第312話
「シャワー、頂きました」
シャワーと着替えを済ませた紗千夏が、恐る恐るといった様子で脱衣所から出てくる。
「サイズとか、大丈夫か?」
「うん。さすがに少しダボっとするけど、これくらいなら家で着たりするし」
用意された黒いTシャツとハーフパンツはメンズ用だが、部屋着と考えれば紗千夏が着ていても違和感はなかった。
むしろ紗千夏が纏う雰囲気的にはしっくり来る。
「乾燥機とか、もろもろありがとね」
「使い方、大丈夫だっただろ?」
「うん、簡単だった」
「なら良かった。ドライヤー、使うならこれ」
「あ、助かる。じゃあちょっと借りるね」
タオルを首に掛けた紗千夏は、涼太に促されてクッションに座る。
コンセントに繋がれたドライヤーを手に取り、すぐには使わずテーブルに置く。
「在原は浴びないの?」
テーブルの対面に座っている涼太にシャワーを浴びるような気配はない。
着替えはすでに済ませてあり、テーブルには使い終わったと思しきタオルが置いてあるだけだ。
「俺はすぐ着替えたし、髪ももう乾いてるからな」
「そんな事言って、後で風邪とか引いたらどうすんの?」
「大丈夫だって」
そう答える涼太に紗千夏は渋々頷き、ドライヤーを使ってしっかりと髪を乾かし始める。
その様子から涼太は目を逸らし、必要もないのにスマホを手に取った。
万全を期すならシャワーを浴びておくべきだが、今は乾燥機が動いている。
やましい気持ちなどないが、かと言って脱衣所に今入る事には躊躇いがあった。
脱衣所に入った紗千夏と同様に、涼太もまたあれこれ考えていたのだ。
雨宿りを提案した事も、部屋に入れた事も、シャワーや着替えを勧めた事も、全て正しかったと思っている。
下心なども当然なかった。
ただ、時間が経てば経つほど、今までとはなにか状況が違うような気がして、初めて紗千夏を部屋に招いた時以上に落ち着かない。
ドライヤーの熱風を受け靡く紗千夏の髪。
視界の端に入るそれが、涼太をドギマギさせる。
不本意ながらも異性の風呂上がりには慣れてきたが、アイカや久音が相手の時とはやはり感じ方が違う。
身内という枠組みの中か外かは大きい。
自分の服を異性が着ている、という点も同じだ。
アイカも久音も涼太の服を着た事はある。
だから紗千夏に渡した時も、深くは考えていなかった。
しかし実際こうして紗千夏が自分の服を着て、風呂上がりに髪を乾かしているという状況になるとソワソワしてしまう。
先ほどまで一緒にバスケをしていたからだろうか。
普段の紗千夏と、バスケに精を出している時と、風呂上がりの今。
違和感とも言うべきなにかがそこにはあり、意識しないようにすればするほど、彼女という存在を意識してしまう。
「ふぅ……これ、ありがと」
「ん、もういいのか?」
「うん」
ドライヤーを置いた紗千夏は、手櫛で髪を整えながら頷く。
一度冷えた身体がしっかりと温まったからか、その頬は僅かに紅潮している。
ようやく一息付けたと言いたげに笑みを浮かべ、ゆっくりと首を回す。
涼太はテーブルの上のドライヤーを手繰り寄せ、邪魔にならない場所に片づける。
そこで不意に沈黙が部屋を支配した。
急な雨に降られて慌ただしくここまで来たが、ようやくそれが落ち着いたのだ。
こうなる直前までどんな話をしていたのかさえ、咄嗟に思い出せない。
「雨、少しはマシになった感じ?」
紗千夏の言葉に身体を仰け反らせ、閉じていたカーテンを軽く開いて涼太は外を眺める。
「あー、そうだな。風は弱くなったし、土砂降りってほどじゃないみたいだ」
「そっか。ホント、タイミング悪かっただけか」
「みたいだな。そういや、スマホとか大丈夫だったか?」
「うん……って、あっちに置きっぱなしだった」
紗千夏はハッとして立ち上がり、脱衣所に駆け込む。
そしてすぐにスマホを持って戻ってきた。
「家の人に連絡は……」
「大丈夫、もうしてある」
答えながらクッションに座り、メッセージを確認する。
シャワーを浴びる前に送ったメッセージに、母親から返信が届いていた。
自転車だから雨の様子を見てから帰ると、補足のメッセージを紗千夏は送り返す。
どこで雨宿りをしているかは、あえて触れずにおいた。
涼太の部屋でと知られたら、母親はきっと変な勘繰りをする。
それは紗千夏の望むところではないので、秘密にしておく事にした。
もし事実を伝えたりすれば、きっと電話を掛けてくるに違いない。
そして涼太と母親が話す事になれば、絶対妙な空気になるという確信があった。
再び沈黙が訪れ、雨の音が部屋の空気を掻き乱す。
「なんか、飲むか? 風邪引かないように、温かいやつとか」
「ちょっと欲しいかも」
「ならコーヒー……よりはココアの方がいいか?」
「ココア希望」
「りょーかい」
丁度いい理由が出来たと安堵しながら、涼太は立ち上がってキッチンへと向かった。
その背中を紗千夏はテーブルに突っ伏し、顔を横に向けて眺める。
雨に重なる、小さなポットに水を入れる音。
それを心地よく聞きながら、収まる気配のない鼓動に目を細めた。
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