第5話 もう一度前へ
六月も最終週。段々と天気的にも夏へと移行し始め、湿度の高い日本の夏が到来しようとしていた。
あの日以来、昔のように出席日数ぎりぎりになるように学校を休んだりはせず、毎日出席して全ての授業を受けている。そして、休み時間はうまく誰もいない場所を見つけて時間を潰している。
大地と天宮に負けないためという理由ではあるが、授業中はいつもより数段集中しているからか周りの声が気にならなくなっていた。もしこういう理由でもなければ、授業にも集中できず、周りの声ばかり気にしてしまっていただろう。
理由はともあれ、一歩前進できたのはあの二人のおかげだ。
その天宮だが、俺の故郷で別れてからというものの、一度も学校で姿は見ていなかった。仕事が忙しいのか、または何かしらの理由があるのか。スマホの方で話をしたいという旨のメールは送ってあるが返信はない。
一方で、大地とは学校でたまに話すようになり、施設時代に近いような感じの関係になっていた。だが、いいことばかりではない。周りから次第に大地の名前も聞かれるようになり、本人は気にしないと言っているがやはり少し罪悪感に苛まれた。
「それで、俺の時間の使い方を理解しながらも、わざわざここに来たのはどういった要件だ? それとその隣の子は誰だ」
今は午前の授業が終わった昼休み。ここ最近は屋上で過ごすことが多かった。
昼食を早めに済ませて本を読む。場所が変わってもそのルーティンは今も変わっていない。
俺は人のいないところとしてこの屋上を選んでいるのだが、今日に限っては来客がいた。それが大地と隣にいる女の子である。
「この子はこの前言ってた俺の彼女」
「改めて確認しておくけど、『girl friend』であって『she』ではないよな?」
「なぜ英語? それに『she』なら文法的におかしいでしょ。本当に学年一位かよ」
「ボケに決まってるだろ。いちいち真に受けるなよ……」
黒髪で身長は低め。雰囲気はかなり落ち着いている。俺の噂があるからか、彼女は大地より一歩だけ後ろにいる。
『不幸の子』の噂は、聞く度に変わっている気がする。被る内容は、近くにいると死ぬとか伝染するとかで、範囲に関しては、半径数メートルとか数十メートルとか。
あくまで噂だからなのか、かなり内容が曖昧で相当嘘っぽい。一体なぜ彼らは、そんなものを信じているのだろうか。きっと俺が彼らの立場なら、胡散臭いと一蹴したに違いない。
人類学などでは、噂話は『毛づくろい』の代わりとも考えられている。サルなどが毛づくろいをしているのは、相手との親密さを示す一種のコミュニケーションのためにやっているのだという。人の場合、それに加えて言葉がある。サルとは違って、気軽に他人に触るわけにはいかないため、代用として言葉で親密さを示しているのだという。
なぜ、親密さを示すために噂話が使われるか。それは身近で共通の話題になるからだそうだ。
噂話くらいでしか、それも悪い噂話でしか他人との親密さを確かめられないようなら、その関係は親密ではないだろう。
そう。彼らがやっているのは表面上だけの温い慣れ合いに過ぎない。
大地の彼女だというこの女の子はおそらく、そういう人間とは違う。もし同じような人間なら、そもそもここにはやってこないだろう。それに連れてきているのはおそらく大地だ。彼の彼女に限って、そういう人間ではないだろう。
「ほら言った通りだろ? かなり無愛想に見えるけど、実は結構面白いやつなんだ」
そういって隣の女の子に説明する大地。
「無愛想で悪かったな」
大抵の人間が俺に無愛想という印象を抱くのは人間不信と本を読むのを邪魔するなオーラが主な原因だと自覚はしているが、人に言われると少しムカッと来る。
どうも、大地より一歩後ろに立っていたのは噂を気にしてではなく、単に俺の外面の印象が悪いかららしい。
「
「どうも」
彼女は一歩前に出てそう挨拶した。それに対して俺は、紹介不要だろうと挨拶は一言にとどめた。
天宮との噂と俺の過去の噂で大半の生徒は俺のことを知っているだろうし、大地がここに連れてきたということは、おそらく施設時代のことも含めて紹介済みだろう。
「それで、その小山さんを連れてきた訳は?」
「彼女にも協力してもらおうと思って」
「お前、この前の件で理解しただろ?」
大地には人間不信が治っておらず、まだ大地以外の生徒には頼れないということを話した。それなのに、なぜ……。
