第3話 新たな日常

 大学の講義が始まってから初めての土曜日が訪れた。

 長く残っていた肩の荷が下り、久々に解放感に満ちた休日の早朝。

 少し重たい体をゆっくりと起こし、部屋のカーテンを力いっぱい開け放つ。東から登る朝日の光を全身に一手に受けると、眠気は浄化されるかの如く消え去っていく気がした。

 とても心地の良い、理想と呼ぶべきモーニングルーティン。そう。これが起後のルーティンであれば、な。

 昨日、平日最後の講義が終えて帰宅した俺は、入浴と洗濯を済ませて勉強机に向かった。

 部屋の中で圧倒的な存在感を放つ横幅一メートル以上ある広い机の上には、ノートパソコンとモニターが二台。そのモニターには百ページはゆうに超える原稿が映し出されている。モニターと向き合うこと十二時間以上だろうか。トイレ休憩を除いてはこの場所から一歩たりとも離れていない。

 現在時刻は朝六時頃。ここに来て疲労感、睡魔、空腹感に襲われる。集中している際にはこれらを感じないが、集中が切れた途端、堰を切ったように溢れ出す。俺はここを限界とみて、作業に一区切りをつけた。


「っ……、っと!」


 大きく背伸びをすると、腰の方から異音がする。同時に肩や首が凝って随分と可動域が狭くなっていることに気がついた。モチベーションに筆を任せたはいいが、さすがに少し無理をし過ぎた気もする。

 ただ、俺は知っているのだ。

 一日丸々何も口にせず、睡眠時間も僅か二時間、残りのほとんどを執筆にかけるような作家が世の中には存在するということを。

 その作家曰く、『食事する時間すらもったいない』、『人は数日食べなくても死なない』とのこと。いや、死ぬ死なない以前に、食事なしで作業捗らないだろ……。そんな風に思っていた時期が私にもありましたね。

 モニターにぎっしり詰まった文字列を見れば分かる。こうやってほとんどまともな食事をとらずとも、予定していた作業量を遥かに超えていったことが、実現可能である何よりの証拠である。人間、やればできるのだ。

 まぁでも、はっきりしていることはある。良い子の皆さんは真似しないようにってやつだ。この反動は大きいので、半端な気持ちでやるべきものではない。

 スマホで時間を確認し、頭の中で今日一日の予定をおさらいする。

 今日は、あと三時間後に翔と待ち合わせし、本日発売となる本を買いに行く。今回は、有名作品の続編がこぞって発売のため、前々から楽しみにしていたのだ。

 帰ってきてからはこの作業の続きだ。作家志望がすべきなのは、一に執筆、二に執筆、三四に読書、五に執筆なのだ。

 そして俺が今、それらをこなすために必要なことは……。


「寝よう……」


 俺はベットに飛び込むと、ほんの数秒後には眠りについた。いや、意識を失っていたという表現が正しい。

 だから念を押す。良い子の皆さんは真似しないように。



* * *



 家からはバスで十分ほどの位置にある本厚木駅に向かうと、壁に寄りかかって待っていた翔の姿があった。

 時刻は九時三十分。集合時間から三十分遅刻したのは、寝過ごしたことが原因だ。


「無理しすぎなんじゃねぇの?」


 彼は俺の姿を見て遅刻してことを咎めることもなく、開口一番に俺の身を案じた。


「正直これでも足りないくらい。努力を妥協して届く世界じゃないだろ、プロって」

「その前に倒れたら元も子もないだろ、お前」


 彼の言うことは正論だが、プロはそう甘い世界じゃない。辛酸を舐め続けた先に見えるほんの一握りの光。それがプロと言うもの。

 生命活動をするために必要なものを疎かにしがちなのは、どう足掻いても変えられないタイムリミットが存在するからであり、一分一秒を惜しむようになるからだ。特に睡眠時間と言うのは、人生の約三分の一を占める。少しでも研鑽できる時間、挑戦する時間を増やそうとすれば、これを削ることで時間を捻出しようという考え方になるのはごく自然な運びだ。

 事実、今プロにいる人間の多くが経験したことであり、今もしていることなのだ。そこに並び、超えようとするならば、それ以上のことをしなければ到達できない。


「人生は一度きりって言うだろ? 達成できなければそれで終わり、ゲームセットだ。だったらせめて、自分ができる限りやってゲームセットを迎えたい。ここまでやって駄目なら仕方ない。そう思えることができたら、少なからず満足も納得もできる」

「言ってることは分かる。分かるけどさ……」


 翔は俺の考え方に理解を示しつつも、それを受け入れられないと言った様子で、言葉の最後を濁す。そして一度大きく息をつくと、首を二度横に振った。


「ううん、何でもない」


 そして、苦笑いを浮かべた。その彼らしくないその表情には少し疑念を抱くも、すぐにいつもの様子を取り戻す。


「それよりお前、顔ひでーことになってんぞ」

「お前の方が醜いから、相対的には綺麗だし安心だな」

「醜いのはお前のその言い訳だ」


 自分がどれだけ酷い顔をしているのかなんて言われるまでもない。家を出る前に確認したら、目の下にははっきりと隈があったし、どことなくげっそりとして見えた。だが、こういう生活に少し慣れたこともあってか、眠気の割には体の調子はいつもと大して変わりがない。弊害があるとすれば、街の喧騒が頭に響くというところくらいだろうか。


