第2話 再会

 無事に入学式を終えると、学校生活に関する説明をするガイダンスを経て、迎えた四月十二日。実質的には、今日からが大学生活のスタートだ。

 講義開始四十分前の講義室には講義に備える、俺たちと同じ文学部文学科の人たちの姿があった。

 高校までとは違いクラスという認識が薄いこともあってか、開始早々友達作りに励んでいる人たちの姿は少ないように見える。加えて少し早い時間帯ということもあり、講義室内の空気は静けさを孕んでいた。

 俺たちは講義室の後ろの入口から入ると、中央最後列の席に着く。


「あぁ~。ついに始まるのか、学校」


 座って早々思いっきり背伸びをする翔はとても眠たそうだった。ボタンを留めていない上着の中から現れたシルバーリングのネックレスが、窓から入る日の光できらりと光る。

 春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、春と言う季節ほど眠気を誘う季節もないだろう。


「あれ? てっきり楽しみにしてたと思ってたけど」

「いやまぁ楽しみだよ? 合コンとか」

「へぇ~。大学でも合唱コンクールとかあるんだな」

「……べたなボケだな」

「ボケはボケでもこれは休みボケだな」


 そんな腑抜けた話をしていると大きな欠伸が出る。春休みによる休みボケのせいか、それとも窓から差し込む春の陽気が原因か。とにかく、さっきからお互いに欠伸が止まらない。


「そういやさ」


 翔は机にだらりと上半身を横たわらせ、半身でこちら側を見ながら話し始める。


「この人たちってほとんど年下だよな。忘れがちだけど」

「確かに、意識してないとふとした時忘れてるよな」


 俺たちは現役生ではなく、一浪でこの大学に合格し入学している。そのため現役生より一つ年上であり、今周りにいる生徒たちの大半はみな年下ということになる。

 留年や特別な理由でもない限り、基本的には同じ学年にはほぼ同い年しかいないのがこれまでの当たり前だった。浪人時代に通った予備校も同様だ。

 だからこうして年下の人たちと一緒に学ぶことには違和感を感じるのだが、意識しなければ何も感じないというのもまた不思議なものだ。


「でもこういう経験ができるのは浪人したからこそって考えると得した気分だな。まぁ、二度と浪人はごめんだけど」

「だな」


 世の中の大半は浪人を経験しない。だから、貴重な経験をしていることに特別さを感じなくもないが、不合格の先に得たものであるため、とても胸を張って言えたものじゃない。お互いが浪人経験者だから言えるジョークで、他の人に言えば嘲笑されるに違いない。

 加えて、いくら特別感を味わえると言っても、もう一度浪人したいとは絶対に思わない。それほどにあの日々は、辛い時間の連続だった。逆にこの先、これ以上の苦痛はないだろうと思えるほどには……。

 高校の時の大学受験。この大学一本に決めていた俺は、前期試験で不合格。枠は少ないものの最後のチャンスとなる後期試験も受験したが、そこでも合格することはできず、浪人するという選択肢をとった。

 不合格という結果を知った瞬間、社会に置いて行かれたという錯覚に陥る。そして、後から追うように喪失感と絶望感に襲われる。

 ただしそれらは、浪人の地獄においては入り口のようなもの。本当の地獄はこの先にある。

 大学受験は、早い人なら高校二年生の夏から対策を始める者もいるが、多くは高校三年の夏から本格的に勉強を開始する。そこから三年生の冬本番に向けて、同じことを何度も学習し理解を深めていく。

 大学受験を終えると、二度とやりたくないとみな口を揃えて言う。それほど受験というのはハードで苦しい日々の連続なのだ。しかしながら、合格すればそこで終わり。終わってよかったで済むのだ。

 しかし浪人する場合。全身全霊で全てをやり尽くし、一度ゴールだと思ったところでもう一年間やらなければいけないという現実を突きつけられる。感覚的には、長距離走でゴールしたと思ったら実は一周遅れで、もう一周残っていたことを知らされたようなものだろうか。ただ、それとは全く比にならない。長距離走なら数分から数十分、マラソンでも数時間だ。それが『一年間』なら、どれだけしんどいことか。想像するだけでも戦慄するだろう。