「人間不信の例外、つまり信頼することができる人間でないとそもそも任せられない。さらに本人がリスクを理解した上でないと、だろ?」
「分かってるのなら何で……」
「御波は、俺らと同じ施設育ちなんだよ」
「施設育ちだからって……」
施設育ちだから、俺の気持ちが分かるから、信頼できるだろとでも言いたいのかもしれないが、そういうわけではない。
俺と大地がいた施設の中で、信頼できたのは大地と福川先生だけだった。無論、施設にはほかにもいろんな人たちがいたわけである。全員どころか、その中でもごく僅かな人とだけが人間不信の例外になった。そんなことは、俺の一番近くにいた大地なら当然知っているはずだ。
「過去に辛い思いを経験したって点では共通している。その過去のことで今も苦しんでいる人が俺の親友なんだって彼女に話したら、協力したいって言ってくれたんだよ」
「私ね、地崎君の噂を耳にしたときに、同じような経験した人がいるなら助けてあげたいってずっと心の中では思ってた。それが大地君の親友だと知って、絶対に助けるんだって決心したの」
例外かどうかは正直まだよく分からない。けれど、その真っ直ぐな言葉に嘘偽りが含まれていないことだけは確信が持てた。きっとこれが、彼女の本心なのだろう。
「この言葉を聞いても、お前は信頼できないのか?」
「……」
すぐには答えが出せず、黙り込んだ。
小山さんの言葉や気持ちに嘘偽りがないとしても、それが彼女を信頼できる理由にはならない。ならば、人を信頼するには一体どうすればいいというのだろうか……。
その答えが見つからない限り、俺はきっといつまでも人間不信のままだ。
「もし、御波が裏切ったり、健樹が被害を受けるようなことをしたなら、俺と縁を切ってもらって構わない。本当に気に食わなければ俺を殺したっていい」
「ちょ、ちょっと、大地君⁉」
あまりにも極端な例を持ち出すものだから、大地の隣の小山さんが狼狽えていた。
さすがの俺も少し驚いた表情になる。
「それくらい俺は御波のことが信頼できるんだ。健樹にとっての例外である俺が、心から信頼できる人間なら、健樹もきっと信頼することがきっとできる、いや、信頼してほしいんだ」
俺が信頼する人間が、命を引き換えにしてでも信頼できると言ったほどの人間。
もしここで小山さんを信頼しないと言ったならば、それはもう大地を信頼していないと言っているも同然だ。
俺は今も、大地を心から信用している。
ならば一度、彼女を信じてみよう。
「分かった。それなら……」
俺の言葉を聞いた大地の表情が少し緩む。
そしてなぜか不敵な笑みを浮かべ、屋上の入口の方に目を向けた。
「あともう一人、信頼してほしい人がいるんだ」
「もう一人?」
その時、屋上の入口のドアが勢いよくと開かれた。
そして、そのドアの先から出てきたのは、黒髪の青年。見覚えのある人物だった。
「そ、染谷君、一体何があったの……、ってえ?」
その人物とは、一ノ瀬君だった。
一ノ瀬君が、屋上のこの光景を見て、何が起きているのかさっぱりという表情でこちらの方へと歩いてくる。。
あの時の罪悪感は今も心の中にはっきりと残っている。
だから今は、彼と顔を合わせるのが後ろめたくて、逃げ出したい気分だ。
「一体どういうことだ、大地」
この状況に納得のいかない俺が、大地を問いただす。
「あれから一ノ瀬君とは一度話をしたんだ。何で健樹をそこまで助けようとするのか。そして今もその意思があるかを確かめた。そして今、一ノ瀬君には悪いけど、最後に試させてもらったよ」
「ぼ、僕を試したの? じゃあ、さっきのは……」
「あぁ、ごめん。健樹ならこの通りピンピンしてる」
「なんだぁ……。びっくりした~」
一ノ瀬君が胸をなでおろす。
「お前、一ノ瀬君に何したんだよ?」
「一ノ瀬君に『屋上で健樹がピンチなんだ!』ってメールを送ったんだよ。そしたらこうやって、急いで駆けつけてくれた」
相当慌ててここまで来たからだろう。まだ一ノ瀬君の息は少し乱れてている。
「俺が何言いたいか、大体分かるだろ?」
大地は少し笑って問いかける。
大地は、一ノ瀬君の人柄を確かめるために、嘘までついて一ノ瀬君を呼び出した。
でもそれは、大地自身が一ノ瀬君の人柄を確かめるために試したのではない。
きっと、俺に確かめさせるために、一ノ瀬君を疑う余地などないことを確かめさせるためにやったのだ。
でも正直、ここまでしなくとも、彼がこういう人間だということは知っている。
あれからもずっと、俺の噂を話す人間を嫌っていることも、たまに俺の方を見て心配してくれていることも、全部知っている。
