第2話 嵐の前の静けさ
元子役で現在活動休止中の有名人、天宮香苗と出会った日から数日。『また連絡するから』といった割にはあれから一切連絡もなく、学校でもまだ顔を合わせていない。
おかげで、あの日がまるで夢だったかのようにいつもの日常を送れている。はずだったが、現実はまるで真逆だった。
俺は先日彼女に勉強の仕方を教えると約束し、その条件として、学校では話しかけないことを挙げた。
『俺たちが話しているのを見た生徒に、変な噂を流されるのは気分が悪いだろ。それにあんたは活動休止中とはいえ女優だし、今後に悪影響を及ぼす可能性があることは極力避けた方がいい』
この時、俺は彼女にこう言った。
だが、噂を流されると色々と悪影響が及ぶのは、彼女だけでなく俺も同じ。
その悪影響が及ばないように講じた対策だった訳だが、時は既に遅かったらしい。
『地崎健樹君だよね。天宮さんとはどういう関係?』
『うちの部活の後輩が、二人で屋上にいるのを見かけたらしいんだけど、もしかして付き合ってたり?』
『え、マジか! あんな成績優秀で運動神経抜群、そして女優の美少女と付き合えるなんて、羨ましい~』
『それで、二人はどこまで行ったの? キス? それとも……』
彼女と出会った日の翌日。俺の机の周りには、クラス内外から多くの人が集まっていた。もちろん噂の真相を本人から直接聞くためである。
おかげで一人の世界の壁など木っ端微塵に粉砕され、その日から今日に至るまで、学校では一秒たりとも本を読めていない。
教室だけでなく廊下を歩いても、しばしば俺か天宮の名前が聞こえてくる。事実とはかけ離れた噂話が、二倍にも三倍にも盛られて、どんどん広がっていく。まるで週刊誌にスキャンダルを取り上げられたような、そんな気分になる。
天宮が俺に連絡してこないのは、もしかしたらこれが原因かもしれない。俺と天宮が数日間連絡を取ったり会ったりしなければ、野次馬たちが想像しているような関係でないことを証明することができる。計算高い彼女なら、それくらいの考えがあっても不思議ではない。
人の噂も七十五日とはいうが、仮に収まっても、再び二人きりのところを見られてしまえば水の泡。となれば、俺と彼女が会うこと、ましてや二人きりになって話すことはもうやめておいた方がいいのかもしれない。
それにしても……。
「トイレまでついてくるのはどうかと思うんだけど……」
「た、たまたま一緒なだけ……、だよ」
「俺がトイレに行く際、必ず後ろを歩いているのは本当に偶然なのか?」
「……」
「せっかくの昼休みなのに、トイレまでついて来られると、気が休まらないんだよ」
「ごめん……」
申し訳なさそうにしている彼の名前は、一ノ
天宮というイレギュラーを除き、基本的に俺は、学校で人と話すことはなかった。俺にとって求める高校生活は賑やかで華やかなものではない。物静かで落ち着いた高校生活を望んでいるのだ。だから決して、人に話しかけたりすることもなければ、他人から話しかけられても必要以上に話そうとはしなかった。
そんな俺が彼に話しかけたのは、ただ鬱陶しかったという理由だけではなかった。
「あのさ……」
「何?」
「もし俺が君に、『噂話をしたり、執拗に追い回したりする生徒たちをやめさせるのに協力してくれないか』とお願いしたら、君はどうする?」
「……」
予想外の俺の言葉に若干驚いた様子で、すぐには言葉が返ってこなかった。
暫く両者に沈黙が走る。
その沈黙を切り裂くように、彼は返答した。
「『もちろん』って答えるよ」
予想した通りの人間だった、と俺は心の中で小さく呟いた。
俺と彼が話したのも、こうして顔を合わせるのも今回が初めて。だから彼がどんな人間なのかははっきりとは分からない。けど、推察はできる。
噂が流れ、俺の周りには多くの生徒が集まった。その輪の中に彼はいなかった。僅かに空いた人の輪の隙間から見えた彼は、こちらの方を実に退屈そうに、そしてどこか憐れんだ様子でこちらを見つめていた。
また彼は、俺がトイレに行く際には、必ず後ろを歩いてきた。
この二つのことから導ける推論はこうだ。彼は、俺と天宮の噂が蔓延る状況を決して良くは思っていない。そして、それを解決するために行動したいが、俺自身がそれを望んでいないかもしれない。その場合、勝手に行動するのは却ってよくないのではと考え、俺に判断を委ねようとしたのではないか。
