キツネとの邂逅

 これで避難所暮らしを逃れることができる。息子たちにも、肩身の狭い思いをさせずに済む――そう思うと、フクジの足取りは軽やかになった。大通りは常になくぎらぎらと広告塔を光らして、それがフクジの興奮に拍車をかけた。フクジは先の事故ですっかり参ってしまっていたから、正常な判断ができない状態にあった。妻も娘も家も一度に失った彼は、軽い躁鬱そううつ、その躁に陥っていたに違いないのだが――本人にその自覚はまだなかった。

 フクジはあたりをぐるりと見渡して、懐に仕舞ってある仲間からの情けをぐっと服の上から押さえつけた。

「不動産屋はどこだったかな」

「こっちだよ、フクジ」

 つぶやきを聞きつけたかのように、知った声がフクジを呼び止めた。フジシチであった。

「フジシチ!市街で会うなんて珍しいな」

「お前が心配で」

 フジシチは頭の後ろを掻いた。

「不動産屋まで送るよ。キツネが出るからな……――」

 彼はフクジと肩を組んだ。フクジはなんだかうれしくなってきて、ぐっとフジシチに体をあずけた。

「お前みたいな親友をもって俺はしあわせだ、しあわせもんだ、ああ……」

「疲れたろう。目の下が真っ黒だ。ほら、これでも飲めばいいさ」

 フジシチは手元から缶コーヒーを取り出した。フクジはやはりうれしくって、どうしようもなく幸せで、缶コーヒーを開けるや否やそれをぐうっと飲み干してしまった。

 とたん。

 ぐらりと視界がかしいだ。足がもつれ、ろれつが回らなくなり、地面に倒れこむ。背中がべったりと重力で地面に張り付けられたみたいになって、大の字になって、フクジははっと目を見開いた。何かがおかしい。ようやくふわふわした気分が落ち着いてきたころには、胸にしまっていた皆からの心づけを、知らぬ細指が一枚残らず抜き取ってしまっていた。

「だからキツネには気を付けてといったのにね。おバカな人」

 そこにフジシチはいなかった。そこにいたのは女だった。美しい声の女だった。

 おまえ、だれだ。フクジはじっと女の顔を睨みつけたが、クスリのためか、涙か、目の前は濁って見えない。悔しくて悔しくて大声を出しながら、足を踏み鳴らして、フクジは叫んだ。

「キツネ!キツネ!返せ!それは俺の、おれの!」 

 みんなが出し合って都合してくれた、生活のための。これからのための金なのに!

フクジは動けなかった。起き上がれなかった。フクジはやたらめったらに叫びながら足をばたつかせた。盛られたクスリは一向に切れそうになかった。


 キツネはもはやどこにも居なかった。倒れこむフクジに向かって、バーの主人ママが面倒くさそうに言う。

「ねぇえ。商売のじゃまよん、どいてちょうだいよん」

「うあああああああああああ!」

 むくつけき男の腕に抱き起こされて、フクジは憤死せんばかりに吠えた。

 この人ごった返す大通りの、どこぞにいるキツネに向かって、確かな憎悪を向けながら。

「かえせよお!かえせ!かえせ!」

「お金のトラブルってのは困ったものねん」

 青い口紅の男は、つやつやしたタイトなドレスを翻して、フクジを片腕で抱えると店の中に運び込み、ソファに座らせて、コップ一杯の水をくれた。

「あんた、ワケありっぽいわねん。アタシもそうだけど、あんたもそれなりねん。話だけは聞いたげるから、足が治ったらおうちにおかえりなさいな」


 帰る家などない。息子たちが避難所で待っている。

 

 フクジの眦からは涙があふれて止まらなくなってしまった。主人ママはそんなフクジを憐れんで、肩を抱こうとしたが、フクジはそれを思い切りはねのけた。

「お前がキツネじゃない証拠がどこにある。俺から取れるものはもうないぞ」

「そうね……生きづらい世の中になっちゃったわねん、お互い」

 フクジに、その言葉は刺さらなかった。


 

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