あとは俺が彼を頼れるのかどうか。一歩踏み出せるかどうか。
最初に話したあの時から、たったそれだけのことだった。
その一歩を、俺は今踏み出す。
「……ごめん一ノ瀬君」
「えっ?」
俺は、彼に向けて深々と頭を下げた。
でもその前に、俺にはしなくてはならないことがあった。
これまで一切信頼せず、助けようとしてくれている人を拒み続けてきたのに、突然信頼するから助けてもらおうだなんて、あまりにも虫が良すぎる話だ。
まずはこれまでのことを全て謝罪させてほしい。
「ずっと一ノ瀬君を頼れなかった俺を、それなのにほかの人を先に頼ってしまった俺を許してほしい……」
こんなことくらいで罪が消えるとは思っていない。
俺はこれから、一ノ瀬君を頼り続けることで罪を償っていく。
「都合のいいことを言っているのは分かってる。だけど、一ノ瀬君の力を貸してほしい」
「地崎君……。言ったよね?」
「え?」
俺は、ちょっと怒った様子で言った一ノ瀬君に驚いた。
いや、本来なら怒られて当然だ。
「初めて話したあの時に、『僕は君の味方だから』って。それは今だって変わらないよ」
なぜ、ここまで俺の味方をしてくれるのだろう。
あそこまでのことをしても、変わらずいてくれる一ノ瀬君にはとても頭が上がらない。
「本当にいいの? 一ノ瀬君が望むなら土下座でも靴舐めでも何でも……」
ギャラリーが一歩後ろに下がった気がしたが、気のせいだろう。
「何もそこまでしなくてもいいよ。それに、そもそも信頼できないような僕が悪かったんだよ、きっと」
「そんなわけないだろ!」
思わず声が大きくなってしまった。
悪いのは全て俺で、彼には何の罪もない。
だからそういう風に、自分を下げるようなことは言ってほしくない。
「初めて話したとき、見ず知らずの俺を助けるって言ってくれた。そして、この前も、俺が信頼するまで待つ、って言ってくれた。普通、二回も拒まれたらもういいやとか、何だよこいつって思うだろ……」
「まぁ、思うな」
そう大地が呟く。
「私もそう思う」
続けて小山さんも呟く。
「おいそこ、茶々入れるんじゃない」
『はぁ~い』
「それでも変わらず、俺を助けようとしてくれる一ノ瀬君を頼ってみようと思う。いや、頼らせてください」
「わ、分かった。分かったから、顔を上げてよ!」
俺は、本当に頭が地面につくのではないかというくらいまで深々と頭を下げていた。
「さて、一ノ瀬君との溝も埋まったところで」
一連のやり取りが終わったと見た大地が、話を進める。
「あともう一人、信頼してほしい人がいるんだ」
「デジャヴか?」
一体、何回『あと一人』が出てくるんだ……。
「天宮さんだよ」
「でもそれは……」
一ノ瀬君との溝も埋まって一件落着、と言いたかったが、もう一人溝が埋まっていない人物がいた。
故郷で別れて以降、顔を合わせていない天宮だ。
「学校には来てないんだろ?」
「だからそれはどうしようもないわけで……」
だがその人物は、学校にも来ない上に連絡も取れない。
「そこで一つ案がある」
「案?」
何やら、大地が不気味な笑みを浮かべたのを見て、背中に寒気を感じた。
本当に嫌な予感しかしない。
「実は私ね、天宮さんが休みの間、彼女の家に学校の資料を届けてるの。たまたま家が近くてね」
その小山さんの言葉を聞いた瞬間、何をさせたいのかがハッキリと分かった。
「それってつまり……」
「家に直接行って話してこい」
俺が学校に行かなくなった時、天宮が家を訪れたのと全く反対の展開である。
だがあの時と違って、お互いに会いたくない理由があった。
「いやでもあいつ、いつ帰ってくるかなんて分からないし……」
「それなら帰ってくるまで待ってればいいだろ?」
「いやそういう問題じゃないって……」
「とにかく、今日の帰り、御波と一緒に天宮さんの家に行って話してくること。いいな?」
「え、ちょっ」
勝手にどんどん話を進める大地のペースに飲まれてしまった。
「それじゃあ、今日は解散!」
「……」
大地の言葉でみな屋上の入口へと戻っていく。と思ったが、小山さんだけは立ち止まって再びこちらに戻ってきた。
「地崎君。今日の放課後、五時に玄関前で待ち合わせで」
「あ、あぁ」
「それじゃ」
多分付き合いが長い大地は全てを見通しての行動だったに違いない。
俺が実際に本当に会って話をしたいならば、それなりの理由をつけて、学校の先生から彼女の家を聞きだすことは出来ただろう。
