見合うだけのお返しができないかもしれない。もちろんできる限りのことはするけれど、きっと返しきれないだろう。それでも彼女はいいっていうのだろうか。
「私の今の望みは、涼君の一番近くで、夢を叶える瞬間を見届けること。だから気にせず、前に進んで欲しい」
「でも……」
そう言ってくれるけれど、それを叶えられるのは何年後か何十年後かも分からない。それが叶えられるとは断言できない。そんな世界なんだ。
もし叶わなければ、彼女の努力も報われないというのに……。
「じゃあ、約束」
「やく、そく?」
「期限は設けないよ。だからこれも、守ってほしい」
俺はあの時の約束を破ってしまい、それを強く悔いた。
どんな約束であっても、もう二度と約束は破りたくない。
「私の夢を叶えること」
「春の夢?」
「涼君の夢を叶えること。それが私の夢」
「いやそれって……」
「もし私が涼君の立場で、涼君が私の立場なら。私が本気で夢を追いかけることを辞めさせる?」
「いや、絶対にしない」
「だったらこれも同じことだよ。私が涼君にしてあげるのは、あくまでも自分の夢のため。だから一方的に与えているだけって言うのは見当違いなんだよ」
彼女は俺の隣まで移動する。さっきまではテーブルに隔てられていた俺たちの距離がさらに近づいた。
「つまり約束は、お互いの夢を叶えることだよ。この前、二度と約束を破らないって約束したのは覚えてるよね?」
「もちろん」
指切りげんまんまでして二度と破らないと心に誓ったあの日のことは、今ももちろん覚えている。
「だからこの約束も守ってね」
彼女は手を差し出す。その手を取り、硬い握手を交わした。
「絶対に守るよ」
小説を書くと決めたあの時から、俺にとっての夢だったプロ作家になること。
でもそれは今、俺だけの夢ではなく、二人の夢になった。
いつか。そんなとてつもなく気が遠くなる言葉は使わない。
絶対に夢を叶える。
ノートに書いたあの文字よりも大きく、堂々と。二度と消えないように、一生忘れないように、深く深く心の奥底に刻み込んだ。
「……ところでさ」
「うん?」
その時。再びインターホンが鳴り響く。
「来たね」
「え? また引っ越し業者?」
「行ってみたら分かるよ」
俺はその言葉に疑問を浮かべつつ、また小走りで玄関へと向かう。そして扉を開けた先に待っていたのは、二人の姿だった。
「こんばんは~」
元気よく挨拶するのは、小賀だった。朝、あんな風にして別れてからまだ十二時間もたっていないうちの再会。少しは気まずそうにしているのかと思いきや、いつもの様子だった。
「小賀? それに翔も、こんな時間に何の用だ。忘れ物か?」
「いや違う。打ち上げだ」
翔は両手に握られたパンパンに詰まったビニル袋を俺に見せた。透けている袋の中には、野菜や肉、そして鍋の素。その隣にいる小賀は、ケーキ屋の箱らしきものを手に持っていた。
「打ち上げって……。たかだか一教科の中間試験だぞ?」
「その『たかだか』に悪戦苦闘して一夜漬けに追い込まれた人がよく言うぜ」
「それにこんな時間から……。明日も講義あるだろ?」
「のんのんのん。明日あるのは一時間半単位の睡眠が三回だけだよ」
「睡眠は約九十分周期だから、ちょうど目覚めがいい……、ってそんなわけあるか!」
「ま、何でもいいけどお邪魔しま~す」
そんな俺と翔のしょうもない会話をぶった切るようにして、小賀は家にずかずかと上がり込む。そしてすぐに中にいた春と遭遇して話を始めたようだ。
「まったく……」
どうしてこうも俺の周りの人間と言うのは、躊躇を知らない奴ばかりなのだろうか。
「まぁ別にいいだろ? これはお祝いでもあるんだし」
「お祝い……?」
「お前の誕生日、丁度先月のこの日だったろ?」
「いや、そうだけど。それでお祝いするなら、毎月やらないといけなくなるだろ」
「言い出しっぺは俺じゃなくて美藤さんだ。去年もお祝いできなかったからって」
そう言えば俺の十九歳の誕生日の時は浪人時、二十歳の誕生日の日は、まだ彼女ときちんと再会を果たしてはいなかった。
だから余計に気を遣った、というわけだろう。いかにも彼女らしい。
「あと個人的に祝いたいしな」
「よせよ、気持ち悪いな」
「誕生日じゃないぞ。それで言うなら、むしろ俺を祝ってくれよ。今日は俺の誕生日だ」
「え、マジ?」
男同士では誕生日を祝う習慣は薄い。そのため今日まで、翔の誕生日は知らなかった。
「まぁ偶然。だから美藤さんは気づいてないだろうね」
「でもこれで、お互い酒を飲めるようになったというわけか」
「まぁな」
翔はそう言って、ビニル袋からチューハイ缶を出して見せた。
