第310話

「風まで出てきたな」

「なんか台風みたいでちょっとテンション上がるかも」

「ちょっとわかる自分が情けない」

「どういう意味だぁ?」

 エレベーターで五階まで上がった二人は、冗談を言い合いながら部屋に向かう。

 ここまで急な悪天候に見舞われれば、もう笑うしかない。

 文字通り嵐のようなハプニングに心を躍らせながら、涼太は玄関を開ける。

 部屋に立ち入る前に可能な限りシャツを絞るが、激しい雨と吹き込む風に絞った傍から濡れてしまう。

「これじゃどうにもならないな」

「みたい」

 同じようにシャツを着たまま絞っていた紗千夏が小さく笑う。

 バッグを開けて先ほどまで使っていたタオルを取り出すが、バッグの中もぐっしょりと濡れてしまっていた。

「とりあえず中、入れよ。廊下じゃ雨とイタチごっこだし」

「あー、だね」

 靴下まで脱いで部屋に上がった涼太は、薄暗い玄関の電灯を付ける。

 そこでようやく、ずぶ濡れになった紗千夏の姿をしっかりと正面から見た。

 見慣れたハズの白いTシャツにジャージ姿は、数分前とは全く違って見える。

「タオル取ってくるから」

 その現実から目を逸らし、フローリングが汚れるのも構わず脱衣所へと向かった。

「あ、うん。助かる」

 涼太が一瞬頬を赤らめた事に気付かず、紗千夏は短く答える。

 シューズの中まで濡れた状態では下手に動く事も出来ず、ずぶ濡れのまま玄関に立ち尽くす。

 シャツやジャージを絞りたいが、玄関を汚すのもどうかと思い、額や頬に張り付く髪を手持ち無沙汰にかき上げる。

 着替えようにも今着用しているシャツ以外は、全て部活や先ほどの練習で使用してしまった。

 汗で生乾きな事を無視しようにも、雨でそれ以上に濡れているのではどうしようもない。

「まいったな……」

 涼太のおかげで雨宿りは出来るが、この後どうすればいいのかがわからない。

「天城、これ。新品のタオルじゃなくて悪いけど、洗ってあるやつだから」

「全然いいよ、ありがと」

 タオルを頭に掛けて戻ってきた涼太から受け取り、紗千夏も髪を拭く。

 あまり使用していないタオルなのが、その柔らかさから伝わってきた。

 と、涼太が立ったままでいる事に気付く。

「在原、着替えないの?」

「着替えはするけど、天城も着替えないとだろ」

「あたしは平気。タオル貸してくれただけで十分だから」

「バカか。いいわけないだろ。俺の服しかないけど、それ貸すから」

「そこまでして貰うのは悪いし。あと部屋に上がると汚しちゃうし」

「もう俺が上がったんだから一緒だろ。なに遠慮してんだ」

「いやするでしょ、普通は。逆なら在原だって同じ事言うんじゃない?」

「……たぶん言うけどさ」

 遠慮する気持ちは十分すぎるほどわかるが、かと言って放っておくワケにもいかない。

「とにかく着替えないと。服も乾燥機使えばすぐ乾かせるんだからさ」

「じゃあ、ここで着替えるから」

「アホか。そんなとこで着替えさせられるか。いいから脱衣所使ってくれ」

「別にここでも……ぁ」

 遠慮する気持ちが先行していた紗千夏だが、そこでハッと気づく。

 ドアでリビングと玄関は遮られるとは言え、このまま着替えるという事は、玄関先で下着姿になるという事。

 いや、下着も濡れてしまっているので、場合によってはそれ以上もあり得る。

 涼太なら大丈夫だという信頼感はあるが、鍵の掛けられない場所で着替えるのは不安であり、同時に恥ずかしさもあった。

 かと言って着替える間、部屋の外に出ていてとも言えない。

「つーか、シャワー浴びた方がいいだろ、そこまで濡れたら」

「い、いや、さすがにそれは……っくしっ」

 意識した途端、またしてもくしゃみが出る。

 ほら見た事かという涼太の視線に、紗千夏は頭に掛けたタオルで口元を隠す。

「マジで風邪引かれたら悪いしさ。こうやって問答してる時間もバカみたいだろ?」

「まぁ、そうかも……で、でも在原はどうすんの? シャワー、浴びないと」

「俺はまだくしゃみしてないから後でいい。髪も短いから乾かすの、簡単だしな」

 そう言ってタオルを首に掛けた涼太の髪は、すでにほぼ乾いている。

 これこそが短髪の利点だとでも言いたげだ。

「……それじゃ、うん。お邪魔します」

 爽やかな涼太の笑顔に根負けし、紗千夏は小さく頷く。

「ろ、廊下とか、あとで掃除するから」

「いいって。どうせ掃除するんだから気にしないで脱衣所に直行してくれ」

 紗千夏の遠慮を払拭するように、水を滴らせながら涼太はリビングに向かう。

 フローリングに落ちる水滴と広がる水たまりを眺めつつ、紗千夏はシューズと靴下を脱いで部屋に上がった。

「サイズは大丈夫だろうから、あんまり着てない服、置いといた」

「あー、ありがと」

「乾燥機、使い方わかるよな? ボタン押すだけだし」

「たぶん平気」

「シャワーも……大丈夫か」

「うん」

「あ、鍵かけられるから」

「はい」

「じゃあ……ごゆっくり」

「なにそれ」

 終始頭を掻きながら、なぜか微妙に視線を逸らしたまま話す涼太に苦笑しつつ、紗千夏は脱衣所に入ってドアを閉めた。

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