その選択を取らないことから、俺が天宮と会うのが気まずいと思ってることに気づいたに違いない。
そして、彼は俺が行かざるを得ない状況を作り出した。
「してやられた……」
施設時代なら絶対になかったが、今日一日は完全に彼の思う壺であった。
※ ※ ※
午後の授業もすべて終わった放課後の午後四時五十分。
部活動は、最後の大会が終わって世代交代が始まっている時期。いよいよ自分たちの代がやってきたと、やる気に満ち溢れているであろう生徒たちが次々と部室に向かって走っていった。
そんな様子をぼんやりと見ながら、小山さんがやってくるのを待っている。
かれこれ、俺がここにきて十分くらい経っただろうか。
何も用事のない俺はこうしてすぐにここにやってこられたが、小山さんは天宮に渡す配布物をもらうために一度職員室に寄っているだろうから、もうすぐここに来る頃だろう。
「ごめん、本当にごめん。遅れちゃった」
噂をすれば、やけに急いできた様子の小山さんが息を切らしてやって来た。さっきも言ったが、まだ集合時間の十分前で特に焦る必要はないはずなのだが……。
「いや、まだ集合時間じゃないから全然気にしなくていいのに」
「大地君がね、『あいつは時間にやたらうるさいから、十分前に入ってないと怒ってくるぞ。五分前に間に合わなかったら……』って言ってたから、急いできたんだけど……」
「あいつ……」
確かに五分前行動は当たり前だと俺自身は思っているが、時間が迫っているときや大事な用事の時以外ではそこまで気にしていない。
ただ大地に対してだけは別で、昔の彼は食事時や登校時間など、当たり前のように遅刻していたために、その度に俺が強く五分前行動を言い続けていた。その記憶が今も残っているのだろう。だとしたら、あの当時に口酸っぱく言った甲斐があったなと思う。
「それじゃ行きましょ」
「あ、あぁ」
小山さんに案内される通りに、いつもの俺の帰り道とは全く違う道を通って行く。この地に来てからあまり経ってない俺にとって、この辺り全てが知らない場所だった。
「ところで小山さん、いつもは大地と帰ってるのか?」
「まぁね。付き合ってるわけだし」
「でも今日は大丈夫なのか? あいつと一緒じゃなくて」
「いつもなら、大地君の部活が終わってから一緒に帰るんだけど、大地君に天宮さんの家まで地崎君を案内してほしいって頼まれたからね」
「悪い、助かる……」
何か恋人水入らずの時間を削ってしまったようで、少し申し訳なくなった。きっと大地は、さして気にしていないだろうが。
「大地君曰く、『本来、俺意外の男と御波が二人きりになるようなことがあったら、その男を地獄に落としてやりたいところだけど、健樹ならそういう感情も欲求もなければ、常識も弁えてるだろうし大丈夫だ』とのこと」
「あいつ、俺を何だと思ってるんだ……」
フィクションの世界だと、友達だと思っていたやつが自分の彼女を寝取るなんて結構ありがちな展開だ。
「『ってのは半分冗談で、きっと御波ならあいつの気持ちも分かってあげられるだろうし、いい話し相手になるんじゃないかなって思ってさ。そうじゃなきゃ、わざわざ御波と二人で行かせたりしない』まで、話は続きます」
「前半必要だったのか? 話したのはわざとだろ」
彼女も場所は違えど、同じ施設育ち。そういう意味では、相談相手としてはふさわしいのかも知れない。
「私さ、幼い頃に両親に捨てられたの。それに学校では施設育ちだってことを馬鹿にされてさ。地崎君の話聞いたときに、似てるって思った」
彼女の表情が少し曇った。
俺も同じだが、過去のことに触れるだけで自分の気持ちがどっと暗くなる。過去を思い浮かべて、浸れる家族とのいい思い出がなく、悪い思い出ばかりというのは、本当に大きな不治の傷なんだなと再認識する。
「でも私は、大地君と出会って人生が変わった。暗い過去を打ち消せるくらいの光に出会った。だから、同じような経験をしている地崎君にも、幸せになってほしい。だから、私に手伝えることがあれば、手伝わせてほしい」
「なるほどな……」
「え?」
小山さんが首をかしげる。
「大地が小山さんを選んだ理由だよ」
「理由?」
俺は、施設にいた当時の何気ないエピソードを話すことにした。
施設にいた頃のある日の話。
いつものように図書室で、勉強を教えているときだった。
「健樹はどんな人が好きなの?」
「まだよく分かんないかな」
あの時、俺は適当にそう答えた。
