第339話

 紗千夏が部屋で悶えている頃、涼太もマンションに帰宅した。

 誤差があるのは、行きつけのスーパーで買い物を済ませて来たからだ。

「お帰り、涼太」

「……あぁ」

 部屋でゲームに興じていたアイカに対し、涼太は視線を向けずに答えた。

 意識がどこか別の場所に向いているのがよくわかる。

「ただいま、はないのか? 挨拶は最低限するものだと私に言ったのは涼太だろう?」

「ん? あー、だな。悪い。それと、ただいま」

「うむ、良かろう」

 素直に非を認める涼太にアイカは満足して頷き、ゲームに意識を戻す。

 涼太は小さくため息を吐きながら買い物袋と鞄を置き、脱衣所の洗面台に向かう。

 手洗いとうがいを済ませ、ついでに顔を水で洗った。

 鏡の中の濡れた自分を見て、頬が赤くなっていないかを確認する。

 水の冷たさが気持ち良く感じる程度には熱を帯びているが、外から見てわかるほどではない。

 その事を確認した涼太は、洗面台についていた左手をつい見てしまう。

 別れ際に謝罪した事は後悔していない。

 そうするのが正しいと思ったから、気にしなくていいと言う紗千夏に謝ったのだ。

 だが、改めて謝った事で思い出してしまった事も確かだった。

 ほんの一瞬だったが、誤魔化しようのない柔らかさを手のひら全体で感じた。

 右手も脇腹から背中にかけて、直接素肌に触れている。

 どちらの感触も印象深い。

 自分とは全く違う肌触り。

 どうして時間が経った今でも、はっきりと思い出せてしまうのか。

 思い出してはいけない、意識してもいけない。

 反芻などもってのほかだ。

 そうわかっているが、なかなか思い通りにはいかない。

 埃っぽくて薄暗い倉庫には相応しくない、異性の存在感。

 ずっと手のひらに残っているようで、落ち着かなかった。

「手相でも見ているのか?」

「うおっ! い、いきなりなんだよ?」

「いやなに、洗面台の水を出しっぱなしにして呆けているようだったのでな。どうしたのかと気になったのだ」

「っと、そうだった」

 出しっぱなしだった水を止め、タオルで顔を拭く。

 それから脱衣所の入り口を塞ぐように立っているアイカを押し退け、買い物袋の中を冷蔵庫に入れ始めた。

 アイカはふんと鼻を鳴らし、冷蔵庫に寄りかかる。

 ゲームは一区切りついたらしく、特に見るでもないニュースがテレビに映っていた。

「夕飯ならすぐ用意するから、適当に時間潰しててくれ」

 冷蔵庫の横から動かないアイカに声を掛けるが、彼女はそうではないと笑みを浮かべる。

 そして右の手のひらを催促でもするように見せた。

 涼太は一瞬、なにかを悟られたのかと思って警戒する。

 紗千夏の胸を触ってしまったなどと知られたら、どれほどからかわれるかわかったものではない。

 アイカの性格を考えれば、自分のも触れ程度は言い出すだろう。

 しかしアイカの思惑は全く別のところにあった。

「明日の……いや、明後日の話だ。いい加減、渡して貰おうと思ってな」

「……そっちか」

 ようやく理解した涼太は安堵するが、すぐにまた別の意味で顔をしかめる。

 アイカの要件とはもちろん、文化祭の事に他ならない。

 かねてよりアイカが要求しているのは、二日目の関係者用入場チケットだ。

 二日目は関係者も入れるとつい言ってしまった自分を呪う。

 口を滑らせるにも程がある。

 涼太が口を滑らせなくとも、別のルートで知られる可能性は高かったが、自責の念を抱かずに済む分まだマシだっただろう。

「もう聞き飽きたけど、本気で本気か?」

「もちろんだ。文化祭なるものの情報はいろいろと仕入れてある。興味を抱くなと言うのは無粋にも程があるぞ?」

「偏ってそうでイヤなんだよなぁ、その情報」

 アイカの主な情報源はネット上のものだ。

 久音などから得ている情報もあるだろうが、だからと言って安心は出来ない。

「とにかく、保護者として行く権利がある。違うか?」

「偽りの保護者がよく言うな」

「いいではないか。親はどちらも来ないのだろう?」

「まぁ、そうだけど」

「なら問題はあるまい。久音はよくて私はダメとは言わせぬぞ?」

「言ってもいいとこだと思うけどな、正直」

 一応、久音にはチケットを渡してある。

 と言うより、渡さざるを得なかっただけだ。

 それを知っているからこそ、アイカも欲しがっているのだろう。

 二人の性格と関係性を考えれば、どんなやり取りがあったのかは容易に想像出来る。

 したくはないので実際には想像などしないが。

「言っておくが、素直に渡した方が身のためだぞ? 正規のチケットをくれぬのなら、私にも考えがある」

「脅迫かよ」

「この身は悪魔なれば」

「ホンット、たちが悪いな……」

 これ以上はないというタイミングで悪魔を名乗るアイカに、涼太は諦めてチケットを渡す。

「いいか、絶対に問題起こすなよ? 特に居候してるとかそういう話は」

「わかっている。何ヶ月一緒に暮らしていると思っているのだ? 少しは信じろ」

「脅迫した直後によく言えるな……」

「悪魔なれば」

「……ったく」

 本当に頼むぞ、と涼太は何度も念を押しながら夕飯の準備を始める。

 その間だけは幸いと言うべきか、紗千夏との事を忘れていられた。

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