第3話 運命の分かれ道

 東地区の図書館に、本来ないはずの地下。

 そこには、約二百八十年も前の書物が残されている。

 実行しようとしている計画の唯一の手掛かりがその書物には記されており、それらを全部読み漁るのが、今俺に与えられている仕事だ。

 その仕事も今日で終わり。

 エレベーターから最も遠い角にある本棚の一番下。残されている本はここにある一冊のみで、あとはこれを読み終えればノルマが達成される。

 ページを開いて、一枚、また一枚と捲っていく。

 ここ二ヶ月くらいこの紙を捲る音を聞き続けたが、電子書籍が大半を占める中で、今もなお紙の本が残り続けている理由の一端を垣間見れた気がする。

 読み始めてから約三十分。

 別に物語を読んでいるわけではないので、これくらい時間があれば目を通すだけなら可能だ。

 もし重要そうな内容を見つけたら、そこを集中して読んで携帯にメモをするのだが、今日はそれもなくあっさりと終った。

 腕を天井に突き上げて思いっきり背伸びをする。


「ようやく終わったぁ~!」

 

二か月間の図書館通いを終えて、大きな達成感とともに疲労感がどっと襲ってくる。

 今日は帰ってゆっくり休もうと、本を元の位置に戻したときだった。

 ポケットにしまってあった携帯が鳴った。


「電話?」


 電話先を確認すると、壮馬だった。

 壮馬は加入してから雑用仕事が多いらしく、この前は食料を抱えて志水の家に向かう姿を見かけた。

 志水曰く、今はまだ仕事がないからだそうだが、志水の負担を減らすという意味ではかなり重要な役割を担っているかもしれない。

 時刻は午後五時半。

 俺や志水とは事情の違う壮馬には、『毎日学校へ通うように』と言ってあるため、今はおそらく下校する時刻あたりだろう。


「もしもし?」


 俺が電話をとると、真面目なトーンの壮馬が応答した。


『悪い、作業中か?』

「いや、丁度終わったところだけど」

『少し厄介なことになった』

「厄介なこと?」

『来週、学校の予防接種がある』


 これを聞いて、何が厄介なのだと普通は思うはずだ。

 しかしながら、モデル都市の裏事情を知っている俺たちにとっては恐怖の言葉だった。

 俺はその言葉を聞いて、少し焦る。


「どうする? 一度、志水に報告するか?」

『報告と言っても、どうするんだ? 生徒全員のワクチンを事前に調べ上げるなんて、そう簡単にできる話じゃないだろ』

「確かに……」


 専門知識もないのに調べようとすること自体無謀だが、仮に問題のあるワクチンがあると分かったとしても、どうやって止めればいいのだろうか……。


「とにかく一度報告しに行くぞ」

『分かった。それじゃあ、志水さんの家で合流しよう』

「了解」


 とにかく、この予防接種で被害者を出すことはなんとしても阻止したい。

 ここまで俺たちが心配しているのは、この予防接種という名目で行われている試験薬の投与によって、毎度何人もの人が亡くなっているからだ。

 保管庫の中にあった本の中にもこのことについてのことが供述されていて、俺たちはこの件に関する細かい情報を手に入れている。

 予防接種での試験薬投与の際には悟られるリスクを避けるため、被験者は完全に無作為に選ばれた少数に限って行われている。

 その少数から得たデータを集めることで、多くのデータをとっているという。

 なお、病院の代表はモデル都市外で国によって選ばれた人間が常に務めており、完全にこれらのことを隠蔽する工作がなされている。

 これまではその試験薬の投与による副作用が主な死因で、症状の軽い人や症状の出ない人もたくさんいた。

 ただ、これまで通り試験薬の投与がされるとは限らず、劇物の投与が実施される可能性だってないわけではない。

 どちらにせよ、予め対策を打つ必要がある。

 俺は保管庫の照明を落とし、この場所を後にすると、急いで志水の家へと向かった。



* * *



 図書館から志水の家まではそこそこ離れており、約三十分歩いてようやく到着した。

 そこから十分ほどして、壮馬が遅れて合流。二人揃って、志水の家の扉を開けようとした時だった。

 中から声がして、俺たちは入るのをやめ、隙間から中を覗くことにした。


「先輩、こんなところにずっといたんですか?」

「……」

「生徒会のメンバーもすごく寂しがってましたよ?」

「……」

「にしても、なんで東地区のそれもこんな薄汚い建物の地下に住んでるんですか? 何か家を出なければいけない事情でもあったんですか?」

「……」


 志水と同じ学校の制服を着た見知らぬ少女と、珍しく対応に困っている志水が対面している図。

 少女はひたすらに質問をぶつけるが、完全に志水は無言の一点張り。

 この二人の関係性は何なのだろうか……。


「……なんでこの場所を見つけられた」


 かなり呆れた様子で志水が言葉を絞り出す。


「この前、東地区に用事があってきてたんですけど、その際偶然制服姿の先輩を見かけて。その日は外せない用だったのでできませんでしたが、その次の日から暇さえあれば捜しに来てたんです。それで今日、ようやくコンビニから出てくる先輩を見つけて、後をつけてきたってわけです」

「それってストー……」

「カーじゃありませんよ。先輩が何も言わずに急に学校来なくなったのが悪いんです。生徒会長が不在で、私たち生徒会メンバーだけじゃなくて、生徒みんな心配しているんですよ?」


 どう考えてもこの状況のまま放置しておくと志水が可哀想だったので、あくまで聞いていなかったていで俺は扉を勢いよく開けた。


「わっ! びっくりしたぁ。って、あなたたち誰ですか? あ! もしかして先輩をここに監禁してる悪い人たちですか? いや、そうに違いありません!」

「勝手に自己完結するのやめてもらっていいかな?」


 完全に話は、茶髪ショートヘアの少し小柄なこの子ペースだ。


「先輩をここに閉じ込めてどうするおつもりですか? 先輩は凛としていて華やかで誰からも信頼される魅力的な方なので、誘拐したくなる気持ちはわかりますが、先輩の身柄をこちらに渡してくれませんかね? 私が監禁します」

