第4話

 見えない何かに弾かれるような目覚めだった。

 目を開いた瞬間目に入って来たのは、いつもの天井。

 自分のベッドで目が覚めたのだと、瞬時に理解できるくらい見慣れた光景だった。

「……いつ、寝たんだっけ」

 いつも通りの光景だったが、いつベッドに入って眠ったのかが思い出せず、涼太は顔を手で覆った。

 目を閉じて眠る前の事を思い出そうとし、鈍い頭痛を覚える。

 それだけではなく、身体も全体的に怠かった。

 筋肉痛とまでは行かないが、思いきり運動をして疲労が残っている、そんな感覚。

「服、そのまま……で、シャワー、浴びてないな……」

 寝苦しさを覚えた涼太は、自分が学校の制服を着たままなのが原因だと理解する。

 そのまま髪を触って確信した。

 どうやら自分は、シャワーも浴びず、着替えもせずに眠ったのだと。

「でも…………いや、確か、変なことがあったような……」

 そうだ、と目を見開く。

 眠る前の、昨夜の出来事が一瞬にしてフラッシュバックする。

 およそ現実とは思えない、理解しがたい光景ばかりだ。

「夢、だよな……そうだ、そうに決まってる。じゃなきゃ……ん?」

 そこでようやく涼太は気づいた。

 仰向けで寝転がっている自分の左側に、妙な気配を感じる。

 自分一人しかいないはずのベッドの上。

 涼太はまさかと思いつつ、頭を左側に向け、

「――わぁぁぁぁっ!」

 そこにある光景を見た瞬間、悲鳴を上げてベッドから飛び起きた。

 転がるようにしてベッドから離れ、テーブルに踵をぶつけて呻く。

「ってぇ……クソっ」

 痛みを感じるという事は、これが夢ではなく現実だという証だ。

 混乱する頭に手を当てながら、涼太は必死に理解しようとした。

 いや、思い出そうとした。

 一体なにがどうなって、こんな状況になっているのかを。

「……ん、騒々しいな……品がないぞ」

 しかし、なにかを思い出す間もなく、悲鳴の原因となったそれが目を覚ました。

「お、おお、お前っ……な、なんでそこにいる!?」

「いきなりだな。まずは挨拶が基本ではないのか?」

「そ、それは普通の場合だ! って言うか、お、起き上がるな!」

 無防備に身を起こすそれから目を逸らし、涼太は叫ぶ。

「ん? あぁ、そういえば服は脱いだままだったな。まぁ、気にするな」

「そっちが気にしろ!」

「……面倒な男だな、まったく」

 まるで涼太の反応が非常識だとでも言いたげにぼやき、それは――その女はベッドの脇に脱ぎ捨てていたシャツを拾い上げて着用する。

 それは間違いなく、涼太が部屋着として使用しているシャツの一枚だ。

「これでいいか?」

 女はそう言うと、ベッドに腰かけて優雅に足を組む。

 涼太は警戒しつつ、その女を改めて凝視した。

 昨夜は暗がりの中だったが、今はカーテンの隙間から朝陽が差し込んでいる。

 だからよりはっきりと相手の姿がわかる。

 宝石のような深紅の瞳に不遜な態度。

 耳飾りを付けたその顔は整いすぎていて、逆に恐怖すら感じる。

 昨夜は気づかなかったが、両手の中指にそれぞれ指輪をつけていた。

 間違いなくその女は、昨夜部屋の中まで侵入してきた厄介事の塊だった。

「望み通り着てやったというのに、そうじっくりと眺めるとは……やはり脱ぐか?」

「バカ言うな……」

 からかうような女の言葉に、涼太はついいつも通りに答えてしまった。

 気心の知れた友人の軽口に答えるように。

 そんな涼太の態度をどう思ったのか、女は口元に笑みを浮かべる。

 特に意識したわけではないが、その唇の動きに目が行ってしまう。

「そう、だ……」

 涼太はポツリと呟きながら、自分の唇に触れた。

 夢だと思いたかった昨夜の出来事が、疑いようがないほど鮮明に蘇る。

 意識を失う寸前、涼太は正体不明の女に唇を塞がれた。