これらは、推理小説の類を読んで身に着けた推察力による推理に過ぎない。そう、あくまで推理であり、これが正しいという確証は、直接本人に尋ねること以外の手段では得られない。
だが、あまりにも直接的に『俺を助けたいのか?』などと聞くのは、さすがに自意識過剰すぎる。そのために俺は、『もし俺が(中略)お願いしたら、君はどうする?』などと、回りくどい質問をしたのである。
そして結果的に、この推理は正しかったと言えるだろう。
「俺のこと、心配してくれてたんだな」
俺の言葉を聞いて、彼は少し照れ臭そうに目線を落とした。
「本当に助けが必要なとき、また声かける」
「うん。僕は君の味方だから」
「ありがとな」
俺は彼を頼ろうとはしなかった。きっとここで彼を頼るのは軽率な考えだろう。
なぜなら本来、当事者である俺や天宮が対処すべきことであり、関係のない彼を巻き込むべきではないからだ。それに、これらに関与することによって、彼自身にも被害が及ぶようなことがあっては元も子もない。
そんなことを考えていると、ポケットに入っていたスマホが鳴り出した。この学校
にいる時間帯に電話をしてくる可能性のある人物など、一人しか思い当たらない。
「悪い、先に教室に戻る」
「え、ちょっと! 教室ならこっちじゃ……」
俺は急いで、人目のつかないところへと向かうために走り出した。
トイレに来たのにトイレに行くこともなく……。
※ ※ ※
「少しでもリスクを避けるために、わざわざ人目のない所へ来たってのに、人がいるとは……」
電話を聞かれないよう、人目のつかないところに向かった俺は、ふと思いついた屋上にやってきていた。
だがそこにはすでにもう一人。
「それにこれだと、より大きなリスクを負いそうだね? 健樹君」
俺はその声を聞いて思わず『げっ……』と口にした。
そのもう一人が、二人で最も会ってはならない人物であり、なおかつ電話を掛けてきた張本人だったために。
「元気そうだね」
「元気じゃないって分かって聞いてるだろ」
「元気ないの?」
「あの状況下にいて元気でいられるかよ」
「まぁ、私はここ数日学校休んでたから、むしろ元気が有り余ってるかな」
「学校を休んでただと? お前まさか、こうなることを知ってて……」
「まさか。単純にあの日の夜から風邪で寝込んでたのよ」
「そうだったのか……」
一瞬彼女の言葉を聞いて申し訳ない気持ちになったが、すぐに気持ちが変わった。
もしや、その風邪すらも意図的に仕組んだんじゃ……。
いや、一位になるためには手段を択ばないような人間とはいっても、いくら何でもそこまではしない人間だろう。いや、そうであってほしい。
「それで、あの状況どうする? 私としてもこれ以上になると、外に流出するんじゃないかって心配なんだけど……」
さすがの彼女もあの状況には困惑している様子だった。
「あと七十日くらい待つ、とか?」
「全く笑えないんだけど……」
「だったら、俺の……」
「だったら、俺の命を持って償うって?」
「そんなかっこつけた主人公みたいな台詞言うわけないだろ」
「じゃあ何?」
「……いややっぱり、何でもない」
手段が全くないわけではない。こんな俺に、あそこまで言ってくれた人がいる。そんな彼なら、助けてくれるかもしれない。
でも、彼女に『だったら、俺の知り合いに協力をお願いして、何とかしてもらおう』と言えなかったのは、俺の心の奥で歯止めがかったからだ。俺はそれに抗うことはできない。
「ねぇ、健樹君」
「何かいい案でもあるのか?」
「おすすめの本とかない?」
「はい?」
あまりに脈絡のない話題に、思わず声が裏返ってしまった。
「この前教室に行ったとき、私の声が聞こえないほど本に熱中してたでしょ? それくらい本が好きな人なら、私に合った本とか知ってるかなと思って」
「いや、そんなことを聞きたいんじゃない。何で本の話になってんだよ」
「明日からしばらくの間、学校休もうと思ってね。健樹君が私より成績が上だったのは本が影響しているかもしれないじゃない? 物は試しということでこの期間にたくさん読もうかなって」
「俺に勉強方法を教えてもらうって話はどこ行った。それに学校を休むとはどういうことだ?」
「今はあの状況でしょ? だったら先に、やれることをやった方がいいし」
人にあれだけ頼んでおきながら、案外そこに執着がないあたり、やはり彼女は目的のためなら手段を択ばない。