「とにかく行くか。早く買って早く読みたいからな」

「そうだな。ずっと楽しみにしてたし」


 翔の意見に同調し、俺たちは駅近くにある大きな書店へと向かう。

 本厚木駅周辺は、カラオケやボーリング場などのレジャー施設を始め、大型ショッピングセンターやたくさんの飲食店が立ち並ぶ、辺りではかなり発展している方の街だ。今日のような休日はとにかく人で溢れており、色んな店から聞こえるジャンジャンとした轟音も相まって頭が痛い。

 道に沿って歩くこと三分。

 お目当ての書店に到着して中に入り、先に地下一階へと向かう。一階は一般文芸、雑誌、教養本などが並ぶのに対し、地下一階は日本のサブカルチャーが中心に並ぶ。ライトノベルや漫画がずらっと並び、店舗の壁にはたくさんのサイン色紙が並んでいた。いつかはここに飾られるくらいの作家になりたいなと、作家志望の誰もが一度は思うことだろう。


「お前にお勧めされてこれ読んだけど、よく分かんなかったんだよなぁ、これ」


 翔はライトノベルコーナーの平台に積まれていた一冊を手に取る。

 その本は、俺がこれまで読んできたミステリー作品の中でも五本の指には入る名作で、世間的にもかなり評価が高い作品だ。

 ライトノベルとは十代をはじめとした若者向けの小説であり、全体的に読みやすく、小説初心者にもお勧めだ。だからこの前、小説を読んでみたいと言ってきた翔にお勧めしていたのだが、どうやら上手くハマらなかったらしい。


「俺からするとこの作品が良く分からないと言っているお前の方がよほどミステリーだぞ」

「そうかよ……」

「まぁ、合う合わないは当然あるけどな。……だったらこれなんかどうだ?」


 俺はそう言って、偶々目に入った本を手に取って差し出す。

 この作品は今最も流行っていると言っても過言ではないバトルもの。主人公がずば抜けて強く、爽快感満載のバトル描写が売りで、読者からの支持を集めている。一見大味な作品にも思えるが、強いが故の苦悩も描かれているなど、無双一辺倒でない作風も高評価の要因となっている。

 作者はヒット作を何度も世に送り出す超有名作家であり、俺の尊敬する作家の一人でもある。各作品のジャンルは全く違っているにもかかわらず、どの作品も完成度が高くストーリー設定も深い。業界では最も器用な作家の一人ともいえるだろう。

 作家を志したばかりの頃はこの作者を参考に、色んな作品に挑戦することを試したことがある。しかし結果は散々たるものだった。何もかもが中途半端になってしまい、いかにその作者がとんでもないかを思い知る羽目になった。

 このまま続けても器用貧乏になるだけで、あの人があれだけできるのは並外れた努力量と才能を持ち合わせるからこそ可能なことだ。そう悟った俺は、その試みを断念した。

 こんな作家が業界にはゴロゴロと転がっている。その事実を前に、その場所を目指そうとする人間はねじが一本か二本外れているのではないだろうか。……まぁ、自分のことだけどね。

 そんな俺が作家を目指すきっかけとなったのは、今からちょうど四年前。父親は小説家であり脚本家、母親は部類の本好きと、俺が本と接点を持つのはほぼ必然的だった。幼い頃から本棚に囲まれ、そんな中で色んな本と出会ってきた。しかし当時は、純粋に楽しむだけで、今のように作者側を目指そうなど一度も思ったことはなかった。

 高校に入った際、父親から古くなった仕事道具を譲り受けた。少し型落ちしたノートパソコンであり、その時はまだ譲られた理由が分からなかった。

 自分の部屋に入り、しっかりと勉強机に向かってから、もらったパソコンを開いて電源を入れる。でもその時、ちょっとした謎があった。既に作られたアカウントが残ったままで、ダブルクリックすると、パスワードを入力することもなくログイン出来てしまったのだ。俺に譲ったということは、初期化していてもおかしくないはずなのに、残されていたアカウント。そのことに疑問を覚えながらも、適当にあれこれ触っていると、エクスプローラーにデータが残っていることに気がつく。

 そしてその中身を確認したとき、俺は身震いした。

 エクスプローラーには『涼真へ』というタイトルをつけられたエディタファイルと、小説の書き方に関する資料が大量に残されていたのだ。

 俺はおそらく自分宛てに作られたであろうファイルを開き、中に書かれた文章を読み進めた。


『涼真へ。このパソコンを譲ることにしたのは、お前に一つ機会を与えてみようと思ったからだ。幼いころからたくさんの本を読み、今もその趣味を続けているのは良く知っている。それだけ本を愛しているのであれば、自分自身で作ってみてはどうだろうか。いきなり超大作をつくれと言うわけじゃないし、自分は読むのが好きだというのなら、この資料たちは捨てて構わない。もし参考にならないと思えば、自分で参考になるものを探すといい。誰だって新しいことに挑戦することには勇気がいる。だけどその先に見える景色は、フィクションを超えるものがあると、俺は思っている。――父』