だが、人をほとんど信じられない俺に、好きな人ができることなんてきっとないだろうな、と心の中では思っていた。
「俺はさ、付き合うなら恋人である俺だけでなくて、周りの困っている人にも手を差し伸べられるような人がいいんだよね」
「福川先生とか?」
「そうそう……、いや、そうじゃない!」
「そうかぁ、福川先生か~」
「ち、違う!」
彼は照れながら、全力で否定しようとしていたが、当時は好きだったのだろう。性格で言えば、確かに福川先生はその通りの人だった。
あれから年月が経った今でも、彼はそう思っているに違いない。なぜならあの時の言葉がそのまま小山さんに該当するからだ。
「へぇ~! そんなことがあったんだ」
「まぁそれ以降、福川先生が好きでないことを俺に証明しようと、福川先生を無視してたら、こっぴどく怒られてたけどな」
「大地君の意外な一面が聞けちゃったね」
小山さんがふふっと笑った。
「あいつは本当に純粋なんだよ。だから、俺はあいつに気が許せるのかもな」
「でも私ね、告白を一回断ったんだよ」
「え?」
意外な言葉が、小山さんの口から出てきた。
「当時は、やっぱり過去のこともあって周りとは距離を置いてたの。施設育ちって知られたくないから、敢えて少し遠いこの高校に来たんだけど、やっぱりいつか知られるんじゃないかって怖かった」
それに関しては、俺も同じだった。周りとは必要以上に接触せず、あくまで他人でいられるように振る舞った。
授業を受けて、隙間時間に本を読む。もちろん、そういう静かな日常を送りたいからという理由も確かにあった。
だがその行動は、相手との余計な接点を持たないようにして、可能な限り過去を知られる可能性を少なくするための行動でもあった。
まぁでも、結果的にその過去は、今では一般常識のように広まってしまっていて、完全に無駄骨になってしまった。
「大地君に告白されたときは、そのせいもあって彼のことはよく知らなかった。だから、その時は断ったの。でも、それから少し意識して彼を見るようになって気付いたの。積極的に日直の当番引き受けたり、先生の配布物の手伝いを進んで申し出たり。彼は、周りの人のために頑張れて、周りから尊敬されるような人間だって」
大地は、小山さんにいい風に思ってほしいがためにこのような行動をしたわけじゃない。彼は昔からそういう人間だった。
「彼なら、信じられる。彼になら私の過去を話してもいい。そう思えた。だから今度は、私が彼に告白したの」
「二人は似た者同士だな」
「地崎君も、他人事じゃないよ?」
「え?」
小山さんは突然足を止めた。俺もそれに合わせて立ち止まる。
「地崎君はさ、あの雰囲気の中で学校にいるのが嫌なんでしょ?」
「うん」
「私たちは、地崎君にとって居心地のいい環境にするために手助けると誓った。でも、その居心地のいい環境は、もう案外近くにあるんじゃないかな」
小山さんはそう言って空を見上げた。
学校から歩き始めて約三十分。時間的にはとっくに夕方なのだが、夏至に近い今日の空はまだ青空が広がっている。
「そして、きっとすぐに気づくと思う。私たちが、意図的に助けようと何か行動を起こす必要なんてなかったことに」
「それってどういう……」
「とりあえず私の役目はここまでだね」
彼女は俺に学校からの天宮の配布物を手渡し、周りとは少し雰囲気の違う、綺麗な一軒家に目を向けた。その家の表札には『天宮』と書かれている。
「それじゃあね」
「え、ちょっと、小山さん⁉」
彼女は軽く挨拶をすると、足早にこの場を去っていき、すぐに姿が見えなくなった。
時刻は午後五時半。仕事で学校に来ていないのだとすると、まだ帰ってきていない可能性もある。だがまずは、天宮がいるかいないかを確かめなければ話は始まらない。
俺は恐る恐る、インターホンに手を伸ばした。
『ピーンポーン』
『はい』
「天宮さんと同じ学校の地崎と言います。学校で配られたものを届けに来ました」
『け、健樹君?』
インターホンに出たのは、天宮香苗だった。
天宮は予想外の人物が出てきて、相当驚いている様子だ。
『なんで、小山さんじゃないの?』
「その小山さんならさっき帰った」
『何、一体どういうこと?』
渡すのを頼まれたのは確かに小山さんだった。しかし、最後までその仕事をせず、俺に託して帰っていったのは、俺と天宮の二人きりで話をできるようにという気遣いなのかもしれない。
玄関の奥から足音が聞こえてきたかと思うと、その足音はどんどんと大きくなってくる。そして、中から玄関の扉がゆっくりと開かれた。
