3


「ブッツェマン!トルバラン!」


 唐突に聞こえた大声は、進行方向である私の真後ろから聞こえたのだ。ブッツェも驚いた様子で、紫の目を皿の様に丸くしている。


「ミティーヌ!?どうしたのその怪我!」


 私が振り向くよりも早く、ブッツェが駆け寄った。ようやく視界に入れた人間によく似た彼は、共通の知人であるクロックミティーヌ。我々と同じブギーマンだ。鋭い歯を持つ彼が噛み付いて壊した手袋を、身体中に貼り付けている変わり者である。

 しかし今は体の腕が肩から捥がれ、飾られていた手袋の代わりに青い血がボトボトと流れ出ていた。


「逃げろ、逃げろ!早く!」


 先ほどまで森の中を走っていたのだろうか、息は荒く、全身から汗が噴き出している。疲れ切っているだろうに、その目はギラギラと開き、止血しようとしたブッツェを残った片腕で掴む。

 驚いたブッツェは小さく悲鳴を上げ、ミティーヌの異常な雰囲気に圧倒されている様だ。


「な、なに、一体どうしたの?逃げろって何のこと?」

 

「ルルが来る!」


 叫んだミティーヌの後ろから、なにやら木々をかき分ける様な音が聞こえてくる。

 私の大きな耳が言っている。これは、獣だ。それも大きい獣だ。獲物を追う捕食者側の獣だ。それが、恐ろしい速さでこちらに向かってきていた。ゾワ、と背筋に悪寒が走る。


 ”逃走しろ、一刻も早く!”


 本能がけたたましく警鐘を鳴らし続ける。


 ミティーヌを見た。逃げようとしても出血量が多すぎる。逃げてもこれは走れない。

 ブッツェを見た。まだミティーヌに気を取られていて音に気づいていない。身体についた血は彼のものではない。


 足音はもう目前まで迫ってきている。


 咄嗟にミティーヌを突き飛ばし、ブッツェの襟を掴んで引き戻した。


「──えっ」


 彼を引き寄せた瞬間、黒い巨大な影が木々の間から飛んだ。それはミティーヌへと覆い被さり、声も出せないうちに彼の喉を食いちぎる。青い鮮血が、ブシャ、と音を立てて木々に降り注ぐ。

 それは大きな黒い狼だった。鋭い牙はミティーヌの血で毛皮を真っ青に染めていく。飢餓に取り憑かれた様に貪り食う狼は、その食欲とは裏腹にガリガリにやせ細っていた。

 見れば、狼は腹がパックリ割れていた。肋骨がむき出しになり、今しがた食べた肉がボトボトと落ちる。食ったものを収める胃袋がないのだろう。腹の下に咀嚼された肉片と青い血だまりが広がっていく。


「ミティーヌ…?」


「!」


 はっと意識を取り戻し最初に見たものは、ブッツェの唖然とした横顔。


 逃走しろ、一刻も早く。


 今もまだ警鐘はなり続けていた。

 無我夢中で彼の腕を掴み、飛ぶ様に来た道を走り出す。来るときは心地いいと感じていた落ち葉の踏みしめる音が、今は必死に逃走している私を追い立てる。木々の隙間から溢れる月明かりが、チカチカと目の前を点滅させる。私の耳は、ミティーヌを弄んだあの大きな獣がこちらに向かってくる足音を嫌でも聞き取っていた。


 住み慣れた我が家に滑り込むとすぐに鍵をかける。


「なに、いまの」


 荒い息を落ち着かせるのも忘れ、疲労と怯えの混ざった表情でブッツェが扉を見ていた。走った距離は短いだろう。しかし私はといえば、運動不足が祟り足が震えうまく力が入らない。倒れこみそうになるのを何とか壁を使って堪える。浅い呼吸を落ち付けようとして、何度も咳き込んだ。喉がひどく痛む。


「ゲホ…ミティーヌは、ルルだと、言っていていたな。」


「ルル…?もしかして、ルル・コルコレ?」


 ブッツェのつぶやきに、記憶の奥底にしまわれていた単語が急速に引きずり出された。

 

 ルル・コルコレ。

 全てを平らげる者、という異名を持つブギーマンの一種だ。当然発祥は我々と変わらない。だが、一つだけ特異な点を挙げるとするならば、ルルの本能は食べること。その捕食対象は人間の子供、そして我々ブギーマンなのだ。人間の忘却以外で我々を殺す、恐ろしい化け物として種族から恐れられている。


「共食いのブギーマンか」


「食べられるの、俺ら」


 ブギーマンは発祥の性質上、一つの家庭に一体と言われるほどに母数が膨大な数へと膨らんでしまう。書物にはルルは全体数を抑えるためにブギーマンを間引くと描かれていた筈だが、あの様子だと本能と飢餓に苛まれ狂っている様にしか見えなかった。

 ルルがブギーマンの集まる地域に自然と引き寄せられる習性があるのは納得がいく。

 けれど、何故今、我々の前にそんな化け物が現れてしまったのか。


 (今日じゃなくてもよかっただろう。標的は我々じゃなくてよかっただろう!?)


