第329話
「十月末って言えば……」
ベッドから起き上がってくれない事はひとまず置いておき、涼太もベッドに腰かける。
僅かにベッドが軋む音が鳴り、久音は顔を上げた。
「……はい、母の命日ですね」
「文化祭前だけど、今年は休日だし問題はない、かな?」
「予定通りで大丈夫だと思います」
そう答えながら久音は枕を抱いたまま仰向けになる。
母親の事に関して話す際は、どうしても少しだけトーンが低くなってしまう。
普段はそうでもないが、やはりこの時期は特別だ。
数年経過したとは言え、感情が胸の奥底で揺れる。
涼太の父親の時と同じように、制服を着て墓参りに行く程度のものだが、普段はあまり考えないような事も考えてしまう。
とは言え、拭えない寂しさはあるが、深刻に落ち込むほどでもない。
病気で亡くなった母親との約束が久音にはあった。
「母を偲ぶより、誕生日を喜んで……そう言われてますから」
「もうすぐだもんね、誕生日」
「覚えていてくれたんですね」
「そりゃあね」
母親の命日は十月の後半。
そして久音の誕生日は十一月の半ばだ。
亡くなる前にきちんと話す時間があったとは聞いている。
だが、当時の久音がどんな気持ちだったのかを涼太は知らない。
どんな風に声を掛ければいいか、さすがに迷ってしまう。
「今年の誕生日なんだけど……えっと、聞いてる?」
なので命日にまつわる話ではなく、久音の誕生日について話す。
涼太にとってはこちらの話も、触れるのが難しい話に変わりはない。
「修学旅行の日程が被っているそうですね。少し前に聞きました」
「あ、そ、そう。うん、俺もそう言えばって最近になって気付いたんだけどさ」
「私の誕生日を忘れていた、と」
「違うって。ただ、修学旅行の日程とか気にしてなくてさ。バイトのシフトもあるから、それでよく考えたらあれって、ね」
気付いた瞬間、ドッと嫌な汗が噴き出したのを涼太は思い出す。
変わるハズのない日程を何度も見ては、どう話したものかと頭を悩ませた。
結果的に沙世から久音に話が行ったワケだが、はいそうですかと終わる話題でもない。
こうして就寝前に部屋を訪ねて来たのも、その事だろうと覚悟していた。
すでに知られている以上、後回しにしても意味はない。
「誕生会みたいなのはするんだよ、ね?」
「そのつもりみたいですね。私はそれほど拘っていませんが」
「……本当に?」
「なにか含みがあるように聞こえますね。どうしてでしょうか?」
「去年の事、やっぱり根に持ってる?」
「やめて下さい。根に持ってるなんて言われたら、私が涼太さんを怨んでるように聞こえるじゃないですか」
「……違うといいんだけどね」
相変わらず寝転がっている久音の表情は読み取れない。
枕で口元が隠れているが、薄っすらと笑みを浮かべているように見える。
ただ、去年の事を考えるとそうとも言い切れなかった。
「私より涼太さんの方が気にされているようですね」
「そりゃあね……」
一年前と言えば、丁度再婚によって引っ越して来た頃だ。
新しい生活に慣れるのに精一杯で、精神的にも不安定になっている時期。
そんな状態で迎えた久音の誕生日だった。
久音としてはどんなプレゼントよりも、涼太と一緒に生活出来る事が嬉しく、あの時点ではそれ以上に望むものなどなかったほど。
だが涼太は上手く祝う事が出来なかったと後悔している。
一樹との関係も今一つで、わかりやすくギクシャクしていた。
自分のせいでせっかくの誕生会が微妙な空気になったと、そう思っている。
一人暮らしをした方がいいと思ったきっかけの一つでもある。
久音が内心どれほど喜んでいたのかも知らず、申し訳ないという気持ちをおよそ一年間抱き続けてきた。
すれ違いとも言える涼太の気持ちには久音も気付いている。
そういった部分も含めて、久音は好意的に捉えていた。
しかしそれはそれとして、申し訳ないと思っているのなら付け込ませて頂くのが在原久音だ。
「仕方ないとは言え、今年も涼太さんには祝って貰えないのですね」
「その言い方……いや、ちゃんと祝ってるし、祝うよ。ただ、当日は無理ってだけで」
「今の言葉、録音させて頂きました」
「は? え?」
「冗談です。私がそんな事をすると思います?」
「…………」
涼太は頷く事はせず、無言で久音を見た。
ふっと笑みを浮かべた久音は枕を抱いたまま上体を起こす。
そのまま涼太の隣に座り直し、身体を傾けて顔を覗き込む。
「涼太さんが私をどう評価しているかは後ほど伺うとして」
わざわざ前置きをする久音に涼太は生唾を呑み、姿勢を正す。
「今の言い方だと、当日でなければ祝って頂ける、と理解していいんですよね?」
「えーっと、まぁ」
どうやっても当日は不可能だが、日を改めてという事なら話は別だ。
去年の埋め合わせも兼ねて、今年はなにかをしなければと涼太も考えていた。
具体的にどうするかまでは未定のままだが。
それがわかった久音は悪戯めいた笑みではなく、自然に頬を緩める。
「我がまま、言ってもいいんですか?」
「節度を忘れなければ。あと、俺が出来る事で」
「わかりました。じゃあ、遠慮なく我がまま、言わせてもらいますね」
節度という言葉に対して遠慮なくは間違っている気がする。
涼太はそう思いつつも、久音がなにを言い出すのかと身構えた。
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