 俺の父はとにかく寡黙で仕事人間だった。仕事から帰ったかと思えば自室にこもって出てこないのが当たり前。一週間に一度顔を会わせられたら奇跡なんじゃないかとすら思うほど、父は俺、そして母の前にすらあまり姿を現さなかった。

 そんな父親から授かった贈り物。物の良さとか値段とか。そんな尺度じゃ絶対に測れない、何よりも嬉しい代物だった。

 俺は父親が参考にしていた資料を読破し、他に必要となるものは独学で身に着けた。

 それでも当然、最初は駄文だった。起承転結はままならないし、何より面白いとはとても思えなかった。ただ、文字を紡いで一つの作品を作るという作業には、これまで感じたことのない楽しさを感じた。

 次こそは面白い作品を作ろう。そんな風にして、執筆人生がスタートした。

 あれからもう四年。とても長く感じる。ようやく形になった作品を応募して、プロの壁を知り、挫折も味わった。それでもなお書き続け、楽しいと思えるのは、やはりねじが外れているんだろうなと心の中で自虐した。


「ふむふむ……」


 翔は先ほど手渡した本の表紙の絵を見つめながら唸る。


「もっと、こう……なんていうの?」

「いや、その先は言わんとして分かる」


 翔に勧めた本の表紙は、主人公の男性キャラクターが大きく描かれている。剣を振り上げ、敵と対峙している様を描いた迫真のイラストは見ただけでも興味がそそられる。

 表紙イラストは、本を購入する際の判断材料の一つとなる。そのため、そのイラストの良し悪しが、売り上げに直結しているとも言われている。本作は作者自身が有名なので、固定ユーザーが買うだけでも一定数売れるだろうが、このイラストがそれをさらに伸ばした大きな要因になったのは間違いない。

 だが、翔の購買意欲はそそられない。理由は表紙が男だからだ。単純すぎる……。

 俺はこめかみを抑えながら、脳内図書館内を探し回る。


「分かった。だったら……」


 翔に薦めるのに相応しい一冊を思いつき、本棚から一冊の本を取り出す。

 そしてその本を手渡すと、一気に目の色が変わる。美少女サーチしているときのあの目だ。


「よし、これは買う。というか、早く読みたい」

「単純もいい所だろ……」


 翔に勧めたのは、何も持たない平凡な主人公が学校の美少女たちから言い寄られる話。翔の目線はヒロインのやけに強調された部分に釘付けにされてしまっていた。この作品もライトノベルなのだが、近年のライトノベルは登場するキャラクターの胸部をやたら大きくする傾向が強い。そのためあくまでも俺個人の偏見ではあるが、フィクションとは言えどもあまりにも現実味を帯びておらず、本来の目的であろうエロさは逆に感じないのだ。

 とは言え、翔の反応を見る限り、読者の興味を引き付けるという表紙イラストの役割は十分に果たしていると言えるのかもしれない。

 だがこの本は、残念ながら翔が期待するような話ではない。序盤は主人公である平凡な男子高校生が、ヒロインたちと学校生活を過ごしていく。翔のような人間が思い描く理想の学校生活がその後も続いていくかのように見えるが、続巻ではこの生活を伏線として方向性ががらりと変化していく。最終的にはあの序盤のほのぼのとした学生生活はどこに行ったんだというくらい残酷な話になっていく。

 作者は最初から意図があってこの構成にしたらしいが、初めの印象が頭から離れないことで、そのギャップがクライマックスを引き立てていると界隈ではとても評価が高い。

 俺は別に卑猥さに魅せられてこの作品を手に取ったわけではなく、この評価を耳にして読んでいたのだが、何も知らない翔がこれを読むと果たしてどんな感想を述べるのか。それが作者目線でも気になって仕方がなかった。

 すまん。決して自分が好きだった作品を理解されなかったことに対するちょっとした復讐心とか、そういう意味は……、ないとは言い切れないけど、ほんの僅かなんだ。許してくれ。


「俺も買うやつには目星つけたし、早めに帰るか」


 元々目当てであった本を三冊と、目に入った新作をいくつか手に取り自分の籠に入れる。いつもであれば店内を練り歩くのだが、今日はとにかく新作が読みたくて仕方がない。


「それはいいけど、涼真は早く寝ろ」

「寝る間も惜しいとはこのことだ。鮮度が下がる」

「食べ物じゃあるまいし……。どこにも逃げていかねーから安心しろよ」

「いいや、逃げていく。ずっとずっと先にな」

「……ん?」


 言った意味が分からなかったらしく、翔は首を傾げた。


「いや、何でもない」


 いつしか、俺にとっての読書はただの趣味でも余興でもなくなった。もちろん楽しいから読んでいることには変わりないが、常に勉強を兼ねているのだ。つまり、俺にとっての休憩は読むことでもあり、それもまた執筆には必要不可欠な時間となる。