 もし昨日であれば、私は家から出なかったからルルに気づかれずにやり過ごせた筈だ。

 もし昨日であれば、ブッツェは家にきたとしても、私が居ないことに気づいてすぐに帰り、鉢合わせることもなかった筈だ。


 理不尽な不幸にふつふつと湧き上がる苛立ちと足がすくむ様な恐怖。体の中を奔流する感情で叫び出してしまいそうになるのを、歯を噛み締めて耐える。

 一番恐ろしかったのはきっと、知り合いが目の前で惨殺された我が親友なのだから。彼は顔が広いから、私よりもあれと友好があったはずだ。


 彼は壁に背をついて何とか呼吸を整えようとしているが、手で覆われた口は隙間からパクパクと開閉しているのが見えた。全身が小さく震え、いっそのこと倒れてしまいそうに弱々しい。大きな蜘蛛の足も、彼自身を守る様に正面で組まれていた。


「ミ、ミティーヌは、死んだのか?」


 その一言に答えあぐねる。


「それは…」


 ドンッ


 大きなものが激しくぶつかる音が家に鳴り響く。

 二人で同時に発生源である玄関の扉を見つめた。


 「ま、まだきてるの!?」


 ドンッ、ドンッ、ドンッ!


 ルルが扉へと体当たりをしているのだろうか、家が揺れそうなほど強い衝撃が何度も何度も加えられる。

 ミシ、と嫌な音がして木製の扉に切れ目が入った。まずい、このままだと確実に扉が突破される。


「ブッツェ、こっちへきなさい!」


 彼の腕を掴むと、私の部屋に避難する。玄関以外で鍵のかかる唯一の部屋。

 鍵をかけて振り返れば、部屋にあるのは螺旋状に重ねられた積読、散乱した紙、不安そうな顔のままのブッツェ、そして地下に続く扉。


 扉を見たときに、急にピン、と脳内でひらめいた。


「そうだ、あれを魂にしよう」


「は?」


 場違いな軽快で明るい声。出した私自身でもすこし驚いた。だが思いついてしまった興奮は冷めやらぬ。

 鳩が豆鉄砲を食らった様な顔のブッツェに勢いよく近づくと、彼はビクッと体を震わせた。


「我々が外に出た理由は何だブッツェ」


「えっ…た、魂、探し?」


「そうだろ、そうだろ!協力者が向こうから来てくれるのならば、万々歳だな!」


「協力者?!もしかしてあの狼のこと言ってるの、今の状況わかってる?!」


 信じられないものを見る顔をブッツェは向け、ヒステリックに叫ぶ。私だって、こんな奇天烈な発想をするとは思わなかったのだ。普段研究のことしか考えていない自覚はあるが、今は感謝しなければならない。


「ああ、知っているかブッツェ、人間の3大欲求は睡眠欲、食欲、性欲だ。」


「だから何!?」


「ルルは食が本能だろう?人間の強い欲求と一致する。子供を誘拐することを本能とするブギーマンを入れるよりも、よっぽど人間らしくなるとは思わないか?」


「君、こんな時まで!ふざけないでよ、何考えてるのさ!」


 恐怖と混乱でいっぱいなのだろう。それ以上は言葉がつっかえたようで、怒りの表情のまま口をパクパクと動かしていた。

 ブッツェの手を握る。彼は数秒その手を眺めていたが、不意に泣きそうな顔で私を見上げてきた。


「…本気で言ってるの?」


「正直賭けだが、できなきゃお互い食い殺されるぞブッツェ」


 手を離し、地下室へと続く扉を開く。研究を行なっている場所であり、私の大事な空間だ。段差が高く、夜目が効く我々ブギーマンでも気を抜けば、転がり落ちる可能性がある暗闇を一歩一歩降りて行く。

 口すっぱくここには絶対に入るなと言ってあるから、ブッツェも入るのは初めてのはずだ。最初は戸惑っていたが、玄関の扉が突破された音を聞いて慌てて追いかけてきた。


「この下に肉体がある。コシチェイの卵もそこにある」


「…ちょっと卵のこと忘れてた。魂を閉じ込めるための卵だよね」


「ああ、だが朝に君へと渡したものとは別の特別製だ」


「…?なんか違うの?」


「ついたら説明をする」


 階段を降り、その先にある扉を開く。中には変わらず、愛らしい顔をした少女の死体が部屋の中心で椅子に座っていた。

 手の中には複雑な模様が描かれた卵が1つ。

 ブッツェに手渡してやると、不思議そうに眺めていた。


「わ、綺麗。模様が緑に光ってる」


「これをルルに壊してもらう」


「壊してもらう!?」


 多少聞きづらくはあるが、私の耳にはあれは右往左往して、我々を執念深く探している音が聞こえ続けている。もし上がったのなら、嵐でも通った後の様になるっているだろう。あくまで、生きて上に上がれたら、の話ではあるが。