「それに、あんな環境の中で、ろくに勉強なんてできるわけないじゃない。それに私には『仕事あるので』っていう免罪符もあるわけだし」
「免罪符って言ってる時点で悪いことだと自覚してんじゃねぇかよ。それにそれは職権乱用だろ」
「てなわけで、おすすめの本を教えて!」
抜け目ないというか、計算高いというか、狡猾というか。かなり汚いやり方にも思えるが、仮に俺がその立場なら、彼女と同じようにずる休みをしていたに違いない。
俺は大きなため息をついてから、脳内の本棚から一冊の本を取り出した。
「『花の香りは優しさの嘘』という作品は知ってるか?」
「知らない。それってどんな感じの作品なの?」
「主人公がヒロインと繰り広げる日常系の作品だな」
物語の舞台はとある高校。憧れの高校生活を夢見ていた主人公、
そんな美少女と出会った主人公だったが、周りを寄せ付けないオーラを漂わせ、周りを拒んでいる、最初の印象とはかけ離れた彼女の様子を見かけ、強い違和感を感じた。その真相を聞こうと彼女に迫るが、最初は全く応じてくれなかった。しかしながら、主人公の長きにわたる説得もあり、最終的には心を開いて真相を打ち明けた。
彼女が周りを避けていたのは、彼女が余命宣告を受けていたことにあった。もし仲良くなり、余命宣告のことを知られてしまえば、周りが気を遣って優しく接してくることになる。そうなるのを防ごうと周りを避けているのだと彼女は語った。それを打ち明けられた主人公は、嘘をついたままでも構わないから、周りの人と楽しい時間を過ごすように提案した。その日を境に、彼女はこの件をきっかけに喧嘩したかつての友と仲直りし、周りの人たちと楽しい学校生活を送り始める。
しかし、そんな楽しい日常も徐々に終わり近づいてくる。ある日、彼女の母親から連絡を受けて病院に向かった。そこで主人公は、彼女が既に先が長くないことを知ったが、その後もそのことを知らないものとして接し続けた。
物語はクライマックス。入院していたはずの彼女が突然家に現れた。だがそれは予め、彼女の母親から、彼女の望みを叶えてやって欲しい、とお願いされてのことだった。限界に近い彼女を連れてリビングに入った二人は、出会いからこの日までにあった思い出を語り合った。そして最期には、嘘についての謝罪とこれまでの感謝を伝えて彼女は静かに息を引き取った。
一見すると何の変哲もない学園恋愛物の感動作品である。だがこの作品の特徴は、この作品の最後である。
物語最終盤、ヒロインを看取った主人公であったが、その後に彼女の座っていたベットに座って静かに眠りについた。実はこの時に彼は息を引き取ってしまうのである。
何気なく読んでいればこのことがあまりにも突然すぎて唖然とするかもしれない。だが、この作品は主人公が周りの人物だけでなく、読者にも嘘をついているという設定の元で作られている。それを分かった上でもう一度作品を読むと。所々にそれらしい伏線があり、ハッとさせられるのだ。
初心者が読むにはハードルが高いが、小説特有の仕掛けの面白さが良く分かる作品で、きっと天宮なら理解できるだろうと、今回おすすめすることにしたのである。
「文章量も少なくて読みやすいから、すぐに読み終わると思うぞ」
「分かった。とりあえず読んみるね」
『キーンコーンカーンコーン』
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。何だかんだあって、気付けば昼ご飯すら食べることなく昼休みが終わってしまった。
「……俺は戻るぞ」
「うん、分かった」
俺は踵を返し、屋上の入口へと歩き始める。
「あっ……、一ついい?」
「なんだよ」
俺はその場に留まって振り返る。
「健樹君の提示した条件、さっきからずっと破られてるけど、これはノーカウント?」
「……ノーカンで」
完全にそのことなど忘れてしまっていたが、今回は偶然ということで目を瞑ることにした。
「それじゃあな」
俺は再び、歩みを進める。
「あっ……、もう一ついい?」
だが、再び呼び掛けられて足が止まる。
「今度は何だよ」
「無視はするなと言ったよね?」
「……何のことだ?」
「携帯、見て」
「携帯?」
俺は急いで携帯を取り出して電源を入れた。
「げっ……」
すると、見事なほどに『スタンプが送信されました』で画面が埋め尽くされていた。