「久しぶり、健樹君」
彼女は俺の方をあえて見ず、気まずそうにそう言った。
そうなるのも当然だろう。二週間前に喧嘩した相手なのだから。
「とにかく上がって」
「お邪魔します」
俺は家の中に入り、彼女の案内で階段を上がった先にある部屋に入った。
部屋に置いてあるものを見るからに、おそらくここは天宮の部屋だろう。部屋の中はしっかりと整理されていて、壁にはカレンダーのみと、今時の女子高生の部屋というよりは、優等生の部屋といった方がしっくりくる。
彼女は俺を座らせると早速話を始めた。
「とにかく、なぜ健樹君がここにいるのか説明してもらっていい? 話はそこからよ」
「分かった……」
俺はそこから長々と、故郷に帰った日以降の話をした。
大地のこと、一ノ瀬君のこと、小山さんのこと、そして今ここに来た理由もすべて話したところで、彼女は大きなため息をついた。
「なるほどね、実際に染谷君は同じ学校で、その彼女である小山さんも協力者になってくれた、と。小山さんが来るはずのところなのに、家の場所も知らない健樹君がここに来られたのもこれで納得ね」
「それでさ……」
俺の言葉を聞いて天宮が俺と目を合わせた。
「ここに来たのは、あの時のことを謝らせてほしいからなんだ」
「……」
「あの時は情に流されて思ってもないことを言って、天宮を傷つけたこと、すごく反省してる。本当にごめん」
そう言って頭を下げた。すると、天宮は予想外の言葉を返した。
「私からも謝らせてほしい」
「いや、天宮が謝ることなんてないだろ」
「健樹君に全て話してほしいと言っておきながら、自分は隠し事してたこと、謝りたかった。全部話せなくて、ごめんなさい」
本来、小さな隠し事の一つくらいはあって当然だ。だから、彼女が謝る必要なんて何一つなかった。
悪いのは、過剰な期待をするあまりに、たった一つの小さな隠し事すらも容認できなかった俺だけだ。
「これで、お相子ってことでいい? 健樹君」
「天宮……」
天宮は、少し笑っていた。
その笑顔は、こんなしょうもないことで喧嘩しているのはもう止めにしようよ、と言っているようだった。
思い返せば、たった小さな隠し事一つで、本当に小さなことで喧嘩していたと思う。
「それよりさ、最近発売された『五月の病』読んだ?」
本当に今まで喧嘩してたのだろうかというくらい、彼女は急にいつものトーンで話し始めた。
というより彼女は、いつも通りの関係性に戻ることを望んでいるのだろう。
本の話をして、しょうもない会話をして、変に盛り上がって。
そんなあの日常をもう一度。
「もちろん読んだに決まってるだろ。発売日に書店に並んだくらいだ」
「だよね! あの恋愛小説の天才が手掛ける第四部作目が、雰囲気暗めの悲恋だなんて、読みたくなるに決まってるよ!」
「実際予想通り、最高だったな。全体通して暗かったけど、最後は絶対に泣ける」
「私、もう三回は読んだけど、三回とも泣いた!」
「次も楽しみだな」
「次はどんな作品かなぁ。今からもう楽しみだよ!」
「それでさ、あの作品は読んだ?」
「『あなたは虹を渡れますか?』だよね!」
「やっぱり読んでたか」
「当たり前だよ! だってあの作品は……」
たった二週間、されど二週間。会話を交わさなかったために溜まった本の話題で、大いに盛り上がった俺たちの会話は、留まることを知らなかった。
かれこれ一時間くらいぶっ続けで話しただろうか。お互い盛り上がりすぎて熱くなってきたところで、天宮はが茶を差し入れてくれた。
「これで分かったでしょ? 私が本当に本が好きなこと。あの日、あんなこと言われて、かなり気にしてたんだからね?」
天宮はふくれっ面をして言う。
「その件は誠に申し訳ございませんでした」
あの日、隠し事の件でどうかしていた俺は天宮にこう言った。
『本当は本など読んでもいないし、好きになったわけではない。隠し通すためについた嘘をバレないように書店でも本を大量に購入した』
これだけ語れる人間が好きじゃないはずがない。仮に演技していたとしても、本に
関してだけは、俺を欺くことなんてできはしない。
「また今度、本買いに行かない? この前買ったやつは全部読んじゃったし」
「分かった。でも、その前に俺たちには勝負が待っている」
「勝負?」
「お前、自分から言っといて当初の目的忘れてるだろ……」
「何のこと?」
時が流れて、夏が直前に迫ってきている。
夏と言えば夏休みだが、学生にはその前に大きな壁が待っている。
