第5話 刻み付ける思い出

 十二月二十四日金曜日。

 世間はクリスマス一色に染まり、駅前も色とりどりの電球が飾られて彩られている。

 たった今日、高校の二学期が終了し、俺たちは冬休みに入った。

 その冬休み初日に志水の家に俺たちは集まっていた。

 志水の家を廃ビルそのものと捉えるのか、それとも最下階の一室と捉えるのかは分からないが、とにかく今いる場所は志水の部屋がある階より一つ上の階。

 何も置かれていないコンクリートの壁が覆うスペースに俺たち四人がいるのは、拳銃操作の練習を行っているからだ。

 壁から壁の約五十メートル離れた先にある人形を目掛けて撃ち、人形に当たればその人形が倒れる。

 今はそんな動かない的を狙っての練習を繰り返し行っているところだ。

 拳銃とはいえ、最新型のこの『衝撃型拳銃』は発砲音が小さい、このビルの外に音が漏れる心配はない。

 またこの拳銃は、仮に人に命中しても頭であれば気絶、他の場所にあたっても無傷と殺傷性はほぼないに等しく安全なので、多少安心して練習に励むことができる。


「随分と精度は上がって来たな」

「あぁ。そりゃ毎日撃ち続けてれば、素人でも腕は上がるさ」


 最初は的である人形には全然当たらなかったが、日を増すごとにあたるようになり、今はそこそこの命中率になってきた。

 しかしながら必中には程遠く、練習はまだまだ必要だろう。


「ところで志水先輩」

「何だ。花実」

「今日はクリスマスイブですよ?」

「それがどうした」

「練習を疎かにしていいとは思いませんけど、今日くらい息抜きしてもいいんじゃないですかね?」

「あ、俺も賛成!」


 孤杉の提案に壮馬が便乗する。

 命を懸けている以上、そういうものに現を抜かすなど考えられない。

 志水のことだからそう考えているのかと思っていたが、


「穂村はどうしたい」

「お、俺?」


 案外、そうは思っていなさそうな様子に少しあっけにとられた。


「志水が休むのなら賛成。それ以外ならやらない方がいい」

「……」


 俺の発言を聞き、腕を組んで悩んでいる志水。

 おそらく志水は、俺たちが休んでいる間も頑張るつもりだったのだろうが、そうはさせない。

 前のようにオーバーワークで倒れてもらっては困るし、何よりチームならみんなで同じことがしたい。

 俺と同意見だったのか、壮馬と孤杉も乗っかった。


「志水さんがいないと、せっかくのクリスマスパーティーも盛り上がらないしね」

「そうですよ! それに毎日遅くまでやってるの、私知ってますからね? こういう時くらいは休んで下さい」


 俺たち三人の意見が合致したのを見て志水は決心したのか、小さく嘆息した。


「分かった。今日はここまでにしよう」


 志水は拳銃を片付けるために、別で用意したアタッシュケースを取り出す。


「よ~し。クリスマスパーティーは盛り上がるぞ! そうだ、みんなで買い出しに行きましょうよ! ほらほら、行きますよ~」


 孤杉が俺と壮馬の背中を強く押して、外へ向かわせようとする。


「志水先輩も、アタッシュケースはここに置いて早く行きましょ!」

「え、ちょっと、花実!」


 片付け中の志水の手を握り、孤杉は志水を連れてこの部屋から先に姿を消した。


「片付けは俺たちがやって、すぐに後を追いかけよう」

「そうだな。行かないとあとで孤杉さんに叱られるし」


 俺と壮馬は、志水が途中にしていた片付けを済ませて、二人の後を急いで追いかけた。



* * *



「それにしてもこれは買いすぎだろ」


 いつもは計画資料で埋め尽くされている机の上が、孤杉の掃除の甲斐あって綺麗さっぱり物がなくなったと思いきや、今度はそこにずらっと食べ物と飲み物を並べた。

 明らかに四人分の量ではなく、とても今回だけでは食べ切れないだろう。

 買い物にかなりの時間がかかったために、現在時刻は午後八時半。

 クリスマスパーティーらしい七面鳥やピザの強い香りが、練習で腹を空かせた俺たちの食欲を掻き立てる。


「まぁまぁ。穂村先輩も文句言わずに盛り上がりましょうよ!」


 孤杉はさっきの買い物で買ってきたサンタのコスプレに袖を通し、もはや言うまでもなくノリノリだ。

 俺と壮馬もコスプレをさせられそうになったが、なんとか押しくるめて帽子だけで勘弁してもらった。


「ところで、志水さんは?」


 だが、志水だけはそうはいかない。

 逆に孤杉に押しくるめられ……。


「わっ! すごく似合ってますよ、志水先輩!」


 孤杉のしているようなコスプレならまだしも、比較的露出度の高いサンタのコスプレをさせられた志水が、静かに姿を現した。

 実はこれが、初めての制服ではない姿だったりする。

 へそ周りの肌が見えるために、制服姿ではなかなか分からなかった志水のボディーラインが……。


「痛っ!」


 近づいてきた志水に軽く頭を叩かれた。


「じろじろ見るな」


 さすがの志水もこの服には、いつもの冷静さを保てるわけもなく、かなり恥じているようで、顔が少し赤い。


「全員揃ったことですし、パーティー始めますよ!」


 そう言って孤杉は、飲み物の入った紙コップを差し出す。


「花実。私は炭酸が飲めないと何度言ったらわかるんだ」

「そういえばそうでしたね。長いこと生徒会の集まりやっていなかったのでつい……」


 炭酸に弱いとは意外なところがあるんだな、と心の中で小さく呟いた。

 その後俺たちは、四人揃って初めて計画のことを一切口にせず、話に花を咲かせた。

 時々、志水の表情を見ていたが、どうやら志水なりに楽しんでいる様子で、俺はそっと胸を撫で下ろした。



 パーティーが始まって約二時間。

 酒も飲んでいないのにどんどん上機嫌になっていく孤杉に、俺たちはどんどん飲まれたいっていた。

 孤杉はもしかしたら雰囲気だけで酔ってしまうタイプなのかもしれない。


「みんなでゲームしません? 王様ゲームとか」

『げっ……』


 王様ゲームというフレーズに、三人の声が重なった。

 王様ゲームとは、番号が書かれたくじなどを引き、王様を引いた人が、他の人に何かしらの命令をするというもの。

 命令は絶対順守というルールを逆手に取り、過激なことをさせるというのが一つの醍醐味だが、過激さゆえに学校で規制されるなどといったケースもある。

 孤杉のことだからとんでもない命令をするに決まっているので、俺たちはあからさまに嫌な反応をした。

 だが、それが裏目に出た。

 孤杉はにやりと笑みを浮かべると、すぐさまペンを取り出して、割りばしに細工を始める。


「できました。それじゃ、やりましょうか」


 どうやら俺たちに拒否権はようで、勝手に事が進んでいく。

 俺たち三人は意を決して、ゲームに参加することにした。

 俺たちは孤杉の作った割り箸くじを一本ずつ引いていく。


『王様だーれだ』


 お決まりの掛け声とともに手を上げたのは孤杉。