「割った対象の魂を内部へ閉じ込められる卵だ。妖怪は肉体を持たないから、そのまま飲み込まれる。ルルにこの卵を割らせて卵に閉じ込めるんだ。気をつけたまえ、君が割れば君が閉じ込められるんだ」


 ブッツェがそっと卵を返してきた。大変物分かりがいい。


「つ、都合よく行くかな」


「いかなければ我々はここで仲良く食い殺されるだけだ、ここには入ってきた扉以外、出口がないんだから」


 まさかこんなことに使うとは、私も露程にも思っていなかった。これならば協力者が直前で嫌がろうが、わざと割る様に仕向ければ協力せざる負えない方法である、と考えついた過去の私に賞賛を送ろうと思う。


 ドンッ!バキッ!!


 大きな衝撃音とともに、木製の扉が壊された音がした。地下へ続く階段の扉か、それとも私の部屋の扉かはわからない。

 だが、もうすぐここに奴が来ることは明白だ。流石にブッツェも気がついた様で、不安そうに扉を一瞥した。


 地下の階段を駆け下りてくる音がする。あれだってブギーマンだ、転がり落ちないのは夜目が効くせいだろう。鍵をかけているが、他の部屋と同じ様な木製の扉。それも他の部屋よりも劣化が激しい扉であった。我々を守る城壁としてはあまりにも心もとない。

 直ぐにドン、ドン、という衝撃がなった。


「ひっ…」


 ブッツェの声に反応したのか、衝撃を与える感覚が早くなった。地下に扉に巨体を叩きつける音が響き続ける。我が身が緊張で強張るのがわかる。たとえ卵が失敗したとしても、巻き込んだブッツェだけは逃さなければいけない。彼を背にして、一歩踏み出す。

 

 ドン、ドン、ドンッ!バキッ!


 扉がへしゃげた。隙間からルルの赤い爛々と輝いた獲物を狙う獰猛な目が、我々を捉えた。恐ろしい唸り声が地下室に響く。全身が恐怖で震え、手の中の卵が滑り落ちそうだ。極度の緊張のせいか、ルルの最後の一撃が、随分とゆっくりに見えた。


──バキバキッ!


 勢いよく飛び出したルルが、我々に向かってぐわりと口を開けた。中に見えるのは、妖怪の血で青く染まった牙、今まさに我々のことを食い破ろうとしている牙。きっと何人たりともあの牙には敵わないだろう。


 バケモノの口に向かって、とっさに、手の中の卵を投げた。


「!」


 反射的にルルが口を閉じた。卵は盛大な音を立てて噛み砕かれる。

 その瞬間、卵の緑色に光る模様がルルの口から溢れ出し、触手の様に絡みついていく。驚いて止まったルルは嫌がる様に全身を動かすが、模様は容赦無く激しく動く尾さえも飲み込んでいく。


 バキバキバキ!


 骨を折る様な音にビク、と体を震わせたのはブッツェだった。

 網にかかった魚のルルは、触手の様な模様に圧迫され、小さく小さく折りたたまれる。悲鳴に似た絶叫が、地下室にこだまする。その声量に慌てて耳を閉じた。


 小さく小さく折りたたまれたルルは、そのうち黒い塊となった。黒い表面を白い殻が覆っていき、赤い目がぎょろぎょろと動くのを最後に、すっかり覆いつくしてしまった。

 後に残るは、赤くなった模様の入った卵のみ。出来上がった卵には一切ひび割れが存在しない。

 卵は立つ力を失ったのか、コロリと地面に転がった。


「…」


 急に、しん、と地下室が静まり返る。無言で卵を回収すると、小さくうなり声が聞こえてきた。

 どうやら、まだ生きてはいるらしい。


「俺たち、助かったの?」


 振り返れば、ほっとして喜びをあらわにしたブッツェがいた。

 ただ、この卵を作った目的は人間を作ることである。それを彼は忘れてしまったらしい。


「ブッツェ。元となったコシチェイと卵は、一体どういう関係だったのかを思い出してみなさい。」

 

「えっ今?」


 私の声色が変わらないことを不審に思ったらしい。ブッツェは困惑したような顔で考える様に上を見上げた。


「え…と、コシチェイと卵は分身体って話?」


「そうだとも。卵は魂と言っていい。そして、魂と肉体は別々のところにあっても、繋がっているのだ。そして私のやろうとしていた実験は、卵にエネルギーとなる魂さえ注げば、卵と繋がった肉体を動かすことができる」


「...あっ」


 急にブッツェの目が丸くなった。呼吸が止まったことに、彼自身気づいているのだろうか。

 我々は肉体を動かすために卵の中に入れる魂を探していた。そして卵に魂が入った今、卵と繋がっている肉体は一体どれだろうか。

 私もブッツェも、恐る恐る少女を見る。


 少女の真っ赤な目が、ぎょろりと開いて我々を睨みつけていた。

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