「テストだよテスト。今度期末テストあるだろ」
「あ、そうだった!」
彼女は思い出したように、なぜか立ち上がって何かを探し始めた。
それにしても、俺に声をかけてきた大元の目的を忘れているのはどうかと思う。
全ての始まりは、彼女がテストで俺に負けたことから始まった。教室でずっと本を読んでいた俺を屋上に呼び出した彼女は、一位である俺の勉強方法などを盗んで次こそは勝つんだと宣言した。
よくよく考えてみれば、そんなことを言われれば、誰だって勉強方法など教えたくなくなるだろう。さらに、教えてもらいたいのならもう少し下手に出るべきだろうに、かなり上からの物言いだった。一体何の確証を持って教えてもらえると思ったのだろうか。
あと、あれから全然勉強のことについての質問もないが、本当に彼女は俺から勉強の仕方を盗めているのか疑問に思う。
「これ見てよ!」
しかしその疑問は、一瞬のうちに晴れることとなった。彼女は持ってきたノートを開いてこちらに見せてきた。そのノートを見て俺は驚いて思わず口が開く。
「これって、まさか」
「そう。健樹君のやり方をまねてみたんだ」
ノートにはところどころ付箋が張られている。テキストの問題をノートに解き、間違った問題に印をつける。そして次の日に印をつけた問題を解き、これが全て正解になるまで続けるというやり方。これはまさしく俺がやっている方法であり、ノートの印のつけ方やペンの色までそっくりそのまま同じだった。
どう考えてもこれをするためには俺のノートを見るか、俺が教えるかしないといけないわけだが、生憎俺はそんなことをした記憶は全くない。
「お前、これどうやってやったんだよ?」
「これを見てやった」
「お、お前!」
彼女は自分のノートの下に隠していたもう一つのノートを見せてきた。『現代社会 地崎 健樹』と書かれた正真正銘、俺の私物だ。
「盗むって言って、物理的に盗むやつがあるか!」
「私は目的のためなら手段を択ばない」
「自覚あったのかよ……。それにその台詞は、大抵悪役だろ……」
悪役というか、そもそも窃盗しているので、正真正銘の悪者だ。
「初めて屋上で話した日、携帯を教室に忘れたから取りに行くって言ったの覚えてる?」
「言ってたな、そんなこと」
「あれは嘘で、本当はちゃんとポケットに携帯入ってたんだよね」
「嘘だと⁉」
「携帯をとりに行くふりして、健樹君の机の中にノートとか入ってないかなぁと、教室に見に行ったら、運よくこの演習ノートを見つけたってわけ」
「たまたま持ち帰るの忘れたタイミングでやられるとは……」
次の日にそのノートがないことには気がついたが、まさか天宮が持っていることなど当然予想もつかなかった。
初めて会った時からやけに用意周到で計算高い人間だなとは思っていたが、ここまでくると女優より詐欺師に向いているのではないだろうか。
「そんなわけで、勉強の方はばっちり。次こそは絶対に勝つから!」
「模倣は本物に勝てないというのはありがちな話だろうが。無論、次も勝つ」
こうして期末テストの火ぶたが今切られた。
※ ※ ※
現在時刻、午後八時ごろ。気づけばもう夕食時を過ぎ、夏至近くとはいえ外はもう暗くなっていた。
夕食を食べていかないかと天宮の母親から言われたものの、それは丁重にお断りし、今は玄関の外にいる。
「食べていけばいいのに」
「なんだか申し訳なくてな」
「そっか」
申し訳なさがある一方で、家族団欒というものに少し抵抗があった。親戚の家でのことが思い出されてしまうためである。
そのため、今の両親ともなかなか距離感を掴めなていない。
「そういえば、私が何で仕事の復帰を隠してたか、聞かないの?」
「何か理由があったんだろ? 隠し事であったのに自ら打ち明けたってことはそういうことだろ」
大地にはその理由を聞いてから信用できる人間か、そうでないか判断しろとは言われたが、もうその必要がないことに気づいた。
そもそも隠し事は隠し続けるから隠し事なのであって、自ら打ち明けるものじゃない。そんな当たり前のことにも気づかずに、彼女を傷つけてしまった自分が本当に情けない。
「健樹君と知り合って本が好きになって、本を買いに出かけたりして。楽しい時間を削ってまで仕事をするのが選択として正しいのかなって、ずっと悩んでた。でもきっと、私がそのことを打ち明ければ、仕事に専念しろって健樹君言うでしょ? だから、仕事に復帰しようって決断したの。健樹君に言うのはその決断をしてからって決めてて、決断したのは健樹君に話した前日だったの。だからあの時に話したの」