 その孤杉だが、他の三人が割り箸くじを引いた後、自分の割り箸に何が書かれているのかは確認していない。

 この時点で孤杉以外の三人は悟った。

 これはいかさまだと。


「それじゃあ、二番の人は好きな人をこの場で告白で」

「おい孤杉! 王様ゲームには流れというものがあってだな」


 王様ゲームのルールにあるわけではないが、基本的に最初は簡単な命令をし、段々とハードルを上げていくというのが暗黙の了解のようになっている。

 そんなのはお構いなしで、孤杉はいきなりクライマックスのような命令を投げた。


「二番は誰ですか~」


 その呼びかけに、ゆっくりと手を挙げたのは志水だった。

 俺はこの時点であることに気づいていた。

 普段の志水なら命令された後、間髪入れずに『いない』と答えていたはず。

 だが、そうではないという時点で志水には……。


「いない」


 志水は小さくそう呟いた。


「やっぱりそうですよね。あれだけ告白されてても、先輩は全く揺らがないですし」

「まぁ、明らかにいなさそうだもんな」


 孤杉と壮馬は全く気付いていないらしい。

 さっきの志水の声の小ささから、俺の予想は確信に近づいていた。


「おい、志水?」


 志水は突然、静かに立ち上がった。


「悪い。ちょっと外の空気吸ってくる」

「え、ちょっと先輩? まだ一回しかやってませんよ?」


 志水が席を外したのを見て、俺も同じように席を外すべく適当な言い訳を考える。


「悪い、もう一回買い出し行ってくる」

「え~。穂村先輩も逃げちゃうんですか? だったら私も買い出しに行きますよ」


 俺に同調してついていこうとする孤杉に、壮馬から声がかかる。


「孤杉さん。待っている間、俺たち二人で何かやっていようよ」


 もしかして、止めようとしてくれているのか。

 今の壮馬の言動に何かしらの意図を感じた俺が壮馬の目を見ると、アイコンタクトで何かを訴えかけてきた。

 何のために孤杉を止めようとしているのかは分からないが、ここはありがたく行かせてもらうことにした。


「何か面白いゲームでも知ってるんですか?」

「そうだなぁ。睨めっこでもしよう」

「馬鹿にしてるんですか?」

「いや、可愛い子の顔を眺め……」

「真面目に言ってください。殴りますよ?」


 そんな二人の会話をよそに、志水の家であるこの部屋を出た。

 もちろん俺は、買い出しに行くつもりなどない。

 思い当たる節を頼りに、ある場所へと向かった。



* * *



 月明かりの照らす夜景は、クリスマスイブという特別な日だからか、余計に美しく見える。


「やっぱりここか」


 志水の家がある廃ビルの屋上。

 この場所は辺りの中では高い方で、周りを見渡すことができる。

 風通しもよく、夜風に当たるなら最高のスポットで、志水は事あるごとにこの場所を訪れていた。

 俺はフェンスに前傾でもたれかかっていた志水の横で、同じように夜景を眺めた。


「楽しかったか? クリスマスパーティーは」

「……そうだな」


 素っ気なく返す志水の言葉は一見嘘に見えるが、これは本音だろう。


「だがやはり思い出してしまった」


 志水はこの計画を実行するにあたり、西地区の高校を休学し、友達との連絡を断ってこの場所にやってきている。

 その時に捨て去った楽しかった過去と、あったはずの楽しい未来のことが、さっきまでのクリスマスパーティーと重なって胸が苦しかったのだろう。

 休んでもらうつもりで企画したこのクリスマスパーティーが、もしかしたら逆の影響を与えてしまったかもしれない。

 そう思うと少し申し訳なくなってくる。


「私はずっと未練が残ったままで、いつまでもそれが拭えない。このまま計画に挑んでもいいのだろうか」


 今まで一度たりとも見せなかった悲しさと寂しさの混ざった表情と、ずっと自信に満ち溢れていた志水が初めて吐いた弱音。

 ずっと一人で背負い続けた志水のこの言葉が、俺にとっては少し嬉しかった。


「やっと頼ってくれたか」

「え?」


 空気を読まない俺の笑みに、疑問を持つのは当然だろう。


「責任感が強いのはもちろん知っているが、今は一人じゃないだろ? あの二人に弱音が吐けないなら俺に吐けばいい。いつでもそれくらいは聞いてやる」

「……そうか」


 変わらず夜景をずっと眺めながら、ほっとした表情を見せた。

 志水が懸念している点は、別に志水だけが抱えているわけではない。

 きっと壮馬や孤杉だって、まだやり残したことがあるはずだ。

 命を落とす時のことなんて考えたくはないが、『やっておけばよかった』などと後悔するようなことだけはしたくない。

 ならば、先に後悔しないような行動をするべきだ。


「志水」


 俺の呼びかけに俺の方に顔を向けた志水は、少し驚いた表情を見せた。


「学校に戻ったらどうだ?」

「え……?」


 困惑の表情を見せる志水。


「でもそれは……」

「計画実行日を決めた以上、そんなことをしている余裕はない、か?」

「あぁ」



* * *



 十二月四日、つまり拳銃の強奪作戦が行われた日。

 孤杉を新たなメンバーに加えた後の話だ。

 志水は、改まった様子で三人に告げた。


「来年の三月一日。この日に計画を実行する」

「……突然だな」


 いつか来るとは分かっていたが、その日は唐突に告げられた。


「銃の強奪作戦中に聞いた情報によれば、三月下旬にモデル都市内で爆弾の被害計算実験が行われるらしい。したがって、その前には計画を行う必要がある」

「でもそれなら、ギリギリまで準備に費やした方がいいんじゃないの?」


 壮馬の純粋な問いは、俺も思っていたことだった。

 話を盗み聞きした限りは、少なくとも二十日辺りまでは余裕があるはず。

 三月一日に何かしらの意図があるのか。

 その疑問に、志水は答えた。


「三月一日は、モデル都市制度の施行から丁度三百年だ。これを記念して国家総合管理塔で祝典が開催されるらしい」

「でも、そのことと計画の実行日にどういう関係があるんだ?」

「全ての実権を握る綺羅進士の場所を特定できる日だからだ」


 普段、俺たちはモデル都市外の情報を一切手に入れることができない。

 そのため、目標である綺羅進士との接触を図る際に、どこに向かえばいいのかが分からないのだ。

 大きな祝典であれば綺羅進士は必ず姿を現すので、そこを狙おうというのが志水の作戦というわけだ。



 こうして計画実行日が決定し、それまで残された二か月余りの時間。

 その期間、計画の成功率を上げるため、極力別のことに時間を割きたくないという志水の意見も理解できる。

 だが、悔いを残したまま挑むのか、残さずに挑むかで、少なからず気持ちの面で差が出てしまう。

 これがどの程度結果を左右するのかは分からない。

 ただ、一個人の意見として、俺は思い残すことなく計画に挑んだ方がいいのではないかと思う。


「志水はここに来る際に、踏ん切りをつけた。けど、まだ未練が残っているんだろ? だったら、未練を綺麗に振り払ってこればいい」

