第3話

「ギリ、間に合ったか……」

 独特な朝の空気に満たされた教室のドアに手をつき、涼太は大きく息を吐く。

 朝礼のチャイムがなる五分前。

 額や頬を伝い落ちる汗を手で拭いながら、疲れた足取りで教室に入る。

 座るべき席は入り口からすぐそこ。

 廊下側の、前から二番目が在原涼太に与えられた席だ。

 高校二年に進級してから一ヶ月と少し。

 出席番号順で割り振られたその席に、涼太はぐったりとした様子で座る。

 机の上に鞄を無造作に置き、それを枕代わりに突っ伏す。

「頭いてぇ……」

 誰にともなく呟き、今度はため息を吐いた。

「おはよ在原」

「……はよぅ」

「ひっどい挨拶。朝から不景気極まりすぎ。どしたの?」

 一つ前の席から気さくに話しかけてくる女子生徒の声に、涼太は顔を上げる。

「うわ、汗ヤバ! なに、なになに? え、ヤバすぎて怖い」

「笑うな……」

 滝のような汗を掻く涼太を見て、彼女は遠慮なく笑った。

 彼女の名前は天城あまぎ紗千夏さちか

 涼太のクラスメイトであり、一つ前の席に陣取る友人だ。

 肩にかかる長すぎも短すぎもしない髪を軽く掻き上げ、紗千夏は涼太の顔を覗き込む。

 そして手にしたおにぎりを頬張った。

 コンビニで売っているものより、二回りほど大きいサイズのお手製おにぎりだ。

「てかマジでヤバいって。とりあえず汗、拭いた方がいいよ」

「体育ないだろ、今日……タオルなんて持ってねぇ」

「あー、帰宅部はそうか。なら貸してあげるよ、ちょっと待って」

「いや、別に……」

 放っておけばそのうちなんとかなる、と涼太は遠慮しようとしたが、紗千夏はすでに足元の鞄を漁り始めていた。

 そこに置かれているのは、少し大きめのスポーツバッグだ。

「はいこれ」

「え、いいのか? これ……」

「ん? あぁ、平気平気。まだ使ってないやつだし。あ、それとも朝練で使ったやつの方が良かった?」

「あのな……」

「んー、でもゴメン。さすがにあたしもそれは無理かなって。未使用品で我慢して」

「バカ言ってろ……」

 いつもと変わらない冗談を言いながらおにぎりを頬張る紗千夏に、涼太もつられて笑った。

「んじゃ、遠慮なく借りとく。ありがとな。明日、洗って返すから」

「いいって、うちで洗うから。一枚増えても誤差だし」

「でも、こういうのはさ」

「いいから。さっさと拭いて返して」

「……わかった」

 平行線になる前に、紗千夏の性格をよく知る涼太が折れた。

 こういう場合、紗千夏が意見を変える事はまずない。

 涼太は受け取ったタオルで顔や首元の汗を拭った。

 自分の洗濯物からはまずしない、柔らかい匂いに包まれる。

 洗剤や柔軟剤の違いもあるが、それだけではない。

 紗千夏が利用している制汗剤の匂いと、他人の家の、なんとも言えない独特な匂いや気配が混じっていた。

 涼太にとって天城紗千夏は、明るく話しやすい友人の一人だ。

 二年に進級して初めて同じクラスになり、出席番号順から前後の席になった。

 お互い、一年生の頃からちょくちょく顔は合わせていたが、友人と呼べる関係になったのは二年に進級してからだ。

 まだ一ヶ月と少し。

 それでも紗千夏は涼太にとって、古くからの友人のようだった。

「時間は……よし、もう一個いける」

「まだ食うのか?」

「朝練で疲れてますから」

 紗千夏は得意げに言って、鞄からもう一つおにぎりを取り出した。

 そして、豪快にかぶりつく様子を見ていた涼太の腹が鳴る。

「あれ、今のって在原? なに、朝食べてないの?」

「……そういや、食べてない」

「そういやって……あ、もしかして寝坊した?」

「まぁ、半分はそんな感じ……」

「残りの半分は?」

「自転車、パンクしてて」

 正確には、昨夜のバイト帰りにパンクし、バイト先のコンビニに置いてある。

 普段は通学にも利用しているため、今日はいつもの通学路を歩く必要があった。

「それはまた災難で。てか、寝坊なんて珍しいじゃん。やっぱバイト、入れすぎなんじゃない?」

「そんな事はない、と思うんだけどな……」

 歯切れ悪く答えながら、涼太は腹を擦る。

 一度意識してしまった空腹は誤魔化しようがない。

 汗だくになるほど走ったあとでもあるので、余計に空腹を感じてしまう。

「ならこれ、一個あげる」

 見兼ねた紗千夏はそう言って鞄からもう一つおにぎりを取り出すと、涼太に差し出した。

 自分の拳より少し大きいおにぎりを前に、涼太は紗千夏を見た。

「いいのか?」

「うん。一個くらい減っても、まぁ大丈夫」

「授業中に腹が鳴っても俺、責任取れないぞ?」

「鳴らないし……たぶん」

「たぶんかよ」

「いいの。もしもの時はすぐ在原になすりつけるから」

「……まぁ、おにぎりの代価としてならいいけど」

「その時はよろしくね。女子高生としてのメンツがかかってるから」

「わかった。俺のせいにしてくれていい」

 本気とも冗談とも取れる笑顔を浮かべる紗千夏から、涼太はおにぎりを受け取った。

 見た目よりもずっしりとした重みのあるおにぎりだ。

「天城マジで女神……そんじゃ、いただきます」

「ん、召し上がれ。あんま時間ないけど」

「っと、急がないとな」

 朝礼が始まるまで時間は残されていない。

 その間におにぎりを食べきらなければならなかった。

 冷めた天城家お手製のおにぎりは、コンビニのものとは一味も二味も違う。

 不思議と舌に馴染む味だ、と涼太は考えながら目覚めたときの事を思い返す。

 遅刻しそうになった、その原因を。

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