第5話 宿敵

 次の日の午前八時前。

 金沢駅前は、ゴールデンウィークと通勤ラッシュが重なって喧噪に包まれている。

 そんな中、駅前の入口から見えるありふれた景色を、一つ一つしっかり目に焼き付けていく。夏にまた戻ってくるけれど、いつでもこの景色が思い出せるように――。

 あっという間、されど密度の濃い帰省も間もなく終わりを告げ、この地を去ることになる。大学が神奈川であるのだから、志望校を決めた時点でしっかり覚悟はしていたが、毎度物寂しさを感じる。それほど、故郷での時間と言うのはかけがえのないものだったと言える。


「おはよう、涼君」

「おはよ」


 集合時間五分前になって現れた春と合流した。


「あっという間だったね」

「そうだな……」


 春は帰ることに名残惜しさを滲ませる。本当にあっという間だった。


「ごめんね。本当はバイト休みたかったんだけど、どうしてもできなくて」

「ううん。来れただけで良かったよ」


 最初提案されたときは『正気か?』とすら思っていたけれど、本当に価値のある時間を過ごすことができた。来てよかったと、心の底から思える。


「今度はゆっくり来ようね」

「そうだな」


 彼女は最後に金沢の街をぐるりと見渡す。


「行こっか」


 ニコッと笑みを浮かべてそう言うと、俺たちは駅のホームへと向かった。



 到着した新幹線に乗車し、俺たちは指定席の座席に隣通しで座った。そして定刻通りに新幹線は金沢駅を発ち、それとほぼ同時くらいにパソコンを広げた。

 カタカタと小気味よいリズムを奏でながら、文字を紡いでいく。瞬く間に物語の中にのめり込んでいく。

 新幹線の走行音も、他に乗っている乗客の声も、車掌や車内販売の声も完全に意識の外になった。俺の頭の中にある音と言えば、物語の中の生活音や人物たちの会話音ばかりだ。

 そんな中でずっと作業を続けているからだろう。音よりも先に、振動で自分のスマホが鳴っていることに気付く。すっと集中状態が解けると、着信音が思っていたよりも大きく、周りの目線がこちらに集まっていることに気がついた。


「車内はマナーモードだよ?」

「すいません」


 隣の春に咎められ、すぐに音を消す。それからようやくスマホ画面をちゃんと見たのだが、そこには父親の名前が表示されていた。

 滅多にかかってくることのないその電話にかなり驚きつつ、俺は席を立つ。


「ごめん。トイレ行ってくる」

「うん」


 窓側に座っていた俺は、春に一言告げてから座席を離れた。

 俺たちが座っていた七号車の後ろのデッキで足を止める。ここに来る頃にはとうに着信が途切れていたのだが、俺はすぐに折り返すつもりでいた。

 一度気持ちを落ち着かせるため、出入り口の車窓から外を眺める。

 父親と話すのは一か月ぶりだ。神奈川に行く前に話したのが最後。それなら母も同じだったのだが、父は別だった。

 仕事で忙しい上、家にいるときの多くは執筆に充てている父。執筆の際に話しかけられることがいかに困るかというのは自分自身が一番よく理解しているので、父に用事があっても母を通すことが多かった。

 だから挨拶程度に短く会話をすることはあっても、会話らしい会話をしたことはここ最近だとほとんど記憶にない。その分、予備校に入る前の会話が強く印象に残っているくらいだ。金沢を発つ日に話したときも、軽く挨拶を交わしただけ。

 久しぶりの会話というものは、妙に改まってしまって緊張するものだ。しっかり一呼吸おいてから、俺は電話をかけた。すると三コール目で、すぐに電話が繋がった。


「もしもし?」

『涼真か。悪いな、こんな時間に』

「ううん、別に」


 久しぶりに聞いた父の声。電話越しではあるけど、相変わらずのようだ。


『家に帰って来たって母さんから聞いた。悪いな、仕事で顔も出せなくて』

「気にしなくていいよ。突然で連絡してなかったんだから」

『ところで、書く方はどうだ?』

「相変わらずって感じ。けど、勘を取り戻すのには苦労してる」

『そうか。焦る気持ちは良く分かるが、きっとあの一年には意味があったんだ。前向きにな』

「っはは」


 父の言葉に俺は思わず笑いを溢す。


『何かおかしいこと言ったか?』

「いや、別に」


 そのアドバイスはあまりにもタイムリーなもので、何となく可笑しかったのだ。

 父の言う通り、あの一年は意味があったって今ならちゃんと思える。


「あの一年があったから、今はすごく充実した時間が過ごせてる。あの日父さんに筆を置くように言われなかったら、きっと今ごろ同じことを繰り返してたし、後悔してた。だから、感謝してるよ」

『っはは』

「何かおかしいところあった?」

『いや別に何も』


 電話越しに父の笑い声が聞こえる。父は怒ることはほとんどなかったけど、それと同じようにあまり笑った姿を見た記憶もない。喜怒哀楽を内に秘めているタイプの人だった。だからこんな風に笑うことは珍しかった。


