111~120
そのインクは、夜
彼女はそのインクに浸したガラス玉のような目で私を見つめる。「同じね」ぽつり、彼女が呟く。私は彼女の考えが分からず、互いに見つめ合う形となる。私の視線に彼女なんの感慨も浮かばないようだ。「貴方、夜の匂いがするわ」また呟く。困惑する私から視線を外し、彼女はするりと教室を去っていった。
いま蕾の花は明日切り落とされるかもしれない
ぱちん、ぱちん。彼女の持つ鋏は小気味よい音をたて、美しく咲いた花を刈っていく。「蕾のほうはどうする?」やや開きかけの白い花。「いくつか貰おうか」彼女は頷いて鋏を開く。花はいま刈られることを知っていたろうか。満開に開くときまで、この庭にいられると信じていたろうか。彼女が鋏を閉じた。
甘い夢に落ちる
「眠れないの」そう言う彼女はくったりと力なくソファーに身を預ける。そのまま蕩けて床に落ちそうだった。「僕にどうしろと?」柔らかなカーブを描く睫毛をゆっくりともたげ、申告通り眠りの砂を寄せ付けぬ眼光で僕を見る。「キスして、優しくよ」お望みどおりに。僕は一つ、彼女の旋毛に唇を寄せた。
そのひとしずくを許さない
「泣くな」「泣いてない」「そうか」「そうよ」震える声で、彼女は答える。その目に溜まった水を零さないよう、大きく見開いて前を見ている。割れそうなほど食いしばる歯が離れるたび、その水は大きく揺れて、それでも彼女は言うのだ。「私、やるわ」「やるんだな」「やるわ」そして彼女は立ちあがる。
卵
「私、卵を飼っているの。幼稚園の頃ね、卵も小さかったの。小鳥の卵みたい。いったいどんな鳥が産まれるのか、わくわくしたわ。でも私が大きくなるにつれて、卵も大きくなったの。部屋に入らなくなって、庭から飛び出て。だから私、土に埋めたの。信じないのね。私と貴方、その上に立ってるじゃない」
卵2
「学生の頃の話だよ。朝起きるとさ、布団に卵があったんだよ。うん、卵。スーパーで売ってる鶏の卵みたいなもんさ。白くって片手に収まるくらいの、そんでもって少し温かい。少しゆすろうとしたらヒビが入っちまってよ、そしたら女が入ってたのさ。あそこの女がそれさ。卵から産まれた、俺の女房だよ」
赤い夏
暑い。夏である。友人宅にて宿題に精を出す。網戸に蝉が飛んでとまり、じーわじーわと喧しい。友人は何も言わず網戸を叩いた。そう言えば窓辺に風鈴がある。あれが鳴れば少しは涼しいものを。「いや、あの中にね、金魚が住んでしまってね」見ればガラスの球の中で真っ赤な金魚が尾ひれを揺らしていた。
推理無用の名探偵
「推理とかしないんですか」「は?」探偵は皮張りのソファからこちらに目をやり、それを本に戻した。「だって殺人の予告ですよ。依頼者だって不安がってたじゃないですか。犯人、探さないんですか」「探さない。知ってるから」「なんですって」探偵は本を閉じる。「だから知ってるよ。犯人、お前だろ」
ふふふのふ
「あら、ひらがなの赤ちゃん」宿題を終えたところ、机の端に“ふ”が落ちてるのを見つけた。ほっそりとした書体のそれはふるふると震えている。「不安」や「腐敗」の“ふ”になったらどうしよう。畳んだノートを広げ、摘まみ上げたそれを貼り付ける。「富裕」や「芙蓉」の“ふ”に育つといいと思った。
手紙 君の数多くの友の一人より、私の唯一の友達へ
(こうして筆を執るのはいつぶりでしょうか)(貴方にどうしても伝えたいことがあります)(絶対幸せになれなんて無茶は言わないから、どうか不幸せな方に行こうとはしないでほしい)(不運に見舞われるのはしかたがないし、どうにもならないこともあるけど)(自分だけでぜんぶ背負うことはないから)
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