第16話


 入学してから数日が過ぎた、ある日の授業で、俺は入学以来最大の困難に見舞われた。


 といっても別に大したことではない。あくまで俺にとってはだ。


(……はぁ、まいったな)


 頭を抱えたくなる気分だった。


 ちらりと隣の席を見る。視線の先では俺と同じように、どうすればいいかわからないと、戸惑った表情の桜井が座っていた。


 それは、今から10分程前。授業が始まってすぐに、担当の教師が発したひと言が始まりだった。


「はい、じゃあ今日の授業は……この学校の決まりで、新しい学年になってしばらくしたら、親睦を深めるためにと、隣の席にいる人と会話をしてみようというものがある。説明すると、なんでも橘学園長が出会いというものを大切にしているらしく――」


 なんだ、その決まりは。そんなもの、聞いたことも……あるところではあるんだろうが、俺にとっては都合が悪すぎた。


(学園長の決めたルールの1つか……また妙なものを……) 


 隣の席といえば、桜井しかいない。


 これまでのことを考えれば、彼女と会話をするのはかなり難易度が高い。挨拶をすることすらままならないほどだ。


 周りを見渡せば、他の生徒たちはすでに和気あいあいと会話を始めていて、沈黙したままなのは俺たち2人だけ。


 そんな俺たちを先生が目ざとく見つけ「そこ、早く始めなさい!」と指さし厳しく注意する。そこまで意気込んでやる意味はあるのか。


 まいったな。このままだと、2人してクラスの注目を浴びてしまう。それは勘弁願いたい。


 だが、どうするこの状況。


 そして、今に至る。


 こんな状況、想定もしていなかった。出来るわけないだろう。あの学園長、よくもこんな突拍子もないことを思いつくものだ。


 だが、そんな文句を言ってもどうにもならない。俺はこの場をどう乗り越えるか思考を巡らせる。


(……そうだ。親睦を深めるというのなら、別に2人だけで会話をする必要もない。周りを巻き込めばいいんだ)


 桜井の相手は他の奴に任せ、俺はその会話の中から離れていく。よし、これでいこう。


 俺は巻き込む相手を探そうと、近くの席を見回した。


 トワは……雀と楽しそうに話している。


 この2人は親睦を深めるもなにもない。普段通りで問題ないから羨ましいな。


 ただ2人だけの世界を作り始めていて、他人が入りこむ余地がない。


 邪魔をするのも忍びないし、この2人は諦めるか。


 次にテツ。こいつは少し心配だが、背に腹は代えられない。


 テツは隣の席の……日向、だったか。と、どちらも快活な性格だからか、こちらも楽しそうに話している。そういえば、日向は桜井とよく一緒にいるし、これはいけるかもしれない。


 そう思っていると、都合のいいことに、テツの方からこちらに話を振ってきた。


「なぁなぁタツ。日向から聞いたんだけどよ、お前と桜井って幼馴染なんだって?」


「あ、あぁそうだ……」


 わずかに口ごもるが、ここは話を合わせておく。


 気になって隣を見れば、桜井もぴくりと反応していた。お互いにとって、幼馴染うんぬんについては、あまり触れて欲しくない内容だ。


「ま、まぁ家が隣同士だからな」


「ほぅ、そうだったんだな」


 しかし、話を振ってくれたことはありがたかったのは事実。不審がられない程度に会話に乗っていく。


 このままいけば、さっき考えた作戦も上手く――。


「いや、まぁ俺にも幼馴染ってのがいるんだけどよ、こいつがまた口うるさくってな。ガキの頃に、1人相手に寄ってたかってしてた奴らをとっちめてやったら、やれはするなだのしろだの、グチグチグチグチと……」


 ……いくかもしれない。


 そんな淡い期待は、テツの興奮気味な声と急所をえぐる単語によってかき消された。俺と桜井はひくりと息を飲んで黙るしか出来ない。


 桜井を見れば、目が潤んでいて今にも泣きそうだった。


(こいつに期待した俺がバカだった。地雷しか踏んでこない)


 不満げな視線をテツに戻せば、その幼馴染に余程思うところがあるのか、いまだに愚痴を吐きだし続けている。頼むから、これ以上は本当に勘弁してくれ。


「……けどよ」

 

