第338話

「ただいまー」

 紗千夏が帰宅したのは、普段より早い時間帯だった。

「お帰り。早かったのね」

 夕飯の準備をしている真っ最中だった春奈は、料理の手を止めて振り返る。

「部活出来ないって、朝言ったよね?」

「そうだけど、文化祭明日でしょ? 準備で遅くなるかと思ってたわ」

「順調だったから」

「そ、なら良かったじゃない」

「まぁね」

 素っ気なく返し、鞄から空の弁当箱を取り出してテーブルに置く。

「まだ時間あるし、先にお風呂入っちゃう?」

「沸いてるの?」

「残念ながら。入るなら沸かすけど?」

「……いい。ご飯食べてから入る」

「そ?」

「うん。あたし、部屋でちょっと休んでるね」

「はいはい」

 夕飯の準備を手伝おうかとも思ったが、紗千夏は休む事を選択した。

 春奈も手伝えとは言わず、料理に戻る。

 部屋に戻った紗千夏はスポーツバッグを置き、制服のままベッドに倒れ込んだ。

 枕に顔を埋めて目を閉じる。

 別に眠気があるワケでも、疲れているワケでもない。

 今日は朝練も出来なかったので、体力は有り余っているくらいだった。

「またあたし、考えてる……」

 ため息混じりの声が枕に染み込む。

 こんな風に考えるのはもう何度目になるのか。

 自分の部屋でベッドに寝転がり、在原涼太の事を考えるのは。

 最近は文化祭の準備や部活で忙しく、そうでもなかった。

 だが夏休み前後から何度もこうして、ため息と共に在原涼太の事を考えている。

 その中でも今日は、特に思考のリソースを涼太に占領されていた。

 ごろんと仰向けになった紗千夏は、ぼんやりと天井を眺める。

 別れ際、涼太は改めて謝って来た。

 なにについてかと言えば、倉庫での一件しかない。

 先にふざけたのは紗千夏自身で、どう考えても不運な事故だったのだから気にする必要などない。

 どれだけそう言っても、涼太は自分が悪かったと言い張った。

 ああいうアクシデントは、男が謝るのが筋だと、そう言って。

「真面目……ついでに律儀なやつ」

 そう呟く紗千夏の声は柔らかい。

 同時に頬が微かに熱を帯びた。

 身体を横に向け、蹲るようにして紗千夏は胸元に手を当てる。

 数時間前の感覚が、脳裏と身体に焼き付いて離れない。

 ふざけた結果、躓いて涼太を押し倒してしまい、偶然にも胸を揉まれてしまった。

「って、揉まれてない揉まれてないっ」

 偶然触られてしまっただけだと自分自身に訂正する。

 そもそもあの瞬間、どちらにも下心などなかった。

 涼太は完全に硬直していて、指先一つ動かしていない。

 それを揉まれたと言ってしまうのは、涼太に対して失礼だ。

「優香が変な事言うから……もう」

 揉まれたなどと考えてしまうのは、元を正せば夏休みに言われた事が原因だ。

 あれ以来、ふとした瞬間に変な事を考えてしまう。

 そのせいで倉庫での出来事も、揉まれたなどと大袈裟に捉えてしまいそうになるのだ。

「違うし……触られたが正しい……うん、触れちゃった、だけ……っ」

 自分にしっかりと言い聞かせた結果、触られた瞬間の事を鮮明に思い出してしまい、紗千夏はベッドの上で悶える。

 左右に身体を転がし、両手で顔を覆う。

 頬がバカみたいに熱くなっているのは、もう無視していた。

 落ち着くまで転がった紗千夏は再び横向きで蹲り、自分の胸に軽く手を当てる。

 涼太の左手が触れた、右側の胸に。

「結構がっつり、いかれた気がする……」

 胸だけではなく、脇腹と腰の辺りにも涼太の手が触れていたハズだ。

 友人とふざけて突き合ったりする事はあったが、あんな風に触れられた経験はない。

 もちろん涼太に非はないとわかった上で確かめる。

 球技大会前に涼太の部屋でも似たような状況はあった。

 ただ、あの時とは立場が違う。

 涼太はただ受け止めてくれただけで、体重を掛けるような体勢になったのは紗千夏の方だった。

 だからこそ思いきり押し付けるような形になり、信じられないくらいはっきりと触られた感触があったのだ。

 それは数時間経った今でも残るほどに強い。

 着用していたのがスポーツブラだった事もあり、普通のブラよりもダイレクトに感じられた。

「変じゃなかったかな……」

 あの直後も、帰り道も平静を装ってはいたが、果たしてどう思われていたのか。

 確かめるワケにもいかないので、答えはどれだけ悩んでも出て来ない。

 数時間前からずっと、脳が発火しているような感覚と息苦しさが続いている。

 教室の装飾を手伝いに戻ったが、正直ちゃんと出来ていたかわからない。

 覚えていない、と言った方が正しい。

 ずっと気持ちがフワフワとしていて、ドキドキし続けている。

「でも、うん……」

 不快感は全くなかった。

 バスケの練習中、涼太の手が胸に当たった時もそうだった。

 だからこそあの雨の日、避妊具を見つけて倒れた際、涼太の手を掴んでしまったのだ。

「アイカさんがいなかったら、あたし……」

 答えを出さずにいたが、改めて思う。

 あの時、アイカさんがやって来なければどうしていたのか。

 目を背けようにも、ここまで来ると難しい。

「イヤじゃ、ないんだよね……」

 そんな気はしていたと、紗千夏は自分を抱き締めるように蹲る。

 別に優香の言葉が絶対ではないし、正しいとも限らない。

 しかし、腑に落ちる部分が全くないワケでもなかった。

 自分よりも間違いなく経験のある友人の言葉。

 もしそれが、少なくとも自分にとっては正しいとしたら。

「って事はあたし……」

 誤魔化しようのない答えを出しそうになった紗千夏は、枕にこれでもかと顔を埋め、恥ずかしさに悶えた。

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