 そんな辛酸を舐める日々を超えたからこそ今がある。本当にやり切ってよかったと感じるのは、こうして自分のパソコンに電源を入れる時に度々感じる。

 そんな俺の様子を見て思い出したかのように翔は問う。


「そういや、小説の方はどうなんだ?」

「六月末の締め切りに向けて書いてるけど、やっぱり勘を取り戻すには時間がかかるな」


 俺は一つ、大きな夢を持っていた。

『小説家』

 物語を創作し、小説作品を著述、発表を行っている人のことである。

 高校に入った頃。俺はプロの小説家として自分の本を出版することを夢見て、各出版社が開催する新人賞に応募するための作品を書いていた。

 新人賞では多くの場合、受賞すれば出版確約、つまりデビューの機会を得ることができる。そのためにはまず、各選考を通過する必要がある。応募当初は当然、全くと言っていいほど結果は残せず、ほとんどが一次選考での落選だった。そんな残酷ともいえる結果を受けても、書くことの楽しさ、そしてプロになりたいという意欲は応募する度に増大していき、執筆にかける時間も比例して増えていった。

 そんな毎日を送ること二年程して大学受験期に入った。周りの生徒たちが受験勉強に入っていく。しかし、一時的にとはいえ離れることで失ってしまう感覚的なものを失いたくないという思い、何よりも少しでも早くデビューしたいという強い思いから、俺は書くことを休むことはなかった。

 その判断が災いし、小説の腕が上がるのに反比例して成績は下降。三年生になって初めての模試では東合大学のA判定をとっていたが、受験前最後にはD判定まで成績を落とすことになり、そのまま挑んだ受験で失敗することになった。

 浪人に際してようやく小説を書くのを止める決断をしたものの、創作に対する思いが強かったために悶々とした思いが頭の中を渦巻いた。これが俺にとって浪人というものの辛さを頗る増幅させたのだった。

 それでも、あることがきっかけで勉強に熱意を入れたことが功を奏し、見事リベンジを果たした俺は、今こうして創作活動を再開するに至る。

 しかしながら、懸念していたブランクは確実に存在した。物語の構成、キャラクターづくりに、文章の紡ぎ方。感覚として染みついていたものもあったが、それでも忘れてしまったものや失ったものはいくつもある。それら全てを取り戻し、再びあの頃の実力に追いつくまでには、幾分か時間を要することにはなるだろう。

 急がば回れとは言い得て妙だ。それを身をもって体感することになった。


「まぁ、それだけ熱意があれば俺は安心だけどな~」


 翔は感心半分、呆れ半分といった様子で間延びした声を漏らす。


「でも、授業はちゃんと聞けよ?」

「分かってる。同じ轍を踏むわけにはいかないからな」


 大学は義務教育ではないし、高校ほど甘くはない。

 それに高校時代、授業中も創作のことばかり考えていたことが、浪人生活を生んだ一つの原因になってしまった。だから同じ過ちは繰り返したくない。

 授業まではまだ三十分ほどある。周りの生徒たちは携帯を触ったり、駄弁ったりしてただ時間が過ぎるのを待つだろう。

 でも俺は違う。この隙間時間ですらも惜しい。

 人生という限りのある時間中で、一年もの間何もできなかった。それを埋め合わせるためには、一分一秒ですらも貴重な時間なのだ。

 パソコン画面とキーボード、頭の中に描く作品内の景色、聞こえてくる声や音。考えれば考えるほど、周りの音は尻すぼみに小さくなり遠のいていく。

 今、大学の文学部棟の講義室にいるという現状を忘れてしまうまでさして時間を要することはなく、自らが創造する物語の中に吸い込まれていった。



「……涼真。お~い、芳永よしなが涼真君~?」


 しばらくして、遠くの方から翔が俺を呼ぶ声が聞こえる。

 止まることなく動いていた手を止め、目線だけを隣へと移す。


「授業始まるぞ」

「……あぁ」


 俺はすぐにパソコンに表示された時刻を確認した。

 九時二十九分。

 体感ではほぼ一瞬だったが、気付けば三十分が過ぎている。書いていた文書をしっかりと保存し、机の上に用意していた教科書を手に持つ。

 大学の教科書は教科にもよるがやたらと分厚く、値段が高い。初めて見た時は思わず広辞苑、もしくは六法全書かと錯覚してしまった。まぁ、現物は見たことないけど。


「はい。時間になりましたので講義の方を始めたいと思います」


 高校までとは違い、授業開始の鐘は鳴らない。その部分にすら、大学生になった実感が湧いてしまう。

 ざっと周りを見渡すと、先生の方を見ながら話を聞く人、ひたすら教科書を読んでいる人、ノートをとっている人がいる中、机の下で携帯を触っていたり、談笑している人たちもいる。

 こんな様子を見てしまうととても胸が痛んでしまう。本気でここに来たかったけれど来れなかった人々がいて、その人たちが最低でも一年間苦労しているということを誰よりも知っているからだ。

 そして今度は隣の席に視線を移す。……おい、浪人経験者?


