第4話 進んだ時計の針
六月の中旬。梅雨の真っ只中にあるが、今日は昨日同様に雨も降っておらず、青空も見えている。
そんな比較的穏やかな天気であるが、俺の胸中は決して穏やかではなかった。
たった一週間経っただけだが、学校までの道のりも随分と久しぶりに感じる。暫くは行かないと思っていた学校に来たのは、もちろん大地を探すためである。
しかしながら、早退して雨の中帰ったあの日から、状況が変わっているはずがなく、また居づらいあの空間に行くのかと思うと、歩く足が竦んでしまう。
教室の扉をゆっくりと開けるとあの日同様、こちらの方に視線が集まってくる。
「え、もう来ないと思ってたのに……」
「よくもまぁ学校に来れるよな」
「とりあえず近づかないようにしよう」
「でも、この教室にいるだけでも不幸になりそうじゃない?」
「早退したいんだけど……」
俺を嫌がっている人らの言葉が、嫌でも耳に入ってくる。出来るならこっちが早退したいくらいだが、目的を果たすまで帰るわけにはいかない。
染谷大地がこの学校に在籍しているか、否か。また、在籍しているなら、今回の件にかかわっているのか、否か。その真相を確かめるためにやって来たのだ。
午前の授業が終わり、昼休みを迎えた。
授業中は仕方なく俺の周りに座っていた生徒も、休み時間になれば一目散にこの場を離れていく。それと同時に俺は教室の外へと出た。
この学年は一クラス四十人の六クラス編成。俺のいるクラスはA組である。そのA組からずらっと残りの五クラスが横に並んでいる。
俺は一クラスごとに、教室の中を見回すことにした。いくらあれから七年経つとはいえども、長く同じ場所で過ごした俺が、彼を見逃すはずがない。
B組を覗いたとき、ふと昨日のことが頭をよぎった。
「そういえばあいつ……」
天宮は学校に来ているだろうか。昨日の今日で、教室にいたとしても顔は合わせづらい。
幸いというべきなのか、その彼女がいるはずのC組に彼女の姿はなかった。きっと復帰が決まったという仕事に行っているのだろう。
それからD組、E組と回ったものの、彼らしき人物は見当たらなかった。
残るはF組。A組から最も遠く、玄関からも最も離れたこの教室にいたならば、すれ違うことも少なく、気づかなかったことにも納得がいく。そんなことを考えながら、教室の窓から中をぐるりと見渡した。
「いない、か……」
七年前の記憶を頼りに捜したが、それらしき人物は見当たらなかった。
だとすれば、彼はここではない別の高校に進学していた可能性が高くなってくる。もしくはちらほらと見られた空席が、彼の席である可能性もあるが、それは極めて低いだろう。
俺はポケットから携帯を取り出した。この情報をくれた福川先生に、念のため報告しておこうと思ったからである。
「えっと、あいつはこの学校にいないようです……、っと」
メールにそう書き込み、送ろうとした時だった。
俺の背中に突然何かが乗っかってきたのである。同時に過去の懐かしい思い出と今の出来事が重なった。背中に感じる重みが段違いになってはいるが、こんなことをしてくるのは……。
「誰がいないって?」
爽やかな声色。あの時より随分と大人びていている。
「重い……」
「あ、悪い。つい……」
その彼はやりすぎたなと反省した様子で、俺の背中から降りた。
「まったく……。変わってないな、お前」
「それはお互い様だ、健樹」
そう言って染谷大地はにこりと笑った。
変わってないとは言ったが、それは俺に対してやってくることの話だ。実際変わっていないのは雰囲気や仕草くらいで、声色も顔つきも髪型も身長も、あの頃とは全然違う。
七年という歳月は、やはり決して短くはないのだなと痛感する。
身長は俺より高くスラっとしており、明るい茶色の髪が校内ではよく目立つ。制服の着こなしからも、昔と変わらず少しやんちゃな性格であることが窺える。