俺はメッセージの通知はオフにしてあるため、いくら送られてもなかなか気づけない。そのため、俺がメッセージを無視したと彼女は勘違いしたのだろう。
それでさっき電話がかかってきたのか……。
「悪い、通知切ってて気付かなかった」
「元々、おすすめの本を教えてもらおうと思って電話かけたんだけど、形はどうあれ、聞けてよかったわ。でも、次からは気を付けるように」
「はい……」
「分かったらさっさと戻る。授業遅れるよ!」
「ずる休みするお前にだけは言われたくないし、言われるまでもなく戻るわ!」
そう言って今度こそ、屋上を後にした。
ところで、教室に戻った俺は、先ほど彼女から送られてきたメッセージを確認していた。十一時四十五分に『おーい』というメッセージが三件来て、そこから怒りのスタンプが八百八十六件来ていた。通知の吹き出しには『八百八十九』という数字が表示されていたが、まさか『は・や・く』というメッセージが含まれているなんてことはないよな。さすがに考えすぎだよな。
「……いや、そもそも十一時四十五分って授業中じゃねーか。何してんだ、あの不良優等生」
授業中に小説を読んでいるような俺が言えた立場でないのは、もちろん秘密である。
※ ※ ※
あれから数日経った六月最初の休日。もうすぐ梅雨を迎えるからなのか、今日の外は今にも降りそうな曇り空。
普通の高校生なら、雲一つない青空の中、思う存分外で遊びたいと思うのかもしれないが、超インドア派の俺にとっては何ら変わらない休日である。むしろ、こういう暗い雰囲気漂う天候の時は、感動ものを読むにはもってこいである。
「それじゃあ、読みましょうかね……」
家の本棚には様々な本がずらっと並べられている。本全般が好きな俺は、ジャンルが偏らないよう、様々な本を読んできた。純文学小説を始め、ライトノベルや漫画も読み、作品ジャンルも現実恋愛、SF、ファンタジー、アクション、スポーツなど一切偏りがない。
ここにある本はざっと五百冊くらいに及ぶが、実際に読んだ本の数はこれの何倍なのか何十倍なのか。自分でも計り知れない。
俺は、本棚にあるまだ読んでいない本の冊数を確認した。
残り四冊。早ければ今日中に読み終わることだろう。
「新作のストックもなくなるな……。買い足さないと」
まだ読んでいなかった本を一冊手に取り、リクライニングのついた椅子にゆっくりと腰掛けた。そして、無糖のコーヒーを少し口に含む。コーヒーの爽やかな風味と、きりっとした苦みが、朝ご飯後の眠気を綺麗に流し去った。
さぁ読もうと、本のページを開いたとき。
俺はふと何かを思い出した。
「感動ものといえば、天宮はあの作品、まだ読み終わらないのか?」
俺が天宮に薦めた『花の香りは優しさの嘘』は一巻のみの単行本であり、ページ数もそんなに多くない。俺なら、二時間ほどで読み切れるだろう。
読み切ったら次のおすすめは何かと聞いてきそうなものだが、あの日以来、何一つ連絡は届いていない。そして宣言通り、学校にも現れていない。
彼女が学校に来ないことで、あの野次馬たちもさすがに関係性がないことに気づいてくれるのかと思いきや、むしろその逆だった。
『天宮さんどうして休んでるの?』
『天宮さんの体調はどう?』
本人でもない俺にそれを聞くのはどうかと思うが、とにかく平和が戻ってくることはなかった。
おかげで今日のような休日くらいしかまともに本を読むことができない。
「まぁでもいっか。そのうち連絡来るだろ」
俺は、もう一度口にコーヒーを含み、本のページを一枚捲った。
今回の作品の舞台はブラック企業。主人公は、高学歴で期待の新人として有名な企業に入社。当初は、期待の新人として入ったからには、会社内でも頑張って上り詰めてやるという、強い意気込みで張り切っていた。
しかし、現実はそうはいかなかった。期待の新人というのは、仕事を多くやらせるための口実に過ぎず、毎日残業を余儀なくされた。長く働いたのだから、それ相応の給料をもらえるだろうと期待していた主人公だったが、予想を大きく下回るその金額に愕然とした。
それだけにとどまらない。今度は仕事をきっちりとこなしているのにも関わらず、難癖つけられて上司にこっぴどく叱られてしまう。そんな理不尽が立て続けに起こった主人公の精神は自殺を考えるほどまで追い込まれており、仕事も普段の生活も段々と気力を失っていった。