 ただ純粋に俺が休んでいれば、その間にどんどんと逃げられてしまうのだ。

 俺と同じようにプロを目指すもの、プロ作家たち、そして父にも……。

 絶対に負けられない。そう心で呟き、気合いを入れた。

 俺と翔はその後購入を済ませると、そのまま現地で解散した。



* * *



 翔と別れてしばらくは保たれていた意識が、段々と薄くなっていくのを感じる。夜の運転で、話していれば眠くなくなるというのと同じ原理だろう。

 それでも眠たい目を必死に擦りながら、買ったばかりの本を読むことを楽しみに来た道を引き返していく。

 再び本厚木駅に戻ってきたころには、午前十一時前になっていた。体感より長く書店にいたのだなと思いながら、バス乗り場の列に着こうとした時だった。


「君は確か……」


 意識の外、後ろの方から急に声がして、肩がピクリと反応する。

 その声の主は俺の顔を覗き込み、数秒間凝視した。

 近い、近すぎる……。そのためか、髪から薔薇のような甘い香りがした。

 突然のことで理解が追い付くまでにはかなり時間がかかったが、至近距離で見る彼女の顔には見覚えがある。


「……Boyfriend?」

「N……。いや、違いますけど」


 さっきとは違い、いきなりネイティブな発音で話す彼女。一瞬英語で返答しかけたが、中途半端に英語で話して英語が話せると思われると困るので、素早く切り返した。

 何せ、英語は見るだけで歯ぎしりしたくなるほど嫌いで苦手なのだ。まともに英会話できるほどの知識は持ち合わせていない。

 でも、最悪の場合はスマホを介して会話できるというのだから、現代は英語弱者にも優しい。元々、英語を勉強する必要などないとは思っていたが、そう考えるとそれが余計に正しいように思えてしまう。


「春花の」


 彼女は再び日本語で、それも俺にとって最も馴染みのある名前を口にした。


「倒置法の使いどころ間違ってます」


 俺がそう言うと彼女はいたずらげに笑う。絶対今のわざとだな。

 小柄で体形はきゅっと細く、ボーイッシュな雰囲気を持つ彼女だが、今見せた笑顔は可愛げがあって女の子らしいと思った。

 俺は彼女のことを知っているようでまるで知らない。入学式の日、春の隣を歩いていたのが彼女であり、おそらく仲がいいのだろうというところまでは知っている。だが、名前すら知らない、赤の他人同然だ。


「否定しなかったということは、君が芳永涼真君ってことだね? いつも春花がお世話になってまーす」

「は、はぁ、どうも」


 俺は返答に困って、適当に言葉を返す。

 お世話になっていますと言われても、なんと返事をすればいいのだろうか。

「はい! お世話してます!」は、飼い主とペットみたいだし、「こちらこそ、お世話になってます!」も、言う相手が適切ではないし……。

 そんな風に返答してから悩んだ末に一つ気がつく。そもそも彼女が言うべき台詞じゃないからではないだろうか。眠さと戦う中での脳内思考は徒労と化した。


「入学式の日、春花が変だったから、二人のうちどちらかだとは思ってたんだよねー。とか言いつつ、おそらく君なんだろうとは思ってたけどね。春花から聞いていたイメージに近かったし」


 春はどうやら俺との関係を彼女に話していたらしい。

 俺が春のことを翔に話していたのと同列に考えていいのかは分からないが、彼女たちが一定以上の関係性であることは測れる。


「一人?」

「さっきまで友達と本を買いに行ってて、その帰りです」


 俺はそう言って、購入した本が入っているマイバッグを持ち上げてみせる。


「ってことは、この後暇?」


 そう問われると少し困る。用事は確かにあるが、あくまでも私用であって急用ではない。よって時間はあるけれど、暇と答えると大切な時間を失いかねない。

 例えばこれを翔に問われたのなら即決である。答えはノー一択。なぜなら過去、『近くに女子高あるらしいから行こうぜ』と誘われたことがあり、まともな用事だとは思えないからだ。

