第50話
春花と家の前で別れた俺は、ただいまと言って玄関をくぐる。
「龍巳、おかえりなさい」
すると、俺の帰宅に気づいた母さんが、リビングの方から来て出迎える。晩飯の支度をしていたのだろう。エプロン姿に、手にはお玉。お手本のような主婦の格好だ。
「……あら?」
近くまでよると、母さんはなにか気づいたのか俺の足元に視線を落とす。
「龍巳、靴はどうしたの?」
「ん? 靴?」
なんのことかと俺も自分の足元を見ると、履いていたのは外履きの靴ではなく、校舎内専用の上履きだった。学園長から逃げるため、上履きのまま3階から飛び降りてそのまま帰ってきてしまったのだ。
「履き替え忘れたな」
「あらあら、龍巳ったらうっかりねぇ。なにか考え事していたの?」
「なんでそう思うんだ?」
「だって龍巳、考え事していたら周りが見えなくなっちゃうじゃない」
母さんが何気なくいったその言葉に、俺は少し感慨深いものを感じた。ちゃんと見てくれているんだなと。
俺が高校に上がってから、母さんは俺と姉さんを見てくれている。そう思う時がよくある。
この前の朝もそうだ。
俺が朝はあまり早く起きないこと。姉さんの目元が赤くなっていたこと。
そして今も、俺が気づく前に靴のことに気が付いた。ほんの些細なことかもしれないが、母さんなりに俺たちと向き合おうとしてくれているのだろう。
なら俺も、そんな母さんに
嘘は、言わない。
「いや、学園長から逃げるために、仕方無くな」
「…………へ?」
「まぁ、他にも靴はあるし問題ない。大丈夫だ」
「え、あの、ちょっと待って」
「ん?」
母さんの戸惑いの声に、上履きを脱ごうとした手を止める。
「えっと、逃げるためって、どういうこと?」
「いやなに。学園長を、少しからかってしまってな」
「か、からかったって、先生を?」
「ああ。学園長も流石に怒って追いかけてきた。追われれば逃げるだろう? それで止む無く3階から飛び降りることになって」
「……なって?」
なんだ、急に母さんの声の調子が下がったぞ。
その雰囲気の変化に若干たじろぎつつも、俺は続ける。
「な、なって……焦って逃げたものだから、靴に履き替え忘れたんだ」
「ふぅん」
母さんは口元にいつものような微笑みを浮かべているが、あきらかに目が笑っていない。向けられた視線は冷気を帯びているようで背筋が凍る。最近気温も暖かくなってきたが、ここだけ季節が逆戻りしたみたいだ。
「母、さん?」
「……龍巳」
なぜだ。いつも優し気に名前を呼んでくれるのに、今はその声に怒気が含まれている気がする。
「先生に迷惑をかけたら駄目って、言ったわよね?」
「言った、な……」
たしかに言っていた。入学初日に。
「今度、きちんと謝りなさい」
「……あ、ああ」
普段見せない母さんの圧に、俺は頷くしかなかった。
思えば、こうして叱られるのはいつぶりだろう? 多分、3人で暮らすようになってから初めてではないだろうか。
子供が親に叱られる。よく見る光景だ。形はどうあれ、間違いなく親子らしいやり取りだった。
母さんはまったくとため息を吐きながらも、満更でもない表情だ。それは、きっと俺も。
「もう、しょうがないんだから。もうすぐ朱里が帰ってくるから、ご飯の支度、手伝ってくれる?」
「ああ。わかった」
俺と母さんは、2人並んでリビングへと歩いて行く。
もしかしたら俺は、今までこういう光景を望んでいたのかもしれない。
取り留めのない話をしたり、褒められたり、叱られたり、喜びあったり。こうして、並んで歩くことも。
もしも誰か俺たちの姿を見ていれば、きっとそれは、あたり前にある親子の姿に映っただろう。
* * * * *
さて。GW中に春花と出かけることになった俺だが、1つ問題がある。
それは、お出かけに着ていけるような服がないということだ。
