夜の闇

 洗濯物を取りにいくことを告げると、「ちょうどいるからくるならこい」と返ってきたので、私は副業の予定をキャンセルして避難所に向かう。日銭を稼ぐよりも大事なことはいくつかあるけど、これはその一例に該当する。


「帰り遅くなるかも。ってか帰らないかも」と同居人に送ると、「なんで語尾にハートマークついてんすか……」と引いたような文言が返ってくるので既読がついた文面を省みる。たしかにそのようになっていた。「ヒソカリスペクトだよ…♣」「猟奇」私はやりとりを終えて、スマホを待機モードに移行させる。


 電車が駅に着く。衣服に体液などが付着していないか確認しつつ、私は開いた扉から外に出た。


 駅周辺の繁華街は夕方なのでまだ学生服や私服の十代の姿が見受けられる。溶暗する陽の入り、一番星と、月のしろい輪郭が存在を濃くしている。オゾン層の青と、沈みかけの陽光の赤が、宇宙ソラのいろを境界で淡く紫に染め上げる。薄く伸ばされた飴のような、固体とも液体ともつかぬ天蓋の色はラピスラズリに似て、次第に(──呼吸いきする速度で)、落ちるようにソラ本来のくらやみを取り戻す。幕引くみたいに。


 時限設定で電灯が点いた道を、私は群衆に逆らってアパートに向けて進む。この中に先生の教え子いたりするのかな、とか考えながら。


「ねえ、センセイ。センセイは彼女作んないんですか?」

「あ? ……思春期か?」


 チャイムに応えてドアを開けた家主の一声。


「職場で流行ってるんですか、それ」

「知らねえよ。つーか挨拶もなくなんだいきなり。作んないんじゃなくて作れねえんだろふつうに」


 不機嫌げに言いながらも、家主はノブに手をかけたまま顎で入るように示す。


「……そうは見えませんけど」


 私は釈然としないながらも彼の横を通り、家の中に入る。背後で鍵がかかる。廊下はいまなお本の塔が林立し、かろうじて人ひとりが通れる程度の隙間があるのみだ。私も彼も痩せ形だから通れるが、少しでも脂肪がついたら本の雪崩を引き起こして悲惨なことになるだろう。というか地震あったときとかどうしてんだろ。とりあえずふだんから運動しといてよかったと思うようにしよう(SEX)。


 家主はインドア極まってるからなんで痩せてるのかは知らない。食べてないんじゃない?


 台所の流しを見ると、薄く埃が積もっている。ゴミ箱にはコンビニ弁当のプラスチックやカップ麺の容器が積み重なっている。申し訳程度に野菜スティックをかじった形跡があるのが食生活の壊滅度を物語っている。中途半端に健康に気を遣ってる感じを出すんじゃない。


 寝室に入る。こちらは先日より整理されている印象を受ける。ベッドもシーツを洗うなどしたのか清潔感がある。私がいち早く腰を下ろして占領すると、もの言いたげな気配を醸しながら、やがて、いいか……、というように肩を落としてキャスター付きの椅子に無造作に腰掛ける。それから言った。


「──見えねえもなにも、顔見たことねえだろ。それでなにがわかるってんだ」

「家の中でくらい取ったらどうですか、眼鏡」

「家ん中のが文字見てる時間長ぇだろ。学校で外す気もない。ガキに惚れられるのはタリィからな」

「見られたら惚れられるようなツラしてる自覚あるんじゃないですか!」


 あとたぶん眼鏡しててもアプローチ受けたことある口振りだ。


 私は仰向けに寝そべった姿勢のまま『この野郎』という目で遠い彼の顔を睨む。改めて見ると、顔ちっさいなこの人。眼鏡が大きいのもあるが、顔面積のはんぶんくらいが緑レンズに隠れてる。鉄錆色の針金然とした剛毛が鳥の巣みたいに絡まってその上に乗っている。天井から伸びたひかりが目許に緑の影を落とす。たたずまいは、ヒトよりも木石に似ていた。


