一万時間を差し上げます
犬塊サチ
辞めたい社畜〈一〉
横一直線に削り取られた鉄筋コンクリートの断面を、草花の絨毯が覆っていく。
その全身に色鮮やかな花々を咲かせ、トゲの生えた蔦を両腕に生やしているのは全長約百二十メートルの怪獣キングエコラだ。
鞭のようにしなる両腕の蔦は、己の行く手を阻む建物を薙ぎ倒し、その十六本から成る繁茂脚は、住宅街を踏み潰しながら呑み込んでいく。
キングエコラは制止し、口から緑化胞子線を吐き散らした。すると、みるみるうちに灰色たった都市は、草木の緑で塗り潰されていった。
それは、文明への逆襲であった。
逃げ遅れた――いや、逃げることを諦めた人々は、高層ビルのガラス窓から、その破壊行為を呆然と見届けていた。
あるいは、見蕩れていたのかもしれない。
文明の破壊による脱炭素型社会の実現。
『この急ぎすぎている社会を、木っ端微塵に破壊してくれ』という人々の願いが、あの怪獣を生んでしまったのだから……。
「――おい
「へ? なんすか?」
「ちゃんと聞け、バカ! 素材用のキャラデザ、何回指示出せばちゃんとしたのくれんだよ!」
暴言を吐いてきた男の着ていたピンクのポロシャツは、今にも張り裂けそうなくらいに伸びきっていた。それは紛れもなく、凪の上司に当たる人物だった。
「ちゃんと指示通り描きましたけど?」
「全然違ぇだろ! これのどこに『主人公は貧乳』って書いてあんだよ! 巨乳だよ、巨乳! 九十センチのGカップ!」
「あの……このアプリは二十代の女性をターゲットにした乙女ゲーですよね? セクハラじゃないっすか?」
「これは仕事で、俺が出したのはデザイナーへの発注だ。やりたくないなら担当変えるぞ?」
凪はこの瞬間、雇われグラフィッカーとしてクソディレクターの指示に従った方がいいのか、それとも他の開発チームに編入してもらった方がいいのかを、脳内の天秤にかけた。
すぐ近くの席のPCモニターには、微生物を擬人化した美少女が躍動する2Dグラフィックが表示されている。
[シークレットを含めると、全500種類以上!! 君は全部の微生女を集めることが出来るかな!?]
ペンタブを握りながらPCモニターを見つめているグラフィッカーは、三日間徹夜した人のように、目の下に浅黒いクマを作っていた。
うーん、これは巨乳の方が精神的に楽そうだ。
「わかりました。どエロいの描いてきます」
「おう、今日中に百ポーズ頼むわ」
凪は自分の席に戻ってペンタブを握ると溜め息をつき、自分のモニターに表示させていた女性キャラクターの胸部を消し始めた。
今日は金曜日、明日は休み。だから今日さえ乗り切れば大丈夫。
それから膨大な修正データを仕上げて、OKをもらってから会社を出たのは深夜十時過ぎだった。
電車に揺られ、コンビニに寄って缶チューハイとパスタサラダを買い、最寄り駅から徒歩十分のアパートまで帰ってくると、凪は部屋の照明すら付けず、メイクも落とさずにベッドへとダイブした。
二週間は洗っていないであろうシーツからは、得も言われぬような芳醇な香りが放たれている。
「明日は土曜日♪ 明日は土曜日♪ 明日は――」
寝返りをうって仰向けになると、ロングスカートのポケットに入れていたスマホを取り出し、指先の軌跡でロックを外して、あるアプリを開いた。
『ヒモドル☆パラダイス』――ヒモ男子を拾いがちな主人公が、彼らをアイドルに仕立てる乙女ゲーだ。
アプリのメニュー画面には、金曜日の担当キャラクターである甘宮手綱が微笑んでいた。彼からミッドナイトログインボーナスをもらう瞬間、ようやく仕事から解放されたのだという実感が得られる。
暗闇の中、顔面を照らされながらゲームをプレイしていると、部屋の中で何かが動いたような気配を感じた。
小さな虫じゃない。もっと大きなものだ。
スマホの光で散らかったゴミ山を照らし、転がっていたリモコンを拾って照明をつけると、人が立っていた。
「……誰?」
強盗にしてはのんびり屋さんに見えたし、全く殺気を感じない。
自宅に不法侵入されたという、あまりにも危機的な事態にもかかわらず、不思議なくらいに恐怖感は覚えなかった。
なぜかと言うと、目の前に立っている相手の顔が、自分の顔と同じだったからだ。
脳内天秤は揺れていたが、恐怖の感情よりも、驚きの感情が僅差で勝った。
それはまるで、夢の中で自分の分身を見ているかのような感覚だった。
「私は天使です。あなたを助けに来ました」
「は? どゆこと?」
「あなたは毎日忙しそうに働いていたから、もう少し生活にゆとりを与えてあげられたらと思って」
「いや、それはありがたいんだけどさ……」
頭が混乱して、床に散らかった電源コードのように思考が絡まり、本当に聞きたい質問が浮かんでこなかった。
顔も体も声も、私とそっくりにもほどがあるほどそっくりで、優しそうな表情で微笑みかけてくれている目の前の女性は、自分のことを天使だと言っている。
羽も生えていないし、頭の上に金の輪っかも浮かんでいなかったが、天使だと言われたら信じてしまいそうな謎の存在感があった。
こちらに対する攻撃性も感じない。むしろ、自分を優しく見守ってくれているかのような親近感すら覚える。
百歩譲って、たとえ彼女が天使だったとして、なんで私のところまで降り立ったのだろう?
そうだ、動機だ。彼女の動機や目的が知りたい。
「あんた何しに来たの?」
脱ぎ散らかした衣類の上に立っていた天使は、凪にこう言った。
「あなたに、一万時間を差し上げます」
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