「この子、サラッと本人の前で犯罪予告したよ……」


 さすがの俺もこの調子にはついていけず、ただただ呆れるしかなかった。


「でも、本当に俺たちは何もしてないぞ?」

「いいえ、監禁しているに決まっています。先輩のような人間が、こんな場所に住むことを自ら選択したとはとても思えません」


 その言葉を聞いて俺が志水の方に視線を向けると、ばつが悪そうに視線を横に逸らした。


「君も可愛いし、まとめて監禁してあげようか?」

『話をややこしくするな!』


 壮馬の冗談めいたふざけた発言に、俺と志水の怒りの声が重なる。


「はぁ……」


 志水の大きなため息が聞こえてくる。

 この状況を一旦整理してみる。

 この少女は、志水が学校に来なくなったことで心配していた。

 ある日その志水を見かけ、後日あとをつけた。

 そして少女は、本人に失踪の理由を問い詰めている。

 ただ、その理由を簡単に話すわけにもいかず、志水はなんとか隠そうとしている。

 しかしながら、本当のことを話すまでは帰ってくれなさそうなこの状況。

 恐ろしくデジャヴな気がするが、二度あることは三度あると言うしな……。

 今回は、前回の志水の立場で立ちまわることが望ましいだろう。


「ごめん。ちょっとだけ、部屋から出ててもらうことは出来るかな?」

「本当にちょっとだけですよ? あと、鍵閉めて閉め出すとかは無しです。その場合、警察呼びますから」


 そう言って渋々部屋を出て行った少女を確認して、俺たち三人は話を始める。


「それでどうするつもりだ、志水」

「前回のように話すには、信頼ができなさすぎるという点でネックだ」

「じゃあどうやってこの場を凌ぐつもり? 志水さん」

「その案がどうしても思いつかないから、さっきから頭を悩ませている、いや痛めてるんだ」


 話せばこの場は収まるが、話すわけにはいかない。

 話さなければ警察を呼ばれて、計画が水の泡になる可能性がある。

 このどちらも解決できる第三案を考えろ、というのが今回の問題だ。

 もし簡単にアイディアが浮かぶのなら、俺たちが来る前に志水が場を収めていたはずだ。

 志水をもってしても思いつかなかったのなら、一体どうすればいいのだろうか。


「でもやっぱり話すしかないだろ? 適当な誤魔化しは、警察呼ぶとか言ってる以上かえってリスキーだし……」


 とは言うものの、これで引き下がるか確証もない。

 ただ、話さない限りはこれ以上先には一歩たりとも進めない。


「穂村の言う通り、それが一番だとは分かっている。分かっているが……」

「そもそも二人はどういう関係? 生徒会長とかなんとか聞こえたけど」

「おい、壮馬!」

「あっ……」


 さっきまでの二人のやり取りは聞いていなかった体だったにも関わらず、壮馬が盗み聞きしていたことを自ら暴露してしまった。

 志水は呆れてため息を漏らす。


「……聞いていたならもっと早く出てこい。私を見殺しにする気か?」

『すいません……』


 二人揃って深々と頭を下げた。



* * *



 一旦仕切り直し、志水が話を始めた。


「要するに私は生徒会長、あの子、孤杉花実こすぎ はなみは書記で生徒会メンバー。そしてあの子は私より一つ年下の高校一年生」

『ん?』


 俺と壮馬が揃って頭の上に疑問符を浮かべた。


「何かおかしい点があったか?」

「悪い、最後の方だけもう一回言ってくれないか?」

「だから、あの子は私の一つ下で高校一年生……」

「志水、俺らより一つ年下だったのか?」

「……穂村、年上だったのか」


 俺たちはたった今、初めてお互いの年齢を知った。

 俺や壮馬は、凛としていて大人びたオーラのある志水を同い年として見ていたし、志水には俺たちが同級生以下に見えていたのだろう。

 別にだからと言って敬語で話せとかそういうことを言うつもりはないが、この事実は結構衝撃的ではあった。


「ごめん、話が逸れた。それで?」


 俺が話の軌道を修正すると、何事もなかったかのように話が再開される。


「別に私は特に何もしていないが、あの子はやけに私のことを気に入っているみたいで、学校にいるときは高確率で抱き着かれていたんだ。もちろん私は、毎回鬱陶しいから引き剥がしていたのだが……」