『変わったな』


 父はボソッと呟いた。


「変わったって?」

『また恋人できたんだろ?』

「ん?」

『母さんから聞いたぞ』

「余計なことを……」


 母ならやりかねんなと思いながら、今ここにいない母を恨んだ。帰省のことはまだしも、そのことを伝える必要あったのかよ。

 それにそもそも『また』ではない。母は盛大な勘違いをしている。

 高校三年生の時にも同様に勘づかれたことがあったのだが、まさかその時の彼女と今の彼女が同じどころか、一度も別れていないとは思っていないだろう。

 その訂正を今するのはとてつもなく面倒なので、あえて何も言わないでおこう。


『まぁとにかく』


 都合のいいことに父はそれ以上追及してこなかったので、それに乗じることにする。


『新人賞、頑張れよ』

「もちろん」

『それじゃ、気をつけて帰れよ』


 そう言って父は電話を切った。きっと仕事の合間を縫って連絡してくれていたから、あまり長話もできなかったのだろう。

 俺にとって憧れの父とは作家である父を指すが、こうやって素直に励ましの言葉をかけられる父親としても少し憧れる部分もある。きっと俺なら照れて言い出せないし、世の中の大半の父親がそうなのではないだろうか。

 俺は父の励ましを受けて、改めて気持ちを引き締めた。

 スマホをポケットにしまい、自分の座席へと戻る。

 スリープ状態にしていたパソコンをもう一度開き、再び文字を打とうとした。


「電話、誰からだったの?」


 春がそう問うので、ゆっくりとキーボードから手を離した。トイレに行くと伝えたが、さすがにお見通しだった。


「父さんから」

「お父さん? なんて言ってたの?」

「執筆頑張れってさ」

「そっか。涼君が夢を持ったきっかけ、お父さんだったもんね」


 高校三年のいつ頃だっただろうか。確かまだ付き合ってもいない頃。

 当時の俺は夢のことを打ち明けた。その時に、そのきっかけも包み隠さず話していたのだ。まぁ、この前春が打ち明けたように、初めから知っていたらしいけど。


「今どんな感じなの?」


 彼女はそう言って俺のパソコンを覗こうとするが、俺はすぐにパソコンを閉じた。


「って、そうだったね」


 それを見て彼女は思い出したみたいだ。

 俺は彼女には頑なに原稿を見せようとはしなかった。

 いつか本になった時に読んで欲しい。それは、拙い文章を読んで欲しくないとかいうよりも、単なる俺のちっぽけなプライドがそうさせている。


「順調だよ。ゴールデンウィーク中には応募できるかなって」

「そっか。もう少しなんだね」


 受験が終了した三月の中旬。そこから今日まで、できる限りの時間を書くことに割いてきた。おかげで現在推敲段階。あと二、三日で完成が見込める。


「いい報告、聞かせてよ。今度は盛大にお祝いするからね!」


 早くも祝う気満々と言った表情で、俺を真っ直ぐ見つめる春。

『今度は』という言葉はきっと、俺が二次選考を初めて通ったことを伝えたあの日と対比して言ったものだろう。


「一番に報告する」

「待ってるね!」


 今度はあの時なんて比べ物にならないほど大きな功績を引っ提げて彼女に伝えよう。

 そう心に誓って、俺は再びパソコンを広げるのだった。



* * *



 ゴールデンウィーク最終日。

 とてつもない眠気と疲労感、そして空腹に襲われながら、俺は席を立つ。

 カーテンをそっと開くと、俺のことを少しは考えて欲しいと思うくらい眩しい光が目に入り、思わず目を瞑ってしまう。

 ……いかん。ほんの僅かに目を瞑っただけなのに、夢の世界へと誘われかけた。

 俺は机に置かれたスマホを手に取って時間を確認する。

 朝の六時半。この時間と言えば、某体操の時間を連想してしまうほど、小学校の夏休みは早起きさせられたものだ。

 ――と思ったけど、当時は夏休みの大半を昼夜逆転で過ごし、常に本を読んでいた気もする。むしろ、早く寝かせてくれと思っていたのではなかろうか。

 そんな小学校の懐かしい思い出が過ったのは走馬灯なんじゃないかと思うぐらいには、心身共に限界な気がする。


「あぁぁぁぁ~」


 ホテルや旅館に泊まる際恒例のベットダイブとは違って、まるで心臓をピストルで打ち抜かれた後かのようにぱたりとベットに倒れ込む。

 何だ、ここは天国か……。ふんわり優しく包み込まれる感覚は、さながら天国のようだった。

 思い返すとあの日家に帰って以降、ろくに寝ていない。ずっとモチベーションが保たれたままここまでやってきていたのだ。

 生命を維持しようとする力より、書くことを優先しようとする自分の身体はどこかおかしいんじゃないかと本気で思う。けれど同時に、作家っぽいなと実感する瞬間でもある。……いやまぁ、アマチュアですけど何か?