「お前なぁ……」


 小さな寝息が聞こえてくる。授業開始から僅か十分で、翔は夢の世界へと旅立ってしまっていた。


『授業はちゃんと聞けよ?』


 さっきの翔の言葉だが、それはこちらの台詞だ。

 大学初日からこれで大丈夫なのかよ……。そう思う気持ちもあるが、一応彼がどんな奴かは理解しているつもりだ。表ではこんな風に惰眠を貪るような体たらくを見せているが、裏での努力は計り知れない。予備校時代はこのスタイルで成績をメキメキと上げ、見事合格を果たしている。

 かつてその理由を尋ねたことがある。彼はこう言っていた。


『午前中は眠いし、昼ごはん食べた後も眠い。眠くならないのは夜だけなんだよ』


 自身が極端な夜型であるためだと、嘘か誠か絶妙に判断しかねることを言っていた。哺乳類は元来夜行性らしいので、彼の言い分も理にかなっていると言えなくもない。それで世の中を生きていけるかはこの際置いておいて、きっと大学でものらりくらりと交わしていくのだろうと思い、俺はあえて起こさないのだ。

 因みに予備校時代、一度こいつを起こそうと思ったことがあった。その際予想の何倍も寝起きが悪く、授業中にもかかわらず寝ぼけたまま大声を出し、なぜか俺の方にすごい視線が集まったという経験がある。だから仮にこいつがただ寝落ちしてしまっているだけなんだとしても、起こす気は毛頭ない。あのような目に遭うのは二度とごめんだ。


「この授業は十五回のうち三分の一以上欠席すると単位を取得できませんので注意してください。また……」


 講義を担当する先生がプロジェクターで映した資料を基に読み上げていく。今回の講義は大学生になってから初めての講義ということもあり、授業の進め方や単位の仕組みなど、オリエンテーションに近いものだった。だが、ガイダンスでも似たような説明を受けていたため、真面目に講義を受ける生徒にとっても実に退屈な時間が流れていく。

 一時間半の名ばかりの講義を終えると、生徒たちは疲れた様子で椅子にもたれかかった。俺も例外ではなく腕をだらんと下ろし、上半身の力を抜く。俺が一息ついたところでようやく、体力消耗どころか回復させていた奴の肩を揺する。


「おい。授業終わったぞ」


 次の講義は三限の一時半から。現在時刻は十一時過ぎで、昼食の時間を入れてもそれまではかなり猶予がある。次の講義でこの教室を使う様子もなさそうなので慌てて講義室を出る必要はないが、俺としてはこの空き時間を少しでも執筆に充てたいのである。

 翔を夢の世界から呼び出すこと三度。電話なら『大変お待たせいたしました』と言うべき回数呼出し、ようやく現世に舞い戻る。


「……ん?」


 こちらに顔を向け、片目だけをなんとかして開き、眩しそうに目を凝らす。そして目を二度擦って、突っ伏していた体をのんびりと起こした。


「行くぞ」

「……どこに?」

「まぁ、無難に図書館とか」

「図書館!?」


 露骨にそのワードに反応した翔は、眠気など消え去ったかのように目を見開く。


「なんだよ、その反応。言っとくけど、大学の図書館は想像しているようなところじゃないからな」


 大学の図書館は、論文や参考書類がその大半を占める。俺の影響でライトノベルや漫画にハマったらしいので、大方それらが目当てだったのだろう。そのことを聞いて少し肩を落とす。


「え……。眼鏡をかけた大人しめの司書とか、学年随一の成績を誇る本好き少女とかいないの?」

「いや、そりゃ知らんけど……」


 もしかしたら一番与えてはいけなかった影響を与えてしまったのではないだろうか。そう後悔してしまうくらいには、どんどんこいつが残念な方向に向かっている気がしてならない。


「とにかく行くぞ」

「へいへい」


 手早く移動の準備を済ませた翔とともに講義室を後にして、別棟にある図書室を目指した。



* * *



 時刻は正午過ぎ。図書館で一時間近く過ごし、これまた別棟にある食堂にやってきた。高校まではなかった学内の食堂に新鮮さを感じつつ、食券販売機のボタンを押す。

 最初なので、絶対に外さないであろうカレーライスを選んだ。価格は四百円。ラーメン、うどんといった食堂の定番メニューを始め、殆どの品が似たような金額設定になっている。まさに学生の味方だ。

