第13集:香りの記憶

 ここは、とある豪華な屋敷の一角。

 辺りが夜になっても、執事室は日中と変わらず慌ただしいままである。


 だが――それは当然!

 お嬢様の執事たる私の仕事に、休息はありえないのである!


 はてさて。もうすぐで午後11時。

 そろそろ私を呼ぶお嬢様の声が、屋敷中に響く時間である。


「執事ー!ちょっと来てくれるかしらっ!」


「はっ。ただいま向かいますお嬢様」


 執事は足早にお嬢様の部屋へ向かう。すでに彼女は薄い桃色の頬を膨らませており、ベッドの横に佇んでいた。

 

 そして待ち侘びた様子で、


「執事。部屋の香りが良過ぎて、寝られないわっ!」


 幼さの残る声色を跳ねながら言葉を紡いでいく。


「一体どうしてくれるのかしらっ!!」


 …はてさて。

 ここからが私の仕事である。


「申し訳ありませんお嬢様。ではお嬢様の願いとは?」


 するとお嬢様は意地悪気な笑顔を浮かべてみせた。どこか憎らしくも思えるが、年齢相応の無垢な少女の微笑みである。


 彼女はおもむろに執事を指差して、


「私を寝かしつけなさい。以上よっ!」


 不敵な笑みを浮かべており、まるで執事を試している様子だ。しかし言動は、やはり子供そのものである。


 部屋の香りが良過ぎて寝られない――ふむ。まったく関係は無い。


 だが!

 ここでお嬢様の願いを叶えられないようでは、それは三流執事!


 残念ながら私は、一流執事なのでございます…。


「承知しました。それではここで一つ提案がございます」


 執事は下げていた頭をゆっくりと上げて、瞼を細めてお嬢様を見つめた。

 心做こころなしか彼女の瞳は、従順な仔犬のように期待に満ちているようだった。しかしこれもまた見慣れた日常の一幕である。


 その瞳に応えるように、執事は答える。


「私、実は詩を書くことが趣味でございまして…」


「ふふっ。今夜も待ってたわ執事」


 彼女は待ち侘びたように、乾いた唇を小さく舐めてみせた。





 ◇◆◇◆




【第13集:香りの記憶】


 あなたを想って 胸に秘めた言葉がある

 あなたを想って 優しく高鳴る心がある

 あなたを想って 独り眺める夜空がある


 肩に残る微熱 頬寄せて

 思い出の世界 抱き寄せる

 揺れる風の音に耳すませば

 過ごした 確かな日々がよみがえ


 千の歴史が 身体を駆け抜けてゆく

 立ち尽くす 道の途中

 かつての甘い香り 思い出をくすぐ


 濃いも薄いも数ある

 戻らない思い出に 今夜は身を預けてみたい

 誰とも分かり合えなくていい

 心の片隅 置き去られた宝物

 今はまだ忘れていたくはない



 あなたを想って 訳もなく流す涙がある

 あなたを想って 震えて揺れる声がある

 あなたを想って 独り眺める星空がある


 遠くの海に落ちゆく夕陽

 名残惜しく 波は寄せて

 水面散り浮く残照が手を振れば

 瞬く間に 孤独な影法師が伸びる


 透明な明日が

 舌を出して待ち侘びている

 眠れぬ 真夜中の途中

 かつての淡い香り そっと握りしめて


 淡さも切なさも数ある

 忘れ得ぬ夢心地に 今夜は何も考えたくはない 

 胸に食い込む 切なさの意味

 あなた 一度だけ置いた忘れ物

 荒れ果てた空に 漂う香りが今沁みる



 気付けば鳥の鳴き声が唄い

 湖に 朝日は煌めいて


 楽しさも寂しさも数ある

 彩る思い出に 今夜は微笑んでいたい 

 本当は過去にとらわれたくない

 何度も捨てられなかった宝物

 整頓したこの心に 置かないことにした


 記憶に残る香り

 絞める想い 胸に宿して

 今日も歩んでゆくから




 ◇◆◇◆




「――さて如何でしょう?お嬢様」


「すー…すー…」


 おやおや…。

 どうやらお嬢様は、眠ってしまったようでございます。


 はてさて。もう夜も深い。

 それではあなた様も、どうか良い眠りを。


 え?

 私はいつ眠るのか、ですって?

 

 いやはや…お優しいお心遣いありがとうございます。


 しかし心配はご無用でございます。


 執事たる者。

 お嬢様のためならば休息など必要ございませんゆえ…。


 それにまたすぐに、お嬢様から呼ばれるかもしれませんから――ね。 


「それではお休みなさいませ。お嬢様」


 日中、陽に干された布団は暖かさを帯びており、良眠を誘うのに申し分が無い。また部屋全体を包むアロマの香りも穏やかな眠りへと誘う。


 もちろんその香りを堪能するのに、執事も例外ではない。桃色を基調とした布団をお嬢様に被せると、執事はすんっと香りを吸って、

 

「ふむ…早速ローズウッドのアロマですか」


 ローズウッドの香りは、時折日本の月桂樹に例えられる。

 その甘く清々しい月桂樹に似た香りは、日々の喧騒を忘れさせるほどに芳しい。張り詰めた神経が解されるようである。


 思わず執事の表情も綻んだ。

 

「ふふふ。明日のお買い物に向けて、すっかりリラックスをなさっている様子ですね。お嬢様」


 そう。明日は前回執事への罰として、お買い物の同伴を命ぜられた日なのだ。彼女は執事とのお買い物が待ち切れない様子であり、明日に備えてわざわざローズウッドのアロマを執事に購入させたほどである。


 本日の夕食でも、遠足前の子供のように、どこか浮き足立った様子で落ち着きが無かったほどだ。つまりお嬢様にとって、2人きりのお買い物は待ち焦がれたイベントで相違ない。


 その純情を知っているからこそ、早々に部屋を出て彼女に休息を与えるのが執事の役目である。


 カツカツカツ。

 執事は黙したまま、革靴を鳴らして扉へと向かう。


「ではまた明日。お嬢様」

 

 背中で小さく呟いて、部屋を出て行く。廊下に間断なく鳴る足音は遠ざかっていった。


 そして完全に足音が消えると、不意にお嬢様はむくりと身体を起こした。案の定、狸寝入りであり、口角が上がったままだった。


「えへへ…このまま寝れるものですか。明日着ていく服でも用意しよっと!とびっきり可愛い恰好で行ってやるんだからっ!」


 そして鼻唄交じりで彼女は、深夜まで浮き立つ想いに馳せて洋服を漁るのだった。しかし深夜に力尽き、床で散らばった洋服の真ん中で寝てしまうのだった。


 狸寝入りを見抜いていた執事が、そんな彼女の衣服を密やかに戻したのは、また別の話である――。


 夜もより一層深くなって参りました。

 あなた様も、本日はここまでお付き合い下さり誠に感謝でございます。


 さてはて、明日のお買い物はお楽しみ頂けるのでしょうか。私にも分かりますまい。


 ただ一つ分かることは――またすぐにお嬢様に呼ばれるということだけでございます。  

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