第10話


「……皆。何、してるの? 」


 その日。1人で登校した私が扉を開けると、クラスメイトたちがたっくんの机を囲んで、何かしているのが見える。


 合間から見えた彼の机には、おびただしい数の罵詈雑言が書かれていた。


「あ、桜井さん来たんだ。桜井さんもやる?」


 その中にいた女子生徒が、悪びれることもなく。まるで遊びに誘うような気軽さで、私に話しかけてくる。


 やる? 何を?


 もしかして、私にもこんなものを書けっていうの?


 机に書いてあるそれを見る。


「……うっ」

 

 思わず口元に手を当てる。気持ち悪くて、吐きそうになる。どうしたら、ここまで酷い言葉を人にぶつけることが出来るのだろう。


 見ていられない。書き殴られたそれを見て、私は目を逸らした。その様子を見て、垣谷くんが歪んだ笑みを浮かべて近づいてくる。


「大丈夫だって、桜井さん。これだけあるんだから、ばれやしない」


「そ、そんな……私、そんな事……」


「今更でしょ。だって桜井さん、この前だって俺が逢沢に『ださい』って言ったら、頷いてたじゃん」


「あ、あれは……」


「皆やってるんだからさ。別に本気で思ってなくてもいいから、ここは空気読んでよ。ね?」


 最後のひと言に、私はびくりと肩を震わせた。視線を巡らせると、周囲からの淀んだ期待の視線を感じる。


 確かに言う通り、これだけあれば、少し書いたくらいじゃ私だとわからないだろう。それに、ここで断れば、次は私にこの言葉の数々が突き刺さってくるのかと思うと、怖くてたまらない。


「…………」


 目の前がぐらぐらと揺れる。膝はがくがくと震え、へたり込んでしまいそうになる。


 そして震える手でペンを持ち、私は机の端。そこにあったわずかな隙間に小さく『バカ』そう書いた。


 昔から、喧嘩した時はよく言い合っていたし、これくらいなら……。


 そう思って書いた時、ガラッと教室の扉が開く音が聞こえた。


 何? 嫌な予感がして、おそるおそる、そちらを見る。


 視線の先には、何の感情も感じさせない表情でたっくんが立っていた。その視線は、私の手元に向かっている。


「あ、あのたっくん。こ、これは……」


「よぉ逢沢、どうした? 黙って突っ立って。さっさと自分の席に行けよ」


 咄嗟に弁明をしようとしたけど、垣谷くんが私の言葉をさえぎり、彼の目の前に立って声をかける。その声には、どこか嘲笑が混じっていた。


「…………」


「はは、味方がいなくなってショックか? だから言っただろ。あんな連中とつるんでるお前が、桜井さんと釣り合うわけ――」

 

 彼は反応しない。垣谷くんには目もくれず、じっと私の手元を見ている。


 そしてまぶたを伏せ、わずかに表情を悲し気に歪めて、深くため息を吐いた。

 

「…………はぁぁ」


「あ? てめぇ、何無視してん――うぐっ!?」


 次の瞬間。嘲笑だけで満たされた教室の中に、場違いなほど大きな音が響いた。「キャァァァ―!!」という女子生徒の叫び声も聞こえる。


 音の方を見れば、垣谷くんが机をなぎ倒しながら転がっていき、教室の向こう側でうずくまっている。蹴られたのだろう。お腹を両手で抑え、ゲェゲェと吐いて口元を吐しゃ物で汚している。その目には涙が浮かんでいた。


「はぁ、はぁ、なんっ……いっ、痛いぃぃっ!!」


 相当痛いのか、垣谷くんはお腹を抱えて暴れる。その声には、先程までの余裕はない。


「垣谷っ!! 逢沢てめぇ!!」


 近くにいたもう1人の男子生徒が、たっくんの顔に殴り掛かり、ざまぁと笑うが。


「……あ゛?」


「え? ひっ! ――ぶっ!」

 