 その願いが届いたのか……そんなわけはないと思うが。しばらくの間その幼馴染について熱く話していたテツは、急に穏やかで優し気な表情と口調になる。


「なんだかんだ言っても、俺はあいつの事が大切だし、あいつも俺のことを大切に想ってくれているんだ。じゃなきゃ、幼馴染なんて言えるほど長い間、一緒にいられねぇよ」


「「…………」」


「……お前たちは、どうなんだ?」


 俺と桜井は、その問いに答えられなかった。


 俺は、あの頃抱いていた感情はもう失くしている。


 桜井は、どうなのだろう。


 まだ俺のことを、大切に想っていたりするのだろうか。


「ま、答え難いんだったら、言わなくていいけどよ」


 何も答えない俺たちを見て何かを察したのか、テツはまた日向との会話に戻る。


 再び訪れる沈黙。作戦は失敗に終わったが、そんなくだらないことは、もうどうでもよくなっていた。

 

 時計を見る。テツがしばらく話し続けていたお陰で、大分時間が経っていた。もうじき授業も終わりだ。


 だが、このまま黙っているわけにはいかないだろう。そういう授業だ。何か、話さないといけない。


 俺は話すきっかけがないかと桜井を見る。


 そして視線が彼女の左手首に移ったとき、見覚えのあるミサンガに目が留まる。


「……それ」


「え?」


「それ、まだ着けているんだな」


「……う、うん」


 俺が指さし言えば、彼女は小さく頷き、悲し気に俯いて黙ってしまう。


 ただ、大事そうに。そのミサンガを、もう片方の手で握りしめた。


(……これは、俺も地雷を踏んでしまったな。テツの事を悪く言えない)


 居たたまれなくなり、俺は視線を自分の机へ落とす。そんな俺に、桜井は俯きながら、か細い声で話始めた。


「……大切な、ものだから」


 耳をすまさなければ消えてしまいそうな程の声。その声は、わずかに震えていた。俺はその言葉を聞き逃さないように、黙って耳をすませる。


「大切な人との、大切な、思い出だから……」


「……そうか」


 まだ、そう思っていたんだな。


 ただ、それを口にはしない。したところで今更だろう。


 俺はあの時、桜井を傷つけた。だからこんな言葉を口にする資格などない。


 彼女に裏切られ、半ば自暴自棄になっていた俺は、それが本心ではないとわかっていながらも、2人の約束の証だったそれを、感情のままに暴れて壊して、心無い言葉をぶつけた。


 その光景を見て、その言葉を聞いた彼女の傷は、相当に深かったはずだ。それこそ、もう俺に関わることすらしなくなるほどに。

 

 だから俺は、彼女との関係はもう終わってしまっていると思っていた。あの時交わした約束も、もう果たされることはないだろうと。

 

 しかし今、彼女はまだあの約束を大切にしているのだと口にした。あんなことがあったのに、まだ俺にあの頃と同じ想いを抱いてくれているのだ。


(だが、俺は……)

 

 俺は、その感情を失くしてしまった。いや、捨てたんだ。


 自分が傷つきたくなくて。大切だと思っていたものが離れてしまうのが怖くて。だから、誰かを好きになるという気持ちを、自分から手放した。


 結局嫌なことから。彼女から、ただ逃げていただけだ。


 入学初日を思い出す。彼女が勇気を出して話しかけてきたことを。


 俺はどうだった。彼女と視線を合わせることもなく、ただぶっきらぼうに返事をしただけだ。


 挙句の果てに、心配してくれる彼女を突っぱねて。


 今更になって思い出してみると、本当に最低なことしかしてなかった。それに気が付いたなら、まずやるべきことがあるだろう。


「……なぁ、桜井」


「……え? な、なに?」


「なんだ、その、この間の夜の事なんだが……悪かった。心配してくれていたのに、突っぱねるようなことをして」


「……え?」


「その時だけじゃない。それ以外でも、その……悪かった」


 そう。自分の間違いに気づいたのなら、素直に謝るべきだろう。


 まだかなりぎこちないが、俺は桜井に、自分の正直な気持ちを伝えた。


「え、いや、その……」


 桜井は俺の言葉を聞いておろおろしている。言ったことが、相当に予想外だったのだろう。


 やがて桜井は落ち着きを取り戻すと、居住まいを正して俺に向き直る。


「大丈夫、だよ…………あの、私もっ――」


 彼女が何か言おうとした時、それを遮るように、無情にも終了の鐘が鳴った。


「何か、言おうとしたか?」


「う、ううん……また今度、ちゃんとした時に話すよ」


「そう、か……」


 また、今度。


 今度は、俺は彼女とちゃんと向き合って話せるのだろうか。


 そう考えられるようになっただけでも、この時間にも、何か意味はあったのかもしれないな。


* * * * *


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