「私は……、私はもう会わないと決めたことで、一種の決別をしたんだ。今更もう一度会いに行っても、突然いなくなったことに対しての後ろめたい気持ちでいっぱいになる」

「それを夏島さんの前で言えるのか?」

「それは……」

「夏島さんはきっと受け入れてくれるだろ?」


 夏島さんがどのような人間かは、志水の話を聞いただけでも大体分かっている。

 どんな理由があっても最後は許してくれる、そんな存在なら――。


「確かに嘘を重ねる必要も、もう一度無言であの場所を去る必要もある。けれど、最後にちゃんと話せば、それでも分かってくれる。それが夏島さんなんじゃないのか?」


 突然の休学からの復帰。この理由を明かせないため、何かしらの理由をつけて説明しなければならない。

 ここまで夏島さんに対してやってきたことにさらに上塗りすることになる。

 もしこれを後々許してくれなければ、二人の信頼関係はそれまでだっただけ。

 志水が判断に悩んでいるのは、それでも夏島さんが許してくれるだろうと思っているから。そうでなければ悩むことなく、すぐに決めていたはずだ。


「……さも澄を知り尽くしたかのように言うのだな」

「悪い……、気に障ったか?」

「いや、むしろ逆だ。澄を信じてくれたことが、親友として私は嬉しい」

「そうか」


 志水は、街の明かりで星が見えず、月だけが映える夜空をゆっくり見上げた。


「悪かったのはむしろこちらだ。計画を考えて周りを巻き込んだ人間が、こんなにブレブレでは、頼れる存在など程遠いな」

「いや、それはない。志水がいなければそもそも今の地点には立っていないんだ。拳銃の時だって、志水の臨機応変な対応がなければ成功していなかったと思う。俺は志水を信じてる」


 俺だけじゃない。

 壮馬も孤杉も、志水に全幅の信頼を寄せている。

 自らの行動で、周りを引っ張る。これをリーダーと呼ばずして、なんと呼ぶのか。


「分かった」


 志水は腹を決めた様子でそう言った。



 それからしばらくして、俺と志水は部屋に戻ってきた。

 するとその部屋では、残っていた二人が一点をずっと凝視しており、緊張感に満ち溢れていた。

 俺たち二人はその雰囲気を壊さないよう、入り口のドア付近で立ったまま様子を見守る。


「秋原先輩、こっちですか? いやこっちですか?」

「さぁて、どっちかな?」


 二人がやっていたのはどうやらババ抜き。

 どこからトランプを持ってきたのかは知らないが、孤杉が残り一枚、壮馬が残り二枚と白熱した最終展開を迎えていた。

 孤杉はトランプにゆっくりと手をかけながら、壮馬の顔色を窺う。

 ポーカーフェイスとは対極で、壮馬はずっと不敵な笑みを浮かべているが、終始その表情なので、逆に読み取るのが難しい。


「これだぁ!」

「ざーんねん」


 孤杉は見事にババを引いてしまったようで、悔しさから拳に力が入っていた。

 次は壮馬の番か、と思ったとき。勝負はあっという間に決着がつく。


「ほいっと」

「ちょっと、秋原先輩!?」

「別にずるはしてないぞ」

「それはそうですけど、フェアプレイ精神の欠片もないんですか!」


 壮馬は孤杉の隙をついて、トランプを引き抜いた。

 その隙とは、孤杉がババをとった後に手札に加え、その後のシャッフルをする前に引くというもの。

 シャッフルをしなければ、ババの位置など当然見え見えなので、壮馬が残りの一枚を引き抜き勝負に勝った。


「さぁて、二人も戻ってきたし、終わりにするか」

「ちょっと、勝ち逃げはずるいですよ!」

「花実。そのリベンジはまた今度にしてくれ」

「あ、戻ってきてたんですか、先輩」


 様子をずっと見ていた志水が、キリのいいところでトランプを中断させた。

 孤杉は、なんとなく志水の雰囲気で察したのか、特に言い返すこともなく、トランプを片付けた。


「みんなに話がある」


 俺、壮馬、孤杉の三人はその言葉を聞いて、目線を志水に移した。

 この話の切り出し方は二度目。前回同様、重要な話だということは、この場にいる全員が理解していた。


「チームを一度解散する」

『え?』


 三人の声が綺麗にハモる。

『解散』という予想より重たい言葉に俺は驚いた。

 他の二人は俺たちの話していたことを知らないのだから、驚くのは当然だろう。


「ただのリーダーの我儘だ。嫌なら言ってくれ」

「ちょっと待ってくださいよ。計画を諦めちゃうんですか? それだったら今までの時間は何だったんですか?」


 孤杉は慌てた様子で、志水を問い詰める。


「一度、と言っただろ? 再結成は二月の一日。それまでの間は、計画に関することを一時休止する。その間に、今後計画を実行する上で、未練が残らないように行動をすること。それが一時解散の目的だ」


 俺はようやくここで言う『解散』の意味を知った。要するにただの活動休止期間だ。


「ということは先輩、戻ってくるんですか?」

「一か月程だが、学校にも生徒会にも戻る。だから花実。今から支度して西地区に戻るぞ」

「分かりました。きっと生徒会メンバーも喜びますよ……、って私も今は先輩と同じ立場でした。どんな顔して会ったら……」


 孤杉は、嬉しい気持ちを覆う後ろめたさで、顔色を暗くした。


「私も一緒に頭を下げる。だから安心しろ」

「……本当ですか?」

「なぜここで嘘をつく必要がある」

「さすが、私の志水先輩~!」

「私は花実の所有物ではないし抱き着くな!」


 孤杉は志水の説得もあり上手くいきそうだが、壮馬は少し渋い顔をしていた。


「どうした壮馬」

「二人は西地区に戻るだろうけど、俺たちはどうする? 俺たちは別に今までとあんまり変わらないけど」

「お前、一つやり残してることあるだろ?」

「やり残してること?」


 俺は志水のこの決断に感謝している面があった。

 それは、壮馬がやり残していることをやり切るチャンスを与えてくれたからだった。


「医学部の入試」


 目を見開く壮馬。


「……気づいてたのか」

「え!?」


 志水に夢中で聞いていないと思っていたが、孤杉が驚きの声を上げた。


「秋原先輩、医者を目指してたんですか? というかそんなに頭良かったんですか?」

「頭良くなさそうに見えるって言われてる気がしなくもないぞ……」


 小学校六年生の時、口だけで世界を飛び回るような医者になりたいと言っていたわけではない。

 あの日よりずっと前から成績優秀で、高校でもトップクラスの成績をとり続けていた。

 壮馬と普段からよく遊んでいたため、最初はいつ勉強しているのかが疑問だった。だが、ある日壮馬の家に行くと、机の上には大量にテキストが積まれていた。

 しかし、そのテキストはどれも学校から配られたものではなかった。壮馬本人に尋ねると、本屋で買ったものだと言っていた。この時初めて、壮馬が見えないところでずっと努力を続けていたことを知ったのだった。

