家族の話
珍しく早上がりだったので英気を養うために直帰すると、すでに家には同居人のひとりがいて、リビングのソファーに寝そべっていた。
「ただいま、
「……、あ。うす。キョウ姉さん。うす」
気づくまでに一拍あったのは、スマホを眺めていたからだろう。姿勢はそのまま、頭だけ持ち上げて会釈すると、ズレた意識ぶん不安定になったスマホが掲げた手から顔面に落ちる。
「あだっ!?」
「……
触れてあげないのが優しさだろうと思い、私は端的にもうひとりの同居人の行方を訊ねた。緋視。私の弟の名前。
「
「……ふうん。じゃあ、入れ違いになったのか」
弟は私と同じ職場で雑用のアルバイトをしている。今日はシフトが入っていなかったはずだが。ひょっとして、私の勤務時間が短くなったのになにか関連があるのだろうか。
「まあいいや。コネ入社の馬鹿だから
「……料理なら力になれないっすよ。当方、調理師免許なし。自分の指を刻むのが得意!」
「ぼくの目が黒いうちはきみらを台所に立たせる気はないよ……緋視がいないならちょうどいい。片しときたいものがあるんだけど、あんまり、思春期の目に触れさしたいものじゃないからね」
「私もアイツとタメなんですけどー!」
そうだったっけ、とそらとぼけながら、私はソファーを蹴って寝そべった同居人を転げ落とし、連行、奥の部屋に向かう。
「うう……家賃折半してるのにあんまりな扱いだ……」
「家出娘がなにか言ってるな」
「自己紹介?」
「小指踏むよ」
「地味厭ぁ……再生に時間かかるやつじゃん」
気怠げにうつむいた彼女は、のっそりと首をもたげて横目に睨んでくる。背が低いので、筋を違えないかこちらが不安になる角度で首が伸びている。襟首をなかばほど、一見にして白に見える薄茶色の髪が、結ぶでもなく流れるままにかぶさっていた。絹糸に似て細く、やわらか。いわゆる猫毛というやつで、蛍光灯の反射した光が金紗めいてまるくあたまを装飾している。──瞳孔もまた細く、猫科を思わせるアーモンド型だ。古代を閉じこめた琥珀の瞳は、停滞を象徴しながら真実活発的に瞬いていた。
子どものようにふっくらとした頬は生き生きとして、けれど人形のようにしろく、硬質な肌身を持つ彼女は、その身を私の中学時代のジャージで包んでいた。一〇年だか前のシロモノだが、それでも『発育がいい小学生』どまりの体格ではサイズが合わず、ダボついた袖と裾を幾重にも折り畳んで、なおも裾を少し引きずっている。ペタペタと足音が鳴るたび、艶めいて肉色に光る足の爪が裾に引っかかりそうになるのを見てひやりとする。
「──だから、スリッパ履きな」と言葉を接ぐ。
「モスグリーン、ダサいからなあ」のそりと言葉が返る。
「ジャージ緑でしょーが」
「……そういえばそうだった」
胸元に『守山』と刺繍がされた、自らが着ている服を興味の薄そうな目で見下ろすや、「じゃ、履くかー」とこだわりなく言い捨て、のったりとした動きで玄関に向かう。
「怪我するの、つまらないもんね」
「そもそもなんで裸足なの? あと爪を切れ」
「足もとに気をつかうの、めんどい……」
すべやかな素足のまま、つっかけの要領でスリッパを履いた同居人は、踵を返して蹴るようにびしりとその装着の様子を見せつけてくる。その余波で裾が翻り、すね周りが露わになる。そこには毛穴もなく、皮膚を透かして浮き上がった血管が青白く通るのみだ。理不尽と知りつつ、私は、──こちとら指毛まで気をつかってんだぞ。なめやがって小娘が。ぶちころすぞと思った。
「……ところでさっきから敬語が外れてるな!」
思っても言えないので、私は弟の今カノをいびることにした。この子の前か、前の前かは知らないけど、この子と似た顔の子とつきあっていた記憶があるから、我が弟もなかなか業が深い。
「舎弟口調嫌いって言ってなかったっすか?」
「きみの中で敬語って語尾に『っす』以外選択肢ないの? ……まあ言っといてぼくも昔はそんなしゃべり方だった気がするけどさ」
スポーツに汗流していたいつかの日に、私の経血を吸ったジャージ。それを知らずに着用するおんなのこを見ながら、もし、自分がこの子たちと同年代で、自由にバイトを選べたとしたら・というようなことを考える。同じように月ごと股から血を流す性別の子が、べつの手段で日銭を稼いでいるのをかつて間近で見ていたら、春を売る道は選ばなかっただろうか──
「姉さん……!」と感きわまったように飛びついてくる同居人をテキトーにいなしながら、私は自室の押し入れを開く。
重ねた毛布の深くに隠した段ボールを取り出すと、「なにそれ」と肩越しに覗きこんでくるので、開けてひとつ手に取り、ぴっと眼前に突きつける。
「コンドームだけど。古くなっちゃったしまとめて処分しちゃおうと思って」
「こ……、……んどぉむの耐用年数って、なんか五年とかなかったっけ」