「というかお前、俺がこの学校にいるって知ってたのか?」
「成績学年一位で、活動休止中の有名女優と付き合っているという人間を知らないわけがないだろ?」
さも一般常識かのように言う大地。
「付き合ってない」
「その真相はともかく、あの天宮香苗と同じくらい、この学校では有名人ってわけだ」
「でもそれならなんで今まで声掛けに来なかったんだよ」
「健樹は気づいてないかも知れないけど、実は俺、成績上位者の中にいたんだ」
「ん? 何言ってんの?」
話の流れ的にも、言葉の意味的にも、彼が何を言っているのかが全く理解できずに首をかしげる。
「あの張り紙、上位二十人だろ? 俺、前回十六位だったんだよ」
「えっと、小学校の時、零点を大量にとってた、あの大地が?」
皮肉交じりに昔のことを掘り出す。
「七年前までの話だろそれ。けど、あれから頑張ったんだよ。教えてもらえる人がいなくなって、このままじゃやばいと思って塾にも通って。やっとここまで来たんだよ」
「分かった。前回のテストで十六位だったことは甘んじて受け入れよう」
「甘んじてって、そんなに俺は、健樹の中では馬鹿キャラだったのか……」
十六位をとったことも、危機意識をもって勉強に励んだということも、正直まだ信じられていないが、このままでは話が進まないので受け入れたということにする。
「それで、なんでその話が俺に声をかけなかった理由になるんだ?」
「健樹がこの学校にいるって知って、一つ考えたんだよ。健樹より上の順位になって驚かしてやろうって」
「天と地がひっくり返っても起こり得ないな、それ」
「い、いつか絶対に勝つから見てろよ!」
大地は俺を指差し、宣戦布告した。
「まぁまず、二位になることすら不可能だと思う」
ふと、屋上の出来事を思い出す。あの時天宮が言っていた通り、俺と天宮の成績に追いつくのは簡単なことではない。
「そうか。二位の天宮さんに勝っただけでも将来自慢できるのか」
「お前、当初の目標見失ってるぞ」
大地の言う通り、成績は向上したのかもしれない。だがやはり、こいつは依然として馬鹿なままなんだなと再認識して、ちょっと嬉しかった。
七年という時が人を変えようとも、大地はやっぱり大地なんだな。そう心で呟いた。
「それはひとまず置いておいて、その目標が未達成であるにも関わらず、さっき俺に話しかけてきたのはなぜだ」
「そんなの決まってるじゃん。健樹を助けるためだよ」
さも当然のように大地はさらりと言った。
「お前、それをするってことは、俺と同様の立場になるリスクが伴うってことを理解していた上での判断なのか?」
俺がそう言うと、大地は少し悲しそうな表情をした。
「小学校の時の俺は、そのリスクに恐れて、ただ見ていることしかできなかった。自分は健樹に何一つしてやることができないのに、俺ばっかり勉強教えてもらって得をして。そのことに時間を重ねるごとに罪悪感が募って、今では本当に後悔しているんだ。友達として失格だなって」
「施設に入ってから仲良くなったのは大地だけで、例え話すのが施設内だけだったとしても、それだけで俺は十分だった。だから、失格だなんてことはない」
「健樹はそう言ってくれるかもしれない。けど多少のリスク背負ったとしても、意地でも助けるのが本当の友達ってもんだろ!」
大地は清々しいくらいの笑顔でそう言った。リスクとかリターンとか、そんな見方ではなく、ただ助けたいと思ったから助ける。大地にとって、人と人の本来の信頼の形とはそういうものなのだろう。
俺は他人が、ましてや大切な友達が自分のせいで傷つくのは嫌だった。だから、小学校の時に大地助けてほしいとも言えず、一ノ瀬君にも言えなかった。そして今も、すぐには返事ができずにいる。
「きっと俺が今止めようとしても、大地はやるんだろ?」