 二限終了後の午後一時前は、人が混雑することは簡単に予想がつく。それを見越して少し早めに来た食堂には人の姿がまばらで、注文した商品もすぐに届く。受け取り口でトレーを受け取り、空いていた席に座った。

 これぞカレーといった普通の見た目をしており、皿の端には福神漬けが少しだけ添えられている。個人的にはらっきょう派なんだけどな……、と思いつつスプーンで一口分掬って口に運ぶ。

 うん。やはりカレーは外さない。だが地元、石川県の黒いカレーと比較すると、味の濃さには物足りなさを感じてしまう。

 同じくカレーを頼んでいた翔も同様のリアクション。間違いなく美味しいし、コスパを考えれば文句は言えないが、おそらくもう頼まない気がする。


「それで、あれから連絡は取ったのか?」

「……いや。まだ」


 あまり触れて欲しくない話題を出され、口に運ぼうとしたスプーンが途中で止まる。


「一年間会わなかったら、普通会いたくて仕方ないもんじゃねぇのか?」

「それは……、そうだけどさ」

「だったら早く連絡しろよ。何ならこの大学に入学してることもまだ伝えてないんだろ?」

「分かってる……」


 俺の会いたい人がこの大学にいる。ただ、一年もの間連絡をしていない。正確にはできない事情があったのだ。その事情も解消した今、連絡さえすれば会うことができる状況であり、今ももちろん会いたいと思っている。

 ただ、一年と言う月日がその行動のハードルを大きく釣り上げた。それにもう一つ、その行動を妨げる要因が存在する。


「思い立ったが吉日だ。お前、放って置いたらいつまでも進まないだろうから、今すぐメールしろ。さもないとこの福神漬けは頂く」

「質に取るもの、弱すぎやしないか? それくらいならくれてやる」


 せめてカレーにしろよ、と思ったがそういやこいつ、小食だったな……。

 にしても福神漬けって……。らっきょう派の俺にとっては痛くも痒くもないんだが。


「……とにかく今すぐだ。さもないと……」


 俺の予想外の反応に困った翔は、素早い動きで黒いリュックサックを手に取りがっちりと抱え込んだ。


「大切な物をいただくぞ!」


 さすがにそれは困る。その黒いリュックには原稿のデータが詰まった、大切なパソコンがそこに入っているからだ。


「はいはい。分かった、分かったから……」


 力づくで奪い返すという手段もあるが、そうまでして連絡を取りたくないわけではない。

 だから俺は奪還を諦め、ポケットからスマホを取り出す。そしてメッセージアプリの画面を開き、メッセージを打ち込んでいく。


『久しぶり』


 事実、久しぶりなのだからこれくらいでいいだろうと、送信ボタンを押そうとしたところ。


「それでいいのかよ」

「何が?」


 俺のスマホをこっそりのぞき込んでいた翔が疑問の声を上げる。

 人のスマホを見るなんてマナー違反だとツッコミたいが、今は触れないでおく。


「要件も話しとけよ。一日でも、一分一秒でも早く会いたいんじゃないのか?」

「それは……、そうだけど」


 少しでも早く会いたい。その強い気持ちは確かに心の中にある。

 けれど相手はどうだろう。あの日、あの時感じた一抹の不安が頭を過る。


「入学式の日、覚えてるか?」

「まぁ」

「あの日、二人組の女子大生とすれ違っただろ?」

「あぁ、あの可愛い子たちのことね」


 こいつの場合、あらゆる女子はおそらく全て可愛いで記憶されているだろうが、誰のことを言っているのかは理解している様子だ。


「あの時すれ違った左にいた女の子。おそらく……」

「もしかしたらって思ってたけど、やっぱりか。でもだったら、なんで話しかけなかったんだよ」

「確信を持てなかった。容姿も雰囲気もまるで高校生の時とは違ってた。それに……、すれ違う直前、露骨に目線を逸らされた」

「そっか……」


 それが意味することを察したのだろう。翔はそれ以上俺を問うようなことはしなかった。

 高校三年生の卒業式。その日を最後に一年間一切顔を会わせず、連絡もとっていない。だからこの一年間、彼女がどんな風に大学生活を過ごしたかは知る由もない。

 もしかしたらもう会いたくないんじゃないか。

 あんな風に目を逸らされてしまえば、ただでさえあった不安が膨らみに膨らんでしまう。会うどころかメッセージを送るだけでも躊躇ってしまう。


「でもその真相を確かめるには、結局は彼女ともう一度話すしかないんじゃねーの?」

「……そうだな」


 実際に彼女がどう思っているのかは、彼女のみぞ知る。ここであれこれ考えたところで無意味だということは確かだ。


「だからさ」


 そう言って翔は突然立ち上がったかと思うと、不意を突いて俺に飛びかかってくる。


「ちょっ……、何を……! おい!」


 何をしたかったのか。それは彼の右手に俺のスマホが握られていることから簡単に予想がつく。

 にやけ面を浮かべながら文字を入力していく翔から何とかスマホを取り返そうと必死になるが、すぐに送信ボタンを押した音が聞こえた。キーボードにブラインドタッチと言うものがあるように、いわゆるフリック入力でそれをやり遂げたらしい。それも俺の攻撃を交わしながらなのだから器用なものだ。……って、感心している場合じゃない。


