第309話

 休憩を挟みながら三時間。

 みっちりと紗千夏の指導を受けた涼太は、さすがに限界を迎えてベンチに横たわっていた。

 温くなりかけの缶を額に乗せ、タオルで顔を覆っている。

 その様子を横目に見つつ、紗千夏は最後にスリーポイントシュートを決めてからベンチに戻った。

「在原、そろそろ帰る準備しよ」

「ん、あぁ……もう時間か」

「コートは空いてるからしようと思えば延長出来るけど?」

「ごめん無理」

「だろうね。だから切り上げよ。ちょっと雨も降りそうな感じだし」

「……だな」

 起き上がった涼太は温いジュースを飲み干し、荷物をまとめ始める。

「シャワーとかどうする?」

「あー、まぁいいかな。どうせ帰れば入れるし。ロッカールームで着替えだけしてくる」

「じゃあ俺もそうするか」

 利用者が少ないとは言え、コート脇で着替えるワケにもいかない。

 かと言って二人ともかなり汗を掻いたので、着替えずに帰る気にもなれなかった。

 それぞれにロッカールームへ向かい、汗を拭いて着替えてから事務所の前で落ち合う。

 先に支度が終わった涼太は自販機でジュースを買い、喉を潤しながら待つ。

「お待たせ。やっぱ男子は早いね、こういう時」

「二、三分なら大差ないだろ」

 制汗剤の香りと共にやって来た紗千夏に涼太はそう答えた。

 二人はそのまま駐輪場へ向かう。

「あれ、もしかして在原歩き?」

「そんな距離もなかったから。付き合わせるのも悪いし、先に行っていいぞ」

「んー、いや、いいよ。どうせ後は帰るだけだし」

 一瞬だけ考え、紗千夏は自転車を引いて涼太と歩く事を選択した。

 歩いても十分程度の距離だが、あえて先に帰る理由もない。

 二人は車があまり通らない住宅街を歩き、涼太のマンションを目指す。

「思ったんだけどさ、練習したらそこそこスポーツ、出来るんじゃない?」

「そうか?」

「今日やった感じだとね。呑み込み早かったし」

「天城にそう言って貰えるなら光栄かもな」

「いや真面目にさ。運動部に入った事ないんだっけ?」

「ないな。これと言ってやりたいスポーツとかないし、オリンピックとかワールドカップも観戦とか全然しないから」

「あー、あたしもそこはあんまり見ないかな。自分がやるのが楽しいだけだから」

「天城らしいな」

「らしい、のかなぁ?」

「いい意味でな」

 そういうものか、と今一つピンと来ないまま紗千夏は納得する。

 涼太の柔らかな笑みに悪意は感じられず、むしろホッとするものがあった。

「でも不思議。高校はまだしも、中学の時とか友達に誘われなかった? 一緒にやろうぜ的なさ」

「あったけど、そのつもりはなかったし」

「面倒だった?」

「いや、なんつーか……運動部だと帰りも遅くなるし、いろいろとさ、手間が掛かるだろ? 中学の時はもう母親しかいなかったから、そういうのはちょっとな」

「……そっか。なんか、ごめん」

「謝るとこじゃないから。そういうのも全部、俺が自分で決めた事だし」

 だから暗くなるような話題ではないと涼太は笑う。

 その笑みは真っ直ぐで、爽やかな気配をまとっている。

 紗千夏は一瞬息を呑み、それから同じように笑みをこぼす。

「もしかして、中学の頃は早めに帰ってご飯作ったりとか?」

「よくわかったな」

「やっぱりか。在原ならやりそう」

「大したものは作れなかったし、毎日ってワケでもないから、大した事じゃないけど」

「十分凄いと思うけどね」

「ま、そのおかげで一人暮らしも割とスムーズに出来たと思う。自炊とか家事とかさ」

「バイトもあるからそれでも大変でしょ、やっぱ」

「俺のワガママだし」

 そう答えながら涼太は苦笑する。

 以前のように子供っぽいと自虐する感情は大分薄れた。

 こんな風に軽い調子で話せるのは、それだけ現状を受け入れる事が出来た証だった。

 それに加えて、天城紗千夏はそう言った話をしやすい相手でもある。

 事情を知り、聞いてくれる相手がいるというのは涼太にとって救いだ。

 そんな話をしながら歩き、マンションが見えてきたタイミングで二人の頬を雨粒が打つ。

「げ、降って来ちゃった」

 紗千夏は楽しい会話に文字通り水を差された気分で、曇天を見上げる。

 その直後、空を引っ繰り返したような勢いで土砂降りに見舞われた。

 雷の音さえ掻き消すほどの豪雨に、二人は一瞬でずぶ濡れになる。

「ちょっ、すごっ、ははっ」

「笑うとこじゃないだろっ。と、とりあえずマンションまで走るぞっ」

「だねっ」

 すぐ止むにせよ、このまま雨に打たれているのは良くない。

 ほとんどが着替えや使用済みのタオルしか入っていないとは言え、荷物はある。

 それに雨の勢いは凄まじく、打たれるたびに少なからず痛みを覚えるほどだった。

 マンションのエントランスに駆け込むまで一分と少し。

 たったそれだけの時間で、二人は全身水浸しになっていた。

 足元に広がる水たまりがその凄まじさを物語る。

「とんでもない雨だなぁ」

「通り雨、で済みそうにもないか……」

「かも……どうしよ」

 ここから紗千夏の家まで、自転車を使っても十分以上掛かる。

 この豪雨の中を行くのはさすがに危険だ。

「これじゃ前、見えないだろ」

「厳しいよね、やっぱ……」

 自転車以上に走っている車両も怖い。

 大丈夫だろうと楽観するほど、二人は危険知らずではなかった。

 ならば雨が止むまでここで待つのが無難だろう。

「へっくしっ!」

 が、大量の汗を掻いた後にこの雨だ。

 いきなり身体が冷えたせいで、紗千夏がくしゃみをする。

 あまり可愛いとは言えない豪快なくしゃみを聞いた涼太は、顔を背けて笑いを堪える。

 当然紗千夏もそれに気づき、恥ずかしさと怒りの混じり合った顔つきになった。

「在原、ちょっとこっち……っぶしぃ!」

 続けざまに出たくしゃみに涼太は思わず吹き出し、紗千夏は憤慨する。

 だが、それよりもどうにかすべき問題はあった。

「と、とりあえずここじゃアレだし……うちで雨宿りにしよう」

 涼太は深く考える事なく、紗千夏を宥めるように提案した。

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