 さっきの孤杉の言動から、ものすごく容易に情景が想像できてしまう。


「だからきっと私が学校に来なくなって相当心配はしていると思う」

「だったら、なおさらちゃんと事情話したほうがいいんじゃないの?」


 壮馬が俺の言いたかったことを代弁する。


「孤杉は八方美人で、結構周りに話すようなタイプだからな……」

「つまり、口が軽いってこと?」


 壮馬が今度は俺が言いにくかったことを代弁してくれたが、よくこんなストレートに物が言えるな、と逆に少し感心した。


「端的に言えばそういうこと。悪い子じゃないというのは十分に理解してるが、そういうところを加味するとあまり言いたくはない」


 志水の少し暗い表情には、申し訳なさの色が見てとれた。

 この背景を踏まえると、やはり第三案を考えなければ解決に至らなさそうだ。

 しばらく三人は口を紡いで熟考していたが、突然壮馬が何かを閃いた様子で立ち上がった。


「やっぱり話そう」

「話を聞いていたか? 秋原」

「それによくよく考えてみると、話してすぐ受け入れて帰るほど諦めのいい子には見えないぞ」

「俺の案は、話した後が肝心だ」

「どういうことだ?」

「要するに、このことを話すような環境がなければいいわけだ」

「全然『要するに』の意味が分からん。説明しろ、壮馬」


 俺がそう言うと、壮馬は急に声のボリュームを下げて、思いついた第三案のことを話し始めた。



 壮馬によるすべての説明が終わり、俺は志水に問う。


「これでいけるか? 志水」

「……あまりやりたくないが、もうこうするしか道はない、か。仕方がない」


 全く乗り気ではないが、志水自身代案を思いつかないので、もうこの案に乗るしかなかった。


「じゃあ、開けるぞ?」


 俺は部屋の扉をゆっくりと開けた。

 すると孤杉はすでに携帯を耳に近づけているではないか。


「ちょっ!」


 思わず携帯電話を取り上げようとしたが、孤杉はひらりと俺の手をかわして、


「冗談です。遅かった罰ですよ」


 と、不機嫌そうに話し、俺の横を通って部屋の中に入る。


「それで、何の話し合いだったんですか? こんな長々と」

「とにかく一旦座ってもらえる? 長くなりそうだから」

「分かりました」


 志水は孤杉をソファに座らせると、もう三度目となるこのモデル都市の実情を話し始めた。



 さすがの孤杉も終始驚いた様子で、志水が話している間は一切口を挟まなかった。

 やはり当たり前が当たり前じゃないと言われるというのは、それだけ大きなことなんだなと再確認した。


「そういうことだったんですね……」


 孤杉は、手を顎に当てて少し悩んだ様子でしばらく黙っていた。

 その様子を三人は静かに見守り、次の孤杉の言葉を待った。


「でも、それと学校を休んでいるのは話は別です」


 顔を上げた孤杉はそう言った。

 素直に事情を話して『はい、そうですか』と引き下がってくれれば一番助かったが、簡単に引き下がらない可能性は元から懸念していたこと。

 ここまで大方予想通りといったところだ。


