Vedete-04:泡沫にて(あるいは、アリンプロヴィッヅオ/義儀議偽戯ヴォルタ)

 暖色の光は、そこに静かに充満堆積するかのようになった二人分の吐息により、少しその明度を揺らし落としたかに見える。西側に切られた大窓は無論、執務室の各所に穿たれた明かり採りや風抜けの小窓のことごとくは、かなる事態ゆえ厳重に封鎖し固められており、広い空間内部の空気濃度を殊更に密にしているように思えた。


「……」


 少し落ち着いてみると、いや落ち着いてみれば尚更に、現状の異様さと言うか「あるまじきさ」と言ったらよいかが思考停止の脳に正体無く浮き漂っているようであり。さしもの智将にも本日における戦の時点においては皆目予測不可能であった事態。その混沌へと徐々に加速度を増しながら転がり進んでいるということをようやく受け止めてようとはしているのであるが。心の安静をも必要とされている己の内にじわじわと渦巻いていく正体不明の感情に委ねるべきなのか抗うべきなのか今ひとつ決めかねつつも、身体を横たえていたソファにひとまず座り直し、軽く居住まいをも正していくベネフィクスがいる。


「……」


 そんな先ほどまでの喧噪わやくちゃが別次元の事かと思わせるこの静謐ながらどことなく嫣然とした空間においても、黒衣の青年はまったく先と同じような凪いだ気構えにて粛々と白鞘刀を壁の「杖掛け」のひとつに無造作に掛け置くと、その細身の身体を包む漆黒の外套をまず脱ぎ落とし、そのままの流れるが如き所作にて、身を軽く捻りながら上半身を覆いし黒き上着をも何の逡巡も無く後方の椅子に脱ぎ捨て掛けるのであったが。


 え、ちょ、早っ……のような声が、その一挙手一投足を横目にて窺っていたベネフィクスの唇から少女のような頼りなさを伴いつつ思わず漏れ出てくるものの、薄明かりに晒されたアザトラの引き締まった筋肉に鎧われたその身体のかしこに、様々なる切創、裂傷の跡やら、かなりの範囲に渡る灼け引き攣れたような疵や、そのような傷々のさらに上から何かに抉られたような痕が何かの文様か模様かが如く展開している様を見て取り、流石の歴戦の将も言葉を喪う。


「……生まれし時は、万に一人と言われる、男の『色氣力使い』、いわゆる『雄器色氣男オキシキィナ』にてござった。それも当時最大たる術式……『Ⅸ式きゅうしき』まで単独で操ることが出来うる、大陸においてもその存在は稀と言われるほどの」


 その凄惨なる己の身体を隠さずさらには見せつけるかのように、青年は少しづつ歩を進めてくる。ソファの上で一瞬、身体を強張らせたベネフィクスだったが、相対する青年の少し乱れた黒髪の隙間から覗く黒い闇を湛えたままの瞳の奥に、捉えきれない感情の核のようなものを見て取ってしまうと、音も無く腰を浮かしつつ、その左の二の腕あたり、傷跡のひとつに長く細やかな指を伸ばしていく。


「……聞いたことはあったわ。でもいつの間にか話には上らなくなっていたから……てっきりこの国からは去っていったのかと。それこそ大陸の方とか」


 逡巡ののちに紡がれる言葉には、ある程度の斟酌の響きがあった。古来より男の色氣使いは諸々が不安定であると巷間言われている。多くは暴走した能力に呑み込まれるように若くして廃人と成り果ててしまったり、最悪死に至るということも。然るに「刹那の火力」を得んがため、紛争の絶えぬ大陸の各地に「傭兵」的に派遣され、使い棄てされるというそう幸福では無い末路を辿る者が多いということも。


 しかして目の前の青年の全身を這いまわるかのような傷は、色氣力の暴走というような内的の因によるものには見えず、端的に言うならば色氣力の業の様々を、致命的にならぬよう逐一丁寧に「わざと」喰らったかのようなある種の整然さを醸し出しているのだった。


「それがしも幼少のみぎりには神童などともてはやされ、有能なる出世頭、あるいは貴重なる『財源』として、一家の期待は正邪問わずにそれは誇りにも重石にもなるほどでございました。しかして己が他人の役に立てるというただ一心のもと、色氣の力を調律し、自在に抑え込まんがための激しい修行に明け暮れ申した。そのことに一切の後悔は無いでござる」


 そう言い切る青年の言葉とは裏腹に、至近距離にて見降ろしてくる黒い両眼の底にはやはり漆黒の液体のような感情未満のものが揺蕩っているかのようにベネフィクスには感じられている。で、でもその修行のおかげで今も抑え込めているのでしょう……? との問いは、口に出したそばからそのような単純な話では無いのだろうというような思考の触手に絡め留められていくようであって。果たして、


「……齢十一の時に、それがしは一切の色氣力を喪い申した。まったくもっての一切合切が、ある日抜け落ちるようにして己の身体より霧散してしまったのでござる」


 静かに首を横に振りながら放たれた言葉は、この者が外に出さぬよう細心の注意を払っているだろう硬く編み込まれた心の網の目から滲み出した哀切のようなものが確かに宿っていた。理由を聞くことは憚られた。その後の周囲の扱い方も、こと自分が色氣に頼りてこの国の中枢まで駆け上がってきたからこそ、ベネフィクスには伺い知れてしまったのである。そして改まる。今まで目の前にいるこの青年のことも、その出自のことも考えないようにしていたことを。自分はこの青年を知っている。


