辞めたい社畜〈二〉
翌日、カーテンの隙間から漏れた朝陽に顔を照らされ、凪はベッドの上で寝返りをうった。
今日は一週間の中で一番幸せな土曜日だ。繁忙期は休めないけど、今日は休み。午前中はダラダラ寝て過ごそう。
と、至福のひとときを送っていたのに、さっきから不愉快な音が鳴り響いている。ゴミ屋敷の奈落に埋もれていたスマホの唸り声だ。
ものすごく嫌な予感がする。
三回目の着信でようやくスマホをまさぐり掘り出すと、溜め息をつきながら返事をした。
「休日になんすか?」
「はぁあああ!? 寝呆けてんじゃねぇよ! 今日は金曜だろうが!! もう十時過ぎてんぞ! 早く会社来い!!」
怒鳴られたあげく、一方的に通話が切れた。
「いやいやいや、そんなわけないって」
そう思ってスマホのカレンダーアプリを開くと、今日は八月八日の――
「金曜だ……なんで??」
「今日からループが始まったんです。これから六百二十五日間、毎日が金曜日ですよ」
何者かが部屋のカーテンを開けたおかげで、部屋中が眩い光に包まれた。
そういえば昨日の夜、変な夢を見た気がする。自分のことを天使だと自称する、自分にそっくりな女が部屋に現れて、「一万時間を差し上げます」と言っていた。
清らかな朝陽を一身に浴びて、気持ち良さそうな顔で背すじを伸ばしていたこの女こそ、その自称天使に違いない。
「だから今日は、会社に行かなくってもいいんです」
「いけない、早く会社行かなくっちゃ」
「えっ? いま聞いてました? 私の話」
朝っぱらから白昼夢を見ちゃってる。しかも解像度がかなり高い。残業続きで疲れが溜まってるんだろうな。
「ちょっと、ちょっと……」
凪はその声を無視して、昨日も着たような気がする白いブラウスと紺のロングスカートをハンガーラックから引き抜くと、三分でシャワーを浴びて、肩掛け鞄を鷲掴み、メイクもせずに家を出た。
電車に揺られ、エレベーターに乗り、オフィスビルの三十階まで息を切らして辿り着く。
気のせいか、道行く人々や周りの光景に、妙な既視感があった。
「昨日お前が上げたヒロインのキャラデザ、修正しとけよ」
目の前でふんぞり返って座っていた男は、その筋肉に似合わないピンク色のポロシャツを着ていた。
「ちゃんと仕様書通りに書きましたけど?」
「全然違ぇだろ! この仕様書のどこに『主人公が貧乳』って書いてあんだよ! 巨乳だよ、巨乳! 九十センチのGカップ!」
このクソ上司は、毎日同じようなくだらない要求をしてくるが、今回は聞き過ごしていい閾値を超えていた。
膨大な修正データを仕上げて、OKをもらってから会社を出たのは夜八時すぎ。
コンビニにも寄らず、最寄り駅から最短距離でアパートまで早歩きで帰る。
凪が部屋に帰るなり照明を付けると、見覚えのある人物が立っていた。
「うっそぉ、またいるのぉ?」
目の前に立っていたのは、まるで自分の分身だった。
「結局、会社へ行ったんですね」
「あんた、私の妄想にしては妙に存在感があるんだけど」
「私は、あなたの天使ですから」
試しに彼女の肩に触ってみるとちゃんと感触があったし、人間と同じように体温もあった。
「天使ねぇ。全然リアリティ無いな」
「一万時間のプレゼント、いらなかったですか?」
「それって一万時間分、昨日がループするってこと?」
「お察しの通りです。牧場凪さんの必要睡眠時間は八時間と設定されているので、一日を十六時間と計算して、六百二十五日間を差し上げることになっております。あと残り六百二十四日と四時間になってしまいましたが」
「せめて土曜にしてよぉ〜。毎日が金曜なんて生き地獄だよ〜」
「会社なんか休めばいいじゃないですか」
「いやいや、気持ちの面で全然休まらないでしょ。今から土曜に変更できない?」
「そのご要望にはお応えできかねます。またリセット時刻ですが、毎日夜十二時にリセットされて、朝八時にこの部屋で目覚めることになっています」
「どうせループするんだったらホテルが良かったなぁ。こんなゴミ屋敷じゃなくて」
「たしかに」
「『たしかに』ってゆうな!」
次の日も朝八時に目を覚ますと、こんもりとした部屋着の山の上に天使が仰向けに寝転がっていた。
そのまま二時間ほど、ベッドの上でそわそわした気分のままゴロ寝していると、昨日と同じく十時五分に着信音がした。
「きたきた」
上司からの電話に「ばーか」と答えて即切りする。これからは朝起きてすぐ着信拒否にしておこう。
「毎朝この状況にリセットされるってことは、銀行からお金を引き落としても、また明日には戻ってるってこと?」
「お察しの通りです」
銀行のアプリを開いて残高を確認すると、百万円少々の貯金があった。
「毎日百万円ずつ使えて、六百日以上も仕事休めるなんて最高じゃん! 天使ちゃんありがとー!」
思わず抱きついた天使の体は、思った以上に細身だった。
「たしか昨夜、『毎日が金曜なんて生き地獄だよ〜』とおっしゃってましたよね?」
「百万円かぁ……何に使おっかなぁ――あっ、クレカも使えばもっとお金使えちゃうな」
その日から凪は出社拒否し、優雅なひきこもり生活を満喫することにした。
「ウーウーイーツです。ご注文のお品物をお届けに上がりました!」
「はーい、ご苦労様でーす」
鰻重、ステーキ、焼き肉、寿司、ピザなど、独り身では食べきれない量の食べ物が毎日届き、テーブルの上に並んだ。
食べ終わっても容器や包装はゴミ部屋の奥に投げ捨てる。どうせ片付けなくても翌朝には綺麗さっぱり無くなるのだ。
昼過ぎに起きて、アプリで目に付いた高額メニューをタップし、ビールを飲みながら寝転んでゲームをするのが、凪の新たなルーティーンとなった。
「すごーい。ガチャも引き放題じゃーん――うわっ! シークレットレアきたー!!」
今まで『課金は月に一万円まで』と決めていた凪は、百ヶ月分のガチャを一日で回す快感に酔いしれた。
「ほんと、一日中お酒飲んでゲームばっかりしてますね。他にやることないんですか?」
「掃除とか洗濯したって無駄じゃーん」
天使は毎日凪のそばにいた。ある時は寝転び、またある時は体育座りして、遮光カーテンで仕切られた薄暗闇の中で明滅するディスプレイを見つめていた。
もう彼女には、双子の妹のような親近感さえ感じている。
彼女は物を食べなければ水も飲まない。それどころか息をしているのかも怪しく思うくらい、音を立てなかった。天使は猫よりも飼いやすい。
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