第8話
(……本当に久しぶりね。こうして3人一緒にごはんを食べるのは)
目の前のご馳走を前に、楽しそうに話す子供達を見て、逢沢薫は表情をほころばせる。
もっと早くにこうしていればよかった。そうすれば、あんな……。
その時を思い出す。『もういいよ』そう、龍巳に言われた時だ。
あの人が家を出て行ってから、私は2人を育てるために必死に働いた。2人ともそれをわかってくれていると思っていたし、私が『ごめんね』と言うと、決まって龍巳は『……いいよ』と言ってくれていた。
私は、そんな龍巳の言葉に甘えていたのだろう。その言葉の中にある気持ちも知らずに。
その日も私は仕事が忙しく、家に帰ってきたのは深夜だった。ここしばらくはずっとこんな調子だ。
今度の龍巳の参観日も行けそうにない。謝らなければな。そんなふうに考えながら、リビングの扉を開けると龍巳が起きていた。
「ただいま。まだ起きていたの?」
「……おかえり」
龍巳の元気がない。そういえばここ最近、朱里とあまり一緒にいない気がする。何かあったのだろうか。
落ち込む龍巳に言うのは心苦しいけど、躊躇いがちに私は言う。
「……龍巳。その……お母さん、今度の参観日なんだけど……」
〝お仕事で行けないの。ごめんね〟そう謝ろうとしたが。
「……もう、いいよ」
「……えっ?」
「どうせ、こんどもこないんでしょ?」
「――っ!」
……ショックだった。
龍巳の言葉だけにではない。今まで龍巳が何度も言っていた〝いいよ〟という言葉。その言葉の中には、すでに諦めの文字があったのを、今更になって気づいたのだ。
そんな事にも気づかず、私は……。
母親失格だ。龍巳に顔向け出来ない。
――そして私は、龍巳から逃げた。
龍巳の顔を直視することが出来ず、龍巳から顔を逸らしてそこから立ち去った。
本当に、どうかしていた。あの時龍巳を抱きしめていれば。仕事なんかよりも、龍巳を選んでいれば……。
それから私は、龍巳とどう接していいかわからなくなり、負い目を感じて、龍巳から逃げるように仕事に没頭した。
そして龍巳が中学2年生の時に、龍巳がいじめにあっていたのを知る。いじめがもう、取り返しのつかないくらい大きくなった後だった。
学校の先生から話を聞くまで、私はその事を知らなかった。普段龍巳のことを見ていなかったから、龍巳の変化に気付けなかったのだ。そんな自分が、心底恥ずかしかった。またか、と。
私は、龍巳の事をわかろうとせず、また……。
後悔しても遅い。失った時間は取り戻せない。
なら、これからは後悔しないように、龍巳との時間を大事にしよう。龍巳とちゃんと向き合って、龍巳のことをわかろうとしよう。
そう考えた私は、まず仕事を変えることにした。職場の人には止められたけど、もう決めたことだ。これからは、龍巳とちゃんと向き合っていくと。
新しい仕事探しや、残っていた仕事の後片付けなどで大分時間がかかってしまったが、何とか龍巳の入学式までに間に合った。
そして、こうして龍巳の入学をお祝いすることが出来た。今までの事を考えるとほんの小さな1歩だけど、これからだ。これから少しづつ、龍巳と向き合っていけばいい。
(これまでは、子供達の事を送る事も、迎える事も出来なかったわね……)
玄関から出ようとする龍巳を見て、これまでの事を思い出す。
いつも仕事で私の方が早く家を出るか、遅く帰ってくるかだったし、それに対して〝ごめんね〟としか言ってこなかった。
『いってらっしゃい』『おかえりなさい』
そんな母親らしい言葉を、もう何年も2人に言っていない。
まずは、そこから始めよう。これから母親として、ちゃんと向き合うための第1歩。
だから私は「いってきます」と、そう言う龍巳に向かって。
「えぇ、いってらっしゃい」
はっきりと、そう言った。
* * * * *
駅前の繁華街を、俺は疲れ切った足取りで歩いていた。
時刻はすでに夜の22時。本来なら高校生が出歩いていい時間帯ではない。俺にとっては、慣れたようなものだが。
「やっぱり散らかっていたな。いい加減、どうにかしてほしいんだが……」
俺は先程まで駅向こうのマンションに住んでいる知人の元へ行っていて、今はその帰り。その知人の部屋の惨状を思い出す。
床に散らばるゴミの数々。ベッドの上に脱ぎ散らかされた服。なぜ1日であそこまで溜まるのか、シンクには大量の食器類が山のように積まれていた。
ただ入学の報告に行っただけなのに、帰るのがこんな時間になったのは、それらを文句を口にしながら全て片付けていたからである。あんな調子なら、俺がちゃんと家に帰れるようになるのはいつになることやら……。
他にも理由はあるが、俺が家に帰らない理由の1つは、そいつの面倒を見る為。ほとんど同居のような状態だからである。
別に頼まれたわけではないが、恩人がどこぞで野垂れ死ぬのは心が痛む。あいつがいなければ、今頃俺はどこかで道を踏み外していただろう。その恩返しはしたい。
(……だが、今日のあれは酷かった)
それは、1時間と少し前のこと。
『――おぉ龍巳。帰ったか』
『うっ!? 何だこの匂いっ』
『何って、カレー……』
『カレーが青色なわけあるか! 何入れた!』
『いやな、グリーンカレー? ってのを作ろうとしたんだけどよ、気づいたら……』
『気づいたらって、お前……』
『はははっ! まぁいいじゃねぇかっ! 緑も青も、大して変わんねぇだろ』
『…………はぁ』
と、まぁこんな調子である。正直ついて行けない。
因みにカレーは予想通り酷い味だったが、そいつは『これがグリーンカレーか!』と言って、バクバク食っていた。どういう味覚をしているんだ。1回本場行って食ってこいと突っ込んだのは、言うまでもない。
何度か家事を覚えてみては? と、本気で提案したこともあったが、その度に返ってくる返事は適材適所のひと言。言いたいことはわかる。だが、あいつが自立しなければいつまでもこのままだ。何とかしなければ……。
「……まぁ、もうしばらくはいいか」
そう思う俺は、少し甘いのだろうか。
だが、この関係を気に入っているのも事実なのだ。
もう少し。せめて、母さんと姉さんとの関係がもう少しだけ落ち着くまでは、今のままでもいいと思っている。
そんなふうに、大雑把でハチャメチャな同居人のことを考えていると、歩く道の先にうちの学校の制服を着た集団が見えた。近くには教師らしき大人もいる。
「ん?……あれは」
その中には、見知った顔があった。桜井だ。
桜井もこちらに気づいたようで「あ、たっくん……」と、びくりと肩を揺らして、躊躇いがちに呟いた。
* * * * *
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