アカネというおんな
『――キツネには十分注意してください。繰り返します。遠野コロニー33番エリアの事故以降、キツネと呼ばれる窃盗グループが犯行を続けています。知人の姿かたちになりすまし、詐欺、スリ、誘拐など、人の心に付け込んだ許しがたい犯罪行為を行っています。被害に遭わないために、知っている顔でも合言葉を決める、待ち合わせはデータ通信で行うなど、細心の注意を払うよう心がけてください。キツネには十分……』
「しってらあ」
フクジはつぶやいた。背中に獲ったばかりのぬめる魚をしょって、早朝の競りに出すところだった。夜も忙しく働く電動掲示板は、言語を英語にし、同じ文言を繰り返した。それが「彼」の仕事だった。
「家借りられるほどの大金、盗られてよお」
フクジの言葉を聞く者はいない。
「忘れる、わけ、ねえだろうよっ」
午前二時、夜中の市場は静かだった。フクジが一番乗りだったに過ぎないのだが、それはフクジの孤独に影を落とした。
「……ちくしょう。みんな誰も俺を責めねえ。一言でもなじってくれたら、」
足元の巨大な魚を見下ろして、フクジは唇を噛んだ。
「馬鹿野郎って言ってくれたらいいのによう」
フクジの独り言が響き渡る。そこへ、
「ばっかやろー!」
女の声が飛んできた。女の声は近づいてくる。思わずフクジは顔を上げた。
「あっははは、おかしい、おかしい、ばかやろーだって。ばかやろー!」
「アカネちゃん、飲ませすぎちゃったかなあ」
連れの男が酔っ払いの女を連れ戻そうと躍起になっている。
「ラブホテルはこっちだよ。そっちじゃないよ。そっちは魚くさい市場だよ」
「うるさいうるさい。あたしはホテルなんか行かないったら」
「行こって言ったら笑ってくれたじゃん」
「行かないっ!あたしは、33番エリアに帰るの!母ちゃんとこ、帰んのよ!」
「もうないよ!33番エリアは!もうないよ!」
なおも男はふらふらの女の手を引いた。
「もう、ないじゃん、忘れたの」
「ある!あるったら!魚の匂いがするもの。……母ちゃんの匂いだもの」
「お酒飲むといつもこうだなぁ。でも、今日こそホテルまで来てくれるよね、アカネちゃん」
フクジはもう黙っていられなかった。
「行かねえって言ってる女を無理やり連れていくな、このど阿呆が!男の風上におけねえ腐った奴だな!」
男はそこでようやくフクジの存在に気づいたらしかった。
「わっ!びっくりした。……アカネちゃん、キツネっぽい人が出たよ、逃げよう」
「きつね……?」
「キツネだと?」
フクジは眉を吊り上げた。
「あんなものと一緒にするなこの野郎、やるか!?」
「うわっ!こわっ!」
鬼のような形相で走り出したフクジにおののいて、男はアカネから手を離し、一目散に逃げだした。放り出されたアカネはふらふらとその場にしゃがみ込んでしまう。フクジは男を追うのをやめて、ハイヒールの脱げてしまった素足の女に尋ねた。
「おい。おうい。アカネ。……源氏名か?名前、なんていうんだ」
「おとうちゃん」
「はあ?」
「おとうちゃん、迎えに来てくれたの?」
気づけばフクジはアカネの腕の中にいた。若い女を助けたつもりが、気づけばその女の魔力にからめとられてしまったようだった。フクジは身動きも取れずに、頭を撫でる女の指にまかせた。
「魚くさい。でもおとうちゃんのにおいだねえ……」
「お前……」
「おとうちゃんが宇宙から帰ってくるの、ずうっと待ってたんだよ。おかあちゃんも家で待ってるよ。ね、帰ろうね」
『パパ、おかえりなさい』
ひさしく忘れていた娘の声が耳もとでフクジを呼んだ。
『おかえりなさい、あなた』
あの日々。
「そうだよなあ。帰りてえなあ、アカネ。俺も帰りてえ。できるもんならよ」
「……帰ってきてよ、おとうちゃん。帰ってきて。……うう、うう」
涙を流す女を引きはがすこともできなくて、フクジは大きく息を吐いた。もうすぐ、競りのために多くの漁師が市場にやってくるだろう。いつまでもこうしちゃいられない。フクジはアカネに、ささやいた。
「また店に逢いにいくからよ。……ほんとの名前を教えちゃくれないか」
「あかね」
フクジは驚いた。
「本名か」
「うん、本名だよ。フクちゃん」
アカネは正気を取り戻しつつあった。脱げたハイヒールを履きなおし、背伸びするように立ち上がると、小さな鞄を片手にうんと伸びをした。
「ね、フクちゃん。フクちゃんは優しいねえ」
営業なのか、本音なのか――婿養子としてキタガワに入ってからこっち、恋愛の経験のないフクジは、どきっとした。涙目の女がやさしく微笑みながらそんなことをいうものだから――。
「今度一緒に呑もうね。一緒にお酒選ぼうね。……未だ呑んでないの、あのオーダー」
「あ、ああ」
一杯おごる、ツケにしといてくれ――あの時のオーダーのことを言っているのだと、すぐわかった。
「待ってるね」
アカネは一丁前に名刺を差し出した。ホログラムの立体で「アカネ」とだけ書かれたシンプルな名刺で、裏面には狐のマークが印刷されていた。
「……きつね?」
しかし名刺を眺めている間に、アカネはどこかへ行ってしまっていた。まるで最初からいなかったかのように。
「おはよう。……どうしたフクジ。”キツネにでもつままれた”のか?」
フクジはそうやって、仲間に言葉を掛けられるまでそうしてアカネの名刺を眺めていた。
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