幕間

 誤配送された書類を取りに実家に帰ると、たらこパスタを啜っている母とばったりはち合わせた。意表をつかれたようにくろい目を丸くして、オフでメイクの乗っていないまぶたが瞬くや、くちびるの周りに付着したピンクの粒をティッシュで拭い、母は牙めいた犬歯を見せて言った。


「おかえり、貴陽きよう

「……ただいま、母さん」


 まあ、休日だからいるに決まってるんだけど……準備もなく顔を合わせると、なにを言っていいのかわからない。無難に挨拶を返し、私は伏し目で母親の影を見る。豊かに広がった髪は孔雀羽のようだ。寒色で統一されていながら、織物めいて、はなやか。床にまっすぐ落ちる影も、毛髪を通して虹色に色づいている。


 父がこの人と再婚したのは私が小学五年生のときだった。あのころ私はまだ髪が長くて、でも、この人ほど綺麗には伸ばせないと悟って、家を出る際に髪を断った。それが高一のときだから、この人と生活空間をともにしたのは五年ほどになる。


 正直なところ、私は会ってからずっとこの人のことが苦手だった。彼女は私より料理がうまくて、私より頭がよくて、私より年上で、私より綺麗な髪を長く伸ばしていて、なにより彼女は、私の父とセックスをしていた。


 父娘間での交合が禁忌とされることは初潮前から知っていた。なぜ知っていたかといえば調べたからだし、なぜ調べたかといえば、それは、私が父のことを好きだったからだ。当然、性愛の対象として。


 二階の、父の部屋。夜毎、床が軋む音を、まんじりともせず憎むみたいに睨んでた。


 最初の月経がおとずれた日に見たもののことで、私がこの人をいまでも嫌悪していることと、それは無関係ではないだろう。


 相手のことは、どうしたって憎めないし。


「めんどいな……」

「うん、なにが?」

「いやべつに……」


 反抗期かぁ……、という目で見られた。そうだが? おっしゃるとおりで返す言葉もございませんけど?


 大人なのでそこで会話を途切れさせるのは感じが悪いという判断は機能した。ち、と舌打ち。「感じわるっ」とつぶやく声を無視しながら、私は母に訊ね返す。


「母さんってさあ、最近、彼氏できた?」

「できてないけど。なにその質問、気になる相手にちょっかいかける思春期の子?」


 なんで微妙に遠回りするんだろうね。あれ察しがついても直接言われたわけじゃないから逃げるしかないのめんどくさ……じゃなくて、


「ただの好奇心。アイツもデカくなったし、いつまでもひとりでいる必要はないでしょ」

「そこまで独り身を寂しいと思ったことはないけどね。うん、やっぱり思春期? 言いたいことがあるならはっきり言ったらどう?」


 おっしゃるとおりで、返す言葉もない。見抜かれたことに唇を噛みながら、回り道せず本来浮かべた質問を繰り出した。


「……あの人とは、いまどうなってるの?」


 私たちの家庭の、崩壊のきっかけを作ったひと。


 その人はいまの私と同じ年齢で、この人のいまは同僚で、もともとは教え子だったという。


「……、べつに、どうもしないけど」


 利発に富んだくろいろの目玉がわずかに澱みを見せる。罪過のいろ。ことあるごとに見るので、後悔ではなく、『あのタイミングで私に見せたこと』を反省しているのが伝わってきてしまう。……本当にいやなひと。私の不倫行為には、まったくもって後悔しかないというのに。


 初潮前に、経験があった。先日寝た父の同僚は、私のはじめての人だった。襲われるようなかたちだったから誰にも話したことはないけど。そういえば、昼間星の光が届かない理由を教えてくれたのは、家庭教師であったその男だったか。私は十三歳で、数学と理科を教わっていた。ふだんは母が弟の子守で家にいたのだが、その日は出かけていて、私とその男はふたりきりでいた。当時から妻帯者だったから、両親ふたおやの信用を勝ち取っていたのだろう。


 思えば、あれが私のした、はじめての不倫行為だった。


 下腹部に走る破瓜の痛みは特に快楽もなく、ただただ厭なにおいがたちこめていた。汗と、湿った吐息と、カルキみたいな。そこに混じる鉄分の香は私の裂けた恥丘からしたたり落ちる血のにおいだった。月のもの。内膜が剥がれる痛みを感じるたびに、私はそうしたにおいを思い起こす。


 私の名前は産まれた季節が夏であることに由来していて、襲われたのも夏だった。


 いまが夏でなくてよかった、と思う。そうであれば、この人と冷静に向き合えていた自信がない。


 助けてくれなかったくせに。


(──上書きは済んでるから、もう、いいんだけど)


 つまらない人のためにこれ以上人生を消耗されるのはうんざりだったので、経験を積む意味もあって、私は不特定多数に体を預ける道を選んだのだと思う。そのきっかけを作ってくれたわけだから、母には感謝の念がなくもない。嘘、一生恨む。苦痛を忘れるためにする努力なんて、必要がなければしないにこしたことはないからね。


「じゃあ、ぼくがもらっちゃってもいい?」


 根回しは嫌いだ。セックスと同じくらい。つまりまあ、けっこう得意ということだ。


「勝手にしたら」と言うので、私はそのようにすることにした。


 ──私たちの家庭の、崩壊のきっかけを作ったひと。


 この人のいまは同僚で、もともとは教え子だったという彼は、私が避難所にしている、あの安アパートの一室に住んでいた。

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