 このまま寝てもいいだろうと思った瞬間、少しずつ意識が遠のいていく。そんな時。


「……ん?」


 机の上にあるスマホが突然音を鳴らす。一瞬意識が戻ったが、起きてからでもいい

よなと思った瞬間、意識は再び深い海の底へと沈み始める。

 それからものの数秒後、再び通知音が鳴る。


「……あとにしてくれ」


 届くわけのない言葉を呟き、再び考えるのをやめようとした。

 でも、今度はもうやめさせてくれない。何せ、そうする暇がないほど通知が鳴りやまないのだ。

 こんなことならスマホの通知音を切ってから飛び込むべきだったと後悔するが、今更過ぎる。俺は海に沈んでいく錨のような重たい体を何とか起こして、スマホを手に取った。

 そしてスマホをマナーモードに変えようとした時だった。今度は電話がかかってきたのである。その画面を見て、これ以上にないほど大きな溜息をついた。錨……、じゃなくて怒りがふつふつと沸き立つ。

 一瞬スマホをそのまま投げ捨てようかと振りかぶったが寸止めし、やむなく俺はその電話に出ることにした。


「もしも……」

『涼真か!?』

「……」

『生きてるのか?』

「お前のやかましい声で死ぬかと思ったけどな……」


 脳が覚醒しているとは言いにくいこの状況でそんな大声を出されたら、驚いて心臓飛び出そうになるだろ……。

 説教してやろうかと思いつつも、呆れてそう言うに留めた。


『生きてるならよかった』

「で、何の用だこんな朝っぱらから。俺は今から寝るところだから」

『とても朝っぱらに言う台詞じゃないだろ……』

「早く用件を言え」


 先ほどのドッキリまがいな出来事で一時的に目が覚めているが、おそらく長く続かないだろう。それに長話する暇があれば、一刻も早く寝てしまいたい。


『執筆で忙しくて、絶対に聞く耳持たなかっただろうからあえてギリギリまで言わなかったけど、明日英語の中間テストだぞ?』

「……はい?」


 明日から再び大学の授業が始まる。そして初日には英語のテストがあったのだ。

 普通の講義は期末テストだけ、もしくは中間と期末の二度なのだが、英語だけは例外的に中間が二度と期末でテストが三回もあるのだ。

 何で英語だけなんだよ。俺に対する嫌がらせかよ……。


『その反応忘れてた、いや、記憶から抹消してただろ。まぁもちろん勉強してるわけもなく……』

「いや、俺の場合、勉強してどうにかなるような科目じゃないから」

『だが、諦めるのはまだ早い』

「いや。どの道、このコンディションで一夜漬けなんてできるわけないだろ? 殺す気か」


 数日脳をフル稼働させ、さらに睡眠不足。ただでさえ生理的に受け付けないような教科で、見るだけで吐き気すら催すというのに……。


『ふふん。そう思ってスペシャリストは用意してある』


 鼻を鳴らして自慢げに台詞を吐く翔。


「スペシャリスト?」

『美藤さんだよ』

「いや待て。そんな話聞いてないぞ」

『これなら寝ようにも寝られまい』

「いやまぁそうかもしれんが……」


 仮に春が来て、寝ずに勉強ができたとしても、たった一日でどうにかできるとは到底思えない。思えるのなら、ここまで英語を避けるようにして生きていない。


『スペシャリストはもう一人いるぞ』

「もう一人?」

『何か、美藤さんの友達とかなんとか……』

「……あぁ~」


 春の友達、そして英語のスペシャリストと言えば、もう一人しか思い当たらない。

 帰国子女で、あれだけ流暢に話せるのだから、これ以上の適任はいないだろう。


『とにかく、九時に涼真の家に集合ってことになってるから。それじゃ、後でな』

「おい、ちょっ……」


 スマホから『プー、プー』という音のみ聞こえてくる。完全に言い逃げされた……。


「いやマジかよ……」


 言いたいことはたくさんある。

 なぜ勝手に時間と場所が決められているのだろう。本人は開催されることすら知らなかったというのに……。

 場所はまぁ、百歩譲っていいとして、何なんだ九時って。昼からなら一度寝てすっきりできるし、今すぐなら起きていられただろう。


「はぁ……。もうどうにでもなれ」


 俺はスマホをベットの枕に投げつけると、再び倒れ込むようにしてベットに体を預ける。そして数秒後には、完全に意識を失った。



* * *



「こんなに幸せな場所があるんだなぁ……」


 一面緑の広大な大地、見上げれば果てしなく広がる清々しい青空。

 大地のど真ん中に堂々と置かれた真っ白なベット。温かさはもちろんのこと、何より体全身を優しく包み込み、まるで浮いていると錯覚するほどだった。さらにはゴロゴロと寝返りを打っても、どこまでも広がる心地よさ。一人にもかかわらず、キングサイズのベットは贅沢極まりない。