 そんな経緯があったため、間違いなく計画に参加しながらも勉強を続けていたに違いない。幼馴染の勘で俺はそう推測し、医学部入試のことを口にしたのだった。


「試験日って確か……」

「二月一日だな」

「再結成日と偶然にも同日。丁度そこで気持ちを切り替えられて、むしろ都合がいい」


 志水の言う通り、再結成日と試験日は同日。ここでやり切っておけば、思い残すことなく計画には挑めるかもしれない。

 だが、逆に余計思い残す結果になる可能性だってある。

 モデル都市にある大学に医学部があるのは一つだけで、毎年倍率が高く浪人するケースも少なくない。

 壮馬が計画に参加したのは受験期後半。この時期は受験生にとって大切な時期であるにも関わらず、壮馬は計画に時間を割いていた。いくら陰で努力していたとしても、それは受験生なら当たり前のこと。そのため勉強時間では他の受験生に劣っているだろう。そんな中で合格するのは、まさに至難の業だ。

 まさしくハイリスクハイリターンの賭け。計画の前哨戦と言ってもいいかもしれない。

 因みに壮馬と同じく俺も受験の年だが、既にエスカレーター方式で入学が決まっているため、こうして壮馬の心配をする余裕があった。


「受けるか?」

「正直悩んでいる。合格発表は計画実行日よりも前で、仮に不合格ならどうしても未練が残る。それなら受けない方がいいかもって思ったりもしたが、それはそれで悔いが残る」


 悔いを残さないようにするために設けられた一時解散期間。

 その期間を経ても悔いが残っていては全く意味がない。


「ではこうしよう。受からなければ、このチームへの参加を認めない」

「志水、それは……」


 志水がさらっと一つの提案をした。

 その内容は発奮材料になり得るのと同時に重圧になりかねないもの。

 俺は極力プレッシャーをかけないよう、言葉に最新の注意を払っていたが、志水には一切躊躇いはなかった。

 俺は壮馬が既に重荷を感じているのではないかと気にして顔色を窺ったが、それは見当違いだった。


「よし。それで行こう」


 やる気に満ち溢れた顔をして、気負いよく立ち上がった。


「本当に、大丈夫か?」


 親友の俺は、壮馬が志水と似たようになんでも背負いすぎる傾向にあることを知っている。

 だからこそ、今回も内心不安なのではないかと、疑い深くなっていた。

 でも今回ばかりは、その心配は無用かもしれない。


「どの道試験に落ちたら、計画失敗も同然だろ? だったらこれくらいは受けて立つさ。むしろ、俄然やる気が出てきた」


 清々しい表情をした壮馬の今の表情を見て、俺の心配は一瞬にして消え去っていった。

 そんな壮馬は、いきなり身の回りの荷物を片付け始める。

 そしてすぐに鞄に荷物を積めると、


「またな」


 と別れの言葉を残し、ドアノブに手をかけた。

 俺たち三人はその突然の行動に対して、誰一人として止めようとしなかった。

 この行動の理由が、すぐにでも勉強を始めるためだとそれぞれが悟ったからだ。


「頑張ってください! 秋原先輩!」


 背中を押す孤杉の応援の言葉を背中に受け、壮馬はこの家を後にした。

 やると決めた壮馬はそう簡単に止まることはない。

 過去、テストで学年一位になったら告白すると宣言した際には、俺には一切目もくれず毎日勉強をし続け、見事一位を勝ち取った。

 その後、告白して振られた壮馬を励ましながらゲームセンターに行ったのは、今でもいい思い出だ。

 その時は不純な動機だったが、とにかく壮馬は途中で投げ出さない人間だ。

 だから今は、壮馬を信じて陰から見守ってやるのが一番だと思う。


「さて、俺はどうしようかな」


 学校に行ってもいいが、壮馬は受験勉強に集中しているだろうから、話す相手もいない。

 加えて、エスカレーター入学が決まっているので、大して学校に行く意味も感じられない。

 計画から離れる以上、自主練で拳銃を扱うわけにもいかない。

 そうなってくると思い出されるのは、あの退屈な日々。

 終わりが見えている上に、僅か一か月ほどといっても、やはりあの日常には戻りたくない。


「悔いを残さないために時間を作ろうと言い出したのは穂村だろ?」

「ある意味で思い残したことがあるとしたら……。いや、やっぱりなんでもないや」

「何か隠そうとしませんでした? 穂村先輩」


 首を傾げながら、下から見つめてくる孤杉。

 ないと言えば嘘になるが、思い残すほどのものでもない。


「いや。これはいいんだ。むしろ、口に出す方が悔いが残るだけだしな」

「本当にいいんですか?」

「あぁ。俺は、いつものようにゆっくりと時間を過ごすことにするわ」

「そうか。では、また二月一日にここで」


 壮馬が去ってからすぐに、俺たちは解散した。



 志水の家からの帰り道。

 夜空を見上げながら、ふとこれまでを思い出す。

 毎日同じことの繰り返しで、代わり映えしない日々。

 偶然志水に出会って、そこから目まぐるしく時が流れた。

 志水に出会ったあの日が昨日のことに思えるのと同時に、中身の濃い新鮮な日々を送ったことで体感的な時間は長く感じるという矛盾が生じていた。

 でも確実に言えるのは、そんな毎日が俺の退屈な日々を変えたということ。

 暫くの間誰とも会えないことに寂しさを覚えるようになったのが、その証拠。


「早く二月一日にならないかな」


 ボソッと呟いたこの思いが、叶えばいいのに。



* * *



 一月三十一日月曜日。

 あの日から一か月以上の時が過ぎた。

 明日は遂にチームが再結成し、計画に向かって再び進み続ける日で、同時に壮馬の受験当日でもある。

 この日を迎えるまでが、人生で最も体感時間が長かったと思う。

 今回、俺の心を占領したのはあのいつもの『退屈』ではなく、『寂しさ』だった。志水の家からの帰り道に覚えた寂しさが、日を増すごとに強くなっていったのだ。

 俺にとって初めて見つけた、自分がいるべき場所、そして自分が居たい場所だったからかもしれない。あの居心地のいい空間を欲して、禁断症状のようなものが出ていた。得体のしれない焦燥感に駆られ、どんな時も落ちつけず片時も心が休まらなかった。