「あぁ」
そこまでしても俺を助けようとする彼なら、頼れるのかもしれない。
「だったらせめて無理だけはするなよ?」
「分かってるって」
大地はニコッと笑って、俺の胸に拳を軽くぶつける。
「やっと頼てくれたな、健樹」
その言葉を聞いて、目からはこみあげてくるものがあった。
だが、それを寸前のところで止めたのは、ある声が聞こえたからだった。
「あ、あのー」
俺たちはその声のした方を咄嗟に向く。
「誰だ……って、一ノ瀬君?」
そこには提出物の山を抱えた一ノ瀬君が立っていた。
「誰? 一ノ瀬君って」
「俺のクラスメイトだけど……」
「仲いいの?」
「うん、まぁ……」
近くに本人がいることもあり、申し訳なくて少し小声になっていた。
『本当に助けが必要なとき、また声かける』
トイレの前で話したあの時に俺がそう言ったこともあって、彼から話しかけたのはあの日以来だった。
彼は、今も俺のことを気にかけてくれているのだろうか、俺の過去が流れて以来、意図的に誰とも話さないようにしている様子だった。避けている様子から、俺の噂を信じている生徒を嫌悪しているのかもしれない。
「今話してたのは、地崎君の悪い噂をどうにかしようって話で合ってるかな? ごめんね、偶然聞こえちゃって……」
「合ってるけど……」
すごく申し訳なさそうに言う一ノ瀬君だったが、俺は別の理由で申し訳がなかった。
俺と大地の会話が耳に入れば、なぜ助けが必要なのに自分に声をかけないのかと感じるに違いない。
一ノ瀬君を頼ることができず、別の人を頼ったことには大きな罪悪感があった。
「何で僕に助けを求めなかったの? 助けが必要なら僕も協力するって言ったのに……」
「……」
返す言葉がなく、ただ立ち尽くしているを見て大地は思わず目を見開いた。きっと彼なら、一ノ瀬君ではなく大地を頼った理由に気づいたのだろう。
「健樹、お前……」
生まれる前に父親は消息不明、生まれてすぐに母親は他界。
引き取られ先の親戚に、家から追い出され施設に入り、小学校、中学校、そして今。
人生を谷と山で表現するなら、ほとんどが谷である俺の十六年の人生の中で、多くの人に裏切られ、信頼されてこなかった。
子供のころの環境は人を大きく左右するとは言うが、おかげで俺は大きなものが欠けてしまっていた。
俺は真実を口にする。
「俺は人間不信なんだ」
過去が大きく影響した結果、人を心から信じることができなくなった。大地や福川先生といった例外は存在するものの、大半の人間を信じることができない。
例外である大地に関しても、頼ったのはさっきが初めてだった。ずっと信用してきた人であることには変わらないが、俺から大地を頼ったことは一度もなかった。
どこかに裏があるのではないか、実は仮面を被っているのではないか、自分の利益にしか目が行っていないのではないか。人と接する際には必ずその疑いをかけてしまい、接触もあまり長時間はしたくない。
一ノ瀬君も例外ではない。彼と初めて会った際にも、当然疑いの目は合った。いくら俺の味方であってくれると言っても、どこかで裏切るかもしれない。その疑いによって、今の今まで彼に頼ることはできず、大地を頼る結果となった。
「やっぱり、治ってなかったんだな」
大地にはこのことを施設にいた当時に、早々と打ち明けている。これといったはっきりした理由は分からないが、大地は数少ない気が許せる相手だった。
「信頼信用できる相手が本当に限られてるんだ。だから俺は君に助けを求められなかった。そして多分これから先も……」
人として悪いことをしている自覚はある。相手のことを心配し、助けようとしている人物を拒んでいるのに、別の人物に頼って助けを求めている。
本当にあまりにも身勝手で、気遣いも何もできない醜い人間だと思う。