 頭の中を空っぽにし、目を瞑ったまま大自然に耳を傾ける。草木を靡かせる爽やかな風の音がとても心地よい。

 これ以上に幸せな空間はどこにあるというのか。極楽浄土とはこういうことなんだなと、幸せを噛みしめる。

 でも終わりは突然だった。

 風が草花を揺らす音だけであったこの平穏な空間に、なぜか鐘のような音が聞こえ始めたのだ。

 初めはそれでも気にならないほどの大きさだった。だから、意識を背けることで掻き消そうとした。

 だが、その鐘の音が次第に大きくなるにつれて、今度は体調に変化が現れる。割れるような頭痛に突然襲われたのだ。


「……痛い。痛い、痛い、痛~い!」


 悲痛な叫びを上げ、目を開けたとき。

 さっきまであったはずの広大な緑の大地も雲一つない気持ちの良い青空も姿はなく、僅か七帖ほどの狭いワンルームに土色の天井と、見覚えのある景色に変わってしまっていた。体が浮いていると錯覚するほど柔らくて穢れのない真っ白あの羽毛のベットも、今は固くて少しくすんだシングルベットになってしまった。

 あぁ、夢だったのか。

 先ほど襲われた頭痛の正体が、寝不足によるものだと気付き、現実は非情だなとがっくりと項垂れた。

 ――そういえば、あの鐘の音の正体は?

 そのことを考えた瞬間、あの時と同じ音が鳴っているのに気づく。

 そしてふと、家に取り付けられている小型のモニターに目線を送った。


「……インターホンだったのか」


 モニターには三人の姿が映しだされいており、スマホで時刻を確認すれば今は午前九時を回ったところ。

 俺は重たい体を何とか持ち上げると、そのまま玄関へと歩いて向かう。その足取りはもう、さながら蝸牛のよう。その季節にはまだ一か月くらい早いけどな。

 玄関の鍵を解除しドアを押し開けると、眩しい光が目に一直線に入り込む。


「おはよう、涼……、涼君?」

「Well……,is this a zombie?」

「半分死んでるから、強ちその例えが間違ってないってのが恐ろしいな……」

「……どう、ぞ」


 俺は力が抜けたように、春の方へと体が倒れた。


「涼君大丈夫!?」


 俺は春に支えられながらなんとか部屋に戻る。その後に続いて翔と小賀も入ってきた。

 俺を一度座らせた春は、急いで冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して手渡した。


「本当に大丈夫……?」


 とても心配そうに俺を見つめる春。俺はキャップを開けて、喉を鳴らしながら勢いよく飲んでいく。冷蔵庫でキンキンに冷えているから、水の通り道が冷たくなるのを感じる。


「ぷはぁ~」


 仕事終わりで一杯目の生ビールを飲んだおっさんの如く、大きく息を吐く。

 寝起きの水程美味しいものを俺は知らない。


「まぁ、一回寝たからな」


 ずっと心配そうな表情を変えない春を安心させるためにそう言った。


「ここまで酷い顔見たことない……」


 小賀は驚いた表情でそう言っているので、俺を醜いと言って貶してるわけではなさそう。いや、本当のところは知らないが。

 だがそこまで酷いかと、俺は自分のスマホをインカメにして鏡の代用にする。

 うわっ……。おそらくここ最近では一番酷い。目の下のクマは濃く、目は酷く充血している。髪は先ほど寝たためにぼさぼさである。

 幸い、眠気覚ましのために毎日風呂には入っているので体そのものは清潔ではあるが、健康状態や精神状態は実に不衛生極まりない。


「まぁ、原因はこれなんだろうけど」


 翔はそう言って、俺の机の上の方を見ていた。その机に上にはノートパソコンと大きなモニター。そのモニターの画面は電源が入ったままであり、そこには『応募受付完了』の文字が大きく映し出されている。


「お疲れさん」

「頑張ったね、涼君」

「お疲れ様」


 三者三様に労いの言葉をかけられ、少し心が温かくなる。


「というわけでまぁ、やりますか」


 でもその翔の呼びかけで、グッと冷たくなった。台無しだ。せめて余韻を持たせてくれ。


「私は去年受けてるから傾向なら分かるよ」


 春は胸を張ってそう言うと、持参した勉強道具を鞄から取り出す。

 私『は』。春は確かにそう言った。


「あれ……? 小賀さんは受けなかったの?」


 翔の問いは俺の抱いていた疑問と同じだった。前に聞いていたが、小賀は春と同じ学部で学科のはずだ。


「私は英語の検定資格持ってるから単位認定受けててね。だから受けてないよ」

「なるほど、さすが帰国子女だね」


 どうやら翔もそのことはすでに知っていたらしく、うんうんと頷く。

 確か大学では、一部の講義は資格を持っていることで単位認定がされると聞いたことがある。俺たちの学部では英語がそれに該当する。

 英語嫌いの俺からすれば、忌々しい英語を見なくても済むという喉から手が出るほど羨ましい制度だが、そのためには英語が人並み以上にできなければいけないというのだから、やはり現実は甘くないらしい。