 俺にとってあの場所にいた時間がいかに大切だったのかを、この期間を経て痛感させられた。

 ただそれだけなら、きっと明日になればすべて解決するのだろう。

 俺を今も悩ませているのは、別のもう一つのことだった。

 たった一つ、俺には踏み出せずにいたことがった。一か月前、志水の家で口にしそうになったこと。それはある言葉を伝えたいというものだった。

 伝えたいのなら伝えればいい。この環境が特別でなければ、迷うことなくそうしていたに違いない。

 しかし、その言葉を伝えることが逆に後悔を生む結果になるかもしれない。その懸念が原因で、いつまでたっても踏ん切りをつけられずに時は過ぎた。

 今は放課後の学校にいる。

 この時期になると、受験が済んでいない生徒以外は特に授業を聞く意味がないため、休む生徒もちらほらいる。

 そんな中、家にいてもあの事で頭を痛めるだけだからと、俺は学校に来ていた。

 今の俺には静かな空間より、音や声で溢れている学校の方が落ち着くからだった。

 しかしながら、今日に限っては別の明確な理由があった。


「壮馬」


 帰り支度を済ませ、帰ろうとしていた壮馬を呼び止めた。

 話しかけたのも会話をしたのも、クリスマスイブの志水の家以来だ。


「どうしたんだ、敦灯」


 過去のことを考慮すると、全てが終わるまでは無視されると思っていたが、今回はいつもと変わらぬ態度で応じてくれた。


「明日受験だろ? 励ましてやろうと思って」

「あぁ、そういうことか」


 明日に控えた壮馬の受験。

 確実にどの受験生よりも大きな重圧を背負っている壮馬の肩の荷を少しでも軽くするために、俺は声をかけたのだ。


「頑張ってくる」

「本当に悔いを残すなよ?」

「それ、敦灯にとってはブーメランじゃないの?」

「え……?」

「悔いを残しているのはお前の方じゃないのか?」


 やはり親友の目だけは誤魔化せないなと、心の中で苦笑いを浮かべる。

 伝えたい言葉を伝えられる機会は、今日限り。

 話すならこの日、それも僅か七時間程度しか残されていなかった。

 壮馬には後悔を残すなと言っておきながら、自分は何をしているのだと情けなくなった。

 でも俺は壮馬と違い、すぐに切り替えられる心も、立ち向かっていく勇気もない。

 だから今の今までくすぶり続けている。


「この時期に学校に来るタイプでもないのに来ている時点で、違和感を覚えたんだ。その後孤杉さんから、クリスマスイブのあの日様子がおかしかったって話を聞いた。そこから、俺たちが距離を置いているのを逆手にとってずっと敦灯の様子を伺っていたが、何かしら悩んでいるんだろうなってのは分かった」


 いつもはチャラくて、こういうことに対して鈍感そうな壮馬だが、こういう時はやたらと勘が鋭い。

 それも俺が困っているときに限って、的確に見抜いてくる。

 親友として、これ以上ないほど壮馬は頼れる奴だと思う。


「それで何を悩んでいるんだ?」

「一つ打ち明けるか打ち明けないかで迷ってることがある」

「それって?」

「その内容は本人に最初に知らせたい」

「本人……、あぁ、志水さんか」

「うっ……」

「その反応は図星だな? まぁ、消去法で志水さん以外に有り得ないんだけど」


 壮馬は俺の反応を見てにやけると、急に俺の背後に回った。


「だったら話は早い」

「え?」


 一度思いっきり息を吸った壮馬は、突然俺の背中を思いっきり叩いた。

 叩かれた背中がジーンと熱くなってヒリヒリとする。


「何をするんだ!?」

「悩んでる暇あったら、行ってこい! やらない後悔よりやって後悔って前にも言ったろ? だから、今すぐ行け!」

「い、行くってどこに?」

「んなもん、敦灯が一番分かってるだろうが。とにかく早く行け!」

「え、ちょ、ちょっと!」


 未だに背中に感じた熱が引かない。

 どれだけ強く叩いたんだよ、と思いながらも、その熱さに壮馬の気持ちが感じられた気がした。

 その背中を壮馬にグイグイ押され、俺は教室の外に出る。


「俺のことは心配するな。明日は絶対にやりきって合格してみせる」

「悪い。送り出す立場なのは俺なのに」

「気にするなって。だから早く行けよ」

「じゃあ、頑張って来いよ!」

「そっちこそ!」


 そう最後に言葉を交わし俺と壮馬は別れた。そしてすぐに、俺は廊下を走り始めた。

 周りの生徒からの奇異の目は微塵も気にすることなく、自分のやるべきことのために走り続ける。

 どの道一か月もすれば卒業するのだから、変な噂になっても構わない。

 本当の意味での全力疾走なんて、いつぶりだろうか。

 すぐに息が続かなくなり、体の力が段々と抜けていくように感じつつも、なんとか根性で力を振り絞った。

 見飽きたいつもの街の中だが、この中をこんなに走ったのは生まれて初めてな気がする。

 何事に対しても退屈だとずっと思っていた自分に一言言ってやりたい。

 走るだけでも、目に映る街の姿は随分違うぞ、と。

 十五分ほど走り東地区駅に到着すると、息を整える間もなく、西地区駅行きの電車に乗り込んだ。

 吊革に手をかけながら息を整えるが、苦しくて今にも床に倒れこみそう。

 足もガタガタになっていて、この後再び走れるのか不安に思いながら、外の移り変わる景色を眺めた。

 一見すると、やはり何の変哲もない一つの都市。

 そんな都市の本当の姿を志水に教えられたのが、九月二十四日。もう、四か月も前だ。

 そこから一変した俺の日常の中に、常にいた存在が志水だった。

 一緒にいた期間はわずか三か月程だったのに、その志水とたった一ヶ月会わなくなっただけで、志水を亡くしたようなそんな喪失感にずっと襲われた一か月。

 その長かった一か月はもうすぐ終わる。

 電車はしばらく走って西地区駅に停車し、扉が開かれた瞬間に俺はすぐさま飛び出した。

 予想していた通り、足はとうに限界を向かえていて、少しでも気を抜くと転んでしまいそうなくらい力が入らない。

 呼吸もすぐに上がり、肺や脇腹に鈍い痛みが走る。

 目的地に近づくにつれ、見慣れた制服に袖を通した女子高生が横を通り過ぎていく。

 西地区駅から走り始めて約十分。

 満身創痍の中走り切った俺は、目的地である西地区高校に到着した。

 校舎は西洋風の大きな建物で、校門から校舎まではレンガ調のタイルが敷かれていて、その上を生徒たちがゆっくりと歩いて帰っていく。

 ただ、下校時間から少し外れていることもあってか人の数はまばらで、もしかしたら志水は先に帰ってしまったかもしれない。

 俺はまだ帰っていないと信じて校門のそばからしばらく中を見つめていると、周りの生徒とは一線を画したオーラを纏う女子高生が、友達らしき女子高生とともに談笑しながらこちらに向かってきた。