 よっ、と身を起こしながら、「ぼくねんじん」とつぶやいてみる。


「急にどうした……陰口は見えんとこで叩け」

「そこは『ひとのわるくちいっちゃいけません』じゃないんですか、教師的に」

「自分にできねえことを他者に強要できるほど、俺の肝は太くねえ……」


 皮下脂肪がないので、シャツ越しに筋繊維が浮いている。家主は痛むみたいに腹部を撫でさする。細い指は、長く、しなやかで、鍵盤を滑るピアニストの手つきめいている。見ていると濡れそうだった。あわてて顔を背けながら、私は咳払いして言った。


「妙なとこ真面目なんですね、センセイ。教え子連れ込んでるくせに」

「連れ込んでねえよ。元ってだけだろうがてめえ」

「『てめえ』うなし」


 私は、ぱたん、とうつ伏せに倒れて上目に睨めつける。


「あのときは『元』じゃなかったじゃないですか。どうせ、ほかにもいるんじゃないすかー?」

「……あほか。お前は特例に決まってんだろ」


 いまの私と同じ年の頃。この人は私の継母と寝た。


 そのことが傷になっているとでも思っているのか、いや実際なってはいるんだけど……保護者ぶられても困る。加害者は、しおらしくせず、徹底的に憎める対象であるべきだと思う。手当たり次第に教え子食ったりしててほしい。決して、疲れた夜に、寝床とシャワーとスープを与えるような、優しさを見せないでほしい。


 私がどんな理由で数多、経験を重ねているのか知ろうともしないくせに。


 しょうもないから、知られたくはないんだけどね。


「用事はこれだろ。ほかにないならもう帰れ」


 その点あいつは徹頭徹尾クズでよかったな、と紙袋に入った衣類を受け取り、立ち上がりながら思う。妻子ある身でフットワークの軽いこと軽いこと。誘いをかけたら一発で乗ってきて、一発で沈んだ。足腰鍛えようぜ、中高年。


 磨き上げた性技は最悪の初体験を塗り替え、その後も幾度か切れ味を試したところで、この一時に実を結ぶ。まず紙袋を持つ手に指を絡める。指触りはすべらかだ。骨に皮がついている感じ。こいつも指に毛ぇ生えてないのかちくしょう。


「なんだ……放せ」


 言いつつ特に抵抗はしないので、私はマメのついた指を滑らせ、手首を掴む。そこでようやく及び腰になったので、私は踏み込み、股のあいだに足を入れる。


 背丈にさして違いはないが(あっちは猫背なので私のほうが高くさえ見える)、股下の長さに大差があるため、それでも可動域は制限しきれない。よって体ごとのしかかる。突進を受けて、痩身は耐えきれずよろける。すかさずつながった手首を支点に足を引っかけて体の向きを入れ替えたのち、背後のベッドに沈み込ませる。


「──かっる。食べてないのが悪いんだよ、せーんせ。鍋作り置きなさい、鍋。コスパいいし。余り物ぶちこめばそれでなんかサマになるし」


 消費期限切れの食材も紛れ込んでるのは家族のみんなには内緒だぞ。


「てめぇ……」

「あは。ブラかぶって変質者みたい」


 投げ出された腕から紙袋が乱雑に舞って中身が出た。かかったブラ紐を外すそぶりで耳をフェザータッチすれば、ざらっと少し荒れた指の感触に彼は顔をしかめる。股のあいだに差し込んだままのふとももに、甘く隆起したものを感じて、私は喜悦に口唇を裂く。


「反応、するんだ」


 無言で押しのけようとしてくる手を躱し、私は堅いおなかの上を蛇みたいに滑走、シャツの胸元を左手で掴み、くびもとに噛みつく。狙いは喉仏の下の窪んだところ。引くと皮膚がたるむ。ゴムを噛んでるみたい。弾力があって、少し塩の味がする。ちろ、と閉じた歯のあいだから伸ばした舌先で撫でれば、喘鳴めいた音が肺から出て喉を伝う。


