後編

選ばれた者

 不思議な夢以来、フクジは思い悩み考え込むことが多くなってしまった。それは時折心を突き刺すような頭痛となって、フクジをさいなんだ。

 妻に愛した男がいた。今は冥府でともにめおととなって暮らしている。

 ……アケビ。

 フクジは息子二人を連れて海に出た。思うままに網をあやつり、たくさんの魚を捕まえて、それを市場で売った。売って、売って、売りさばいた。息子たちが音を上げたあとは、一人で。疲れた体に鞭うつようにして、取りつかれたようにフクジは金を稼いだ。

 漁師仲間はフクジを心配した。しかし何を話しかけても、フクジはうわの空で、「金が要る」と呟くだけだった。

 そして、コロニーの補助金やら、身を粉にして働いた金でようやく小さな集合住宅の一室を借りることに成功したフクジは、その日のうちにせんべい布団を二組だけ買って、息子たちに与えると、手元にわずか余った金を握りしめ、いつかのバーに駆け込んだ。


「いらっしゃぁい。あらま」

 主人ママは真っ赤なドレスを着て、前のように奇抜な緑色の唇で笑んだ。

「いつかの大変なお客さん。また来てくれたのねん」

「……一番安い酒を」

「そんなこと言わないでん。アカネちゃん、おしぼりちょうだいな」

「はあい、ただいま」

 主人がそう呼ぶと、奥から美しい女が出てきて、にこにことフクジにあたたかなおしぼりを差し出した。主人はフクジの向かいに座って、

「新人のアカネちゃんよん。かわいいでしょう」

 その女は黒目がちな瞳のくりくりした愛らしい貌をしていた。たれ目の端に赤を差し、白と赤のコントラストが際立つふわふわしたワンピースを着ていた。金魚みたいだ、と疲れた頭で、フクジは考えた。

「……若いね、きみ」

「そんなことないですよ。私、こう見えて……」

「アカネちゃん、そういうのは言わなくていいのよん」

 主人はフクジの前で黄金色のウィスキーを注ぐ。

「ロック?水割り?ソーダ割り?」

「ロック……」

「お強いんですね」

 カウンターの向こうから、アカネが言う。後ろで結った黒髪がふわふわと揺れる。

「強い酒で酔いたいだけだよ。もう嫌になった。全部が嫌になった」

「そりゃあ大変ねん。肩の荷物を下ろしちゃうなら今のうち」

 主人は長いまつげでフクジを慰めた。

「いつかは聞けなかったあなたのお話を聞かせてちょうだいよん」

 フクジは限界に達していた。


「……死んで、しまいたくなった」

 

 フクジは33番エリアの事故から今までのことを洗いざらい話した。仲間の好意をキツネにすべて盗られてしまって水の泡にしてしまったこと。それでも仲間たちがフクジを責めないこと。夢で死んだ妻に会って、もう自分のことは忘れろと言われたこと。妻は自分のほかに、ずっと好いていた男がいて、死んだ後に結ばれたのだと言っていた……。

 主人は黙ってそれを聞いていた。語り終えたフクジは、溶けかかった氷のウィスキーをぐっと煽った。店の中は、明るい流行りの曲が流れていたけれど、フクジの話を聞いたあとではすべてから元気のようなチープさを演出していた。

「……なにも、死ぬことないじゃない」

 声を上げたのは、なんとアカネだった。

「たったそれだけで、死んじゃうことないじゃない」

「それだけ?」

 フクジは血走った目でアカネを睨みつけた。

「いまそれだけって言ったか?それだけって。それだけって言ったな?」

 主人はアカネを庇うように立ち上がった。「フクちゃん。この子まだ若いのよ。あなたのつらさが分からないのよ」

「つらいのは、わかるけど」

 主人の大柄な体の向こうから、アカネの強い声が聞こえてきた。

「生きてるんだから、いいじゃない。自分から命を投げ出す必要なんかないよ」

「お前に俺の何が分かる!」

「わかるよ」


 アカネは目に一杯涙をためていた。


「33番エリアにあったのは、貴方の家だけじゃないもの」

 フクジははっとした。頬をぶん殴られたよりも強い衝撃が、脳天を直撃していた。

「……君もそうなのか」

「あたしは、運がよかっただけ。だからあたしも死んでたかもしれなかったの。あなたとおんなじ。だけど、生きるためになんでもやる。なんだってやってやる」

「アカネちゃん!」

 彼女のメイクは溶けてしまっていた。真っ赤なシャドウが血の涙のように彼女の頬を汚した。

「死んじゃった人のことを考えちゃうのはわかる。その時どうしてあたしもそこにいなかったんだろうって思う。どうしてあの時あたし死ななかったんだろうって思うこともある。だけどさ。選ばれちゃったんだもの。ほうに、選ばれちゃったんだもの!」

「……アカネちゃん」

 主人は彼女の元へいき、その肩を力いっぱい抱きしめた。

「アカネちゃん、わかるわ。わかる。でも、お客様の前で涙を見せちゃあだめよ。それはこの店のタブー」

「うう、ううううう……!」

「顔を洗って、メイクを直しておいで。次に出てくるときは、笑顔よ」

「はい、……すみません、ごめんなさい」

 アカネは奥へと引っ込んでいった。しきりに鼻をすする音がしていた。


「フクちゃん。ごめんなさいねん。景気づけに何か歌う?」

 カラオケのマイクを指さした主人に、フクジは深々と頭を下げた。

「すみません。泣かせてしまった」

「いいのよ」主人は疲れをにじませた笑顔を見せた。「世の中全体がぴりぴりしているからね。そういうお客さんも増えたわ。そういう時は寄り添ってあげることしかできないのだけど。……でもねフクちゃん。死んじゃあ、だめよ」

「……」

「死んだらおしまいよ。楽しいこともうれしいこともおしまいよ。酒だってきっと飲めないし、新しい恋だってできないわ」

 フクジは脳裏に二人のめおとの姿を思い出した。

「そうだろうか」

「そうよ。きっとそう」

 フクジは店の奥を見た。まだアカネは戻ってこないようだった。

「あの子は成人していますか」

「お酒は飲めるけど……今日はちょっと無理かもねん」

「俺につけといてください。あの子に、あの子の好きな飲み物を一杯。高くても安くても構いません。酒でも酒じゃなくても、どっちでもいい。俺からの気持ちだって、伝えといてください」

 それを聞いた大柄なママは、「わかったわん。どぉもまいど」とにこやかに笑った。フクジはさっと会計を済ませ、ほとんどすっからかんになって店を出た。




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