「お、おい! 何を勝手に!」


 翔は右手親指を立て、『グッジョブ』のサインを出す。何がいい仕事だ。誰も頼んでいない。

 一度送ってしまったものは仕方がないのでもう現実を受け入れるしかない。にしても、一体どんなメッセージを送ったのだろうか。


『久しぶり』

「え、もう返信来たのか?」


 知りもしないはずの相手の声真似をしつつ、翔が送信されてきたメッセージを読み上げる。ついさっき送ったばかりのメッセージにもう返信が来たのかと驚いていると、翔は首を傾げ、眉を顰める。


「ん? 何言ってんだ、お前。何も言ってねぇけど」

「はぁ? ……!?」


 俺は最初、何をとぼけているのだと眉間に皺を寄せていた。だが、一度冷静になってみると、先程の出来事には不可解な点があることに気がついた。

 声真似にしてはやけにクオリティが高すぎるのだ。翔とメッセージ相手である彼女とは面識がない。彼に彼女の動画やビデオでも見せない限りは、正確な声真似など不可能なはずだ。

 それにもう一点。声がした方向と翔のいる位置が一致していないのだ。俺たちは外の景色が見渡せる、正面がガラス張りになっている席に座っている。横に並んで座った形であったが、声は翔より後方からした気がするのだ。

 確認のためにその方向へと顔を向けたとき、柑橘の甘酸っぱい香りが鼻を突き抜ける。カレーの隠し味に柑橘類が入っているわけでもなければ、食堂のデザートであるフルーツポンチに入っている蜜柑の匂いがここまで漂ってきているわけでもない。上品でフレグランスな香りは、しっかりと脳が記憶していたらしい。一つだけ、その香りにはあてがあった。


「久しぶりだね。涼君」


 約一年ぶりにちゃんと見た彼女は、別人の雰囲気や容姿をしていたけれど、その声だけは当時から何一つ変わらない。その呼び方をする人も、やはり記憶には一人しかいない。


「久しぶり。春」


 今こうして、俺たちは一年ぶりの再会を果たした。



 美藤春花びとうはるか。俺の高校の時の同級生だ。

 初めて出会ったのは高校三年生になってから。二年から同じ教室だったが、席が隣同士になったことなどがきっかけとなり、面識を持つことになった。

 そしてそんな彼女と最後に会ったのは高校生活最後の日。

 それ以来、お互い会うことも連絡を取り合うこともなく、それぞれが別々の道で一年の時を過ごした。


「この子が涼真の恋人!?」


 翔が事態を察して驚きの声を上げた。

 彼の言う通り、俺と彼女は一応恋人の関係にある。ただ、『一応』と言葉を濁すのは、今も続いていると断言できないからだ。

 彼女と最後のやり取りを交わした高校からの旅立ちの日。全ての式典が終了し、周りの生徒たちは個人間や部活の仲間たちで記念写真を撮影し、それぞれが別れを惜しんでいた。中学までとは違って皆が方々へ散り散りになっていくため、本当の意味での別れに近いだろう。そんな中、彼女は俺を人気のない場所へと連れ出した。

 その場所は校舎から少し外れたところにある、小さな丘。その麓に凛と立つ大樹の下だった。

 俺と春にとってここは思い出のある場所。その共通認識があるため、記念撮影のために連れ出したのだなとその時は思っていた。

 しかし彼女は何の前置きもなく、たった一つの約束だけを告げた。いや、取り決め事と言った方がいいかもしれない。


『もし私か涼君のどちらか一方でも合格できなかったら、お互いが合格するまでは会わないし、連絡もしないこと』


 それ以上は何も語らず、俺の言葉を待つこともなく、彼女は踵を返した。その際見せた、切なさを纏った寂しげな表情は、今も強く印象に残っている。

 そして彼女はそのままこの場を去っていった。そんな突然の言葉に返す言葉も、彼女を止めようとする言葉も見当たらず、ただ茫然と彼女の背中を目に焼き付けながら、俺は拳を強く握りしめることしかできなかった。

