第311話

 脱衣所の鍵を掛けた紗千夏は、頭に乗せていたタオルをするりと取る。

 しっかりと玄関先で拭いておいたので、髪の先から水滴が垂れる事はない。

 ただし、それ以外はずぶ濡れのままだ。

 何となく脱衣所の中を見回し、洗濯機に目が留まる。

 乾燥機能付きのそれには、涼太が用意してくれた着替えとバスタオルが置いてあった。

 そこから少し離れたところに髪を拭いたタオルを掛け、肩から下げていたスポーツバッグを足元に置く。

 再度バッグの中を確認するが、濡れていない物を探す方が困難な状態だった。

「スマホは、大丈夫か……一応お母さんに連絡しとこ」

 もうすぐ伝えてあるおおよその帰宅時間になる。

 この豪雨で心配される可能性は高いので、先に雨宿りをしていくと連絡した。

 それから立ち上がった紗千夏は、ようやく洗面台の鏡で自分の姿をちゃんと見る。

「――――っ」

 そして思っていた以上のずぶ濡れ具合に息を呑み、シャツを引き剥がすように引っ張った。

「……だから、か」

 いつもとそう変わらない恰好だが、激しい雨に濡れたせいでTシャツがかなり透けてしまっている。

 白いTシャツな事もあり、下着だけではなく、素肌も薄っすらと見えるほどだ。

 濡れてぴったりと張り付いたシャツは、これ以上ないほど紗千夏のボディラインを浮かび上がらせている。

 涼太の視線が微妙に逸れているように感じたのは、気のせいではなかった。

 せめて色の濃いTシャツを着ていれば違っただろうが、後の祭りだ。

「って、考えても意味ないか……」

 これが制服ならキャミソールを着用したりもするのだが、と思いながら紗千夏はため息を吐いて気持ちを切り替え、一気にシャツを脱ぐ。

 下のジャージも脱ぎ、ひと纏めにして洗濯機に放り込んだ。

 そしてブラを外そうとしたところで、鏡の中の自分と目が合う。

 いつもと同じ手順で服を脱ごうとしているが、ここは涼太の部屋だ。

 決定的に違うたった一つの要因が脳裏をよぎり、急激に恥ずかしさを覚えてしまう。

 物音がしたワケでもないが、つい脱衣所のドアノブに目が行く。

 しっかりと鍵を掛けた事は間違いないのに、なんだか落ち着かない気分だった。

 冷静に考えるほど、今の状況が現実ではなく夢か妄想のように思えてしまう。

 クラスメイトの男子の、それも一人暮らしをしている部屋で、今まさに裸になろうとしている自分。

 別にやましい事など一切ないし、邪まな感情などない。

 それは十分わかっているのに、やはり涼太の部屋で裸になろうとしている事実は非現実的で、紗千夏の胸を締め付けるものがあった。

「バカかあたし……在原がそんなワケ、ないし」

 迷いを捨てるようにブラを外し、洗濯機に入れる。

 そこでふと、部屋の静けさに気が付いた。

 辛うじて換気扇の音は聞こえるが、脱衣所の中にいても他の音は聞こえず、涼太の気配は感じられない。

 が、確かにドアを一つ隔てた向こうには、在原涼太がいる。

 なのに静かすぎる気がして、途端にまた恥ずかしさが込み上げて来た。

 先ほどから自分が立てている微かな物音が、実は涼太に聞こえているのではないかと。

 脱衣所が静かすぎるからこそ、そんな事を考えてしまう。

 紗千夏はハッとして胸元を片手で隠し、浴室のドアを開けてシャワーを流す。

 すぐにタイルを打つ水の音と、やや遅れて温かい湯気が立ち上ってきた。

 そこでようやく呼吸を思い出し、息を吐き出す。

 シャワーの音があれば、自分が出すであろう僅かな音は涼太に聞こえない。

 完全な独り相撲ではあるが、それは紗千夏の心を落ち着かせる。

「在原もこんな感じだったのかな」

 ふと思い出すのは、夏休み前の出来事。

 体調を崩し、家まで送り届けてくれた涼太の姿が脳裏に浮かぶ。

 あの時、汗だくになった涼太は紗千夏の家でシャワーを浴びて行った。

 全てが同じとは言えないが、クラスメイトの家で裸になるという部分は共通している。

 今なら涼太があの時、困ったような顔をしていた気持ちがわかる気がした。

 なら、逆に部屋で待つ側の気持ちもわかるハズだ。

 そう考え、自分がどうだったかを思い出そうとする。

 が、その前後の出来事や感情が鮮明且つ強烈すぎておぼろげだった。

 たった一度きりの自転車二人乗り。

 家族と一緒に食事をし、弟たちと楽しそうにゲームをしていった姿。

 あれからまだ二ヶ月と少ししか経っていないのが嘘のようだ。

「ホント、変な感じ」

 思い出して口元を緩めた紗千夏は、自分の肩を抱く。

 浴室から流れてくる温かな湿気に身体が包まれていく感覚は、不思議と心を落ち着かせてくれた。

 相変わらず胸は深い部分からドキドキと強く鳴っているが、少しずつ恥ずかしさは薄れている。

 優しい想い出に緊張が解けていくような、そんな感覚だった。

「へっくしっ……ヤバ」

 ついくしゃみが出てしまった事に紗千夏はハッとする。

 今のが涼太に聞こえていたかどうかは定かではないが、もし聞こえていたら余計に心配させてしまう。

 これ以上不必要に心配させるのも悪いと思った紗千夏は慌てて下着を脱ぎ、浴室へと入ってシャワーを浴び始めた。

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