邪羅威

sin

第1話 一年前

 月光に照らされ流れる小川はいかにも涼しそうに見えるが、まとわりつくような湿気をはらんだ暑さは昼間の衰えを見せない。

「暑いなあ…… もう」香澄は舌打ちしながら言うと友達にLINEを返した。このくそ暑いのになんで節電なんてするんだよ。と、心中で毒づく。

 同じ西伊豆でも海の側なら風もあり大分違うのだろうが、この辺りは山間の盆地なので昼間の熱気が沈殿しているように思えてくる。

ここいらでも熱中症で運ばれた者が一昨日から三人もいると聞いた。

 香澄の家は海沿いに広がる町から少し奥まった峠の手前に位置しているので、海風も入ってこない。

ここは下田から西伊豆に向かうちょうど境目に近い場所になり、下田までは車なら二十数分で着く距離だ。

香澄はここからバスに乗り町の中心に近い高校に通っている。

生徒の中には峠を越えた下田寄りの方から通っている者もいるので、自分の通学環境が特に悪いと感じたことはない。

ただ、もっと海寄りに住みたかったというのが正直な気持ちだ。

 ネットで話しているとたまに西伊豆と聞いただけで海の側に住んでるイメージを抱かれて羨ましがられるが、実際に窓から見えるのは田園地帯と密集する民家、夜になると不気味な黒い塊に見える山。香澄は夜の風景が好きになれなかった。

特に山の裾野に広がる森。

あそこが前からなんとなく気持ち悪いと感じていた。

 小さい頃に「あそこに一人で行くと化け物に連れて行かれる」「食べられる」と曾祖母から聞かされたことがある。

峠の下にある森にはよくない死に方をした魂が集まって、仲間を求めてる。だから無暗に近付いてはいけない。この辺りに住む年寄りはみんなそんなことを言っていたと記憶している。

たしか化け物にも変な名前がついていたと思うが忘れてしまった。

 どうもこの辺りには大蛇伝説とやらがあるらしいのだが、香澄にとってはそんな埃をかぶった言い伝えは興味の対象外だった。

そんなものがいるわけがない。いるとしたら日本の気候で生息できる範囲の蛇で少し大きい程度だろう。

 だいたい近付いてはいけない恐怖の森の側にこんな住宅を作っておいて、近付くなもなにもないものだ。

香澄としては化け物や迷信を信じている年寄りたちの考え方が理解できなく気持ち悪い。

その理解できない気持ち悪さがあの森に集中しているような気がしてしまう。

 最近はソーラーパネルの設置とかで森にあった神社は移設、森の半分程が更地にされてしまったが、奥の半分は依然として昼でも薄暗い森のままだ。

かっては森の中心にあったと思われる一際大きな木が今は森と更地の境目のすぐ奥に見える。

 あの木はいつからあるのだろう?自分が子供の頃にはすでにその巨体が森から突き出していた。

毎日変わらずに目に入る景色の一分なのに、香澄の記憶にあるのは暗い夜に風に吹かれ葉をざわざわと揺らす姿しかなかった。

その森の方から夜になると湿気をはらんだ熱帯夜特有の生温かい風が吹いてくるのが香澄は不快でたまらない。

「無理。これじゃあ勉強なんてできない」そう言ってノートを閉じるとTシャツの襟をパタパタさせて椅子に体を預けた。

窓を開けていても吹きこんでくるのがこんな風では涼をとるどころか逆効果だ。

 暑さでまどろんだ頭を休ませようとぼんやりしていると、ふいに部屋が暗いことに気がついた。部屋の電気はいつもと変わらずに中を照らしているのだが、どこか暗く感じる。そう思ったときに忘れていた恐怖が香澄の中で頭をもたげだした。