「思ったより使わなかった……きみらがいないあいだはここが仕事場だったしね。けっこう買い込んだんだけど」
「何人相手にすること想定してたんだよ。……やべ、タメ口になっちゃった」
「いまさらぁ~」
若かりしころの失敗談は積極的に笑い飛ばすにかぎった。「さて」と切り換え、私は同居人に告げる。
「分別するからゴミ袋二枚持ってきて」
「……。だいぶ倫理観ぶっ壊れてるのに妙なところ真面目なんだよな……」
「一晩の相手よりご近所づきあいのほうが大事じゃない? ふつうに」
「未成年ふたり飼ってるオトナ女子が語るふつう、なんというか、桁が違うっすねえ」
にたぁ、とからかうように目を細めて笑うと、くるりと背を向け、「持ってきます」と彼女は言った。
「未使用品でも燃えるゴミでよかったはずっすから、ひと袋だけ」
「そうなの?」
まあ、
アドバイスはありがたかったので、今日帰ったらアイスでも奢ったげよう。
──もし、自分がこの子たちと同年代で、自由にバイトを選べたとしたら、春を売る道は選ばなかっただろうか。
答えは否だ。選択肢が介在しない場合であれ、私はけっきょく空の色が白から黒に変わるたび、そしてまた空が白むまで、知らない誰かに抱かれる道を選ぶのだろう。確固たる意思なんてなく、なあなあと。
だから今夜も私は、好きでもない誰かの腕の中で、一夜限りの夢を見る。
今日の相手は当たりだったな、と考えながら夜道を歩いた。しつこくなかったし、ゴムつけてくれたから後始末が楽に済んだ。平日最後の夜。時計の針がてっぺんにのぼりつめる前に帰れたので、街にはまだ喧噪があり、耳障りな人声と、饐えた胃液のにおいがした。外に設けられた喫煙所で紫煙がけぶり、大気をしろく濁らせ、そこだけ夜を塗りつぶす。天上に位置する星の時間ではなく、地表をうごめく人の時間であることを示すように。
(──足が出たながむし)意識するのは疲れたので、星のいろについて思考する。地表温度が高いからこそガスの色で青く見えたりとか、赤いのでも土の構成物質の色がそうだからとかで一概には言えないらしいけど、地球の色が青いのは地表の大半を海が占めるから。──青い星が好きだ。自分からは輝けない、惑星みたいに見えるから。
宇宙は広がり続けていて、隣り合っていても遠ざかるばかりで、それでも重力波はたがいたがいに影響しあって今日の星図を構成している。もっとも星間距離も配列の規則も名前も星座もろくに知らないから、私の目にはてんでばらばらに散らばっているようにしか見えない。
星も人もおんなじようにやかましい。
視覚は閉じれないから、代わりにANCイヤホンを外耳孔にセットすることで外界を遮断する。車両移動が少ないところが、夜を歩くうえでの数少ないメリットのひとつだ。むしろそれ以外にいいところはない。痴漢出るし、酔っぱらいに絡まれるし、それらだいたい一緒の人種だし。というか歩くときなんて私も酔ってることが多いから、見知らぬベッドで朝を迎えることもたびたびあった。若気のいたりは、笑い飛ばすにかぎる……。
真夜中でもなし、横からの飛び出しも考慮して、外部音取り込みモードを作動させる。喧噪は遠ざかり、音楽は耳の内側を振動させて、脳に染み込んでいく。クラシックも洋楽もわからないから、流行りのポップやアニソンを聴く。邦ロックやサントラも少々たしなんだ。最近ドラマ見てないな、と思う。可処分時間を週ごと一時間持って行かれるのは生活リズムにそぐわなく思うようになってしまった。同様の理由で、映画もぜんぜん見ていない。見てないアニメ・映画・ドラマ、それからゲームの主題歌やサントラをサブスクで聴いている。
音だけが、夜の味方だった。ノらない相手もレイプまがいの扱いを受けたときも、脳に浸透した音楽が私をそこからつれだしてくれる。手淫や口淫、それから自分が主導となる体位のときなど、無意識のうちにリズムを刻んでしまったのがバレてキレられたことがけっこうあるのが玉に瑕だけど。流行りのやつしか聴かないとバレやすくなるらしい。なので、やっぱりセックスって嫌いだな、と思う。
エントランスでセキュリティロックを解除して、私は自動ドアを抜ける。高校時代の先輩が在学中に起業したところに事務手伝いのバイトからスライドするかたちで就職した。この物件は彼女とルームシェアしてたときから借りていて、社宅扱いになっているようだが厳密には社宅ではないのだろう、というか整理すると私ヒモっぽいな……。あちらの実家が太いから、昔からだいぶ甘やかされている。化粧品とかよくわけてもらうし。たぶん、同情というか、仲間意識があるんだろう。あっちもあっちでわりとろくでもない恋愛遍歴持ちだからね、先輩。
「ただいま。アイス買ってきたぞー、と」
返事を期待せず玄関のドアを開ける。すると、一拍間を空けて「……おかえり、姉ちゃん」と声が返った。
