第2話 出会い

「…………」


 彼女との対話は沈黙から始まった。彼女はこちらを上目遣いで睨みながら様子をうかがっている。いきなり暴力を振るわれるということはないようだ。この緊迫した状況を解決したいが、彼女に対して気後れしてしまい言葉を発せない。下手なことをすれば即座に襲われるのではないかと戦々恐々としていた。そもそも今の頭ではろくな考えが浮かばない。


「…………」


 こちらが行動もせず無言のままでいたため、彼女の怒気が強まるのを感じた。このままではよくないと思ったが、その思考自体がすでに遅く、いつの間にか彼女の両腕が自分の胸元まで伸びていた。そして自分の胸倉を掴み引き寄せ、彼女の顔が目の前にまで近づいたところで怒りが爆発した。


「なんでまだ家にいるのよ! それに言い訳の一つもしないなんて。……まさか今起きたの!」


 彼女が激高してこちらを非難する言葉を口にした。その内容を聞いてもすぐには理解できず戸惑ってしまった。内容的にはこちらが悪いことをした、いや正確には何もしなかったことが悪いのか。ともかく情報が足りず把握できなかった。もともと夢なのだから期待する方が悪いのはわかっている。それでも解決できないかと考えた。しかしそれを許さぬほど彼女は声を荒げてこちらを責め続けた。


「今日は! 大事な私の旅立ちの日でしょ! 普段から寝坊助だけど、今日という日にまで寝坊するなんて。馬鹿なの! ねえ馬鹿なの!」


 こちらに対しての文句が止まらないのか掴んだ手をさらに締め上げ、次々とこちらを責める言葉を吐き出していた。これだけ怒るということは相当なことを仕出かしたのだろう。正直もうお手上げだった。もはや彼女に言われるがまま責められ続けるしか道がなかった。よく夢は支離滅裂な内容が多いと聞くが、この夢も例外ではなかったらしい。


 次第に彼女の声が聞こえにくくなってきた。それに合わせて意識まで朦朧もうろうとしてきた。もしかして夢から覚めるのでは。引き寄せられていたため、すぐ目の前に彼女の顔があった。薄れていく視界には彼女の顔、もう碧眼へきがんの瞳しか映っていなかった。最後にこれだけ容姿がいいのだから、怒った顔ではなく笑った顔が見たかったなと残念に思いながら――


「……あっ」


 何も言わず固まっていることにいぶかしんだ彼女が、何かに気付いたのか掴んでいる手を突然離した。その直後。


「ゴハッ、ゴホッ、ゴホッ……ハァッ……ハァハァ……」


 足に力が入らず崩れ落ちるように四つんいになった。無意識に体は空気を求めており、一呼吸ずつかすんでいた意識が鮮明になっていく。おそらく強く絞められすぎて意識がなくなる直前だったと見当をつけた。夢の中なのに意識がなくなるってどうなのだろうと頭の片隅に思いながら荒い呼吸を続けた。


 何度も呼吸をするうちに落ち着いてきたので、恐る恐る彼女の方を見上げた。さすがにもう一度締められるのは夢とはいえ遠慮したい。そこで待っていたのは、ばつの悪そうに照れ笑いを浮かべた彼女がこちらに向けて手を差し伸べていた。


「あはははは……ちょっと強すぎちゃったかなー。……大丈夫? ……大丈夫だよね?」


 先程の印象から想像できないほど魅力的に映る少女がいた。すでに彼女からは険悪な雰囲気がなくなっており、ひとまず胸をなでおろすことができた。安心すると今の状況について冷静に考えることができた。倒れた自分を助け起こそうと彼女が手を伸ばしている。可愛い女の子と触れ合うことができるのは嬉しい反面、少し気恥きはずかしい。


 結局のところ彼女の手を無視する形で立ち上がった。恥ずかしさが勝り手が取れない、そんな小市民的な自分が嫌になる。しかしそんな葛藤かっとうを知らず差し出した手を取らなかったことに、彼女は予想外だったのか子供のように頬を膨らませ怒りだした。


「なんだよー、そんなに怒るなよー。やり過ぎちゃったのは謝るって、ごめんってば。……でもでも大事な約束をすっぽかすのも悪くない? ……悪いよね? ……いや悪いはず!」


 途中から首を傾げつつ納得がいかないのか、ペシペシと何度も叩いてきた。さすがに今度は加減されていて痛くはなかった。最初のイメージから一転し、子供っぽい態度になって少々驚いたが、おそらくこちらが本来の彼女なのだろう。そして行動を見る限り相当自分に対して気を許しているように見える。夢なので真面目に考察するのもあれだが、最初の件はよほどのことをしたのだと思った。


「ああっ! そういえば隣のおばさんから旅のお供にってイチゴ貰ったんだよ、イチゴ。たしかイチゴ好きだったよね。特別に分けてあげるから、だからさっきのは許して……ねっ!」


 唐突に彼女は提案をして肩掛けのカバンからイチゴを取り出した。見た目が少しいびつだったが、綺麗な赤色をしたイチゴだった。イチゴを置くために彼女は自分の手を掴んで手のひらを広げさせた。彼女の手から感じる感触は柔らかく、そして温かかった。それだけの動作で彼女に対して意識をしてしまう。


「はい! それ食べたら、もうこの件はおしまい! 村のみんなも待ってるんだから、早く準備してきてね。二度寝はダメだからね……わかった?」


 まるで弟を諭すような感じで問いかけ、そしてこちらの返答を待たずに自分の元から去っていった。現れたのが突然なら去る時もまた突然だった。彼女がいなくなってから急に心細い感情に襲われた。初対面で過剰なスキンシップを一方的に受けておきながらこんな気持ちになるなんて、多分夢のせいで感覚が麻痺しているのだと思った。


 そんな感情を紛らわすように、今まで意識していなかった外の景色に関心を向けた。そこには山小屋のような建物が点在しており、その間からは多くの畑が見える。自分が想像するヨーロッパにある農村という風景だった。


 しばらく眺めているうちに待ち合わせ場所について聞いていないことに気が付いた。急いで彼女の去っていった方向に視線を向けると、遠くからでもわかるぐらいに大きな人だかりが見える。村の人たちが待ってると言っていたしあれがそうなのだろう。とりあえずは一度家の中に戻り状況を整理しよう。


 短い時間であったが自分にとっては中身の濃い体験だった。扉を閉めてから彼女とのやり取りを思い返した。あのような出来事、現実の世界では体験したことがない――女性と親しくなる機会がなかっただけだが。この夢の設定では幼馴染なのかそれとも付き合っているのか、どちらにせよ経験がないくせに夢で表現するとは自分の妄想力も暴走している。


 そんな気分を振り払うため、彼女からもらったイチゴに興味の対象を移した。目の前にあるイチゴは見た目の細かさからして現実のものと大差がない。口に入れるとほのかな酸味の後に甘さが口の中に広がり普通に美味しかった。夢の中で味覚がと一瞬疑問に思ったが、先程からいろいろとありすぎて些細ささいな問題だと切り捨てた。いまだに頭のモヤは治まる気配すらない。


 食べ終わり精神的に落ち着いたところで、再度彼女のことを思い返す。彼女はいったい誰なのだろうかという疑問が頭の中を占めていた。夢に出てきた以上、自分が知っている人物の可能性が高いと思い記憶を辿たどったが、そんな都合よく思い出すことはなかった。しかし彼女の外見を自分はどこかで知っているような――そんな気がしてならなかった。

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