「対策は春花に、英語の知識は私に聞いてくれれば」

「うん。……いや、ちょっと待て」


 小賀が、さぁ始めようかと言わんばかりだったが、その言葉で大きな疑問が生じた。


「どうしたの? 涼君」


 俺の言動に春は小首をかしげる。


「対策は春に、知識は小賀に。他に何かいるのか?」

「涼君、それってどういうこと?」

「翔。お前、いる意味ある?」

「確かに」


 俺のその問いに賛同するようにして、小賀が乗っかる。

 翔は苦笑いを浮かべつつ言い返す。


「二人に言われるならまだしも、お前にだけ言われたくないぞ涼真。誰のおかげでこんな場が設けられたと思ってるんだよ」

「あぁ、それはそうか。貴重な場を設けていただきありがとうございました。さようなら」

「棒読みだし、最後余計だし、全く感謝を感じないんだけど……」

「私が誘ったんだよ。どうせやること同じだからね」


 俺たちの会話を見かねてか、春が代わりに経緯を説明した。


「まぁ、私も別にいいけど」

「二人とも優しいな……」


 目から鱗といった様子で翔は嘆く。

 まぁ小賀は、『別にいいけど。居てもいなくても一緒だし』って意味で言ってそうだけどな。


「それじゃあ、始めるよ」


 春の掛け声で、俺たちの勉強会は幕を開けた。



* * *



「……違う」

「じゃあ、これか?」

「いや違う……。英語苦手とは聞いてたけど、ここまでとはね」


 あまりのできの悪さに、小賀がもはや戦慄している……。

 英語の長文読解問題。俺にとって最も苦痛な問題だ。

 何なんだ、この英単語の羅列は……。暗号?


