第307話

「ほいお疲れ。しっかり水分補給して」

「お、おう……」

 放り投げられたペットボトルを受け取った涼太は、すぐさまキャップを開けてスポーツドリンクを流し込む。

 基礎練習は一時間以上にも及び、涼太はかつてないほど汗を掻いていた。

 合間に水分補給はしていたが、ちゃんとした休憩はこれが初めてになる。

 一気に飲み干す涼太を眺めつつ、紗千夏も喉を潤す。

 疲労の見える涼太とは違い、余裕のある表情だった。

「ちょっと飛ばし過ぎた?」

「正直、明日の筋肉痛が怖い。よく平気な顔でいられるな、天城は」

「あたしはほら、教えてる側だし」

「だとしてもだよ。部活もやってきたのに、やっぱ運動してるやつは違うな」

「それでも暑さは別。タオル、これでいい?」

「あー、それだ。助かる、ありがとな」

 ベンチに置いてあったタオルを手渡した紗千夏は、自身もタオルで汗を拭う。

「それも使ってるんだな」

「ま、こういうのは使ってなんぼでしょ」

「だな」

 紗千夏の笑みに涼太も頷く。

 彼女が使っているタオルは、誕生日に涼太が贈った物。

 加えて紗千夏が付けているリストバンドも、同様に涼太からのプレゼントだ。

 朝練や部活でも毎日使用している。

 プレゼントされて一ヶ月と少ししか経過していないが、すっかり紗千夏の一部として馴染んでいた。

「もう空か……ちょっと飲み物買ってくるわ」

「あ、ならあたしも。ちょっと待って」

 三分の一ほど残っていたスポーツドリンクを飲み干し、紗千夏は涼太に並んで事務所へと向かう。

 そこにある自販機でスポーツドリンクを購入し、二人はベンチまで戻った。

「にしても、これだと貸し切りみたいだな」

 ベンチに腰かけた涼太はがらりとしたコートを見回す。

 テニスコートなどには他の利用客の姿が見えるが、三面あるバスケのコートには涼太たちしかいない。

 おかげで荷物などを気にせず、二人で事務所に向かう事も出来たのだ。

「気楽でいいじゃん。変なとこにボール飛んでっても困らないし」

「シュートが下手で申し訳ない」

「だから練習してんでしょ」

「まぁな」

 苦笑しながら喉を潤し、涼太はタオルで額の汗を拭い、そのまま前髪をかき上げる。

「髪、ちょっと伸びて来た?」

「あー、少しはな。もう二ヶ月経つし、普通だろ?」

「そっか、もう二ヶ月経つんだ」

 涼太の髪を切ってからそんなに経つのかと、紗千夏はペットボトルに口を付けながら頷く。

 大きく息を吐いてベンチに背中を預ける涼太の横顔を、何となく似たような体勢で紗千夏は眺める。

 汗でしっとりとした髪のせいか、いつもとはなにか違って見えてしまう。

 眩しそうに目を閉じ、またタオルで汗を拭う涼太。

 何気ないその仕草に、紗千夏は不意を打たれたように息を呑む。

 運動部なら別に珍しくもない動作だが、涼太のそれを見るのは初めてだった。

 だから、とでも言うべきか。

 ドキッとさせられた紗千夏はベンチから背を離し、正面に顔を向ける。

 膝のあたりに肘を付き、手に顎を乗せたまま首に掛けたタオルで汗を拭う。

 暑さとは違うなにかに発汗しているような気がして、落ち着かない気分だった。

 そんな紗千夏の様子を、涼太は斜め後ろから見ていた。

 口元をタオルで隠す紗千夏の表情は、斜め後ろからという事もあり見て取れない。

 涼太にとって紗千夏が汗を拭う姿は見慣れたものだ。

 朝練で何度となく見ている。

 が、これほど近くで見るのは初めてだった。

 その距離の違いが、見慣れているはずの姿をベツモノのように見せる。

 期せずして涼太も紗千夏の横顔に見惚れそうになるが、不意に目が合いそうになってしまう。

 涼太は咄嗟にペットボトルに口を付け、大袈裟に傾ける。

「げほっ、ごほっ!」

 必要以上に傾けたせいでスポーツドリンクが気管に入り、涼太は咳き込んだ。

「ちょっ、大丈夫?」

「あ、あぁ……悪い、掛かってないか?」

「あー、うん。あたしはなんとも……気管入った感じ?」

「だ、だな……その、こんなに汗掻くの久しぶりだから、喉渇いてさ」

「だからって、ふふっ……おもしろ」

「笑うなよ……」

 恥ずかしい姿を見せてしまった涼太は憮然としつつ、口元や喉をタオルで拭った。

「動画に撮っておきたかったなぁ。もっかいやって?」

「やるか……ったく」

 羞恥心のせいでまた掻いてしまった汗を拭い、改めて喉を潤す。

「ま、この天気でも暑いしわかるけどね」

「本当にな。海行った時でもこんなに汗、掻かなかったんだけど」

「あー、確かに」

 何気ない涼太の言葉に頷いた紗千夏だが、そのまま黙り込んで前を向く。

 涼太もまた、唇を引き結んでいた。

 二人の頭に浮かんでいるのはもちろん、夏休みに行った海水浴の事だ。

 互いに互いの水着姿を思い出してしまったのは、仕方がない。

 ある意味ではシンクロしている二人の感情だが、お互いにそれを確かめ合う事はない。

 結果、奇妙な沈黙が訪れてしまう。

「よし、それじゃあ残りの時間はもうちょい、実践的なやつやろっか」

 居心地の悪い沈黙が長引くのを嫌がるように紗千夏は立ち上がった。

「実践的なやつって?」

「それはもちろん、ワンオンワンでしょ」

 得意げに笑みを浮かべた紗千夏は、挑発するようにボールを人差し指の上で回して見せた。

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