窓の外からはスズムシの声が聞こえてくる。

「やばいやばい」呟くように言うと椅子から立ち上がって窓を閉め、リモコンを手に取りクーラーを点けた。

「最初からこうすればよかった」

静かな音を立てるクーラーから流れ出る冷気のおかげで汗が引いていく。

ふうっと息を吐くとベッドに腰かけた。

汗が引いていく快適さと一緒に芽生えた恐怖が少しづつ大きくなっていく。

なぜ恐怖を感じるのか?それは先週立て続けに友人が殺されたからだ。

ニュースにもなって学校に警察が来たり大騒ぎになったが犯人の目星は依然としてついていない。

しかし香澄は理由に心当たりがあった。だが誰にも話してはいない。

言えば頭がおかしいと思われるだけだし、自分たちがしてきたことが注目されてしまう。

なにより、これでは自分が気持ち悪がり内心小馬鹿にしていた年寄りたちと同じになってしまう。

「あるわけないって」と、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

それにしても一人でいる家は異様に静まり返っている。

両親は揃って外出していて、いつもならわずらわしい思いもせずにのびのびできる好機なのだが今日は心細さしかない。

スマホを見るとまだ二十時を少し過ぎたくらいだ。

「九時には帰るといってたから、あと一時間か…… さっさと帰ってきてよ」文句を口にしながらスマホを操作して動画を観ようとしたとき後ろから視線を感じた。

「なに?」

振り向いてもそこにあるのは窓に映る自分の顔と部屋だった。

「気持ち悪いな」

カーテンを閉めると部屋を見回す。

さっき感じた暗さは変わらない。

ふいに突風が吹いて窓をガタガタと揺らした。

轟々とした風の音はどんどん強くなり家全体を揺らす。

さっきまでほとんど吹いていなかった風が急に強くなったことが香澄の気持ちを一気に弱気にさせた。

気分転換にリビングでゲームでもしようか考えたときにスマホが鳴る。

母親からだ。

「香澄、今家にいる?」

「いるけど。どうしたの?」

「家の前にいるんだけど鍵もって出るの忘れたみたいで。開けてくれる?」

「わかった」

聞いていた予定より早いと思ったが、さっきまでの心細さは消えている。

自分以外の人間に一刻でも早く家の中にいてほしいと思った香澄は急いで部屋から出ると廊下の電気をつけた。

弱々しく心許ない明かりが点滅した。

廊下の奥の光が届かない場所が異様に暗く感じた。自分の部屋もそうだがいつもより暗いし、いつの間にかひんやりとしている。

「あんなに蒸し暑かったのに寒いくらい……」

半袖のTシャツから出た腕に手をあてると階段を降りて行った。

「香澄。早く開けてちょうだい」

玄関に着くと母親がドアノブをガチャガチャしながらぼやいている。

「わかったよ。今開ける」

扉を開けた香澄の眼前に母親の姿はなかった。

「あれ?お母さん?」

目の前にあるのは夜の闇だけだった。その闇の中から轟々と地鳴りのような無数のうめき声とともに香澄の名を呼んでくる。

母親の声かと思ったら殺された友達の声に変ったところで闇が黒い靄のようになり猛然と迫ってきたように感じた。

「いやあ!」悲鳴を上げて扉を閉めるのも忘れ階段を駆け上る。

悲鳴を上げながら逃げる香澄はものすごい勢いで追ってくるなにかの足音を聞いたが振り返る余裕などない。

急いで部屋のドアを閉めるとものすごい勢いでドアが叩かれた。

体当たりしてドアを壊さんばかりの勢いに怯えながらも、香澄は必死にドアを押さえる。

「助けて!なんなの!?助けて!」

「香澄!開けてよ香澄!」「香澄!迎えに来たよ!」

ドアを激しく叩く音と共に友達の声が香澄を呼ぶ。

「なんであんた達!やめてよ!」

部屋の電気が激しく点滅しながら消えると、ドアを叩く音もおさまった。

しかし恐怖は収まらない。

必死にドアを抑える香澄の後ろから「香澄」と今度は別の声が呼びかけた。

振り向いた香澄の絶叫とともに夥しい血が壁や床に飛び散る。

香澄は耳をつんざくような悲鳴を上げながら手足をばたばたさせるが、そのうち動かなくなった。

部屋のドアが静かに開くと、明かりの消えた暗い部屋の中に異様なほどくっきりと浮かび上がる香澄の真っ白い脚が見えた。

その下にぬらぬらと光る血だまりが廊下にまで広がってくる。

静まり返った家の玄関の扉がバタンと閉まった。



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