「…………黒い」
夕食後。俺は自室に戻ると、クローゼットの中を見て愕然とした。
そこには、右から左まで黒、黒、黒、黒。黒い服しかない。もはや黒1色といっても過言ではないだろう。
しかもそのどれもがスポーツ用という、今時の男子高校生としてどうなんだ? と自分でも思わず突っ込んでしまうほど洒落っ気がない。
「服なんて、まったく興味なかったからな」
中学までなら、それでも不自然はなかった。だが俺ももう高校生。こんな服で出かけてしまえば、隣を歩く春花に恥をかかせてしまうだろう。
春花と2人並んで歩く光景を思い浮かべて、これはないなとしかめっ面でクローゼットの中を見ていると、奥の方に他とは感じの違う服が見えた。俺はそれを引っ張り出す。
「……はぁ。そういえば、こんなものもあったな」
一目見てため息を吐くようなそれ。俺の手には『
以前、二頭龍の仲間で俺に懐いている
とりあえず俺は「漆原すまん」と棒読みで謝りながら、その特服を再び奥へとぶち込み封印する。
しかし、状況は全く改善されていない。まともな服を持っていないことが改めて証明されただけだ。
「仕方ない。明日は休みだし、買いに行くか」
ちょうど明日から2日間は、GW前の最後の休みだ。
少し勿体ない気もするが、春花と久々に出かけるのだし、これくらいの出費はいいだろう。
これで服の問題は片付いたな。とりあえず一安心……。
「いや、待てよ」
新たな問題が、今出来た。
ここまで洒落っ気のない俺が、まともな服を選べるか?
……無理だ。
俺1人で買いに行けば、動きやすさ重視で結局スポーツ用を買いかねない。
「他に、誰か誘うか」
一瞬春花を思い浮かべたが、当日に着ていく服を相手に選ばせるというのもなにかおかしい。
次にテツたち4人。
だがあいつらに話せば春花に伝わる可能性がある。からかわれる可能性も。それは勘弁願いたい。
思い浮かべた選択肢を、次から次へと精査していく。
「他に誘えそうな人間は……」
光を含め、二頭龍の連中は
それ以外だと、葵さん、葛城先輩……。
「あぁ、近くにいるじゃないか」
さっきも夕食時に顔を合わせたばかりだ。多分、今はリビングにいるだろう。
これ以上の適任は思い浮かばない。あとはどうやって誘おうかと考えながら、俺は部屋を出た。
* * * * *
「なぁ、姉さん」
部屋を出た俺は階段を降りて1階のリビングに入ると、ソファーに座りながら雑誌を読む姉さんに声をかける。ここ最近は、姉さんはリビングにいることが多い。
別に雑誌くらい自分の部屋で読んでもいいのではとも思うが、まぁそれは姉さんの自由だろう。リビングの方がくつろげるのかもしれないしな。
「龍巳? どうしたの?」
俺に気づいた姉さんは、読んでいた雑誌から目を離してこちらに顔を向ける。
「いや、明日は休みだろう? なにか予定はあるか?」
「ううん。特にはないけど」
「……そうか」
俺は言おうかどうか、ここまで来て迷った。実の姉に、高校生にもなってこの誘いをするのは、いくらなんでも不自然ではないかと。
けれど、あの夜。誤解が解け、少しづつでもいいから距離を縮めようと決めたではないか。ならこれは、昔のような仲の良い姉弟に戻れる絶好の機会だ。
それに正直、もう姉さん以外に頼れる人もいなければ時間もない。
少し気が焦っていた俺は、勇み足で姉さんの元まで距離を詰めてソファーのひじ掛けに手を置き、頼む頷いてくれと、姉さんの瞳を真剣な表情で見据える。
「なら、明日一緒に出かけないか?」
「…………へ?」
姉さんはそんなすっとんきょうな声を上げ、表情を固めたまま、持っていた雑誌をパサリと落とした。
* * * * *
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