第51話
時計の針の音と、蛇口から水滴が落ちる音が、静寂に満ちたリビングに広がる。
お互いに見つめ合うことしばらく。
息が止まっているのではと思うほど姉さんは微動だにしなかったが、硬直から解放されると勢いよく身を乗り出した。危うく顔がぶつかりそうになって、俺は咄嗟に身を引く。
「そ、それって。デッ、デデデッ、デートってことっ?」
「デート? いや、ただ買い物に付き合って欲しいだけだが」
「あ……そ、そうよね。ごめんなさい……」
顔いっぱいに喜びを広げていた姉さんだが、俺がそう言うと、誰が見てもわかるくらいにしゅんと落ち込んでしまう。
しまったな、ここはデートと言っておくべきだったか。失敗したと、女心がわからない己の無神経さを反省する。
……たしかに、いくら姉弟とはいえ、男女が2人で出かければそれはもうデートと呼んでもいいんじゃないか?
それに、距離を縮めたいというのなら、お出かけよりもデートの方がしっくり来る。
なら、これはもうデートだ。
「いや、そうだな姉さん、明日俺とデートしてくれないか?」
俺が言い直すと、姉さんは俯いていた顔を上げ、少し潤んだ目を見開き、再び花が咲きそうなほど満面の笑顔になる。
「え、えぇ。そうねっ。デ、デートしましょうっ!」
「あ、あぁ……」
あまり大きな声を出すと、母さんに聞こえてしまうのではと気が気でなかった。
それに、改めて聞くとなんとむず痒くなる単語なのだ。破壊力が凄まじい。
「ふふっ。龍巳とデート、デート……ふふっ」
姉さんは口元を手で覆い、嬉しそうにデートを繰り返し口にする。俺は羞恥心で悶えそうだ。
「そんなに嬉しいか? まだ何処に行くとも言ってないんだぞ」
「ええっ。龍巳とデートできるなら、何処に行っても楽しいものっ」
「……そう言って貰えると、俺も誘った甲斐があるな」
無性にくすぐったい。弟冥利に尽きるというものだろうか。大袈裟だなと、俺は小さく微笑んだ。
「ふふっ、そうね。誘ってくれてありがとう。それで、買い物って言ってたけど、なにが欲しいの?」
ああそうだ。まずはそれを説明しなければ。
「ああ、ちょっと服をな。新しく買おうと思って」
「服? 龍巳って、そんなに服に気を使ってたっけ?」
「いや、まぁそうなんだが……」
誰かに言われると少しへこむ。俺が微妙な表情になると、姉さんは失言だったとあわてて手を振った。
「あ、ご、ごめん。そうよね、龍巳も高校生になったんだし、服に興味を持ってもいいわよねっ」
「いや、服には大して興味はない」
「え? じゃあなんで服を買いに?」
姉さんは不思議そうに首をかしげる。興味がないのに服がほしいというのも、たしかにおかしな話ではあるな。
「今日の帰りに、春花とGWのどこかで出かけることになって、その時に着ていく服を――」
俺はなんの気なしに言った……のだが。
「…………は?」
姉さんの口から発せられた、絶対零度のごとき冷ややかな声に、俺の言葉は遮られる。
一瞬にしてリビングの温度が氷点下にまで下がったみたいだった。そんなことを考えている間にも、姉さんの表情はどんどんと険しくなっていく。
「ね、姉さん?」
呼ばれても、姉さんは返事をしない。俯いて表情を隠し「…………って、……んなすぐにっ?」と小さく呟いている。その声がわなないていたり、歯噛みしたり、肩が小刻みに震えている様子を見るに、間違いなく機嫌が悪くなっていた。
……まずい。
話の流れでさらっと口にしたが、まだ姉さんと春花の関係は悪いままだったかと、今更ながらに思い出す。
しかも、俺は春花と和解したことを姉さんにまだ言っていないのだ。そんな状態で俺たち2人が一緒に出かけるとなれば、こういう反応にもなる……のか?
わからないが、とにかくどうはぐらかしたものかと考えていると、口の中に充満するすべての不満を無理やり抑え込んだ姉さんは顔を上げ、刃のように鋭い視線をこちらに向ける。俺は死を覚悟しごくりと生唾を飲んだ。
「……ねぇ龍巳」
「な、なんだ?」
「ハルと、仲直りしたのよね?」
思ってもない言葉に、俺は戸惑った。
「え? あ、ああそうだな。言い忘れていたが、先日な。知ってたのか?」
「ええ。葵から、今日聞いたわ」
「葵さんが?」
なぜ葵さんがそのことを。知ってる誰かから聞いたのだろうか。しかし、テツたちは面識はないはずだし。
俺が眉を寄せ考えていると、姉さんが1歩近づきずいっとこちらの顔を覗き見る。
「それに、告白されたらしいわね?」
「あ、ああ……」
また声が冷たくなった。
一体なんなんだ。圧をかけるように質問攻めしてくるので、俺はたじろいでしまう。
「それで龍巳は、ハルの気持ち、受け入れたの?」
「いや、それは……」
家族に説明するのは、流石に躊躇う。後になって思いだすと、なかなかきざなことを言った自覚はあった。
なので俺は、詳しくは言わず、保留にしたと大雑把に説明した。
「保留?」
「ああ。まだ考えている最中だ。恋愛感情がどんなものか、よくわかってないからな。だから春花に、それを教えてもらおうと」
「そう……」
姉さんはまた表情を落とした。
「それって、他の人じゃ駄目なの?」
他の人? 姉さんの言っていることは回りくどくて、よくわからない。それに独り言のようで、俺に向けて言っているのかも怪しかった。
「私じゃ……」
ただ、ぼそりと言ったその言葉に、俺は「え?」と、思わず聞き返してしまう。
「――っ⁉」
自分でも無意識に口に出してしまったのだろう。途中ではっとした姉さんは動揺してしどろもどろになった。
「あ、いや、今のは、その……なんでもない、忘れて」
姉さんは取り繕ったかのように表情を元に戻す。そして雰囲気も。
「とにかく、明日は私とデートしてくれるんでしょ? なら、他の女の名前は出さない方がいいわよ」
「あ、あぁそうだな。気を付けるよ」
「わかったならいいわ。じゃあ明日は早起きしないとね。寝坊したら許さないわよ?」
姉さんは冗談ぽく微笑んでリビングから出ていった。
「……?」
ただ、振り向きざまに見えた笑顔が、作り笑いのように見えたのは、なぜだったのだろうか。
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