「期待の分だけ失望も大きかった。内外からの激しき罵倒叱責その他諸々……蟄居させられし物置のごたる離れにも火をかけられ、いわれなき暴力、人間未満の扱いを受け……我が誇り高き亜聡南アザトイナ家の名も地に堕ち申した。母上が数年のちの伸風呂炭ノバスタンの戦にて帰らぬ人となったのも、その全てを挽回あるいは返上せんがための、無理が高じたものと聞き及んでおりますれば、それがしは家名を汚し、母親まで殺したも同然の罪深き咎人でしかござりませぬ」


 違う、と思わず口をついて出た言葉はしかし、青年の瞳の中の黒き液体に遮られ、身体の、精神の芯までにはとても到達はしないように思えた。しかし伝えなければいけないことは、伝えぬわけにはいかない。ベネフィクスはそう心の底で決めると、ままならぬ感情をそれこそ自らの内に落とし込み封じて、軋んだ言葉を必死で紡ぎ出すのであった。


「……アザリアは、天衣無縫の才嬢でした。先の戦にて命を落とされたのは、ひとえに李枇ァ梛リクシアナの方の落ち度。アザトラ、私が当主に成り代わり、謝ります。本当に申し訳なきことを……も、もうし、……ご、ごめんなさい……っ」


 知らずに頬を伝っていた熱い奔流のひとつは、伸ばされてきていた骨ばった指の背にて遮られていた。勿体なき御言葉、さればもう、この下らぬ戦いなどは早々に収めて母の墓前に報告せねばなりませぬな……、という、この者にしては情の乗りし言の葉に、遂には喉奥で絡まる嗚咽を堰き止めきれなくなるベネフィクス。実は全てを知っていた。アザトラの母のことも。何故ならば、望む望まずに関わらず色氣使いへと「育成」されうる者たちはすべからく姉妹の如き絆を有しているのでありて。


 ゆえに、この危急の事態に訪れて来た青年の姿を、ひと目、相まみえたかったということもあったのであった。対峙してからはさしもの智将も、その凪いだ破天荒としか表現かなわぬ坩堝の中で如何ともしがたかったのであるが。


 異様あるいは天命。この者の出自もそうであれば、辿って来た計り知れない道程、そして巡り巡ってこの戦地の只中のこの晩に居合わせたこと、それら全てが異様そのものとして映り出してきてはいるものの、それがまた巨大にて強大な、人ならぬ何者かの強引極まりない意志によるものにも思えてきて、ベネフィクスは眩暈を覚えると共に全ての現実味が身の回り皮一枚の外界から剥がれ落ちていくようにも感じられてきているのであった。


「……」


 しかし、目の前にいる青年の姿は確かにうつつに映り、近づいたことにより感じられてきたその野生の獣の如くの匂い、触れたことにより指先を伝わってきた脈動と熱……


 それら全ては確かに今、此処に在りて。


「……剣の道を究める中で、自らに残った、いや、新たに醸成されたと申しましょうか、失われた色氣力の代替なのか、その反動なのかはそれがしにも未だ良くは分かりはしないのでありますが」


 色氣力を、吸い取る力があるのだと言う。それは確かに先ほどのリアルダとの触発の時も発揮されていたように見受けられた。しかしてそれが何故先ほどのたまった何とやらに繋がり得るか分からぬままのベネフィクスなのであるが。


「自らの内に溜まりし色氣力を、自ら扱うことは能いませぬが、それを他者に受け渡すことは可能。その術が、他ならぬ聖交合あのアレなのでございまする」


 急に落差を持って投げかけられてくる混沌に、多少なりとも耐性を得つつある智将ではあるものの、それでもいざ眼前に呈されると、ふーんふーんと首肯すること以外の反応を返すことは出来ないようである。と、


 えちょっと待って、受け渡すって……と非常に嫌な予感にまたも眩暈を覚えるベネフィクスの前で、左様、我が億の分身共がその身に蓄えし色氣力を、互いの昇詰機エクスタシアの刹那、『孔』を通して相手の最奥に一気呵成に放出する秘奥義……名付けて「緻繋沙生ティ=TONIGHT=シャッセ」にてござ候……と非常に良き顔にて言い放たれたその言葉に立ち眩みと脱力感を覚えて眼前の傷だらけの胸元に思わずしなだれかかると、それが合図と見て取られたか、次の瞬間、乳白色のローブごとそのしなやかで豊潤なる肢体は横抱きに絡め抱えあげられており、次の瞬間、奥にある仮眠用と思しき寝台へと向けて静々と軽々と運ばれ始めている。


「わ、わたくし、取り決められた『子ふたり』を成すための儀以外には、そ、その……そんなに経験があるわけでは無いのです……っ、この齢で言うのも何なのですが、そ、そのぅ……や、やさしくしてくださいましね……?」


 自らの腕の中で顔を赤らめたベネフィクスの、恥じらいつつ艶めく吐息と共に放たれし小声に、何故か満足したかのような良き微笑をかますアザトラであったが、次の瞬間、真摯な顔つきに改まると、


「……畏れながらそれがしが体得せし作法は、表四十八、裏四十八の計九十六の身絡手トゥワィイのことごとくを経由したのちに絶・天弄抜倒位リミトラ=ブレイコ超究撫唇肌ンニ=ブルヘ=イムン』にて往生フィニシャスするものでありますがゆえ、ま、なるべく留意はいたしまするでござ候」


 多分というか絶対穏便に済まなさそうな実の無い言葉にヒィィと慄く間も無く、とこに優しく横たえられたベネフィクスのローブは性急に剥ぎ取られると、その艶めく裸身を覆い尽くさんばかりに鍛え上げられたアザトラの傷だらけの背中が覆い被さっていくのであった。


 あーれー、との何か達観したかのような声が響く中、運命の夜は更けていく。


 発端、そう言い切るにはまだ混沌に過ぎるこの一夜の夜伽ぎ。それが更なるうねりの渦を発生させていく。


 運命の車輪は、軋みながらも動き始めようとしていた。

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