 迎えた次の日に、俺は不合格の結果を知ることとなる。それでも最後の望みに賭けた後期試験を受験。しかしながら、前期よりさらに難関とも言われる後期試験でも同様の結果となり、浪人を余儀なくされた。

 こうして俺と春の間に、空白の時が流れた。あの日の彼女との別れ方の気まずさも相まって、この関係は恋人関係とは言い難いように思う。


「今日の帰り、待ち合わせは正門前でいい?」

「あ、あぁ」


 どういうことか一瞬理解できなかったが、おそらく翔が打ったメッセージに対する返信だと思われた。戸惑いつつも、承諾の返事をする。

 すると彼女は小さく微笑みを見せてから、


「じゃあ、また」


 と別れの言葉を告げて、この場を後にした。

 あの日と同様、会話らしくない会話。用件を一方的に伝えられただけだ。

 一年の時を経ても、あの日の出来事が続いているように思える。


「良かったじゃん」


 俺の胸中を知らない翔は呑気にもそう言うが、これでむしろ不安が増すことになった。

 一体彼女の口から何が告げられるのか。

 考えても意味のないことに囚われ続け、午後からの講義などほとんど頭には入ってこなかった。



* * *



 午後四時半。今日最後の講義が終わり、周りの生徒たちは各々帰宅の途に就く。


「じゃあな。頑張れよ」


 その流れに沿って翔も、励ましの声をかけると一足先に帰っていった。その一言が、今から始まるということを改めて認識させ、励ましが励ましになっていなかった。

 段々と講義室が元の静謐さを取り戻し始める。人の姿が少なくなってようやく意を決して立ち上がった。募る不安や緊張で地に足がついておらず、足がすくむ。そんな覚束ない足取りながらも、待ち合わせ場所となっている正門を目指した。

 文学部棟から正門までは徒歩五分ほど。徒歩五分と言えば、短い距離を連想するだろう。でも今の俺には、果てしない距離にも感じた。着いて欲しいけど、着いて欲しくない。矛盾する二つの想いが交差する。

 それでも歩みを進めれば確実に距離は縮まっていく。正門が視界に入り、俺は彼女の姿を探した。そしてその近くに、一人の女の子がぽつんと立っているのを見つけた。

 ぼんやりと彼女が見上げている先には、桜の木々がある。入学式の日までは満開だった桜も、随分と花びらを落として寂しそうな表情を見せる。それを見ている彼女もまた、どこか寂し気に映った。


「ごめん。待たせた」


 その彼女、春に声をかける。桜に夢中だったのか、はたまたぼんやりしていたのか。少し反応が遅れた。


「ううん、全然。それじゃあ、行こっか」


 彼女はそう言って、行く先を伝えもせず歩き始める。それを見て、俺は彼女の隣に並ぶ。

 横からの彼女の表情を見ることも、並んで一緒に歩くことも、何もかもが懐かしいけれど、心の底からはまだ素直に喜べない。いくつもの疑問、そして胸に残るしこりがそうさせてはくれないのだ。

 しばらく、二人の間に会話は生まれなかった。気まずさがその原因になったというわけではなく、単にお互いが懐かしさを噛みしめていただけのようにも思えた。


「ここでいい?」


 無言を切り裂くように、彼女は誰もいない小さな公園を指して尋ねた。俺はそれに頷き、近くにあったベンチに腰を下ろす。

 再び、二人の間に無言の時間が流れる。周りに人がいないこともあって静謐なこの場には、鳥の鳴き声だけがよく響く。

 無言故の気まずさに耐えきれず様子を伺うようにして隣を覗き込むと、偶然にも同じようなことを考えていたらしい彼女と目が合い、気まずさから咄嗟に目を逸らす。

 彼女と過ごした日々の記憶は、今も細々と鮮明に残っている。けれど、会話においての距離感という感覚的なものだけは、たった一年でも薄れてしまうものだ。小説を書く感覚がそうだったように。