「だって、お二人は学校に通ったまま参加しているわけで、先輩もそれでわざわざ東地区に家を置いて住み込まなくてもいいじゃないですか」

「私がここに来るとき、モデル都市を解放するまではあの日常に戻らないと心に決めた。だから、学校に戻る気はない」


 志水のこの言葉を聞いて、孤杉は内に秘めていた感情を前面に押し出す。


「なんで……。なんでなんですか! そこまでして成し遂げたいことなんですか? それに先輩は本当にそれでいいんですか? 私たち生徒会メンバーを、学校のみんなを、夏島先輩を見捨てても、それでいいって言うんですか!?」

「……」


 痛い所を突かれたようで、志水の表情は苦虫を噛み潰したよう。

 志水にとって夏島澄という人物は、この計画を実行するきっかけになった人物で、かけがえのない親友。

 見捨てたつもりなど到底ないはずだが、急にいなくなられた本人がそう捉えていてもおかしくはなかった。

 だからきっと、志水は孤杉の言葉に反論ができなかったのだ。


「孤杉さんは、志水さんに見捨てられたと思ったってこと?」


 二人の間に流れる気まずい無言の続く空間を断つように、壮馬が問いを投げかける。


「こんな血生臭い闇に対抗しようとすることが、あの日常よりも大事なんですかね。私、先輩のおかげで毎日学校に行くのが楽しくてしょうがなかったのに……」


 その問いに対する直接的な回答ではなく、あくまでボソッと独り言のように孤杉は話を始める。


「夏休みが明けて、初日から生徒会室に姿はなくて。きっと真面目な先輩でも休みボケしたり、終わってない宿題を終わらせるに必死なのかな、ってそんなことを冗談っぽく考えてました。けど、待てど暮らせど先輩が生徒会室に姿を現すことはなくて、先生に問い詰めたら、休学してるって。悩み事も何もかも全部背負い込んで無理押しちゃう責任感強い先輩だから、もしかして私たちが辛いもいさせたのかなってずっと思っていたんです」


 志水は全ての責任を背負い込む癖がある。だから決して俺にも弱みを見せようとせず、多くを頼ろうとしなかった。

 けど、志水本人はそれが原因で倒れてしまった。

 俺は志水が頼れるような存在ではないからこそ、こうやって辛い思いをさせてしまったのではないか。

 孤杉とは状況が違うものの、似たような経験から強く共感した。


「それで謝罪するためと休学の理由を聞くために先輩の家を訪れました。だけどそこは既にもぬけの殻で、表札すらなかった……」


 孤杉は過去を思い出して辛そうにしていたが、志水も俯いて表情こそ見えないものの申し訳なさや辛さで胸をいっぱいにしているかもしれない。


「私たちが出来の悪いばっかりに、見限って見捨てられたんだなってその時思っちゃいました……」


 孤杉は苦笑いして話していたが、目は完全に潤んでいて、声もかなり湿っぽかった。

 そんな様子を見ておきながら、空気を読まずになぜか笑顔を見せたのは壮馬。


「さてと、孤杉さんは志水さんに学校に復学してほしくて、志水さんは復学するわけにはいかないという強い意志がある。どう考えても二つ同時に満たせないけど、妥協案が一つある」