「由美奈。涼君のそれは、苦手じゃなくて単なる好き嫌いだよ」

「だな。こいつの現役の時の点数見た時は唖然としたぞ」


 俺の現役時の英語の出来を知り尽くしている春と翔はすごく渋い顔をしながら、テキストの赤いチェックマークに目を向けていた。

 予備校に入った時のこと。担当のチューターが言っていた。


『もし英語が平均以上、いや平均より多少下回っていたとしても合格していたと思うよ』


 と、もはや呆れた様子で言っていたのを思い出す。

 さらに、英語の酷さを物語るエピソードはこれだけではない。

 高校の時の進路希望調査。俺は一番最初から今の大学への志望を決めていたのだ。

 その結果を元に、担任の先生との面談する機会があった。そしてその先生は、


『君の成績ならもっと上を目指せるんじゃないかな、こことか、こことか』


 と言いながら、大学のパンフレットを俺に提示してきたのだが、志望校よりもランクがいくつも上のところばかりだった。

 いや、先生。いくら何でもそりゃ買いかぶりすぎやしませんかね、なんて内心思っていた。けれどそれが、


『英語さえどうにかすればそこだって狙えるんだよ?』


 という意味を孕んでいたと考えれば納得がいくのだ。

 とにかく英語の成績の悪さに関するエピソードには事欠かないほど、際立って英語の成績だけが酷いのである。


「ちょっと待って。それじゃあ、どうやって大学入ったの?」


 だから、小賀が発した疑問が生じるのは当然ともいえる。


「英語以外を死ぬほど頑張った」


 誇らしげに言ってみせる。避けて通るとは、つまりそう言うことである。


「努力のベクトル間違ってるでしょ、それ……」


 その結果がこれを招いてるんだろ、といった様子で唖然とする小賀。

 もし英語が『苦手』だというのであれば、俺も改善を試みる。弱点を消す努力は、何事においても、もちろん創作においても重要なことだ。

 でも俺の中の英語は『嫌悪』である。

 見たくない、触れたくない、考えたくない。その三重苦だ。

 だから俺は、避けても問題のないようにと、他の教科を人一倍努力したのだ。無駄な努力はないというのなら、この努力もまた褒められるべきだ。


「ただ、大学ではそうもいかないからな。だからこいつ、今ここにいるんだよ」

「もし避けられるのであれば、失踪してでも回避しただろうしね」


 さすが俺の理解者、と言わんばかりに俺は何度も頷く。

 大学の卒業条件を満たすためには、英語の単位取得を避けて通るわけにはいかない。英語のためだけに今度は留年することになるのだけはどうしても避けたいのである。


「でもなぁ……。この話聞いた時は、まさかここまでとは思ってなかったからさ。悪いけど、初歩の初歩からやり直さないといけないレベル」

「うっ……」


 自分自身、英語のできなさは良く知っているが、ここまで面と向かって言われるとさすがに心が抉られる……。


「……そうだ」


 そんな時。翔が何かを思いついたかのように手を叩く。


「いいか、涼真」


 神妙な面持ちの翔。一体何を思いついたというのだ。


「もう諦めろ」

「……い、いや。お前、突然何言いだすんだよ……?」


 突然のその発言で、この場の空気が一気に凍てつく。

 当然だ。勉強会を企画したのも人を集めたのも翔。その張本人から出る台詞とは到底思えないからだ。


「正しくは観念しろ、だな。たった一日だ。テストの前日の今日だけでいい。本気でやるんだよ」

「いやだから、さっきからやってるって」

「いややってないだろ。俺はお前の隣で見てきたんだぞ。誤魔化せるもんか」

「……」


 翔が言っているのはおそらく小説を書いているときの俺のこと。あの状態にないってことは集中していない。そう言っているのだ。


「とてつもない集中力も、学習能力も、根性も。どれも持ってるから、お前は今ここにいるんだろ? だったら、それを全力でぶつけろよ」


 翔の言っていることが胸に突き刺さる。

 どこかで嫌いだからと言うのを建前に本気になれていない自分がいたんだと思う。だから、いつまでたっても前進しないんだ。

 何もずっとやれと言ってるわけじゃない。今日だけでいい。

 小説でプロを目指すような、長くて果てしなくて先の見えないマラソンじゃない。五十メートル走を全力で走り抜ければいい。


「分かった。やるよ」


 いくら何でも五十メートル走を完走できないほどのちっぽけな体力じゃない。

 だったら、あとはやるかやらないか。その選択だけだ。


「今日一日、よろしくお願いします」


 俺は改めて、みんなに向かって頭を深々と下げ、教えを乞う。


「頑張れよ」

「まぁ、仕方ないね」

「涼君ならきっと行けるよ!」


 俺は三人からの言葉を受けて、再びペンを握りしめる。そして、紙面に書かれた英単語や英文の羅列に正面から向き合う。

 段々と集中が深くなっていくのが分かる。いつもは謎の記号だった英語も、今だけはちゃんと言語として認識できる。

 このままやり続ければきっと……。いや、きっとなんかじゃない。

 絶対にやり切ってやせる。そう力強く、自らを奮い立たせた。



* * *



 いつの間に目を瞑っていたのだろう。

 意識がはっきりと戻った時に映った景色は、瞼の裏の暗闇だった。


「んっ……」


 俺は静かに、閉じられていた瞼を開いていく。最初はぼやけていたけれど、少しずつクリアになっていく視界。

 はっきりとした視界に映ったのは春の姿だった。どうやら寝ているようで、すぅすぅと寝息を立てていて、俺が目を覚ましたことに気がつかない。

 そう言えばさっきから、頭に柔らかな感覚……。ここでようやく、今の自分の状況が理解できた。

 あれから、俺は小説を書くとき同様の集中力で勉強を続けていた。

 小賀に重要なポイントを教えてもらい、春には出る可能性の高そうな問題を教えてもらいながら、ひたすらペンを走らせ、ページを捲り続けていたと思う。

 でもどこかでその糸がぷっつり切れた。意識も、記憶も突然途切れている。原因は言うまでもなく、今日の早朝まで続いた無理が祟ったからだろう。

 だが幸いなことに、勉強したことの記憶は消えていない。むしろ寝ていたから記憶が定着しているかもしれない。

 そんなことを考えながら、真っ直ぐに上を見つめ続ける。彼女の顔の奥に天井が映っていることと後頭部の感触で、俺は膝枕されているんだと気付く。

 こんなに近くで彼女の寝顔を眺めたのはきっと初めてだと思う。隣の席で眠っている姿を見たことは何度かあるけれど――。

 天井が外から入ってくる横日で茜色に染まっている。朝九時からずっと付きっ切りで勉強したんだから疲れもするだろう。わざわざ休みの日に来てもらい、ここまで助けてくれた感謝も込めて、暫くはこのままそっとしておこう。俺は彼女を見守るように見つめ続けていた。