「そうか……」
彼女がそんな風に思っているとは全く想像もしていなかった。裏ではかなり悩んでいたのだろう。大地の言う通り、やはり彼女が仕事復帰を打ち明けたタイミングで、なぜそれを隠していたのかを聞くべきだったと思う。
「あとね、もう一つ隠し事あるんだけどいい?」
「もう一つ?」
もう隠し事があると言われても何も感じなくなっていた。彼女に対する期待がなくなったからというわけではない。彼女の隠し事には必ず何かしらの理由があるのだと、確信を持てるようになったからだ。
「仕事、復帰するの延期しました」
「ん?」
一瞬何を言っているのかが頭に入ってこなかった。だが、彼女は確かに言ったのである。
仕事復帰を延期すると。
「延期した⁉」
「やっぱり高校生の間は仕事に復帰しない」
「いや、復帰するって決断してたのに何でだよ?」
「さっきも言ったでしょ? 高校生活が楽しいからだよ」
「……」
一体、これまでの俺らの諍いは何だったのだろうか。彼女があまりにもあっさりと決定を曲げたものだから、より一層馬鹿馬鹿しく感じられてくる。
「明日楽しみだなぁ。染谷君に会うの。それに小山さんともちゃんと話してみたいと思ってたんだよね~」
「お前はそれで後悔ないんだな?」
もちろん、俺は天宮ではない。だから、その決断にとやかく言う資格はない。彼女がその決断が後悔のないものだったというのならそれを受け入れようと思う。
「もちろん。後悔はない」
「分かった」
彼女の一片の曇りもない表情を見て確信した。本当に後悔など微塵もないのだと。
「ところで、本はいつ買いに行く?」
「いや、だからテスト後って言わなかったか?」
「前にも言ったけど、私たちが二人とも勉強しなければ問題ないよ」
「相変わらず、三位以下を微塵も脅威に感じてないんだな、お前」
「ってことで、今週の土曜日で」
「え、おい。何勝手に決めてるんだ。というかそこまで行くと、テスト一週間前切ってるだろ」
今はもう六月の最終週で、今週の土曜日にはもう七月に突入する。期末試験は七月の第二週の土曜日から始まるため、今週の金曜日からは最後の追い込みをする予定だった。
「健樹君忘れてるよ?」
「何を」
「その日は『花の香りは優しさの嘘 外伝』の発売日だよ?」
「あぁ~! 忘れてた!」
『花の香りは優しさの嘘 外伝』は、主人公だった桜川 秋と、ヒロインの橘 柑南の死後を、二人の共通の友達だった冬川柚李(ふゆかわ ゆずり)の目線で書いた物語であると、すでに作者より公表されている。
『花の香りは優しさの嘘』自体、評価が高かったこともあって、外伝の期待はかなり高い。もちろん買って読むつもりだったが、発売開始日のことはすっかり忘れていた。
「ぐぬぬぬ……」
テスト勉強の休憩時間は本を読んでいる。だから、買ってさえおけば、タイミングを見て読むことは出来る。
しかし懸念するのは、購入までにかかる時間だ。期待が高い故に、即時完売は必至と見ていい。ならば当然、本屋の開店前から店に並ぶしかあるまい。
少しでも勉強を多くするか、発売開始日購入を取るか。俺はそれらを天秤にかけ
た。
「どうする?」
「行く」
いや、天秤にかけるまでもなかった。乗せた瞬間、天秤の針はものすごい速度で大きく本の購入に傾き、今にも壊れそうだ。
「それじゃ、決定ってことで」
「今更なんだけどさ」
「何?」
「別に今から予定立てなくてもよくないか? まだ数日あるわけで……」
「早くから予定を立れば、その分の埋め合わせを今日からやれるでしょ? それなら、思い残すこともなく本屋に並べる」
「なるほど」
さすがに抜け目ないな、と妙に納得してしまった。
ただこいつの場合、その抜け目のなさは要らぬところでばかり、活用されているが。
「そろそろ帰るわ。遅くまで悪かったな」
「全然。そんなの気にしてないよ」
「それじゃ、また明日な、香苗」
「うん、またね、健樹君……。うん?」
俺は、街灯に照らされた道を歩き始める。
「もしかして、今名前呼びした⁉」
別に名前呼びに深い意味はない。天宮が最初から俺を名前呼びしていたので、試しに合わせてみただけだ。本当に深い意味はない。
空を見上げれば、都市部ゆえに星一つ見えない暗闇が広がる。でもそんな暗闇も、今日だけは不思議と、満天の星空のように感じられた。
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