 そう言って、壮馬は右手の人差し指を上げた。

 そんな壮馬の様子を見て驚いていたのは孤杉だった。


「それって、どんな案ですか?」

「二人とも監禁……、ゴホン。孤杉さんも休学してここに住めばいい」

「え~!?」


 さすがに予想していなかったであろう言葉に、驚愕といった様子で声を上げる孤杉。



 時間は少し前に遡る。

 壮馬は、ある一つの案を提案した。


「孤杉さんをここに住ませたらどう?」

「……」


 予想の遥か斜め上の解答に、俺と志水は思わず押し黙ってしまう。


「これなら、学校で口を滑らせる心配もないし、志水さんも計画を続けられる」

「まぁ確かに」


 壮馬の案は、満たすべきものは満たされてる。

 話すことで志水が学校を休んでいる理由には納得がいくし、最も懸念していた他人への情報漏洩も少しは防ぎやすくなる。

 何よりこれまでしてきたことが無駄にならず、計画を続けられるという点が志水にとっては最も大きいはずだ。

 だが、志水はあまり納得のいかない様子だった。


「どうした、志水」

「それしかないのか……」


 志水は頭を抱えて、項垂れていた。

 会ったら毎回抱き着かれると言っていたし、同じところで過ごすとなると志水にとっては余計に鬱陶しくなるだろう。

 そのことに対する不安と、案の合理性との二つが頭の中でせめぎ合っているといったところか。

 しばらくの間、顔を上げなかった志水は、突然何か吹っ切れた様子で立ち上がると、


「それで行こう」


 と、宣言したがやはり吹っ切れられず頭を抱えていた。



「本当にいいんですか!?」


 孤杉の表情が、驚きから喜びに変わったようで、目をキラキラと輝かせている。

 別に孤杉が嘘をついているというわけではないが、生徒会メンバーや夏島さんのことを引き合いに出したのは、少しでも気持ちを引き戻そうとしたためだろう。

 だから孤杉としては、学校でなくとも志水の近くにいられるのなら、どこだっていいのかもしれない。


「仕方ない……」


 若干顔をしかめる志水。

 受け入れてはいるものの、やはり嫌なものは嫌なのだろう。


「ただ計画遂行まで、この計画のことは他言しないことと、学校の人間とは会わないことの二つは絶対順守だ」

「はい! 先輩のそばにいられるなら、絶対に約束は守ります!」

「分かった」


 志水はひとまず一件落着か、といった様子で胸を撫で下ろし、嘆息した。


「先輩、私今から休学届出しに行くので、一旦失礼します。荷物は明日にでも持ってくるので、その時はよろしくお願いしますね!」

「お、おいっ!」


 急に話を片付けて、急いで帰ろうとする孤杉を制止しようとしたが、時すでに遅し。

 部屋の扉は勢いよく開けられ、気付いたら姿は見えなくなっていた。


「はぁ……」


 俺たちは盛大な溜息をつく。

 まさに嵐のように突然来て、突然消えた孤杉。

 俺たちは今日一日だけ一緒にいただけなのに、かなりの疲労感に襲われ、ソファにもたれかかった。

 いつもは気を引き締めている志水ですら、完全に気が抜けていた。


「悪いな、志水。押し付けるようなことになって」

「いいや。元々私が悪いし、あれでも私の大切な後輩だ。なんとか責任もって面倒は見る」


 志水は立ち上がると、身の回りに広がっている計画の資料を片付け始める。


「ところで、今日はなぜ二人揃ってここにいる?」


 志水の何気ない問いで、俺たちが今日ここに来た理由を思い出し焦りだす。


「悪い志水。緊急事態だ」

「緊急事態?」

「東地区の学校で、来週予防接種があるんだ」

「あぁ、その話か」

『え?』


 知っていたかのような口ぶりに、俺と壮馬の声が重なる。


「今回の予防接種は、本当にただの予防接種だ。他の予防接種で行われる実験のカモフラージュらしい」

「何だぁ……。よかったぁ」


 孤杉の件が片付いた時よりも体の力が抜けた。

 それにしても、この予防接種の情報を俺たちが知る前から確認済みの志水の把握能力の高さには、本当に恐れ入る。


「あ、でも穂村が来てくれたのは都合がよかった」


 思い出したかのように言う志水は一度作業を止めた。


「明日、重要な任務がある」

「重要な任務?」


 これまでは主に保管庫の本を読む作業しかやってこなかったが、志水の言う重要な任務とは一体どれほどのものなのだろうか。


「概要は当日の現地で伝える。朝九時に東地区の駅前に集合で」

「分かった」

「え、俺は行かなくていいの?」


 その話を近くで聞いていた壮馬が、至極当然の反応をする。

 俺もなぜ二人なのかは疑問に思っていたことだ。


「任務の都合上、人数が増えるとリスクが増える。それに悪いが、おそらく明日この家に来る花実を捜しに来させないようにする役割を頼みたい」

「あぁ……、なるほど。全力でここから出ないように努力する」

「よろしく頼む」


 この会話だけ聞いていると、もはや孤杉が飼い主を待ちきれなくて外に出てしまうペットみたいな扱いになっているような気がする……。


「とりあえず今日は解散だ。私は酷く疲れた」


 志水が力なく項垂れた。


「その調子だと、明日以降はもっと疲れるぞ」

「本当にその通りだ。明日以降が思いやられる……」


 俺はソファから重たい腰を持ち上げる。同時に壮馬も立ち上がる。


「それじゃ、また明日」

「お疲れ様、志水さん」

「あぁ」


 俺たちは志水の家を後にした。

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