 だが、相手が相手なので、きっぱり断るのも悪い気がするのだ。だから俺は、どちらともとれるような曖昧な返事をする。


「まぁ……、そうですね」


 すると彼女は、再びあのいたずらな笑みを浮かべる。


「今実は、春花と一緒なんだけどさ。良かったら、一緒に遊ぶ?」

「いえ。遠慮しておきます」


 彼女からの提案に対し、俺は懇切丁寧に断りを入れる。

 気まずいとかそういうのよりも、仲の良い二人で水入らずの時間を過ごす方が有意義な時間になるだろうと思ったからだ。


「そっか、残念」


 彼女は少し残念そうな表情を浮かべた。

 もし俺が彼女の立場ならきっと気まずくなることを予見して誘わなかっただろうに、どうして三人で遊ぶことを提案したのだろうか。その行動原理には正直疑問が湧いた。

 突然、彼女のスマホが鳴り、すぐに電話に出た。


「もしもし? あ、うん。分かった。今行くね~」


 ほんの一瞬の会話だけで通話が終わると、彼女は少し慌てた様子だった。


「ごめんね。春花が待ってるみたいだからもう行くね?」

「分かりました。楽しんできてくださいね」

「……あのさ。さっきから気になってたんだけど、私と君は同い年だからね?」


 大学で一緒にいたところから察するに同い年だろうとは薄々気づいていたが、単に初対面の人には敬語で話すというのが身に馴染んでいただけだ。

 でも同い年とはいえ学年自体は一つ上にあたるわけだし、敬語の方が正しいような……。その辺の適切な対応の仕方は未だに掴めていない。


「小賀由美奈(こが ゆみな)。春花と同じ学年で同じ学科だから、君の直属の先輩にはなるかもだけど、その辺は気にしないでいいよ」

「……分かった」


 小賀は話すべきことを話し終えたのか踵を返す。その際、艶のある黒髪ショートヘアがさらりと揺れた。


「またね、traitor(裏切り者)」


 一度振り返った彼女は、小悪魔的な笑みを浮かべていた。再び英単語が出てきたが、そもそもネイティブすぎて聞き取れなかった上に、おそらく聞き取れても知らない単語な気がする。


「あはは、ごめん。間違えちゃった。またね、涼真君」


 小さく手を振って今度は純粋な笑顔を浮かべた彼女は、小走りで喧噪な街の中へと姿を消していった。

 何とも不思議な子だったな……。主に、わざわざ流暢な英語を混ぜてくるあたりが。

 気づけば彼女と話している間に、また眠気が飛んだ気がする。

 これは好都合。帰ってすぐに読まなくては。

 そう意気込んで、バス待ちの列に着いた。

 だが、それからすぐに帰宅するも、五ページほど読んだところで夢の世界へと旅立っていた。そのことに気が付いたのは、日がすっかり落ち切った午後七時のことだった。



* * *



「やってしまった……」


 俺は両手で顔を覆いながら、指の隙間から天井を見上げる。

 眠ったことに対する罪悪感ではない。寝落ちしたことに対する罪悪感に苛まれていた。

 この二つは大きく違う。しっかりと自分の意思でベットに入るのであれば、体の調子を整える上に頭の中もしっかり整理されるのでとても体にいい。しかし寝落ちは違う。今回のように椅子に座ったまま、頭が机の上に置かれた体勢で眠ると、首や肩が痛い。当然、ベットで眠るのに比べて睡眠の質が劣るわけで、効率は頗る悪いのである。

 ただでさえ睡眠時間を惜しく感じているので、このような時間の使い方には後悔が残る。過去にも何度も経験し、その度にこれだけは絶対にしないようにと自分を戒めてきたのだが、二度あることは三度あるという。どうしたらよいものかと、ゴリッゴリの首筋を手で揉み解しながら嘆息した。

 小説家に限ったことでない。夜遅くまでずっと作業に打ち込むような仕事をしている人たちは一体この問題にどうやって対処しているのだろうか。


「んっ……」


 思いっきり背伸びをすると、腰がゴキッと音を立てる。

 約十二時間前も同じようなことをしていた気がする。違うとすれば、今はカーテンを開ける時間ではなく、閉める時間ということくらいだろうか。

 覆水盆に返らず。失った時間は戻ってこない。後悔するよりも先に次の行動をする方が、時間は有意義に使える。だから俺は、眠る際に落としてしまっていた読みかけの単行本を拾い上げ、再び読み始める。

 本を読む時間は、作家志望者や作家にとっては一石二鳥な時間だ。自らが本を好きで志しているため、読むことは娯楽になり、同時に書く上での参考にもなる。読む量が多いほど、知らない熟語や慣用句に触れることできるし、作者独特の表現技法を学ぶことができる。

 俺はいつも、読んでいる本の横にスマホを用意している。分からない言葉があれば検索し、自分の作品にも使えそうなものはメモをする。そんな風に書き上げたメモは、気付けば自分専用の単語帳となっているというわけだ。


「辟易……」


 作中に『辟易』という言葉が現れる。ネットで軽く調べると、「うんざりする」という意味が出てくる。

 そんな時、ピコーンと高い音色の通知音が鳴った。すぐに確認すると、翔からのメッセージが届いていた。


「うんざり……」


 おっと、ついつい『辟易』の意味が出てしまった。で、一体何の用だろうか。


『あの本、想像通り面白かったぞ!』


 本屋で俺が薦めた本の感想だろう。今回は翔に合いそうなやつを選りすぐったので、当然と言えば当然の感想だろう。まぁ、その感想を抱けるのも今のうちだけどな。


『そりゃよかった』


 と、適当に返事しておいて、すぐに読んでいる本に集中を戻す。

 だが、再び読み始めてから数分後、再び携帯が鳴る。

 すぐにスマホを開くと、春からメッセージが届いたことを知らせる通知が表示されていた。


「何だろ?」


 すぐにメッセージを確認する。


『今日、由美奈に会ったんだって?』


『今日』という単語に一瞬だけ違和感を感じたが、それはおそらく寝起きのためだろう。今日という日はまだ四時間くらい残されている。


『本買った帰りに偶然』


 俺が返信してから間もなく、彼女から返事が届く。彼女は基本、返信がとてつもなく早い。

 聞いた話によると、人によっては一か月以上返信しない人もいるらしい。そしてそういう人は大抵脈なしだという。何せそれを五回も経験したんだからな。……おっと、余計なことまで話してしまった。悪いな、翔。