そんなある日、思い立って居酒屋へと向かう。一人でカウンターに座り、仕事のことを忘れようと、何杯も何杯も酒を飲んでいると、隣にやけに疲れ果てた様子のOLらしき女性が現れた。酒の力もあってか、二人は会話をし始め、それぞれの会社の話で大いに盛り上がった。そこで、その女性自身も会社では酷い扱いを受け、自殺の一歩手前まで行っていたことを知る。その日を境に二人は頻繁に愚痴を言い合う間柄になった。
ある日、主人公がどちらが先に会社を辞められるか勝負しようと言ったのを境に、物語は急展開を迎える。
『ピロロン♪』
そこまで読んだとき、一件の通知が鳴った。
「返信は後でもいいよな」
続きが気になって仕方がない俺は、一旦スルーすることにした。
主人公はある日。
『ピロロン♪』
彼女と飲む約束をしていたため。
『ピロロン♪ ピロロン♪』
ある居酒屋へと足を……。
『ピロロン♪ ピロロン♪ ピロロン♪』
「『ピロロン♪ ピロロン♪』って、さっきから……」
『ピロロン♪ ピロロン♪ ピロロン♪ ピロロン♪ ピロロン♪……』
「いい加減にしろ!」
俺の悲痛の叫びはもちろんメールの相手に届くはずもなかった。俺は仕方なく、本に栞を挟んで、携帯を見た。メールの相手はもはや言うまでもあるまい。
「早く見てほしいからって、スタンプを連打するのはやめてくれないか……。要件を確認するためにスタンプをわざわざスワイプして遡るこっちの身にもなってくれ」
前回同様、スマホの画面には『スタンプが送信されました』で埋め尽くされていた。そして今回の通知の件数は『八十四』。『は・よ』、変換すると『早よ』となるが、これはもう偶然とか気のせいじゃないのかもしれない。
「『今、家にいる?』って、絶対分かって聞いてるよな」
俺は、それに対しての返信を打ち込む。
「『家にいるけど?』っと」
そう返して一秒後、すぐに『既読』がついたかと思うと、突然彼女から電話が掛かってきた。
「もしもし?」
『もしもし、健樹君?』
「何の用? こっちは忙しいんだけど」
『おすすめされた本、すっごくよかった!』
「そりゃよかった」
『だから、あの本の作者が書いた本全部読んだけど、どれも名作で』
「え、ぜ、全部!?」
あの作品の作者は、恋愛作家としてかなり有名で数々の名作を残している。どの作品もさほどボリュームがあるわけではないが、作品数はそれなりにあって、読むのには相当な時間がかかるはずだ。並大抵の集中力ではとても読み切れないだろう。
『それでね、別の作者さんが書いた本も読みたいと思うんだけど、何かある?』
「あるにはあるけど」
「あるけど?」
「なぁ、せっかくだから一緒に本買いに行かないか?」
「え、いいの?」
「ちょうどストックなくなりかけてるんだ。あ、でも……」
ここで俺は彼女と会っていなかった理由を思い出す。
「今日は天気も良くないし、外に出る人も比較的少ないだろうから、誰かに見つかる心配はないんじゃない?」
「う~ん……」
俺の頭の中では、噂になり面倒になるのではないかという心配と、新たな本を購入したいという欲求が拮抗していた。正直、わざわざ雨が降りそうな曇りの日に出なくても、晴れている日とか学校帰りでも……。
「どうする? 健樹君」
「いや、やっぱり行く」
結局、一刻も早く新しい本を補充して読めるようにしておきたい、という自らの欲望には敵わなかった。
※ ※ ※
「それで、今回もあんな感じの感動作品でいいのか?」
「うん。あの何ていうの? 読み終わった後の不思議な喪失感と感動の余韻が続くあの感じが癖になるというか」
「それが重ための感動作の魅力だな。あれに浸っている間、何も手につかないけど、それがいいんだよなぁ」
「私なんて涙も止まらなくて、しご……、四、五日くらい目が腫れてたんだから」
「でもまぁ、そう感じてくれたなら薦めた甲斐あったわ」
駅で十時半に待ち合わせた俺たちは、話しながら街中にある書店を目指して歩いていた。
同じ高校の学生に会ってしまうのではないかという心配ばかりしてきたが、よくよく考えてみると、彼女は学校内だけの有名人ではない。俺の隣に歩いている彼女は元子役で、女優復帰が噂されている有名人だ。いくらあの当時とは年齢が違うと言っても、世間一般の人から気づかれる可能性だってある。
それに彼女の容姿は明らかに普通の高校生とはかけ離れている。コーヒー色のワンピース姿にいかにも高そうなショルダーバック。その大人っぽいコーディネートが彼女にはよく似合っている。