 多少よそよそしくても再スタートなのだから、この際いいかと心を決め、ようやく言葉を口にする。


「あのさ」

「あの!」


 すると、二人の声が出会い頭でぶつかる。その瞬間、再度お互いを見合い、俺たちは噴き出して笑った。

 久しぶりに見る彼女の笑顔。明るくて純粋無垢なその笑みがとても好きだった。


「久しぶりだね!」


 なんだ。何も変わっていないじゃないか。

 卒業式の日のこと、そして大学の入学式の時に感じていたことが思い過ごしだったかのように思えてくる彼女の言動が、俺の強張っていた心をようやく解した。


「一年ぶりだもんな」

「無事に合格できたんだね! おめでとう」

「……ありがとう」


 彼女は俺の合格を心から祝福してくれた。

 本当に嬉しい言葉だ。ここまで積み重ねてきたものが報われた瞬間だった。

 でも、それだけではない。同時に後ろめたい気持ちにもなる。だから、表情はむしろ陰った。


「……ごめん」


 その理由が何かをすぐに悟った彼女は、先程までの明るさから一転。すぐに謝罪の言葉を口にした。この合格は、決して喜ばしいことだけではないからだ。

 春は別にわざと言ったわけじゃない。ただ祝いたかっただけということも、感動の再会に際して、明るい話題を出そうとしただけということも分かっている。

 むしろ悪いのは、この原因を作った俺の方だ。だから決して彼女を責めたりしないし、責める資格なんてなかった。


「涼君、私ね。寂しかった」


 春は公園の地面に敷かれたタイルを見つめながら、そんな風に呟いた。その言葉に痛々しさを感じ、自分の胸が締め付けられる。


「涼君に会うまで、誰かと会わないことがこんなに寂しいなんて、思ったこともなかった」


 一年間もの間、事実上の遠距離恋愛を余儀なくされた俺たちは、互いに寂しさを募らせ、心を随分と痛めてしまった。

 体に、衝撃が伝わる。それは、春が肩に自分の身を寄せていたからだった。そんな彼女を静かに胸の方へと抱き寄せ、お互いを慰め合う。


「本当に寂しかった」


 俺の胸の中で再びぽつりと漏らす。


「ごめん……」


 謝って済むようなことではないと分かっていても、俺はただそんな風に薄っぺらい謝罪の言葉を口にすることしかできない。そんな自分が情けないし、悔しくて仕方がなかった。

 それから、身を寄せた状態のまましばしの時が流れた。お互いが元の体勢に戻るころには、空が薄っすらと暗くなり始めていた。


「ちゃんと謝らせてほしい」

「……」


 彼女は何も言わなかった。それを肯定と受け取り、言葉を続ける。


「約束、守れなくてごめん」


 約束。二人の間でその言葉が指すのは、たった一つのもの。

 かつて、あの校舎裏の丘の麓にある木の下で交わした約束。


『もう一度、同じ教室で授業を受けよう』


 秋の初風が吹く頃。志望校、志望学部、志望学科が偶然にも一致していた俺たちが、受験勉強がさらに本格的になる前に交わした、大切な大切な約束。

 俺はその約束を破ってしまった。

 そのことに対する大きな罪悪感は今も心に残り続けている。だから、彼女からの祝意も素直に受け取れなかったのだ。


「ううん、それはもういいの」


 彼女は首を横に振り、俺を責めることはなかった。

 でもできれば責めて欲しかった。気が済むまで、気持ちをぶつけて欲しかった。彼女にはそれだけの権利があるはずだ。


「話したかったのは、別のことだよ」


 彼女はそう言うと、空を見上げた。先ほどから空が薄暗くなってきているが、日が沈み始めたことよりも、灰色の雲が空を覆ったことが原因のようだった。その証拠に一滴、二滴と冷たい感触を感じると、すぐに雨粒の軌道が目に映った。

 彼女の頬を水滴が流れ落ちる。それが雨のせいなのかどうかは、俺には分からなかった。


「私たちの今後について、だよ」


 心なしか声も曇って聞こえる。天候の影響もあり、何もかもマイナスな思考になっていく。この先、彼女の口から出る言葉が明るい内容とは到底思えなかった。


「まだ、ちゃんと話してなかったなって。ずっと有耶無耶にしておくのは、お互いにとって良くないと思うし」


 あぁ、やっぱりだ。彼女が何を言おうとしているのか、段々とはっきり予測が立ってくる。


「うん……」


 強くなる雨脚。小さく相槌を打ったが、その声が届いているかどうかも分からない。

 もう彼女の顔は見ていないし、とても見れない。俯きながら、タイルに打ち付ける水飛沫を見つめていた。

 ――あの時は楽しかったな。

 どんな些細な思い出も記憶に残っている分、余計に辛くて仕方がない。まだ彼女から告げられてもいないのに、今にも涙は溢れてしまいそうだ。頭から伝って来る雨水が目尻を通る際、零れる前の涙と同化し地面へと滴る。おかげで、泣いていないとは断言できない。