 そうして十分ほどたったころ。彼女はようやく目を覚ます。


「っ……。あれ、寝てた……?」


 そのタイミングで俺はそっと横に倒れてから体を起こす。


「うん」

「そっか……。って、涼君大丈夫?」

「大丈夫。だいぶ楽になったよ。ところで他の二人は?」

「五時半ごろに帰ったよ。由美奈が『この調子なら間に合うかも。あとは本人の頑張り次第で、私はお役御免かな』って」

「随分と助けてもらったな……。もう一人の方は知らんけど」

「宇和島君は宇和島君で、涼君に触発されたみたいでね。『さすがに英語で負けたら洒落にならん』って言って帰ってったよ」

「まぁ、案外負けず嫌いだからな。あいつ」


 スマホの時計をちらりと覗くと時刻はもう六時を回っている。

 今まで寝てしまった分、もうひと踏ん張りしなくちゃな……。

 俺は立ち上がってゆっくりと背伸びをする。


「春は帰らなくてもいいのか?」

「うん。もう少し居ようかなって」

「そっか」


 二人だけの空間。時間帯の関係もあり、部屋の中の静けさが際立つ。


「ねぇ、涼君」

「ん?」

「気分転換に散歩、行かない?」



 西日が綺麗な青空を赤く染める。そんな夕焼け空を遠目に見ながら、俺たちは近くの道を横並びで歩く。

 どこに行くでもない、文字通りの散歩。


「涼君、ここに来てから一か月くらい経つけど、この辺りは知らない景色ばかりでしょ?」

「要は引きこもりと言いたいのか?」

「ふふっ。そうかも」

「そこは肯定しないでくれ……」


 微笑みを浮かべながら歩く春。背景である朱色の空が、その表情をより引き立てる。

 彼女の横顔を見られるって、回数を重ねるたびに感じるものは薄くなっていくけれど、こうして改めて見ると、本当に贅沢だと思う。


「でも決して悪い意味じゃなくてさ」


 そう切り出した春は少し前の方に歩いた後、こちらを振り返る。


「夢を真剣に追いかけてるんだなって感じる!」


 とびっきりの笑顔を見せる彼女に心が揺れる。鼓動が早くなっていく。

 彼女は再び歩みを進めながら、言葉を続ける。


「でもこうして偶にはさ、外歩くのも悪くないでしょ?」

「……全部は肯定できないかな」


 俺が少し小さな声でそう言うと、春は訝しげに俺の顔を覗き込む。


「だってそれはさ……」


 確かにこんな風に外の景色を眺めながら澄んだ空気を吸う時間は、インドア派の俺にとっても案外悪くない。

 俺の家周辺は閑静な住宅街。周りを見渡すと、奥の方には緑も見える。

 気分を落ち着かせるのにも、目を休めるのにも、最適の場所と言えるのかもしれない。

 だけど――。


「きっと隣に春がいるからだよ」


 俺の顔をまじまじと見ていた春が、慌てて顔を逸らす。

 ほんの一瞬ではあったけど、彼女の顔がほんのり赤く染まったのを俺は見逃さなかった。きっと夕焼けのせいではない。


「今日の勉強会だってそう。きっと春がいなかったらできなかったし、何より今俺がここにいるのは全部春がいたからなんだ」


 自分で言っていて恥ずかしくなる。

 自分の人生だというのに、隣に春がいない人生は決して想像できない。

 彼女はそんな大切な存在。


「ううん。違うよ?」


 春はそう言って俺の言葉を遮るようにして話し始める。


「私こそ、涼君がいなかったらここにいないんだよ」


 春はちょっぴり寂しげな表情を浮かべて立ち止まる。

 家から徒歩十分。気づけば信号機のある交差点まで来ていて、信号待ちになった。


「私さ、本当はすごく勉強が苦手なんだよ」

「……いや、それはないだろ」


 春が口にしたのは、とても信じられないことだった。

 俺が知る高校三年時の中盤以降、彼女の成績は良い方だった。

 そして今通っている大学は、関東でもそこそこ名の通った大学だ。それに彼女は現役合格している。

 同学に通うために浪人した人を前にしての皮肉にも聞こえるが、彼女に限ってそれはないはずだ。特に俺と春にとって、溝を生んだ『受験』に関してのジョークとなると余計に考えにくい。

 だったら、その告白は一体……。


「昔からずっと効率悪くて不器用で。だからいい成績を目指すには、時間が必要だった。みんなが遊んでいる時間も、楽しく笑っている時間も、私はずっと勉強してなくちゃいけなかった」


 対になっているのは翔だ。あいつは頭の回転が速く要領がいい。

 世の中不公平なもので、同じ勉強方法で同じ時間勉強しても結果は同じにならない。劣るものはその分、量を補うことでようやく同じ結果を得ることができる。

 これは、『人間は一人たりとも同じ人はおらず、その人にはその人だけの長所が必ずある』というよくある綺麗な文句の裏返しだ。人はそのことから目を逸らし、『理不尽だ』の一言で片づけていく。

 でも彼女は、そんな不条理に決して屈することなく、諦観することもなかったのだ。


「追い風になるように、私は涼君と出会った。そして、夢を追いかける姿に影響を受けた。こんな私でも何か必死になれば見えてくるものもあるんじゃないか、ってね。だからまず、目先の受験を頑張ろうって思えた」