仮に彼女が有名人であることに気づいていなくても、オーラやその容姿で自然と周りの視線が集まってしまってしまう。現に、先ほどからいくつもの視線を感じている。
今日の駅前は微妙な天気が幸いしてか人出は少ないが、もし人が多いときに来ていたらと思うと少しぞっとする。
「『花の香りは優しさの嘘』だけどさ、健樹君は一回目読んだときに、桜川秋が死んじゃうシーンは予想できた?」
「いや、全然」
「健樹君でも予想できないんだね……」
本を多く読んできて得た経験から、何となく先が読める作品というのは結構あるものだ。
しかし、これをいい意味で裏切ってくる作品も存在する。その多くが名作と呼ばれる作品である。
「普通は読者に分かりやすく書くものだけど、あの作品は主人公が登場人物だけでなく、読者にも嘘をつくという、珍しいパターンだったからな」
「何気なく書かれたシーンも、実はこういう意味なんじゃないかなって読むと、そうだとしか思えなくなくなるよね」
「橘が隠していたことを告白した後に倒れたのとか、熱が出たから病院に行くシーンとか、あれら全部が桜川の死の予兆なわけだからな」
「結局あの物語さ、嘘をつくのをやめて全部話させた桜川秋自身が、橘柑南と全く同じ境遇になった際に嘘をつくという、何とも不思議な感じだったよね」
感想を聞く限り、適当に読んでいる様子もなく、純粋に読書を楽しんでいるようだった。近頃は活字離れが進行し、読書しない人が増えてきた中で、こうやって読書が好きになってくれたのは、どことなく気分がよかった。
そう言えば、天宮とこうやってゆっくり会話をするのは、何だかんだで初めてな気がする。
「そう言えば、健樹君は今何読んでるの? どうせ今日も読んでたんでしょ」
「今は理不尽な社会をテーマにした作品だな。大事なところまで読んで、連絡が来たから栞を挟んできた。おかげで今も続きが気になって仕方がない」
「ごめんごめん」
駅から徒歩五分。開発された駅周辺には高層ビルやマンションがズラリと立ち並ぶ。そんなビルから突き出している袖看板の中に、目当ての書店の名が書かれているのを見つけた。その書店は、複合ビルの二階から五階に入っている。
「ここの書店は初めて来たかも」
「ここは俺の知る限りでは一番品揃えがいい」
「へぇ~」
目的地に着いた俺たちは、エスカレーターを登って二階へとやってきた。新作コーナーに軽く目を通して、純文学作品のコーナーの前までやってきた。
「このあたりの作品はほとんど読んでたりする?」
「半分くらいはすでに読み終えた作品だな」
「半分……」
天宮が若干引いているのか驚いているのか分からないが、よくよく考えればすごい量を読んだのだなと再認識する。
「『花の香りは優しさの嘘』テイストの作品は……、これとかどうだ?」
「『障壁の先に待ち伏せるもの』……。なかなか、重たそうな感じね」
「確かに少し重ためだけど、読むのが辛くなるほどじゃなかった」
主人公はクラスから除け者扱いにされて、自分の存在価値とは何かと考え込むシーンから物語は始まる。そこからなぜ生きているのか、そもそも生きている意味はないのではないかと、自分を追い詰めてしまう。そこから色んな人物と関わりあって、自分の存在意義を見出していくという物語。
「他には……」
「『あなたは誰なの?』って何だか怖そう」
天宮が手に取ったその本の表紙には、血が大量についた機械人間が描かれている。この作品はこの表紙の絵のクオリティが話題にもなった。
「それか。これも重たいけど、ホラー要素とかはないな。SF小説だ」
不老不死を成し得た未来が舞台。科学的にはどうやっても不老不死を実現できないことを結論付けたある科学者が、新たに考え付いたのが人間の機械化だった。機械は部品の交換さえできれば永遠に利用し続けられる。その特性を生かせれば、半永久的な命を実現できるとその科学者は位置付けた。
それから数十年後。物語の主人公はある日、大きな交通事故に遭ってしまう。結果、体を大きく損傷し、生きていることすら有り得ないとまで告げられる。それと同時に、すぐに手術を施さなければいけないと医者は告げた。その手術こそが不老不死の体現、人間の機械化であった。
科学者が不老不死の可能性に気づいてからの数十年で、実現まではあと一歩と迫っていた。もちろん近づいているだけであり、手術が必ずしも成功するという確証もない。だが、主人公を救う手段はそれしかなかった。主人公の両親の了承を得て、手術は執り行われ、無事成功。しかし、その姿を見た主人公の母親は啞然とし、その後泣き崩れてしまう。