 とにかく今は、彼女から言われるであろう言葉を受け入れられる心の準備をしなくてはならない。二人の間に流れる若干の静寂は、彼女がそのために用意してくれたようにも思えた。

 そして遂に、彼女は再び口を開く。


「私たちさ」


 ――でも、終わってしまうのは嫌だな。

 俺は静かに目を瞑った。


「別れよっか」


 彼女がそう言った瞬間、打ち付けていた雨滴の勢いが途端に弱まる。

 最後くらい、彼女の顔をしっかり見て答えよう。それがけじめというものだ。

 俺はゆっくりと顔を上げ、恋人として最後の彼女の顔を目に焼けつけようとした。でも彼女はそんな俺を見て、にこりと笑みを溢す。


「って、言う準備をずっとしてたんだ。入学式で再会するまではね」

「!?」


 予想だにしない言葉の続きに、目を丸める。


「あの時、目を逸らしちゃってごめん。あれは涼君が嫌いになったからとかじゃないの」


 彼女は苦笑いを浮かべながら、つい最近の出来事のことを打ち明ける。

 入学式の日。俺と彼女がすれ違った、あの時のことだ。


「元々は本当に別れを切り出すつもりだったけど、涼君を見た瞬間に心があったかくなってね。どういう過程があったにしても、やっぱり私は涼君のことが好きなんだなって。それで何だか照れ臭くなっちゃってね……」


 やはり彼女は、俺だと気付いた上で目を逸らしていたのだ。でもその理由は、俺の予想と真逆のものであり、あれこれ考えていたことは全て杞憂だった。


「ほんとごめん!」

「ううん。気にすんな」


 両手を合わせ、ウインクしてみせる彼女の可愛げに溢れた仕草は、一見して謝る気がないようにも見える。でも俺の心中を推し量ってわざとやっているようにも思えた。暗いのはもうなしだと言わんばかりに。

 だから俺は少しだけ取り繕い、笑ってみせた。


「別れたくない。好きって気持ちには正直でいたい。だからこれからも……」


 そう言って彼女は立ち上がり、右手をゆっくりと差し出す。でも、その手をすぐに取るわけにはいかなかった。


「俺も、別れたくなんてない。またあの時みたいに過ごしたい」


 本心から出た言葉だ。彼女とまた会いたい。その思いが俺を大学まで導き、入学後も彼女と再会することを望んだ。

 でも――。


「でも、いいのか?」


 彼女は小首を傾げたので、俺は言葉を続けた。


「あんなに大切な約束、破ったんだぞ……」


 彼女は首を横に振る。


「私は、もう約束破らないって約束を守ってくれたら、それで十分なんだよ。だから……」


 彼女の差し出していた手は、小指を立てる形に変わった。


「約束!」


 春はそう言って、屈託のない優しい笑みを浮かべた。

 こんな表情見たらもう、これ以上は何も言えなかった。いや、もう何も言う必要がないのだ。もう二度と悲しませないように、彼女の笑顔を守るために、この約束を守るだけだと思った。

 俺は彼女の小指に自らの小指を引っかける。言うなれば、小指の握手だ。


「今度こそ、約束する」


 力強くそう宣言し、ここに一つの約束が結ばれた。それと同時に、俺たちの関係は一年のブランクを挟み、再び続くことになった。


「そういえば、これってさ。針千本とハリセンボンのどっちを飲ませるのが正解なの?」

「飲ませる気満々じゃん……」

「破らないって約束だから、どっちでもいっか」

「いいような、良くないような……」


 幼い頃はこうやって約束を交わすものだと教えられたものだ。

 因みに指切りで言うところの『はりせんぼん』は魚ではなく、針千本を指している。これの由来を調べたことがあるが、とても子供に覚えさせるようなものではないと思う。

 雲の隙間から、一筋の光が差す。その光は、目の前に幻想的な光景を作り出した。


「あっ、虹!」


 指切りげんまんの影響か、童心の垣間見える春の姿は、この一年で随分と変わった雰囲気とは真逆のようにも見える。どちらかと言えば、これが俺の知る彼女だ。

 この虹が、この先の未来が明るく色づくことを暗示しているといいなと、我ながら小説家っぽいなと思う感想を抱いた。


「『虹』って漢字の成り立ちって知ってる?」

「ううん、知らない」

「実は昔、虹を空に現れる大きな蛇と例えていたことから来てるんだってさ」

「その話必要だった?」


 春は的確にツッコミを入れる。まさに蛇足の豆知識だったと自分でも思う。……蛇だけに。

 かくして俺たちは、新しいスタートを切ったのだった。

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