 これまで幾度もなく見てきたはずの制服姿が、どこか特別に見えた。

 茶髪セミロングのヘアスタイルでスラっとした体躯のその女子高生は、こちらが目に入って目の色が変わった。


「穂村……?」


 目を疑っている様子の志水は、歩みを止めた。


「え、紗良ちゃんの彼氏さん?」


 隣にいた子が、そう志水に問うと若干戸惑いつつも、


「違う……」


 と、否定した。

 志水の横にいる子を俺は知っている。

 志水の東地区にある家の勉強机に飾られた高校の入学式の時の写真。

 そこに、志水と一緒に写っていた子。

 黒髪ショートでニコニコと笑っているこの子は、志水の大切な親友の夏島澄さんだ。


「ごめん、夏島さん」

「うん、何? って、なんで私の名前知ってるの!?」

「その説明はまた今度」


 驚いた夏島さんの問いに対して、冷静に言葉を返す。

 そのことを話すことで、余計な嘘を重ねたくはない。


「あのさ、志水さんを借りてもいい?」

「え、あぁ、うん。いいよ!」


 一瞬の戸惑いの後、屈託のない笑みで返事をする夏島さんだったが、志水は怪訝そうな表情を浮かべる。


「澄、今日は……」

「私なら大丈夫。だから、行ってあげてよ。だって、わざわざ東地区から来てくれたんだよ? だから行ってきて」

「でも今日は、たん……、っ、ちょっと穂村!?」


 俺は志水が話し終わるのを待たずに手を掴み、あてもなく走り出した。



「……穂村、これは一体どういうことだ」


 しばらく走ったところで、志水が立ち止まった。

 学校からは少し離れ、この辺りは住宅が密集している。

 俺は志水の言葉には直接答えずに、一つの提案をする。


「志水、今から遊びに行かないか?」

「今から? 悪いが今日は澄の誕生日会が……」

「もう。紗良ちゃん言ったでしょ? そんなの気にしなくてもいいって」


 俺たちの会話に入り込んできたのは、さっき別れたはずの夏島さんだった。


「ついてきてたのか、夏島さん」

「ごめんね。こっそり後をつけて見物を……って思ってたんだけど、どうしてもね?」


 さり気なく白状した夏島さんは、苦笑いを浮かべた。


「お祝いはその日じゃなくてもいいから。それに、気持ちだけでも十分嬉しいよ?」

「夏島さん、今日が誕生日だったのか……。だったら、悪いことをしたな」


 夏島さんのことをほとんど知らないため、まさか今日が誕生日だったとは予想がつかなかった。

 知らずに提案したとはいえ、一年に一日しかない大切な時間に水を差したことに、罪悪感が滲んだ。

 だけど、俺にとっても今日一日は大切な時間だ。ここまで来て志水に会った以上、途中で引き下がるわけにもいかなかった。


「うんうん。君も気にしないでよ」


 夏島さんはまたも笑顔でそう言い、俺を許した。


「その代わり……」


 夏島さんが駆け寄ってきて、耳元で囁く。


「男なら、やっちゃいなよ?」

「え、ちょっ。それは……」


 顔が熱くなって、俺は二、三歩後ずさる。


「別にやましい意味で言ったわけじゃないから安心してよ」

「だったら紛らわしい言い方をするな!」


 不覚にもその言葉を聞いただけで、少し想像しそうになった自分が恥ずかしい。

 面白がって笑う夏島さんだが、一方の志水は相変わらず浮かない顔を浮かべている。


「私はもう追いかけないから、二人で行ってきなよ! それにもう夕方だし、早くいかないと時間なくなっちゃうよ」


 そう言って夏島さんは志水の背中を軽く一押した。


「ありがと、夏島さん。それじゃ、また」

「うん、君も……。って、君名前は?」

「穂村敦灯」

「じゃあ、敦灯君。またね! 紗良ちゃんをよろしく~」


 去り際、夏島さんは笑顔で手を振って見送ってくれた。

 俺は志水を連れ、当初から予定していた場所へと連れ出した。



* * *



 西地区の住宅地を抜け、ずっと真っ直ぐに進んだ先には、モデル都市のもう一つのゲートがある。

 そこより少し手前に、ショッピングモールが建ち並ぶ街があった。

 俺たちは一番大きなデパートの三階に来て、近くにあったレザー調の椅子に一度腰を下ろした。周りはたくさんの客で溢れ、店内アナウンスが聞こえ辛いくらい周りの声が聞こえてくる。

 夏島さんと別れてからここまで、俺たちは一切会話を交わさなかった。

 というより、俺が話しかけても全く反応してくれないのだ。

 ただその割には、俺についてきてここまでやって来ている。


「夏島さんの誕生日のこと、気にしているのか?」


 ふとその問いを投げかけた時、ようやく志水は反応し、首を縦に振った。


「俺も申し訳ないと思ってる。だけど、俺たちがこうしてここにいられる時間はもう残っていないんだ。でもそうか。それって夏島さんとの時間も同じ……」


 タイムリミットは残り数時間。

 その時間を大切な親友と過ごしたかった志水の気持ちは理解できる。

 だが今の俺にも似たような気持ちで、ここまでやって来ている。


「俺と一緒にいるのは嫌か?」


 その問いに対し首を横に振ると、遂に志水は口を開く。

 俺の方を見た志水の表情は、今まで見たことのないものだった。


「そんなわけないでしょ!」

「え……」


 若干恥じらったような表情に、いつもより高い声のトーンと、いつもは使わないような言葉。

 俺の前にいるこの子は、いつもの冷静沈着で凛としている志水ではなく、ただの女子高生の姿そのもの。

 もはや、別人にしか見えなかった。


「いつかこうして二人で出かけてみたかった。だから、本当に嬉しいよ」


 いや本当に別人かも知れない。

 感情を表に出さない志水が、自らの口で感情を表現するなんて、今まで一度もなかった。


「ずっと悩んで、私は穂村君を選んだ。それでも、澄ちゃんにはどうしても罪悪感が残ってしまって……」

「全部終わったらさ、夏島さんの誕生日会を盛大にやろうよ。それこそ、壮馬とか孤杉も呼んでさ。俺も罪悪感はあるし、いくら夏島さんが許してくれるって言っても、それだと気が晴れないしな。それでどうだ?」