『会った時に、一緒に来たらって誘われたんでしょ? どうして断ったの?』

『二人で遊ぶ約束してたんだし、割り込むのは気が引けただけだよ』

『私は全然よかったのに』

『じゃあ、またいつかな』

『由美奈、もっと話してみたいって言ってた』

『英語禁止でよろしく、って伝えておいてくれ』

『英語嫌いなのは相変わらずだね(笑)』


 俺は英語が嫌いだ。いや、大嫌いだ。

 本格的に英語の授業が始まった中学生の当初は、新しいことだから興味本位でしっかり授業を聞いていた。だが段々とテストで点数が取れなくなるにつれ、自分にイラつくのではなく、英語そのものに憎悪を抱くようになっていった。最終的には英語の長文を見て体が震えだし、歯ぎしりが止まらなくなるくらいになってしまった。

 そもそも俺は、英語を学ぶことには懐疑的な立場である。

 まずここは日本である。英語圏ではないのだ。日常で耳にするのはほぼ百パーセント日本語である。因みに日本語は日本においては公用語ではない。あまりにも当たり前すぎて公用語にしていないのだとか。それほど日本と言う国は日本語が主流であると言える。

 国際的な社会に順応するために英語は必要と言うが、みながみなそのような職種に就くとも限らない。だから日本で就職する場合、必要でない限りは学ばなくてもいいはずだ。

 もし英語教育がしっかりと浸透し、日本人みなが海外でも通用するほど、日本語の流暢さと遜色ないほどの英語力を身につけたと仮定しよう。すると、翻訳家や通訳といったこれまで必要であった職業は失われてしまう可能性が高い。近年話題に挙げられるAIによる職業の代替化によって恐れられている職業が消失してしまうことと何が違うのだろうか。

 主にこの二つの点から、俺は英語教育自体に疑問を抱く。

 ――というのが、単なる屁理屈なのは自分自身一番分かっている。英語を身に着けることでの損は全くないし、いついかなる時に必要になるかは分からない。持っているだけで、行動範囲が海外にまで広がるし、就職にも有利に働く。だから英語教育を推進し、学び始めの年齢を下げたりするのにも納得はいく。

 でも苦手なものは苦手だ。生理的に受け付けないものはみな避けるだろう? 人も物も。

 だから、依然として英語嫌いを克服することはできずにいる。


『由美奈は親の仕事の都合で。一時期アメリカに住んでたんだよ。だから英語は得意なんだってさ』


 所謂帰国子女という奴だろうか。だからあれだけ綺麗な発音ができるのか、とあの流暢な英語にも納得がいった。でも綺麗な発音になるほど、日本人は聞き取りづらいと思うのだが、それは俺だけだろうか。


『大学でも英語使うんだから、教えてもらったらどう?』

『ご縁がありましたら』


『〇〇様の今後のご活躍を心からお祈り申し上げます』とかその後に続きそうな言葉を返す。この定型文が余計に不採用者の心を抉ってる気がするから、お祈りメールは廃止したらどうだろうか。

 兼業作家として生計を立てていくのなら、避けようのない就職。こんな通知が二年半後くらいに届くかもしれないと思っただけでもゾッとする。


『ところで、ゴールデンウィークって開けられる?』


 唐突にそう問われ、俺は部屋の壁に掛けられたカレンダーに目をやる。

 あと二、三週間くらいでゴールデンウィークか。ついこの間まで春休みだったから、何だか休んでばかりな気がする。


『開けられるけどどうかした?』


 俺は特にバイトをしているわけでもない。執筆の予定はあるけれど、彼女との予定を断ってまで書きたいとは思わない。それに隙間時間を見つけて埋め合わせをすればいいので、多少なら用事が入っても影響はないだろう。

 彼女の返信を待つこと二分。先ほどまでは瞬く間に帰ってきていた返信が少しだけ滞った。とはいっても十分早い、


『デートしない?』


 その問いに対しての返答は一つしかない。


『いいよ』


 だからそう返さない理由はなかった。ただ、その三文字を送信するまでにはしばしの間があった。

 一つ、不思議に思うことがあったからだ。


『でも、デート行こうって春から誘うの珍しいよね?』

『うん。二人きりでゆっくり話したいなって』

「そっか。楽しみにしてる」


 そんな風に俺が返事をすると、彼女から敬礼を示す可愛らしい顔文字が送られてくる。

 彼女とちゃんとデートをするのは一年以上ぶり。当然胸は高鳴るし、ワクワクもする。

 だけど、妙に腑に落ちない。

 彼女は俺が小説家を目指していることを知っていて、応援してくれている。そのため、高校時代は一緒に下校することもデートをすることも、自分からは誘って来ない。夢を追う時間に少しでも充ててもらえるように。そんな彼女の気遣いがあるからだろう。

