141~150
薄荷人形
あのこがいるだけで場の空気が透きとおる。ふうっと吐いたその息の、冷たく凍るようなあの感覚。あのこの髪が風に揺れ、すうっと緑の線を引く。そのか細い爪先に、綿より軽い体が踊る。ああ空気が透きとおる。冷たい風が心地よい。海より深い目に映る、この世のすべてが美しい。あのこは笑う薄荷人形。
春の目覚め
「春はどうして眠いのかしら」陽だまりで微睡み彼女は歌うように囁いた。その黒檀のような髪を撫でると日の光を溜め込んで温かい。窓から覗く空に蝶が飛んだ。「きっと、生き物がみんな目覚めるから、精気を吸われてしまうんだわ」小さく欠伸をすれば、涙が睫毛に溜まる。彼女が溶けていくようだった。
メビウスをなぞる
彼女の腹に手を当てる。よく磨かれた木の家具のような、滑らかな手触り。彼女はまだ眠っている。そっと手を下へ、柔らかな太ももからふくらはぎへ、背中からうなじを辿り、口元に指先が当たる。中へ入れば湿っている。胃へ、腸へ、その血管の隅々まで。裏も表もなく、その一片にいたるまで愛している。
電話
とぅるる、がちゃり。「はい、ご用件をどうぞ。壊れた傘を一本。はい、はい。わかりました。お待ちください」机の引き出しを開けて少しあさり、そこから傘を取り出す。壊れた赤い布地の傘。右手の箪笥の引き出しを開けて傘を入れる。閉じる。ノートに壊れた傘、と記し次の電話を待つ。待ち人は来ない。
また出会う友よ
「来世を信じる?」「信じない」そうかい。笑えば黒い目がこっちを見る。「お前は」薄い唇が開く。「信じているのか」黒い目は細く、軽く睨む形になる。「僕はいま生きている。そして死んで、また僕に産まれるんだ。そして僕を生きて、君と会って、笑って、死ぬ」車が突っ込むまであと三秒。「またね」
鏡と幽霊
三階の女子トイレの鏡には幽霊が映るそうな。「へえ」じゃあ見てみよう。友人と連れ立って向かう。「やめようよ」「いいじゃん別に、ただの噂だろ」鏡の前に並んで立つ。「なんだ映るじゃん」頭のかち割れた友人の肩を叩く。「こんな頭見たくないんだよ」僕の首にぶら下がるロープを友人が引っ張った。
銀の熱
彼女の手の内の銀。日の光をうけて輝くそれが、熟練の指揮者が振るうタクトのように滑らかな動きで僕に突き刺さる。奇妙な音が喉の奥から絞り出される。熱は痛みに変わっていき、抉るように引き抜かれたそれが赤色に染まっているのがはっきり見えて。ああ、いまは朝なんだと、それだけが頭に浮かんだ。
ブロックブロックブロック
気に入らない相手をブロック。現実に置き換えると切る、刻む、潰す、混ぜる、捨てる。手間もかかるし汚れるし、なにより犯罪となってしまうこの行為をボタン一つでお手軽に処理。ゴミをゴミ箱へ、そういうこと。この行為を禁じられたら、私はどうなるか分からない。切る、刻む、潰す、混ぜる、捨てる。
餌と吸精鬼
女の背が折れ曲がり、稲穂のように頭を垂れる。否、枯れススキか。盛時を過ぎ、萎えた花の如くを見せつけられて煩わしさを感じる。「今までありがとうございました」絞り出される嗄声が癇に障る。こいつは幸福だったのだろうか。もう捨てられるというのに、礼を述べる様が拾った頃の幼い姿に重なった。
置き去りの私
パズルの最後のピースを嵌め終え、時計を見る。十時三十二分。この作業を始めた時と一切変わらない時間。すべてが停止した世界に閉じ込められてから、どれだけの時間がたったのだろう。もうこの店のパズルは全部完成してしまった。動かない店員に礼を述べると割って開けた自動ドアから外へと向かった。
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