第314話

 いつかと同じように倒れ込んだ二人は、世界が凍りついたような錯覚に襲われる。

 呼吸はもちろん、瞬き一つする事が出来ない。

 以前紗千夏の手首を掴んだ涼太の手は、その背中を抱き締めるように回されている。

 倒れ込む際、彼女の身を案じた結果だ。

 正面から力強く抱き締められた紗千夏は全身を強張らせ、数センチ先にある涼太の顔を見つめる。

 彼女の両手が涼太の胸元に添えられていなければ、二人の距離は更に近かっただろう。

 手のひら一つ分の距離が、鼻先の接触を辛うじて防いでいた。

「だ、大丈夫か?」

「……え? あ、うん……た、たぶん」

「そ、そうか……良かった」

 怪我をさせてしまわなかった事に涼太はひとまず安堵する。

 だが、状況は何一つとして好転してはいなかった。

 仮に怪我でもしていれば、二人の意識はそちらに集中しただろう。

 しかし、そうでなければ目を逸らせない。

 前にもこんな状態になった事はあるが、あの時とはいろいろと異なる。

 何よりも大きな要因は密着している事。

 以前は手首を掴んだだけで、身体そのものには距離があった。

 でも今回は完全なゼロ距離。

 感じる互いの気配も熱も感触も、なにもかもが近すぎて、伝わりすぎる。

 加えて紗千夏の胸に宿る感情も大きく異なっていた。

 雲のように掴みどころがなく、不定形とすら思えた感情はしっかりとした輪郭を帯び、触れる事すら出来るほどに色づいている。

 言葉を一つ添えるだけで、それは確かな形を持つほどに。

「っと、悪い……重い、よな」

 その点で言えば、涼太が先に動けるのは必然だ。

 感情の変化はあるにせよ、紗千夏ほど明確ではない。

 だからこそひと足先にハッとして、動き出す事が出来た。

 抱き締めていた腕を片方ずつ抜いて、フローリングに付く。

 身体一つ分の距離が開いた事に、紗千夏は痛みを覚えた。

 先ほどまでは感じていなかったハズの痛みだ。

「……天城?」

 そのまま立ち上がろうとする涼太のシャツの胸元を紗千夏が掴む。

 自分でもどうしてそうしたのかわからない。

 まさに身体が勝手に動いた、としか言いようがなかった。

 頬を紅潮させ、なぜか困ったような顔をする紗千夏に涼太も動けない。

 ただ仰向けに倒れたままの、無防備な彼女を見下ろす。

 そして掴んでいる手に目を向け……、

「――――っ!?」

 その光景に目を見開き、またしても硬直した。

 倒れた際、偶然そうなってしまったのだろう。

 直前までは距離も近く、紗千夏の腕が間にあったので気づきようもなかった。

 だが今は両手を伸ばして離れているので、紗千夏がどんな恰好なのかが良く見える。

「……あり、はら?」

 みるみる内に顔が赤くなっていく涼太に、今度は紗千夏が声を漏らす。

 挙動不審にすら見える涼太の視線を辿って視線を下げる。

 シャツを掴む自分の手が見えるが、そこではない。

 更に下へと視線を向け……、

「~~~~っ!?」

 涼太が硬直した原因を理解した紗千夏は、声もなくすぐさまシャツを下ろした。

 彼が見ていた……いや、見てしまったのは捲れ上がったTシャツから覗く、紗千夏の素肌だ。

 腹部はもちろん、鳩尾から胸元付近まで捲れ上がっていた。

 幸いと言うべきか、乳房が完全に露出していたという事はない。

 ただ、完全に隠れていたワケでもなかった。

 乳房の下側、三割ほどが露出してしまっていたにすぎない。

 辛うじて乳首はシャツに守られた形になる。

 が、見えてしまった事に変わりはない。

 そして何より問題なのが、なぜ乳房が見えてしまったのかという事。

 仰向けのままシャツを力いっぱい下げた紗千夏は、火が出るほど顔を赤くして動かない。

 少しサイズが大きいメンズ用のTシャツとは言え、下に引っ張れば身体のラインがしっかりと浮かび上がってしまう。

 今の紗千夏にそこまで頭を回せと言うのは酷だろう。

 だからこそ、涼太も確信してしまったのだ。

 紗千夏は今、下着を身に着けていないのだと。

 今だけではない。

 シャワーを浴びてからずっと、そうだった。

 何事もなく乾いた服に着替えていれば、問題にはならなかっただろう。

 後々涼太がふと気づく可能性はあったが、残念ながらリアルタイムで知ってしまった。

 知られてしまった。

 代えがないのだから仕方がない。

 それだけの話。

 しかし、知ってしまえば考えてしまうものだ。

 身に着けていないのはブラジャーだけなのか、と。

 在原涼太も男子高校生だ。

 性欲がないワケでもない。

 人並に興味はあるし、考えたりする事もある。

 だからそう発想してしまう事に罪はない。

 この状況で彼が取れる行動は、もうその話題に触れない事だけだ。

 紗千夏も自ら下着の話や言い訳などしない。

 そうするしかなかったのだから。

 二人は無言のまま、互いに負けないくらい顔を真っ赤にし、見つめ合う。

 動き出すタイミングを完全に逸していた。

 それでも先に動き出したのは、やはり涼太だ。

 震える両手に力を入れて起き上がろうとする。

「…………」

 だが、その手を紗千夏が掴んだ。

 相変わらず真っ赤な顔で、涼太の左手首を掴んでいる。

 ワケがわからず涼太は硬直するしかない。

 紗千夏はなにかを言うワケでもなく、ただ涼太の手を掴んで離さない。

 その僅かに潤んだ瞳は、大きく揺れて迷っているように見えた。

 彼女の頭に浮かぶのは、夏休みに言われた友人の言葉。

 胸を触らせてもいいと思えるのなら、それはきっと……。

 確かめるのなら、今がその時かもしれない。

 いや、今しかない。

 あらゆる状況がそうするよう仕向けられている気さえしていた。

 今日、ここで。

 このまま涼太の手を、シャツの中に導けば確かめられる。

 不本意だが、ブラを着用していないのだ。

 これ以上ないほど、しっかりと確かめられる。

 熱に浮かされた思考が、紗千夏の身体を支配していた。

「あ、天城……?」

「――――っ」

 戸惑うような涼太の声が、紗千夏の衝動を突き動かすトリガーになった。

 思い切ってその手を導こうと、力を込め……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る