「あなたは誰なの?」
その変わり果てた姿に対して、母親が言った言葉がそのままタイトルとなっている。
果たして前進機械化してまで生き続けることが幸せなのか、不老不死を望む人間もいるが、それもまた幸せなのか。それらを考えさせられる作品となっている。
「これはどうだ?」
今度は俺が本を一冊手に取った。今度は兎が描かれた若干ほのぼのとした表紙の本だが、内容はとても深くて面白い。
タイトルは『夢を追って走る兎』。夢を追って行く際に、多くのものを失ってしまったことに後悔している主人公と、夢を追いたくても追えなかったヒロインが、何度も何度も衝突しながら、二人で同じ夢を追いかけることになっていくという物語。
青春がぎゅっと詰まった作品で、アニメ化とドラマ化が両方されており、どちらもかなりのヒットだった。
「青春物で感動ものかぁ~。今私が高校生だからか、すっごい感情移入するんだよ。それにこの作品、絵もすっごい可愛い!」
「そのジャンルの中では間違いなく五本の指に入る作品だから、かなりおすすめ」
「じゃあ、これは決定で! あとは……」
それから約二時間。純文学以外にもライトノベルや雑誌のコーナーも周った。どの本を見せても彼女は興味津々な様子で、どうも相当本を読むのにはまっているらしい。
二時間の間、籠に入れ続けた本はかなり量になり、俺も天宮も紙袋が四つと、両手に持てる限界まで本を購入した。
これでしばらくは本屋に来る必要はないなと、満足して本屋を後にしようとエスカレーターを降りていく。
「今更だけどさ」
大量の本を両手に満足げに鼻歌を歌う天宮。
「本読むのはいいけど、それだけじゃ多分俺に勝てないぞ?」
「あっ……」
完全に当初の目的を忘れ、ただ本を読むことしか頭になさそうな彼女にそう忠告をする。
本を読むことで得られる知識や能力は確かにあるが、それだけで全教科の点が上がるほど、小説や漫画は万能ではない。
もし仮にそれだけ万能なら、小学校で漫画を読むのが禁止になることはないだろう。漫画を導入すると漫画しか読まなくなるからという理由があるそうだが、そもそも学校以外で漫画を読むなら意味がないのではと思ってしまう。それに俺としては漫画がないことで全く本に関心を持たないよりかは、漫画を読む方がよっぽどいいと思うんだけどなぁ……。
「いや、『あっ……』じゃねーよ」
「そっちの話じゃなくてさ」
「じゃあ、どっちの話だよ⁉」
「外」
「へ?」
俺は外の景色を見て軽く絶望した。空から大量の雨粒が降り注ぎ、人の話し声などもザーッという雨の音によってかき消されていた。
駅からここまで徒歩五分。電車に乗って、自宅の最寄り駅についてから徒歩五分。歩く時間が少なくて幸い……、と言いたいところだが、それは傘を持っている前提の話である。
本を買うだけなら雨が降り出す前に帰れるだろうと思って傘は持ってこなかったが、二人で本の世界に入り込んでしまったがために、二時間も経過してしまっていた。
「でも、雨雲レーダー的には通り雨っぽいよ?」
本の入った紙袋を地面に置いて携帯を触っていた天宮はそう言った。
「そこの喫茶店に入って待っていようよ」
そう言って彼女は本屋のある複合ビルの隣にあった喫茶店を指さした。
「まぁ、コーヒーでも飲んでれば止むか……」
俺たちは両手をふさぐ大量の本を持ったまま、その喫茶店へと入っていった。
※ ※ ※
店内は喫茶店ということもあり、非常に落ち着いた静かな雰囲気が漂っていた。このごろ、喫茶店にはコンセントが設置されており、パソコンを広げて仕事をしているサラリーマンや学生が多く見られた。
もともとコーヒーとこの落ち着いた雰囲気が好きで、暇なときには本を持って喫茶店を訪れることもある。チェーン店であるこの喫茶店のコーヒーはすっきりとした苦みと奥深いコーヒーの香りが特徴で、俺の好みのコーヒーの一つだ。
「いらっしゃいませ、ご注文お伺いします」
「えっと、ホットコーヒーを一つ……」
「あ、私も」
「じゃあ、二つで」
「はい、かしこまりました」
店員は伝票にメモをして、スタスタと厨房へと戻っていく。
「コーヒー好きなのか? 天宮」
「ううん。まだ飲んだことなくて。けど、コーヒーの香りは好きだから、一回飲んでみようかなって」