「うん、分かった。でも聞けて良かったよ」
寂しそうに小さな笑みを浮かべて一ノ瀬君は言う。
「いつか僕を頼りたくなったらでいいから、その時はまた声かけてよ。その時までずっと待ってるから」
「一ノ瀬君……」
拒んでもなお助けようとしてくれる優しい心遣いに、心が大きく痛む。
どうして彼を頼れないんだ、と自らを強く責めた。
「それじゃ」
そう言った彼は、去り際に再び寂しそうな表情を見せ、職員室の方へと姿を消した。
「……」
一ノ瀬君の姿が見えなくなるまで、俺はずっと心の中で自身を責め続けていた。
頼りたいという思いの裏腹に、頼れない自分がいることが、もどかしくて悔しくて仕方がない。
「まだ治ったわけじゃなかったのか、健樹……。健樹? おい!」
俺は突然足の力が抜けて、その場に座り込んでしまっていた。
気が動転していて、今はまともに立つことさえもできない。
「悪い、保健室行く」
俺はそう何とか言葉を振り絞った。
「俺もついて行く」
この状態で授業などまともに受けられそうにないだろう。俺は大地に肩を借りて何とか起き上がると、保健室へとゆっくり歩みを進めた。
※ ※ ※
保健室といえば、人によって利用した回数は異なるだろう。
怪我や病気で数回利用した人、病弱や理由があってかなりの回数利用した人と、大まかに二種類くらいに分けられるだろう。俺は後者である。
もちろん理由は、教室にいたくないからというものであり、うまく理由をつけては保健室を訪れていた。ベッドに横たわって眠り、そこで睡眠時間を稼いで施設では夜更かしして勉強したり本を読む。これがほぼ日課となっていた。
高校に来てから訪れたのは健康診断の時以来二回目。
カーテンで遮られたベットがあるのはやはりどこも共通なのだろうか。
昼時だからか先生は不在だったので、俺は近くのベットに横になった。
「先生が来たら報告はしとくわ」
カーテン越しに大地の声が少しこもって聞こえた。
「助かる」
「気分は大丈夫か?」
「幾分かマシになった」
「そうか」
正直なところ、ちっともマシになどなっていない。ただ取り繕っているだけで、今も気分がすぐれない。
「すこし話でもしない?」
しばらくの静寂の後、大地は藪から棒にそう言いだした。
俺は無言だったが、大地は一人でに話を続けた。
「メールの相手が福川先生だったことから察するに、俺がこの学校にいることは福ちゃん先生から聞いたのか?」
「あぁ」
「懐かしいなぁ、福ちゃん先生。あ、あとで連絡先教えてくれ」
「はいはい」
大地は昔から福川先生のことを『福ちゃん先生』と呼んで慕っていた。
「でもお前、先生散々困らせてたよな。変ないたずらとかして」
「先生の靴の中にこっそり蜥蜴の玩具を仕込んだり、先生の携帯こっそり見て恋人と思わしき人物を見つけて冷やかしたりとかな」
「やることがいじめのそれじゃねぇかよ」
この前施設に訪れた際、福川先生は走る子供を追いかけていたが、大地はずっとその追いかけられる側だった。だからあの日、あの光景を見て余計に懐かしく感じたのだ。
「福ちゃん先生はそんな俺でもちゃんと見放さずに世話してくれてさ。人の優しさってこういうのなんだなって」
「まぁ、俺たちの大半は人に見放されてたから、余計にそれが強く感じられたんだろ」
施設に入った人たちは、経緯こそ違えど、その大半は人から優しさを受けられなかった人ばかりだ。それ故に、当たり前のような小さな優しさですらも、大きな優しさのように感じられた。
「それで健樹はさ、その福ちゃん先生と俺以外に、信用できる人は見つけられたのか?」
「いや、まだ……」
「あ、そっか。それが天宮さんってわけか。なるほど、納得だわ」
「は?」
何が納得なのだろうか。俺は何一つ納得がいかない。勝手に自己完結されてもこっちは困るし、どうしてここであいつの名前が出てくるのだろう。