「うん。すごくいいと思う!」

「だから今はさ、思う存分楽しもうよ。その方が夏島さんも喜んでくれると思う」

「そう、だね。うん、そうだよね。それじゃ、行こっか!」


 志水は立ち上がると、俺の手を握って走り出した。

 俺の目の前で笑顔を振りまきながら走る志水に、やはり強い違和感はある。

 だけど、これが決して作られたとも思えなかった。

 ならばこの志水は一体……。



 暫くデパート内を散策していると、志水は何かに目を奪われて突然立ち止まった。

 そこは有名な服屋で、志水は目を輝かせながら商品に目を通していく。


「ほら、この服とかすごく可愛い! これと合わせるとよさそう」

「そうだな。似合うんじゃないか?」

「試着してくるね」


 小走りで走る志水の後をゆっくりと追いかける。

 しばらくすると、試着室から先ほどの服を着た志水が現れた。

 少し黒みを帯びた赤色のニットセーターに、落ち着いた暗めの色をしたフレアスカートというコーデに身を包んでいる。


「どう、かな?」

「すごく似合ってる」


 ちょっと照れ臭かったが、その言葉を聞いて志水の表情が綻んだ。


「ほんと? 嬉しい!」

「それ、買おうか?」

「買ってくれるの?」

「いつも制服ばかり着てたし、たまにはお洒落したらいいのにってずっと思ってたんだよ。せっかく似合ってるんだから、着なきゃもったいないだろ」

「ありがとう。大切に着るね!」


 何一つ曇りのないその優しい笑みに、俺の心は惹かれていた。



* * *



「今日は楽しかったね」

「そうだな」


 あれからデパートで食事をとり、その後もデパートを回っていた俺たちは、閉店時間になったためデパートの外に出た。


「ねぇ、穂村君」

「ん?」

「この後はどうする?」

「店も閉まっているところが多いし、そろそろ帰らないとな」


 気づけば時刻は午後十時を回っている。

 高校生であることを考えれば、帰るべき時間。

 しかし、口では帰らないといけないとは言うものの、本心ではそうしたくなかった。

 今の関係でいられる時間は残り二時間弱。残された時間内は、志水と一緒に過ごしていたい。


「もしよかったら、家に泊まっていかない?」

「でもそれは……」

「話したいこと、あるんだ。だから、ね?」

「それなら俺も……」


 本来のここに来た目的は、志水に伝えたいことがあったから。

 気持ちが先行して遊びに誘ったが、そのことは忘れていない。

 ただ、一人の男子高校生として、志水の家に泊まるのはやはり勇気がいる。

 だから素直に頷けなかった。


「だったら、丁度いいでしょ? 私一人暮らしだし、その辺は安心してよ。行こっ」


 志水はまた俺の手を握ると、そのまま歩き始めた。

 今になって、一つ気付いたことがある。

 志水の手は小さくて繊細で、優しい感じがした。

 でもそんな手や、小さな背中と、計画のためにずっと頑張ってきた志水を重ねてみると、随分と無茶なことをさせてきたのだなと思う。

 決して志水はそう思って欲しくはないのだろうが、逆にそう思うことで志水に無茶をさせないように俺が頑張らなくては、と自らを奮い立たせることができる。

 いつも見えない志水のもう一つの姿を見て、その思いはより強くなっていた。


「ここだよ」


 そう言って指差す先にある建物は、高さ二十階ほどあるであろう高級マンションで、玄関口から俺の家との明らかな格の違いを見せつけられた。


「嘘、だろ……」


 とても高校生が一人で住んでいるとは思えない品のある高い建物に言葉を失った。

 広いロビーに、数々の観葉植物。まるで来客をもてなす高級ホテルのような内装に、気付けば見入ってしまっていた。

 エレベーターを前にして、志水は上矢印のボタンを押す。

 しばらくして到着したエレベーターのドアが開き、中の人と入れ違いになった。

 エレベーターに乗って、ふと東地区図書館での出来事を思い起こす。エレベーターに乗ったのはあそこで仕事をこなした時以来だ。

 もちろんこのエレベーターには、隠しボタンのようなものはなく、志水は普通通りに階層ボタンを押した。

 でも、その押したボタンに書かれていた数字に驚かされる。


「十八階!?」

「最上階は二十一階でその三つ下だけど、景色がいいんだよ?」


 多くの場合、階層が高くなるにつれて家賃は高くなる。

 あのホテルの内装に、部屋が十八階ともなると、もはや家賃の見当もつかない。

 しばらくして、到着を知らせるベルが鳴り、エレベーターのドアが開かれる。

『1803』と書かれた部屋の鍵を開け、中へと案内された俺は、さっき志水が言っていた通り、壮大で美しい夜景に目を奪われた。

 家々から見える光が、まるで季節外れのホタルかのように光り輝く。

 こんな綺麗でどこまでも続いているように見えるこの場所が、実際は暗い檻の中というのは本当に皮肉なものだ。


「この景色が、私の計画への想いを強くさせた。きっとこの街の中に、多くの苦しんでいる人がいるんだなって思うと、やらなきゃって気持ちが強くなった」

「俺もそう思った。絶対に成功したいって。この街のためにも、志水のためにも」

「わ、私!?」


 志水の慌てた姿を見て、自分が何を言っていたのかに気づいた。

 見る見るうちに顔が赤くなる志水と同じくらい、俺の顔も紅潮する。

 だけど、俺はチャンスだと思った。

 話の流れからして、これほど話を切り出しやすいタイミングはない。

 伝えるなら今だ。


「俺は志水ともっと時間を過ごしたい。今日のように一緒に買い物に行ったり、食事に行ったり、馬鹿な話したりしていたい。俺は……」

「ごめん穂村君。その続きを言う前に私に話させてくれない?」

「分かった」


 俺は話を一度止め、志水の話に耳を傾けた。


「まず、言っておかなくちゃね。今の私について」


 デパートの時から気になっていたことに、志水が自ら触れてくれた。


「本当の、嘘偽りない私が今の私。そして、穂村君の知っているあの私は、仮面の中の私」

「仮面って……、え?」


 作られたものではないと思っていたが、まさかいつもの志水の方が作られていた顔だったとは、全く思いもしなかった。

 その衝撃の事実には驚きを隠せない。


「私って、こんな風にちゃらんぽらんでさ、だらしないから。ずっと大人の凛とした立ち振る舞いに憧れていたの。計画をやると決めた時が一つのきっかけで、そこから私は理想に近づくために仮面を被った」

「別にだらしなくはないだろ」


 これでだらしないと感じるのなら、掲げている理想が高すぎるが故に基準が高すぎるだけだと思う。

 それに本当にだらしない人間は、きっとそんな仮面を被ったごときで直すことなんてできやしない。出来るのだったら、世の中にだらしない人間なんていないはずだ。


「できる限りその素を出さないようにしてきたけど、穂村君には本当の私を知ってほしかった。もし、あの仮面を被った私について来ていてだけなら、この先申し訳ない気持ちでそれこそ後悔することになるかなって」