 彼に眼光を向けられた男子生徒は怯み、そして宙を舞った。殴られたのだ。


 殴られて人が宙を舞うなんて普通じゃない。きっと、もの凄い強さで殴られたのだろう。


「がっ、がはっ! は、鼻がっ!」


 男子生徒は、鼻の骨や歯が折れたのだろう。顔を両手で覆い、その指の隙間からは血がドバドバと出ている。


 ……そこから先は、ひどい惨状だった。


 彼に報復にと向かって行った男子生徒たちは皆殴られ、蹴られて倒れていく。その光景を見ていた女子生徒たちの悲鳴が、校舎内に響き渡る。それでも彼は止まらない。


 私はその光景を、ただ見ていることしかできなかった。


 足の力が抜け膝をつき、茫然とした眼差しでその光景を見ていることしか。


 やがて誰も立ち上がることが出来なくなり、彼も暴れるのを止めると、教室を男子生徒たちのうめき声と、女子生徒たちのすすり泣く声が満たす。


 彼は私に近づいて来ると、無感情になった目で見下ろす。その手には、もみ合った時に切れてしまったのだろう。ボロボロになったミサンガが握られていた。


 私ははっと我に返ると、必死に謝ろうとする。


「あ、あの、たっくん、私っ」


 しかし。


「…………もう、いい」


「……え?」


 そう静かに言うと、彼は私の前に、切れてしまったミサンガをそっと置いた。


「こんな気持ちになるなら、あんな約束、しなければよかった」


 泣きそうな声で言い残すと、彼は表情を俯かせて、立ち去っていった。


 2人の約束の証。


 いつまでも壊れない。そう思っていた。


 しかし今、目の前には壊れたその証がある。


「……ひっく……ぐすっ……」


 私はそれを見て、泣きじゃくることしかできない。


 静かになった教室には、私の泣き声だけが、やけにはっきりと響いた。


* * * * *

 

 あの日から、私はまともに笑えていない。今だって、こうして愛想笑いをするので精一杯だ。


 事件の後、騒ぎを聞きつけた先生達が教室駆け付けた。


 その場の状況や彼の机に書かれたものから、クラスでのいじめが発覚し、いじめを行っていた生徒には全員指導が入ることになった。

 

 保護者との面談も行われた。先生から事情を聞いた両親に、私は呆れた顔を向けられ、今までにないくらいに怒鳴られた。当然の報いだろう。私は、ただ泣いて謝るしかできなかった。


 学校から帰ると、すぐに彼の家に謝りに行ったけれど、彼は不在。代わりにお姉さんの朱里さんが出てきて、私が頭を下げる前に思いっきり平手打ちされた。

 

『二度と龍巳に近づかないでっ!!』そう言う朱里さんの顔は、怒りに染まっていた。


 今回の件を重く見た学校側は、卒業までの間、彼を別教室で授業を受けさせることにした。


 怪我人を大勢出してしまい、他のクラスにも噂が広まったから、その方が良いと判断したのだろう。だから私は、あの日から学校で彼に会った事は無い。


 そしてあの日以降、彼は家にもほとんど帰って来なくなった。


 私の部屋の向かいにある彼の部屋。いつも窓から顔を出して語り合っていた。


 だけど今、そこに彼はいない。


 窓越しに見えるのは、固く閉ざされたガラス窓と、暗く染まったカーテンだけ。


 たまにすれ違うことがあっても、以前のように笑いかけてもらえるはずが無く。何の感情も見せない彼の表情が怖くて、私も話しかける事をしなかった。


 そうして、私たちの関係は終わった。


 私は、彼が隣にいたから笑顔でいられたのだ。


 隣にいるのが当たり前で、失ってそれがどれだけ大切なものだったかを初めて気づく。


 けれど、気づいてももう遅い。

 

 彼はもう、私の隣にいないのだから。


* * * * *


ここまでご覧いただきありがとうございます。


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