 お互い好きだから付き合っている。だからデートに誘うことを躊躇わなくていい。そんな風に彼女に何度も伝えたが、一貫して誘ってくることはなかった。

 だから、こうして自らデートを提案することは極めて稀だった。故に何かしらの理由があるのではないかと勝手な想像をしてしまうのだ。

 一体、なぜ自らデートに誘ったのか。

 その答えを聞くことができるのは、おそらくそのゴールデンウィークの日になるだろう。



* * *



 東合大学、通称東大……、いや、それは一部の人間が僻んでそう言っているだけだ。

 東合大学の正門を通ると、まるで都市を切り取ったかのようなキャンパスが視界に入る。入学して一週間や二週間では、まだ入学時の感動は薄れておらず、毎日のように辺りを見渡しながら文学部棟を目指す。

 入学式の日こそ翔と一緒にここを通ったが、それ以降は現地集合。そのため、あの煩わしい痛い目線を気にすることなく、キャンパス内を自由に散策できるというわけである。

 時刻は朝八時半。いつもこの時間くらいに来るのだが、今日は講義室には直接向かわず、あえて寄り道することにした。

 いち早く講義室に行って小説を書くのもいい。だが、この大学は非常に絵になる。要するに、小説の舞台として非常に適しているのである。丸ごとここを舞台化するのもよし、部分的に掻い摘むもよし。どちらにせよ、これだけの参考資料があるのに、目に焼き付けておかないのは非常に勿体ない。

 中央広場に到着し、俺は適当なベンチに腰を下ろす。

 静かな朝のキャンパス内。ゆっくりと周りを見渡しながら、あれこれ想像しようかなと思い、ゆっくりと顔を上げる。


「Good morning!」

「うぉっ、びっくりした……」


 耳の痛くなる欧米の挨拶。目の前にはニヒヒと笑みを浮かべる小賀。チラッと覗かせる八重歯が、小悪魔のいたずらな笑みを連想させる。


「君を揶揄うのはとても楽しいよ」

「こっちは楽しくないけど、そりゃよかったな」


 彼女は全体的に黒色の春コーデに身を包み、リュックを担いでいた。どうやら彼女も早めに大学に着いたようだ。


「隣、いい?」


 そう問われて俺は頷き、座れるように横へとずれる。彼女はスカートに手をかけて、ゆっくりと腰を下ろす。


「随分と早いんだね」

「そりゃこっちの台詞だ」

「偶々早起きできたから、大学で暇潰そうかなぁって思っただけ。そしたらちょうどいいおも……、思い人がいたから声かけてみたの。春花の」

「だから倒置法間違ってるっての。ついでにその誤魔化し方は無理があるぞ……」

「やっぱり? バレちったか」


 えへへと小賀はわざとらしく笑う。まだ会うの二回目なのにもう玩具扱いとは、随分と性格が露呈してますね。まるで今日の服装のような黒色のね。


「それじゃあ、涼真君はどうしてこんな時間に?」

「春から俺のこと聞いているのなら説明不要なんじゃないか?」

「ということは、小説を書くため?」

「まぁ、そういうこと。今日はちょっと違う気分だからここにいるけどな」

「へぇ~。熱心なんだね」


 小賀は感心した様子を見せる。でも感心した表情の裏に、何か違和感を感じた。その違和感は何なのかと、暫くの間ボーっと考えていた。


「えっと、じゃあ浮気かな?」


 その言葉を聞いて俺はようやく我に返った。ずっと彼女の顔を見つめたままで、これでは翔のやってることと何ら変わらないじゃないか。

 俺は慌てて視線を逸らした。


「まぁ、君に限ってそんなことはないか……」


 その声のトーンはいつもよりも数段暗くてボリュームも小さかった。最後の方なんてほとんど聞き取れなかった。


「ねぇ、涼真君」


 名前を呼ばれ、再び視線を彼女へと向ける。今度は表情の中に違和感を感じない。


「君にとって、春花と夢ってどっちの方が大切?」


 だけど、真剣な眼差しから放たれた問い。まだ二回しか会ったことはないが、明るい表情を浮かべていることの多い彼女の印象とは随分と違うその真面目な表情には、少し驚いた。何よりも、彼女からの問いの内容にはしばらく反応できないほどに驚いた。

 春か夢か。

 そのどちらの方が大切かなど、一度も考えたことはなかった。どちらも言葉では言い表せないほど大切で、どちらも決して諦めることはできない存在。その事実だけで十分であり、その二つをわざわざ天秤にかける必要がなかったからだろう。

 でもこうして彼女に問われて初めて考えることになる。そして考えれば考えるほど、この問いの答えが出てこないことに気がつく。

 人は生きる上でたくさんの選択を課され、必ず一つ選択し、道を進んでいく。悩むことはあれど、必ず最後には決めなくてはならないのだ。

 でもこの問いは違う気がした。どちらかを選びかねる、そんな選択肢。所謂究極の選択に近いもの。どれだけ考えようが、簡単には決断がつきそうにない。だからこうして問われても、すぐにどちらか答えることはできなかった。