「いや、あの健樹が女の子と二人きりで屋上で話してたりしてたってことは、よっぽどのことだろ? それこそ信用できる相手通り越して運命の相手とかな」
「何言ってんだ、お前」
「それに隣町の駅前にある大きな本屋に二人で行って、帰り際に喫茶店に立ち寄るというなんともお洒落なデートするくらいの相手だ。そりゃあ、間違いなく例外だよな。そうだよな?」
自分のことでもないのになぜか大地はノリノリだった。
そして俺はここで再認識した。やはりこいつは馬鹿であると。
「なぁお前さ、人が散々困っているというのに、自分のしょうもない目標やらを口実に声をかけても来ず、挙句の果てにストーカーし、尚且つ平気な顔して今日声かけて、いい人面するとは本当いい度胸してるな、お前」
「いやぁ、それはその~」
俺の怒りのこもった声を聞いて、完全に墓穴を掘った大地が申し訳なさそうな声色になる。
「俺とあいつが話しているのには訳があるんだ」
「どんなわけがあるのか知らないけど、それはデートするほどの理由なのかな?」
「お前、一回黙っとけ」
「あ、はい」
俺は大きくため息をついた。
「それはだな……」
「お、おい。寝たままでいいぞ」
そしてベットから起き上がり、外から見えないようにするために閉められたカーテンを勢い良く開けた。
「話し辛いんだよ」
俺は天宮と会った日から、一緒に故郷を訪れたことまでを話すことにした。
「なるほど。そんなことがあったのか」
「自分で話してて再認識するが、まさか天宮みたいな人と関わることになるなんて思いもしなかった」
「そりゃそうだろうな」
天宮は、子役としてデビューして一躍有名になったのち、学業専念のために一時芸能活動休止したが、間もなく仕事に復帰する女優。見た目はもちろんのこと、学業成績も優秀とまさに劣るとこなしの美少女。
一方の俺は、幼いころに両親を失い、引き取り先の親戚に家を追い出されて児童養護施設に入り、『不幸の子』というレッテルを張られ、生徒から距離を置かれているただの高校生。
まさに経歴が両極端な二人が、テストで負けたからという意味不明な理由で関係を持っていることが今でも謎である。
「まぁ、でも勉強していた甲斐があったな」
「俺はあくまでも本を読むために勉強を始めただけだ」
「それは知ってる。偶然の産物だな」
「そうか?」
「女優で学校一の美女だぞ。願ってもなかなかそのポジションにはつけないだろ」
「でもそういうやつら、仮に俺の立場に立ってもメリットばかりに目がくらんで、隠れたデメリットには気づかないだろうな」
「デメリットって?」
「有名税ってやつだな。有名故にいろいろ支払うものがある。周りの視線を常に集めてしまって、自由に生活できないとかな」
よく聞く話だが、有名な芸能人は周りの目を集めたり、スキャンダルなどを避けるために、サングラスをかけて帽子を深くかぶる、といったような変装をしていると言う。
有名になれば、その変装なしで歩くこともできなければ、行く場所も考えなくてはならない。そうせざるを得ないほど、有名になる代償というのは大きい。
「有名である彼女自身だけじゃなく、近くにいる人間も必然とその対象になり得る。それが中間考査後の騒動ってことか」
「高嶺の花はやはり高嶺の花であるべきだ。安易に手を出していいものじゃない」
「それで、その高嶺の花と真剣交際している健樹君はそのリスクをすでに理解し、受け入れていると」
ここで昨日のことが頭をよぎった。鮮明にそのシーンが思い出され、とても真剣交際の否定にまで頭が回らない。
「正確には受け入れていた、だ」
「何で過去形?」
大地は不思議そうに目を丸くした。
「天宮は一ノ瀬君同様に俺を助けようとしてくれた。俺はその助けを拒んだんだ」
「それは天宮さんを信用してないってことか?」