……ああ、帰ってたか。というかもう寝てると思ってた。
リビングに通じるドアを開ければ、予期した姿が床に沈み込んでいる。ひとりぶんの声しかなかったが、あぐらを組んで座布団に腰を落ち着けた彼の腕の中に収まるかたちで、同居人が彼の上体を背もたれ代わりに座っている。スマホの画面にキロリと目を凝らし、身じろぎもせず、指のみが液晶の上で滑るように機動している。
体格差がひどいので、頭をほぐそうとしてか背もたれにぶつける要領で後頭部を動かした彼女の頭骨がみぞおちに刺さり、「ぐ……」と彼はうめき声を上げる。その声にも反応はなく、やりきれなそうな顔を見せたのち、諦めたように身を沈めると、顎を彼女の頭に乗せ、両腕を輪状に鎖す。それからあぐらを崩すと、三角座りする彼女の足を外側から絡め取る。胸板と上腕、顎と足とでがんじがらめに姿勢を固定された同居人は、一瞬目を上げ彼を見るが、まいっか、というように視線を切り、画面に没入して作業に戻る。
「──姉ちゃん、俺のタブレット持ってきてくれませんか。しばらく動けそうにない」
「あ、うん。アイスしまうついでに持ってくる。ってかいま食べる?」
「……あとにしときます。いまの俺は椅子だから便意をもよおす権利は有されていない……」
大変だなあ、と思いつつ、私はキッチンに入り、冷凍庫にアイスをしまう。念のため開いてもう一回確認する。ちゃんと冷凍庫だった。先輩が彼氏と結婚して出てったのでひとり暮らしになりたてのころ、うっかりアイスを冷蔵庫にしまってぜんぶ逝ったのが若干トラウマになっている。
ついでにコーヒー淹れてしまうか。先輩はこだわるタイプだったが私には特に味や銘柄にこだわりはないので、スーパーでテキトーに取って買い置きしてあるインスタントコーヒーの粉末を目分量でカップに盛り、ポットからお湯をなみなみと注ぐ。猫舌なので少し放置することにして、私は台所を出て、弟の部屋に向かう。鍵はかかっていない。そのまま入ると、学習机の上、充電器につないであるのがすぐに目に入った。充電ランプは緑で、完了を示している。
充電器から端末本体を外しながら、なんとも殺風景なことだと考える。本棚には教科書、ノート、参考書、辞書程度しか並んでいない。あとは洋書が数冊。タイトルすら読めないのでなんの本かもわからない。なんとなくゴミ箱を覗いてみるが、丸まったティッシュなんかもなく、思春期らしいにおいが驚くほどしない。タブレットの本棚覗けばなにか出てくるかなとは思うが、さすがに自重する。っていうかロックかかってるし。そりゃそうか、と納得しつつ、私は持ち歩いているアルコールティッシュで画面についた指紋を拭ったのち、ティッシュで水滴を吸い取り、証拠隠滅をはかる。
「手慣れていますね」
素知らぬ顔で「持ってきたよ」と差し出すと、礼を言う代わりに彼はそう返した。弟が見てきたようなことを言うのはいつものことなので、私はあわてずに応えた。
「ヒトの持ち物に体液つけたがる変態、けっこういるからね。ウェットティッシュは生活必需品だよ」
「俺は基本的に生きた人間に興味ないですから」
「やべーこと言ってんなこいつ」彼女いるだろ。
心底どうでもよさそうな口振りで言うと、未成年は受け取ったタブレットを起動させ、パターン入力でロックを解除する。左の膝を立てる。その上にタブレットを乗せた。横向きにして、左手で上から押さえる。右肘はたたんで同居人の肩を圧迫する。右足は床に伸ばし、右頬に手を当てながらくつろいだように画面を眺める彼の首がかすかに倒れると、顎置きになった頭の主、つむじをぐりぐりと押された彼女はさすがに迷惑そうに眉根を寄せて「窮屈……」ともごもごつぶやく。
「我慢しろ」
「……ま、いっか……」
密着度が上がったことで、自重を支えることを完全に放棄し、腕以外の力を抜いた彼女は、弟の中に埋まっているように見える。弟の丸まった姿勢は傍から見れば胎児のようだから、埋まるべきものに埋まっているみたいな奇妙さがある。
孕み児を抱えた胎児は、横顔を隠す程度に髪を伸ばしている。ふだんは黒染めワックスで整えているクセ毛が、帰ってすぐシャワーを浴びたためか、かすかに水気を残してうねり気味だった。髪にはところどころ緑のメッシュが入っている。母も青系統色のインナーカラーを入れているから、素のまま並ぶと顔立ちも相まって遺伝形成の強さを感じざるを得なくなる。似てないのは背丈くらいだ。私も高めだが、弟は輪をかけて高く、バスケットボールの選手を思わせる。身長は父方からの遺伝であり、母には同じ血が流れていない。私と母とも、血のつながりはまったくない。私は父の連れ子であり、再婚相手との子である弟とは半分だけ遺伝子情報を共有している。
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