 静謐な朝のキャンパス、その中心にある中央広場。二人の間に流れた空気は、静謐ではなくとてつもなく重苦しい静けさ。どちらも静かなのに、大きく違う。

 体全身に強く重力がかかっているのではないかと錯覚し、じんわりと額に汗が滲む。

 俺は途中から気まずさから彼女の方を見れなくなった。なぜなら、この問いに対して即答できないことは、春の友達である彼女からすればかなりの不信感を抱くことだからだ。

 もちろん、それを予測して誤魔化すように答えることもできたかもしれない。けれど、彼女の表情はそうさせてくれなかった。ちゃんと本心で答えろ。そう言っている気がしたからだ。

 重々しい雰囲気を打ち破ったのは、この問いを投げた彼女本人だった。


「なんて、君には酷すぎたね。ごめんごめん」


 小賀は笑いながらそう言ったけれど、本心ではそう思っているようには思えなかった。


「選べない選択肢なんてない。そう断言できるわけじゃないから、その点を責める気はないんだけどね」


 彼女はそう言って立ち上がると、俺の方をあえて見ず、空を見上げて言う。


「君は一番半端な選択肢を取った。それだけは理解に苦しむ、かな?」


 そう言い残した彼女はそのまま一足先に文学部棟へと歩き出す。そして去り際、


「Bye」


 と、何事もなかったかのように別れの挨拶を告げ、静かに去っていった。

 去っていく彼女の後ろ姿は、高校三年生の時の卒業式の日に見た春の背中と重なる。いや、重なっているのは、言い返すことも追いかけることもしない自分だ。

 それでもやはり、動くことはできなかった。彼女の言ったことは事実で、反論の余地などないのだから。

 自らが犯した罪。例え彼女が許すと言ったとしても、事実が消えるわけじゃない。これからも罪をしっかり自覚し、償う覚悟を持ち続けることが大切だと分かっているから。今はしかと受け止めることこそ、すべきことなのだ。

 だからまた、彼女の姿が見えなくなるまでその後ろ姿を見届けたのだった。



* * *



「はぁ……」


 まるで人生のどん底に落ちたかのような、生気が一切感じられない大きな溜息。人間、ここまで重たい溜息がつけるものなのかと、自分の溜息に驚きすら感じる。


「どうした? らしくねーぞ」


 隣の席に座る翔が俺の様子を覗き込む。


「何で隣がお前なんだろうなぁって」

「あーはいはい。いきててすいません。かわいいびしょうじょじゃなくてすいませんねー」


 大根役者のような棒読みの謝罪。もちろん本人に謝る気など最初からあるわけがない。それは俺の言葉がいつものジョークだと思ったからだ。

 でもこれは――。

 大学の授業はこれで三週目に入る。今週が終わると、間もなくゴールデンウィークがやってくる。


「大体、自業自得だろうよ。それは自分でも分かってるんだろ?」


 本当に翔の言う通りだと思う。だからこそ、彼から顔を背けるようにして事実からも目を背けようとする。

 人生がたらればなしの一回きりだって分かってはいるけど、もしあの時こうしていれば今頃……、と考えてしまうのは人間の性だろう。

 もし、俺が夢を追うことより彼女を選んでいたら。たった一度の約束をしっかり守っていたならば。今、俺の隣には彼女の姿があったはずなのに……。

 そんな空想を思い描く度、隣にいる彼が現実に引き戻すのだ。


「でもさ……」


 彼の声のトーンがいつもと大きく異なることに、強い違和感を感じ、彼の方に視線を戻す。すると今度は彼が、俺から目を背けるようにして外を眺めていた。


「もしお前が、大学に現役で合格する道を歩んでいたら、俺とは出会わなかった。お前は彼女と一緒ならそれでもいいって思うんだろうな」

「……え?」


 普段見せないような翔の様子に困惑する。いつもならさっきのように、俺の言葉をジョークとして解釈し、ジョークを返してさらりと受け流していたはずだ。でも今の彼に笑う様子などなく、やけに落ち着いていて、その中には寂しさや悲しみのような感情も含まれているように見えた。


「いい加減、気付いたらどうだ。お前が犯した罪は、今も繰り返してるってな」


 ガタッと音を立てて席を立つ翔。その横顔が、これはジョークなんかじゃないことを改めて教えてくれる。静かな苛立ちが見て取れた。


「今日は帰る」

「は? 今から一限だぞ」


 授業の準備を済ませてあった机の上を素早く片付け、鞄に詰め込み始める翔。

 この異様な雰囲気を察してなのか、周りの視線が俺たちのいる講義室後部に集まっている。

 支度を済ませた翔は、そのまま講義室の外へと足を向ける。


「そんなの、どうにでもなるだろ。とにかく……」


 そう言って、翔はこちらを振り返った。彼のこんな表情を見たのは、出会った日以来だ……。


「今のお前の顔は見たくない」


 そう言い残すと、そのまま講義室から姿を消した。



 それからしばらく、彼が俺の前に姿を現すことは一度もなかった。

 彼とのこと、小賀に言われたこと。悶々と考え、あの日の過ちと向かい合う日々を過ごすこと三週間が経過した。

 約束の日は、どんな理由があっても迎えることになる。時の流れは、誰かの勝手で止まったりなんてしないのだから。

 一体どんな顔して彼女に会えばいいのか。久しぶりのデートであるのに、胸は躍るどころか締め付けられていた。

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