「分からない」
「分からない?」
大地は再び目を丸くする。
「正直、彼女はもしかしたら信用できる人かもしれないって、どこからか思い始めてた。だから、一緒に本を買いに行ったりもしたし、過去のこともすべて話した。けど、一つ隠し事を打ち明けられて、もしかしたら違うのかもしれないって感じたんだ」
「要するに、心から信用できる相手だと確信が持てなかったから、助けを拒んだってことか」
「あの時はそう感じたんだ……」
もしあの隠し事を打ち上げられなければ、きっと天宮の助けを受け入れていただろう。だが、あの時のあの瞬間、信用できない人かもしれないと感じたことで、決意が揺らいでしまった。
その揺らぎの結果、感情的になって冷静を失い、彼女自身を強く拒んでしまった。それこそが最も大きな失敗だった。
「でも結果として正解だったのかもしれない。彼女が俺と行動するってことは、俺と同じ目にあう可能性がある。そう考えたら、これでこのまま関係を終わりにするのが一番いい形なんじゃないかなって思えてきて……」
このまま関係が終われば、交際疑惑も晴れて、俺と同じレッテルを張られることもなく、彼女がこれ以上辛い目に合うこともないだろう。
やはり、俺はどこまで行っても自分のことで他人が傷つくのは見ていられない。
「お前馬鹿だろ?」
ずっとうつむいていた俺は、その言葉に思わず顔を上げた。
「お前にだけには言われたくない」
そして、ムッとしてそう言った。
「俺がリスクを承知したうえで、友達として助けたいと思ったのと同じように、彼女も理解した上での行動だったんじゃないのか?」
天宮は、俺に報告する前から仕事に復帰することが決まっていたはずだ。
もちろん復帰することで、俺のような異性と一緒にいることのリスクはより大きくなる。
それでも彼女は、『手助けさせてほしい』と言ってくれた。。
彼女が俺を友達と思っているのかは分からないが、大地が俺を助けようとしているのと同じような理由があるのかもしれない。
「それに、彼女がした隠し事だって、何かしらの理由があるんだろ。まずはその真意を確かめてから、信用できるできないの答えを出せよ。健樹は数学の際に確かめをしないのか?」
「間違いなくする」
「だったら、これも一緒だ。確かめは欠かすな」
「ふふっ」
「何がおかしいんだよ」
俺は思わず吹き出してしまった。過去の大地とのやり取りを振り返れば振り返るほど、笑いがこみ上げてくる。
「まさか、大地に論破される日が来るとは思ってなかったわ」
「俺を見くびりすぎだっての」
彼女が信用できるのか否か、それすらはっきりしていないのに、このまま関係を終わりにすればいいなんておかしな話だ。馬鹿のは、大地じゃなくて俺の方だ。
「確かに、大地の言う通りだと思う。ちゃんと確かめてから結論を出すよ」
「まぁ、そういう俺は数学の確かめしないことが多いんだけどね」
「だからお前は所詮二桁なんだよ」
「なにぃ~!」
実際のところ、いくら注意深く問題を解いてもケアレスミスは起き得る。そのリスクケアをすることが、満点に近づける秘訣である。
ちなみになぜ、満点を取る秘訣とは言わず、満点に近づけると言ったのかいうと、テストの満点は本来は作問者のミスであり、満点が誰も出ないテストがいいテストとされているからである。
仮に満点を百点として、誰かが百点をとったとする。その時、その人の能力が実は百十点取れる実力だったとしても百点としてしか計測できない。加えて、もし複数人満点が出た場合には、テストだけでは相対評価をつけることができないという問題点が出てくるのだ。
「でも、ありがとな。助けてくれて」
「だから言ったろ? 友達なら助けるのは当たり前って」
「言ってないな」
「言ったって!」
俺はF組前での会話の記憶を取り出す。