 高校三年生の四月。

 進級したクラスで隣だった彼女の最初の印象は、『真面目』だった。

 社交的で友達は多かったけど、隙間時間はいつも勉強をしていたし、幾度も先生に質問しに行っていた姿を目にした。

 その裏にこんな背景があったなんて、当時の俺には予想がつくはずもない。


「おかげで成績が少し伸びて、受験する大学のレベルも上がったんだよ」


 そしてそれが、道を大きく変えることになった。

 元々志望校を固めていた俺に追いつくようにして、春も同じ志望校になったのだ。


「だから私がここに、今も隣に居られるのは、涼君のおかげ。幸せなのも、全部、全部」


 そう言って彼女は胸に手を当て、幸せを噛みしめる。

 長く赤く灯っていたランプは、ようやく青色に変わる。

 横断歩道を渡ると、その先にはさらに住宅地が広がっている。ここ厚木市は有数のベットタウンとして人気が高い。そのためかなり歩いてきたが、住宅ばかりが目に入る。

 両者ともに行き先を知らないこの散歩は、果てしなく先に続く。


「散歩、楽しいね!」


 ニコッと笑いながらこちらを向く春。

 話が気づけば一周している。


「だな」


 今度は否定することはない。まぁさっきは部分否定で、実際には肯定してたけど。


「あ、そういえば英語のテスト、大丈夫そう?」

「待て待て。俺たちがここにいる大元の目的を、ついでのように扱うなよ。いやまぁ、俺も忘れかけてたけどさ」


 何だかんだあって、もう英語の勉強会のことが遠くに感じる。


「涼君、希望がないことには最初からやらない主義だからね。あれだけやってるってことは大丈夫だと思うけど」

「その前提は、この後も集中して勉強し続けないと成り立たないんだけどな。正直、いつまたスイッチが切れるか分からない……」


 この先への不安を滲ませ、俺は視線を落とす。

 小説を書いているときであれば、自己責任だからいい。

 だけど、ここまで手伝ってもらっておいて、それを水の泡にすることだけはしたくない。会わせる顔が無くなる。


「だったら私がずっと付きっ切りで見ててあげるよ」


 そう言った春の方を見ると、彼女は真っ直ぐに先を見つめていた。


「ずっと、って……」

「だから、今日は泊めて欲しいんだ」

「いや、何もそこまで……」


 さっきの話を聞いた後だからなおさら思ってしまう。

 彼女には彼女の時間があって、それは貴重な時間なはずだ。だから、俺のためにわざわざここまでして時間を割こうとしていることには、躊躇いが生じる。


「ごめん、ちょっと待っててね」


 突然、彼女はそう言い残して小走りでどこかへ向かっていく。

 その様子を眺めていると、彼女はアパートの中へと姿を消していった。


「ははっ……、春らしいな」


 無限に続くように見えた散歩。でもそれが有限であったんだと気付く。


「最初から言えばいいのに」


 きっと彼女は散歩をする前から、泊まり込みで隣にいるつもりだったんだと思う。

 でもそれを言わなかったのは、俺がこんな風に躊躇い、最後は断ってしまうことまで見越していたから。

 散歩に誘い、気分転換させる目的は間違いなく彼女にあった。けれどそこに、自然な流れで別の目的を含ませて擬態させた。

 思えば帰省の時もそう。元々あった帰省のプランに、俺と翔の諍いを解消させるために予備校へと連れ出した。その時彼女は、予備校の時の話を聞きたいという目的の中に、翔との思い出に触れさせて考え方を見つめ直すように誘導する目的を隠していた。

 巧妙、狡猾。そう言えば聞こえは悪いが、彼女の場合はそうじゃない。

 気遣い、優しさ。俺の心理を読み取って、最大限の配慮をしているのだ。

 そのことに今ようやく気付けた。だから、こんな風に……。


「優しすぎるよ……、春」

「……えっ、泣いてる!?」


 どうやら、泊まるための準備を済ませた春が戻って来たらしく、俺の元に駆け寄った。

 彼女は優しい。分かりきっていることだけど、改めてそう感じた。


「どうしてそんなに優しいんだよ……」


 彼女を前に、俺は独り呟くように言う。

 何か答えを求めた訳じゃない。でも彼女はそれでも言う。


「涼君が好きだから。それだけじゃ、答えにならないかな?」

「……ううん。それで十分」


 彼女はどこまでも一途なんだ。それは、俺と彼女が初めて顔を会わせたあの日からずっと。

 俺は顔をスッと上げ、空を見上げる。

 茜色だった空が、段々と黒色を帯びはじめ、街灯も少しずつ灯り始める。


「それじゃ、帰るか」


 俺は涙を急いで拭い、泣いていたことをなかったかのように話を切り出す。


「うん!」


 暗くなっていく夕方に、横に並んで帰り道を歩く。

 高校に通っていた当時。偶にではあったが、帰り道を並び歩いたあの頃を彷彿とさせるからだろうか。お互い会話は生まれず、ただただ心地よく流れるこの時間を噛みしめていた。



* * *



 午後十一時。あれからもう四時間ほど経った。

 家にあったもので夕食を済ませ再び勉強に戻った頃には、もう疲れが随分と蓄積していたのだろう。その傾向が彼女の節々から感じとれていた。だから、机に倒れ込むようにして眠っている彼女を無理に起こそうとはせず、勉強を続けていた。

 部屋が静かなのはいつものこと。いつもと違うことと言えば、俺の隣に彼女がいることくらいだ。

 いつもの深夜帯。夜型にとって最も集中できる時間帯ということもあるが、彼女がいるからか一層集中できている気がする。懸念していた睡魔も今のところは一切感じず、手は止まることなく走り続けている。


「ふぅ……」


 解いていた問題集のキリがいい所で一度大きく息を吐いて、肩の力を抜く。

 さっきまでは感じなかったが、夜も更けたことで少し肌寒い。五月とは言えども、まだ春であるこの時期、深夜から朝にかけては少し冷え込むのだ。そのことは、夜から朝にかけての時間を主戦場としている俺が一番よく知っている。

 だからこそ、気付くのが遅れたことに少し悔やまれた。

 俺は物音を立てないようにそっと立ち上がって、ベットの上に敷かれていた羽毛の布団を手にとる。そして再び彼女を起こさないよう静かに布団を背中からかける。

 きっと逆の立場なら、彼女はもっと早い段階で気づいていたんだろうな……。



 俺はそれから再び気合を入れ直し、ペンを動かし続けた。

 それから長く勉強を続けていたが、眠気や疲労度は限界に差し迫っていた。

 このまま無理をしてやる方法もあったが、それは後々隣にいる春に再び迷惑をかけてしまうことになる。だから俺は、記憶の定着を促すという名目でそのまま眠りについた。

 その時既に、午前四時を回っていた。

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