 背中に回った腕の拘束が緩んだので、私は残した右手で張りつめた生地越しに先端にふれる。傘をかぶせるみたいに、やさしく。


 びくり、と背筋が反る。噛みついた歯列が離れたので、私は改めて、吸いつくみたいに鎖骨のあいだにキスを下す。


「もしかして──」


 やわやわと彼自身をもてあそびながら吐息混じりに舌を伸ばし、つつ……と喉もとを撫で上げる。隆起したのどぼとけがこりこりと硬い感触を伝える。蠕動して立ち昇る苦鳴。無視して顎のうちがわをストロークすれば、さわりと、産毛みたいな、髭の感触。


 剃り残しなんて、おとこのひとだなあ、と妙にかわいらしく見えてしまう。思わず歯で挟みかけて、以前それと同じことをやられて厭だったことを思い出して制止する。


 私は左手を胸元から放し、肩に添えて起きあがる。押さえつけられているというのに、弛緩する気配がおなかに乗ったおしり越しに伝わる。


 思わず、嗤う。断ち切るみたいに。


「──まだ、逃げられると思ってる?」


 手をかけたままの「あなたのレーゾン・デートゥル」(村上春樹・著『風の歌を聴け』より引用)を右手にぎゅっと握り込む。背中が跳ねる。さかなみたいだ。俎上の鯉を捌く手つきで、私は彼の顔に手をかけ、眼鏡を外した。


 黒い、真珠みたいに大きな目をしていた。月に似て真円。翳したレンズを通して目許と角膜が緑に染まる。だから、かけてるときといまとで印象に違いは見られない。目尻に微か、しわが刻まれているのを見ると、たしかにアンチ・エイジング効果としては機能しているのだろうが、この人がそこに興味を抱いているようには思えないし。


 目から感情は読みとれない。

 でも、泣いた横顔を見たことがある。 


 私には叔父がいた。過去形なのは、すでにいなくなって久しいからだ。義母の弟にあたり、私とは血のつながりがないし顔を合わせたことだってない。体表をケロイドに染め上げられ、生命維持装置に繋がれて十五歳から同等の年数を寝たきりで過ごしていた。意識を取り戻す余地はなく、呼吸と老廃物を処理する機能すら自力では持ち合わせていない。放火だったという。犯人は捕まっていて、そちらもすでに社会に戻ることはないそうだ。


 義母は当時二〇代半ばで、私の血縁のない祖父母にあたる人たちもその事件で同時になくしていた。


 ──離婚前に父が言っていたことを思い出す。


「要するに、ぼくはお金で彼女を買ったわけだ」


 かつてこの人と義母は、教師と教え子の関係で、私の父に会ったのはそのあとなのだという。


 それがなにを意味するのか、語る言葉を私は持たない。


 でも、母を抱きながら泣いた目をしたこの人の横顔を、私はずっと覚えていた。──言えるのはそれだけ。


 なんのために外したのか忘れたみたいに戸惑う彼の表情に呆れつつ、私は封じるように口づけた。


 感情としては、破れかぶれだけど。


 ──だから、私と彼の話は、これで終わりだ。


 もうこれで会いにいけないな、と思いながら、私はアパートをあとにする。まあ数日か数週間か、数ヶ月かはわからないけど、どうせまた会いにきちゃうんだろうけども。忘れたふりが得意になる、それが大人になるということだ……。


 春の夜闇は暗いけど、身を切るようには冷たくなくて、彼は追ってはこないだろう。


 私はキャンセルしたお客様へ向けて、謝罪と一緒に約束を取り付ける。まだ終電が残っている時間帯だが、終わるころには残ってないから、今夜は帰れない。事前に同居人に連絡を入れた私の慧眼が光るぜ。は? 負け惜しみだが?


 感傷に浸る情緒も振り切り、私は虚空を憎むみたいに睨みつけた。


 頭の上に広がる星図を眺めていると、ふと、最近聴いた曲の一節を思い出す。


 星座は、膨張を続ける宇宙において、繋がりようがない星と星とを物語を通して線で繋げたもの。私と母はその境遇で繋がっている。


 私と同じ娼婦に向けて。

 満天の星に、私は謳う。

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明るいのは、夜だから さくご @sakugo_sakusaku777

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