「『多少のリスク背負ったとしても、意地でも助けるのが本当の友達ってもんだ
ろ!』とは言ったが、『友達なら助けるのは当たり前』とは言っていない」
「言ってる意味一緒だろうが!」
「国語の問題で、文章を抜き出せと言われても同じ台詞が言えるか?」
「それとこれとは話が違うだろ! それにそんな細かいこと気にしてたらモテないぞ?」
「そんなのは科学的根拠をもってきてから話すんだな」
「あぁ~! これだから健樹は!」
完全に論破いや、揚げ足を取ったと言った方がいいか。
大地は悔しそうに保健室の天井を見上げた。
施設にいた頃もこうやってしょうもない論破合戦を繰り広げていたが、当時も今も彼は負けてばかりだった。
「っと、そんなことはいい」
気づけば本題から大きく脱線してしまっていた。
大地は強引に話の流れを元に戻す。
「天宮さんとはちゃんと話せよ?」
「分かってる」
「そして、ちゃんと仲直りしろ」
「仲直りってほど仲は良くないけどな……」
本の話ではやたら気が合うが、勉強に関してはすごくギスギス(一方的にライバル視されている)していて、なんだか仲がいいとは言い辛い。
「お前らの様子見てたら、そこらのカップルと同じに見えたけど?」
「だからカップルじゃないって」
「あくまで俺の予想だけど、きっと彼女は健樹が信用できる相手だよ。健樹があんな表情で話してるのは初めて見たし」
「ほんとどこ見てんだよ、お前。俺が好きなのか?」
冗談めいたように俺が言うと、大地の顔が少し赤くなった。
「んなわけあるか! 大体、俺には恋人がいるんだぞ」
「え、そうなの?」
予想外の返しに少し驚いた。
「できたのは結構最近の話だけどな」
「へぇ……」
過去に俺と彼が一度だけ話した、好きな人の話をした時のことを思い出す。
あの時言ってた理想の相手が見つかったのだな、と何だか安心した。
「あれ? 君たち、ここに何か用かな?」
保健の先生と思わしき女の人が尋ねた。ということは、そろそろ昼の休憩の時間も終わりに近づいているのだろう。
「二人とも元気そうだけど……」
「こいつがさっき気分悪くして……」
「いや、もう気分良くなったので戻ります。お邪魔しました」
ここに来た当初は気分が悪くて立つのもままならないほどだったが、大地と馬鹿なこと話しているうちに、随分と気分がよくなっていた。
「あら、そう。午後の授業も頑張ってね」
「はーい。行くぞ、大地」
「お、おう」
俺はさっきとは違って元気そうな様子を見て少し困惑している大地を連れて保健室を出た。
廊下の時計を見ると予想通り、そろそろ午後の授業が始まる時間だった。
「体調、本当に大丈夫なのか?」
「なんか気づいたら落ち着いてた」
「それならよかったけど」
まだ腑に落ちない様子の大地。
「それに、授業に出てしっかり勉強して、誰かさんの目標達成を阻止しなきゃな」
「だったら、さっき気絶させておくべきだった……」
「因みにフィクションみたいに、首にチョップするような簡単な方法では気絶しないけどな」
「だったら、ベットに体を固定しとくべきだった」
「それを保健室の先生が見たら、それこそ一大事だろ……」
「とにかく、次は負けないからな」
「それ以前に俺と同じ土俵に立てるようになれよ?」
「生意気な! 絶対に勝って土下座させてやる!」
「やれるといいですねぇ、卒業までに」
「その台詞どっかで聞いたような……」
「いや、気のせいだ」
もちろん、小学校の時から友達の大地にも負けたくはない。
けど、リスクなんて顧みずに、次は絶対に負けないようにと行動した、もう一人の死ぬほど負けず嫌いなあの彼女に負けないためにも、俺はもう教室で授業を受けるリスクなんて決して顧みない。
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