「ただ、お互い酒を飲めるようになったことを祝いたいわけでもない」
「じゃあなんだよ」
「同棲、するんだろ?」
『同棲!?』
ほとんど重なるようにして、家の奥から小賀の大声が飛び込んできた。その声の大きさにも驚いたが、翔が当たり前のように知っていることの方が驚きだった。
「なんで知ってんだよ。俺ですらさっき聞いたばっかだぞ」
「この件、相談受けてたというか、アドバイスを求められてね。俺はお前が無理する姿を何度も見てきたから、美藤さんが傍にいたら安心だと思って進言した。まぁ、それだけだ」
「そっか……」
「細かい話はまた今度だ。とにかく今から打ち上げだ。盛り上がっていこうぜ」
「そうだな」
翔も翔なりに気を遣っていてくれたんだな……。
さすがは今の俺の隣の席、って言ったところか。
ありがとう。
直接は小恥ずかしいので、心の中でそう呟いた。
* * *
そこから日を跨ぐまで、俺たちは大いに盛り上がった。ただ同棲の話題には、翔と小賀にいじられまくって大変だったが……。
今、俺は二日ぶりにパソコンに向かっている。
部屋の中にはキーボードを打つ音だけが響く。
「お酒飲んでたのに大丈夫?」
打ち上げの片づけをこなす春に問われる。
俺と翔は、初めてのお酒である缶チューハイを一缶だけ飲んでいた。
「……大丈夫。あれくらいじゃ酔わないって。あいつが異常なんだよ」
「そう、かもね」
その当時のことを思い出してか、表情を歪める春。
アルコール度数は五パーセントだったが一本で泥酔状態になった翔は、まさに酒飲みのおっさんのようなダル絡みをしてきて、対処は非常に困難を極めた。それこそ同棲についての話だったり、過去の失恋話や最近読んだエッチい小説の感想などなど。明日、本人はもしかしたら覚えていないかもしれないが、とにかく筆舌し難いくらいには酷い有様だった。
だからもう、決してあいつに酒を飲ませないと心に誓った。
「全く……」
はぁ、と溜息をつこうとした時。
口元に柔らかくて温かい感触を感じ、思わず体を引いた。
「ちょっ……」
「溜息をつくと幸せが逃げるって言うでしょ? ってことは、その幸せは口から出てるわけで、口から吸ったら幸せになるかなって」
「頭いいんだか悪いんだか、絶妙に分からんな……」
してやったりという表情の春。なんだか楽しそうなので、これはこれでいいか……。
「俺はしばらく作業続けるけど、春は先に寝ていいんだぞ?」
「ううん。ここで見守ってる」
春はフローリングの上に敷かれたカーペットの上でちょこんと座っている。
昨日、一昨日と無理をさせたので、ゆっくりと休んで欲しかった。
「涼君こそ、早く寝ないと」
「ううん。約束、ちゃんと守りたいからさ」
「うん」
「ちゃんと守りたいからさ」
「うん? やっぱり酔ってる?」
「ううん。だから、やれる限りを尽くしたい、ただ、それ……」
「おっと。ほら、やっぱりね」
一瞬ふらっとして椅子から倒れそうになったところを、春に支えてもらった。おかげで床との衝突を何とか免れた。
「酔ってはないんだよ。ただ、眠い」
「それは酔ってるってことなんじゃ……」
いくら少しは寝たとはいえ、翔とは違って授業中も起きていたので、未だ寝不足なのだ。
「春は酒飲んだことないから分かんないんだよ」
「年上気どり? 涼君の方が先に誕生日がきただけで、学年は私の方が上なんだからね?」
そう言いながら、彼女は指でつんつんと俺の頬をつつく。
「なんか不思議だよな。同い年だけど俺の方が誕生日は早くて、春より学年は一つ下って」
「ということは、同い年で年上の彼女だね!」
「年上じゃない。学『年上』だ」
ここだけは絶対に譲れないので、すぐさま反論する。
「でもこの体勢、私の方がお姉さんって感じしない?」
春の発言が正論だったため、俺は急いで体勢を元に戻す。
少し頬が火照っているので、誤魔化すように咳払いする。
「じゃあ、俺は作業に戻るな」
「うん。頑張ってね」
ニコリと優しい笑みを浮かべた彼女の言葉のおかげか、その後の集中は留まることを知らなかった。
俺はかつて、彼女と交わした約束を破った。
それにより隔てられた空白の一年が生まれ、そのことを心から悔いることになった。
でももし、あの一年がなかったら。
また意味のないたられば話だけど、きっとこんな風にはならなかっただろう。
だから案外悪くないかもしれないな。
――彼女の言う『同い年で年上の彼女』も。
―完―
同い年で年上な彼女 木崎 浅黄 @kizaki_asagi
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