「言っとくけど、想像以上に苦いぞ」
「コーヒー飲める人ってみんなそう言うよね」
「大抵の人は最初にコーヒーを飲んで、苦くて飲めないって言うけど、実際コーヒー飲める人ですら苦いとは思ってるからな。それに何回も飲んでようやくコーヒーのおいしさに気づくのであって、一回くらいで諦めるのは早すぎる」
「私もいずれコーヒーのおいしさが分かるようになりたい。なんかコーヒーを飲みながら読書っての憧れるんだよね」
「それならとりあえず飲んでみることだな」
そんなことを話しているとあっという間にコーヒーが届いた。飲む前から漂う、このリッチでアロマな香りが、なんとも言えない幸福感を作り上げてくれる。
「それじゃあ、いただきます……」
初っ端からブラックで飲もうとしているのを見る限り、やはり相当な負けず嫌いだなということが窺える。彼女はカップを手に持ち、恐る恐る口元へとゆっくりと近づけてほんの少し口に含んだ。
「……苦い。けど、おいしい!」
「そうか。それならよかった」
余程、コーヒーが口に合ったのだろうか。彼女の頬が緩んでいた。
「あ、そういえば」
彼女は一度コーヒーカップを置いて表情を改め、真剣な眼差しで俺の方を見た。
「あれから学校内の様子はどう?」
「どうもこうも、何で休んだのか知らない生徒たちが、俺の方に尋ねてくるわ、無視したら喧嘩したんじゃないかという捏造された噂が立つわで、まぁ相変わらずだ」
「それは大変」
「他人事かよ……」
「全く生き辛い世の中よね……」
「それがここ最近学校休んで、毎日、家で本読んでいるだけの奴の台詞か?」
「それで、何か対策思いついた?」
「少なくとも俺一人で解決できる問題じゃないな」
そのことにはとっくに気がついていた。どんなに彼らにありのままの事実を伝えても、きっとごまかすために言っているんだな、としか捉えられることはない。
『またまた~。隠さないでいいのに~』
そう言われるのが目に浮かぶ。
だがこれは、あくまで俺のような当事者が言った場合である。別の人間が言ったなら、もしかしたら信じてくれるかもしれない。例えば、一ノ瀬君のような。
これまで一度も話したことのないような、ただのクラスメイトを救おうとするほど、心優しく仲間想いな彼を頼れば、それで話は万事解決なのだろう。
そう。頼ることができるのならば。
「だからまず、お前は学校に来い」
「え……」
あれから何度考えても、俺は彼にお願いするという決心がつかずにいた。
そして今も、その決心はできなかった。
「いつまで俺だけに、被害を被らせるつもりだ。それに、俺が大変なときに、お前が本を優雅に読んでいると考えると軽く殺意が湧くわ」
「でも正直、とても耐えられそうにないんだけど……」
「それを二週間近く続けてきた俺の身にもなれ」
「仮に私が行ったとして、メリットはあるの?」
「少なくとも俺へのダメージが気持ち分だけ緩和される」
「そんなあなたの個人的なメリットだけじゃない。私には何らメリットが……」
「いいから来い。分かったな?」
「……分かったよ」
終始嫌そうだったが、天宮は渋々了承した。
俺が彼女に言ったことは、不甲斐ない自分に対する怒りを相手にぶつけているだけの最悪な行為だと自覚しながらも、それをすらすらと口から発してしまう。
そんな自分が本当に情けなくて仕方がない。
『今後に悪影響を及ぼす可能性があることは極力避けた方がいいだろ』
俺は学校の屋上でそう言った。だったら、なぜさらにリスクを背負うようなことを俺は言ったんだ……。
天宮は、コーヒーをグイっと飲み干すと本の入った紙袋を手にして席を立った。
「それなら早いとこ帰ってこの本読まなきゃね。学校行くと読む時間も減っちゃうし」
彼女自身少しは思うところがあったのだろうか。すんなりと受け入れた様子で、今後のことを考えていた。
「ちょうど雨も上がったみたいだな」
窓から外を見ると、雲の隙間から光が差しており、雨は完全に上がっていた。喫茶店にいるほかの客たちも、この様子を見て店を出る支度をしているようだった。
「そろそろ行きましょ」
「あぁ」
結局さっきの言葉を撤回することはなく、喫茶店を出た後、駅前で俺たち二人は解散した。
俺の心の色は罪悪感というブラックコーヒーのような黒色に染まっていた。
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