 なぜこのタイミングでその仮面を外したのか。その答えを聞いて、ちゃんと納得した。


「こんな私を見て、それでも一緒にいたいって、穂村君は思ってくれる?」


 その問いに対しての答えを考えることはなく、反射で答えた。


「当たり前だろ? かっこよくて真面目で、どこまでもお見通しな志水と、曇りなく笑って優しくて積極的な志水のどちらも、俺が一緒に過ごしたい志水なんだから」

「そっか……。ありがとう」


 照れ臭く微笑んだ志水に、俺は少し安堵した。


「穂村君は私にとって、大切な人だよ」


 その意外な言葉は、心をぐっと掴むものがあった。

 ずっと志水が俺のことをどう思っているかなんて、これまで一度たりとも分からなかった。

 そんな中で聞けた本音に何事にも代えがたい嬉しさを感じて、胸の中が熱くなる。


「初めて大切な存在だって気づいたのは、私が無理をして倒れた時だった」


 二か月ほど前。東地区図書館で得た情報を伝えに、志水の家に行った時。

 最初はいつもの志水に見えたが、顔を見る限り明らかに無理をした様子で、結局話の最中でその場にしゃがみ込んでしまった。


「私と穂村君は計画以外のことをそんなに話したわけでもないし、むしろ私、素っ気なかったから関係は浅いものだとばかり思ってた。だけど私を叱ってくれて、それが嬉しかった」

「Mなのか?」

「違う! いや、違わない……、って今そんな話はどうでもいいの!」

「ごめんごめん……」


 志水は怒ってきたが、いつもの無表情とは違うためか全然怖さを感じなかった。

 本来はあまり怒るのが得意じゃないタイプなのだろう。


「人を気遣う際に怒れる人って、かなり人を思ってる人だけだと思う。だからこの人は、本当に優しい人なんだろうなって。そんな人のこと、大切に思わないわけないよ」


 あの時の俺が怒ったのは、自分の命を完全に犠牲にして結果を得ようとしていたから。

 命を懸ける覚悟は必要かもしれないが、あの時は命を捨てようとしているようにしか見えなかった。

 それにあの時点で、俺は志水にはずっと生きていて欲しいという感情が、どこかしらで芽生えていたのかもしれない。


「それからは、穂村君と一度は出かけてみたいなって心の中で思ってた。特にこの一か月間は、もちろん澄ちゃんとの時間を残したい思いもあったけど、それと同じくらい穂村君と二人きりで過ごしてみたいっていう気持ちが、会わないことでずっと強くなって胸が張り裂けそうだった。でも会いに行くことには、なかなか一歩が踏み出せなくて……」

「俺もそうだった。だからこんなギリギリになってしまったんだ」

「今日、穂村君が来てくれなかったら、きっと後悔してた。本当の自分を見せられなかったことと、二人きりの時間を過ごせなかったことの二つで。だから、本当にありがとう」

「礼を言うのはこっちだよ。今日は本当に楽しかったし、本当の志水が見せてくれたことが嬉しかった」

「私も楽しかったよ!」


 志水はそう言って楽しそうに笑った。

 それから二人の間に、無言の時が流れた。

 きっと二人とも、今日のことを思い出して余韻に浸っているのだろう。

 そんな中で、志水が口を開く。


「あのさ、穂村君」


 志水がなぜか改まって俺の名を呼んだ。


「穂村君がさっき言おうとしてたこと、きっと私も同じだよ?」

「俺の心が読めるのか? エスパー?」

「もしかしたら、穂村君に対してだけ効果を発揮するエスパーかも」

「えらい実用性に欠ける能力なこった」

「でも、私にとってはすごい有用性が高いと思うけど。掌の上で転がせちゃうし」

「お前、絶対MじゃなくてSだろ!」


 こんなしょうもないやり取りも、大切な思い出の一ページになる。

 志水と一緒に居られれば、その思い出が重なっていつか分厚いアルバムになるだろう。

 そしてそのアルバムを見返して、懐かしみながら笑い合って、それもまた思い出の一ページに加わりながら、ゆっくりと歳を重ねていく。

 そんな風にして、ずっと二人で笑い合っていける気がした。


「せっかくだからさ、一緒に言おうよ」

「本当に自信満々だな」

「自分を、というより穂村君を信じてるからね」

「そうかよ」


 信じるって、曖昧な言葉だと思う。

 どのくらい信じれば相手を信じていることになるのか、明確な基準もなければ、その確証もどこにもない。

 だけど、相手の全てを信じられると自身が思えば、それは紛れもない『信頼』であることに違いない。

 俺は計画に参加してからは、命を半分志水に預けていた。

 拳銃の強奪作戦でも、一歩間違えれば人生が終わっていたかもしれない。

 そんな中でも、俺が立ちすくんでしまわなかったのは、志水を心から信頼していたから。きっと志水なら大丈夫と、確信を持って言えたから。

 これからも、俺は志水を信じ続ける。

 だから――。


「それじゃあ、行くよ?」

「あぁ」

「せーの!」

『好きです』


 二人の声が綺麗に重なる。

 ずっと伝えたかった言葉、思いを届けられて心の底から安堵した。

 同時に、同じことを思ってくれていたことの嬉しさで、頭が半分真っ白になっていく。

 不思議な高揚感と、充実感で満たされて、俺は今確実に幸せだと言える。

 俺たちがそれから言葉を続けなかったのは、ただ余韻に浸っていたからではない。

 お互い考えていることが同じだからだと、すぐに悟った。

 しばらく見つめ合いながら、静寂が続く。

 でもその静寂に耐えられなくなって、志水が噴き出して笑う。


「ほら、やっぱり一緒だったでしょ?」

「さすが、対俺専用のエスパーを名乗るだけのことはある」

「でも、この次の行動は予測できないよ」

「次……、っ!?」


 一瞬、意識が飛んだ気がした。

 それほどに衝撃的で予想のできない行動だった。

 志水は突然抱き着いたかと思うと、すぐさま俺の唇を奪った。

 柔らかなその感触に人生最大の幸福感を感じながら、この一瞬は絶対に一生忘れないと心に誓った。

 十五秒と長い接吻のあと、志水は体勢を戻す。

 でもその時の志水の表情は無表情で、目の色も違っていた。


「今日は早いからな。そろそろ寝るぞ」

「今日?」


 俺は部屋にあった時計に目を向ける。

 時刻は綺麗に午前零時を指している。

 それはすなわち、計画実行への復帰を告げているのと同時に、本当の志水との突然の別れを示していた。

 突然だったが、頭の中はすぐに切り替えができた。

 やけに冷静で、もうさっきのような高揚感もない。

 絶対に計画を成功させたい。

 その気持ちがより強くなったからだ。



 それからお互い風呂に入って、志水はベッドに、俺は敷かれた布団に入り横になった。 

 その間、俺たちの間には一切会話はなかった。

 そしてその後、思い出したかのような足の痛みと、酷使した身体の疲れが押し寄せ、気付いたら意識を失うかのように眠りについていた。


「おやすみ」


 そんな志水の声が聞こえた気がしたが、きっとそれは夢の中だ。

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