 その女の、唇で。

「俺は、なにを……」

「さて、なにをしたと思う?」

「ま、待て! な、なにかしたのか?」

「薄情な男だな。一晩を共にしたと言うのに」

 女はそう言いながら、僅かに目を細めた。

「貴様の寝顔はなかなかに可愛らしいものだったぞ、在原涼太」

「なな、なに言って……ん? 待て、なんで俺の名前を知ってるんだ?」

「どうしてだろうな?」

 次々と湧いて来る疑問に対し、女は楽しげに肩を竦める。

 あからさまに誤魔化そうとするその態度に、涼太は苛立ちを覚え始めた。

 昨夜、キスをされて気を失ってから、なにがあったのか。

 なぜ目の前の正体不明な女が、自分のフルネームを知っているのか。

 わからない事だらけで、どこから確かめればいいのかさえわからない。

「悩むのは結構だが、いいのか? 確か貴様は、学校とかいう場所に行かなければならないのだろう?」

「そ、そうだ! あぁもうこんな時間かっ」

 非常識の塊のような女の常識的な指摘に、涼太は我に返る。

 今日はまだ平日で、学校に行かなければならない。

 目覚ましのアラームが鳴らなかったのか、いつもの起床時間を過ぎている。

「出かけるのなら一つだけ忠告してやろう。軽くでいい。湯浴みをしてから行くのだな」

「湯浴み? あ、あぁ、そういえば……」

 身体に纏わりつくような不快感が確かにあった。

 着替えはもちろん、せめてシャワーくらいは浴びて行きたいところだ。

「時間は……まぁ、ギリあるか」

「私の忠告に感謝してもいいぞ?」

「するか!」

 不遜な女に対し、涼太は叩きつけるように言って浴室へと駆け込んだ。

 そして文字通り軽くシャワーを浴びて汗を流し、最低限の身だしなみを整えて玄関に向かう。

 そのまま玄関のドアに手をかけてから振り返る。

「私の事は気にするな。貴様が戻るまで大人しくしていると誓おう」

 サイズの合わないシャツ一枚で腕を組み、女はさも当然のように言う。

 言ってやりたい事は山ほどあるし、怪しすぎる女を部屋に残してまで学校に行く必要があるのか、涼太も悩んでいた。

 学校を休み、目の前の問題を解決するほうがいいのではないか?

 シャワーを浴びながら、何度も自問自答を繰り返した。

「……どうせなら、出てってくれ」

 期待はせずに一応そう言ってみるが、女はあしらうように鼻を鳴らすだけだった。

 涼太はため息すら面倒だと諦め、部屋を出た。

 この時間ならまだ遅刻をせずに済む。

 特大の厄介事を後回しにしてでも、遅刻や欠席は回避したい。

 涼太はなにを優先すべきかを決め、学校に行く事にしたのだ。

「って、そうだった……自転車……マジか」

 マンションの駐輪場まで行ったところで、自転車がない事を思い出した。

 もういっそ諦めて学校を休んだ方が楽だろうと、さすがの涼太も考える。

 が、それでも全力で走れば遅刻はまだ回避できると、すぐに思い直して走り出した。

 学校から親の元に連絡が行くよりはマシだと、自分に言い聞かせて。

 そんな慌ただしすぎる朝を経て、涼太は朝礼の数分前に到着したのだ。

 改めて思い返してみても、わけがわからなすぎると涼太は内心ため息を吐く。

 正体不明な女を自室に残して来た事も気がかりだ。

 そもそも、気を失ってからなにがあったのか。

 諸々の不安や問題をひとまず棚上げし、涼太はおにぎりを平らげてペットボトルで喉を潤す。

「ご馳走さまでした。ホント助かった」

「ん、それはなにより。お礼はまぁ、そのうちでいいからさ」

「あぁ、そのうちな」

 紗千夏のそんな軽口さえ今は安らぐと、涼太は笑う。

 同時に朝礼の始まりを告げるチャイムが鳴り、普段通りの学校生活が始まった。

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